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95聖





 私とルウィは、出立を翌日の早朝に定めた。

 私達が出した村人の使いにより、不眠不休でこの村に到達してくれた王子直属の兵と神兵には本当に申し訳ないけれど、彼らは文句一つなく承諾してくれた。

 もっとも、不平不満など言いにくい状況なのは理解している。私達のいない場所で、「うちの上司くそだよ」と愚痴を言い合っていたとしても、咎めるつもりはない。

 日頃から苦労をかけているのだ。その程度で鬱憤が晴れるのであれば、いくらでも言って欲しいくらいである。

 そうやって言い合っていた人々の間に挟まって、「ほうほう。ところでその上司はどこのどなたさん?」と情報を得ることも多いので、どんどん言ってほしい。

 寧ろ直接聖女まで言いにきてほしい。ルウィも同意見なので、王子に直接言ってもいい。

 ちなみにルウィは、部下が隠れて零している愚痴を把握するのが最早趣味の領域に達しているし、王城で働く人々は皆王子の部下のようなものなので、王城の務め人各位は気をつけてほしいものだ。

 あの人は自身が人間関係に悩んだことが一切ないので、人々が繰り広げる人間関係が興味深くてならないらしい。つまりは常に観劇気分である。

 王城の務め人各位は、本当に気をつけてほしい。




 人の営みは色濃くあれど、文明の発展とは縁遠かったこの地で見る星の美しさは格別だ。

 この場からは決して届かぬ高見にて、されど確かに輝いている様がこの目に届く美しき星。

 いま私の瞳の中で瞬いている星の一つが、先日消えた。きっと一等強く輝き、闇夜に惑う命の営みを守ってくれていた星だった。

 私が持つ、エーレと二人入ればぎゅうぎゅうになってしまう小さな空間も、きっとこの星空のどこかに存在する。けれどその持ち主である私でさえも認識できないほど、夜空に瞬く星は数え切れないほどだ。

 世界には数え切れないほどの星が存在し、その一つ一つが神々の内で命を営む世界だった。


「マリヴェル」


 滞在している屋根の上で星を眺めていると、闇夜でも分かるほど手足を震わせてよじ登ってきた エーレに名を呼ばれた。

 エーレの身体に起こっている震えには、落下の恐怖が一切合切含まれておらず、純粋に必要な筋力を意地で補おうとしているがゆえの結果だと知っているので、手を貸さずにはいられない。


「屋根の上にいると宣言していることですし、エーレは部屋の中にいても大丈夫ですよ。約束したのであれば、私はここから動きませんので」


 エーレの呼吸が整うまで待ちながら、夜空を見上げる。


「それとこれとは話が別だ」

「そうですかね……」


 呼吸が整う間もなく不機嫌な声音で物申してくる様は、上下左右肉体魂どの角度から見てもエーレそのものである。


「そういえば、合流した神兵も含めた形で、ナッツァから改めて謝罪を受けました。北へ向かった神兵代表であり……サヴァスの代理で全ての神兵代表でもあるそうですよ。確かに、サヴァスの安否が不明のいま、神兵代表は彼ですね。何一つとして彼らに責はないのですから謝罪は必要ないのですが、そういうわけにはいかないそうで」

「当然だ。下手すれば自死が出るぞ」

「…………そうですか」


 そんな風に思う必要はないと私が思えど、それは私の都合だ。彼らが悔いるのであれば、私が彼らの苦痛を切り捨ててはならない。

 目の前にやるべきことがある今はまだいい。しかしそれらが終わった後、改めて考える時間が訪れた時が問題なのだ。

 不意に蘇る悔恨ほど厄介なものはない。

 それまでに彼らの苦痛が散っていればいいのだが、それを考える余裕がない今だからこそ彼らが元気でいられるのだから、色々と難しいものである。

 苦痛は人を変えてしまうので、傷の大きさ如何にかかわらず、出来れば傷跡など残らず消え去ってほしい。残ってしまっても、探さなければ気づかないほど小さく薄いものであってほしい。

 そうしていつか忘れてくれたなら、とても嬉しい。

 けれどそれが身勝手な願いだと分かっている。彼らにはそう願う私が誰より、神官長達を置いて逃げた事実を忘れられるはずがないのだから。


「エーレは変わりませんねぇ」


 人の枠組みから外れてなお変わらないとはどういうことだ。

 良くも悪くも我が強すぎる。

 ルウィもそうなのだが、二人ともまさしく人間そのものだ。

 ただし、人間そのものであっても彼らを人間代表にしてしまうのは難ありである。何せ、とびきり規格外でもあるのだから。

 この二人を基準にされてしまっては、この世に生きる人間全てはとてつもない強さを身につけねば生きていけなくなってしまう。それを考えれば、この二人は人間そのものではあるのだが、どちらかというと人間を凝縮させた形に近いのかもしれない。


 屋根の上では座りづらいのだろう。エーレは慎重に私の隣へ歩を進め、同じほど慎重に腰を下ろした。その後も、どこか据わりが悪かったらしくごそごそしていた。


「エーレはきっと、ずっとエーレなんですね」

「お前は変われ。だが変わるな」

「えぇ……」


 要求が高度な上に実現不可能ではなかろうか。

 だが、好きな人の願いとは叶えてあげたいくなるものだ。それが私個人で完結する内容であるなら尚のこと。

 しかし、努力はすれど出来るかどうかは全くの別問題であることも忘れてはならない。


「とりあえず、自分で弄らなければ肉体はこれ以上変化しませんし、条件の一つは満たしているのでは?」

「そういう思考回路は変われ」

「それはまあおいおいに。ちなみにエーレ達も同様に、これ以降肉体は成長と老いを失いました。それらは命の特徴であり、特権でしたから」


 この辺りのことを、エーレとはきちんと話せていなかった。

 あれからずっと、互いに何かと慌ただしかった。夜眠る前の僅かな自由時間も、結局様々な事実確認やら認識の摺り合わせやらで、何だかんだと忙しかったのだ。

 ちなみに、幾度も結婚の約束をしたことは思い出したのだが、いつ結婚したかは未だに曖昧である。どうしたらいいのだろう。

 婚姻関係って、瞬間蒸発して消え去るんだなぁと、私は一つの知見を得た。

それはともかく、これらのことはルウィにも改めて話をしなければならない。

 一応、簡単には伝えてある。ルウィは王位継承の問題もあるからだ。

 見目に変化が訪れない状態は、他者の前に出続けなければならない立場であれば致命傷と成り得る。

 エーレとルウィは、人の枠組みから外れてしまった。人の枠組みから外れるということは、命の流れからも外れてしまったということだ。

 二人はもう、重ねた年で肉体が変化することはない。命の枠組みから外れた彼らは、もう皆と同じように老いていくことが出来ないのだ。

 死もまた同様に、同じように迎えることはない。

 けれどそれを伝えた際も、ルウィは特に動揺を見せなかった。「さもありなん」と納得していたので、ある程度予測はついていたのかもしれない。

 面白がっていたように見えたのは気のせいだと思いたいが、どう控えめに見ても面白がっていた。

 わくわくであった。


 しかし、外見によって酷く苦労してきたエーレは、自身の成長を心の支えの一つにしてきた。

 彼曰く、『中年にもなればこんな苦労も減るはずだ』とのことだ。

 彼以外の人間曰く、『あいつの場合は中年のおっさんになっても変わらない気もするし、事と次第によっては爺さんになっても怪しい』とのことだ。

 しかし、エーレにとって加齢とは大きな希望だった。

 それらが失われた事実は、エーレにとって残酷な現実だ。

 彼が選んだ結果であり、その結果を私が悔いればそれは彼への侮辱となる。

 よって同情する気も度胸もないが、それはそれとしてエーレには悲しい思いをしてほしくないと願う気持ちも大いにあった。


「でも、それだと色々、えーと、そう、公の場など、色々と差し障りもあるかと思いますし、今の私なら一時的なら見た目を変えることも可能のはずですし、色々、色々と出来ることはありますから。えーと、ですので」


 エーレから長年の希望を奪ってしまった罪は重い。そしてエーレの絶望は如何ほどか。

 無言で空を見つめるエーレの様子からは窺い知ることは出来ない。エーレは今、何を思っているのだろう。

 彼がほんの僅かにでも己の選択を悔いた瞬間、購いきれない私の罪がまた一つ色濃く刻まれる。


「聖女のお手つきだと流布すればいいだろう」


 私の罪はどこにいったのか。

 私の思いはよそに、エーレはけろりとしたものだ。エーレもまた、ある程度予想はついていたのだろうか。

 エーレが落ち込まなかった事実に心底ほっとしたのに、どうしてだか受け答え一つで重症に陥りそうな不穏な気配を感じる。

 主に私が。

 なんだか、大惨事一歩手前にいる気がする。

 きっと気のせいだろうと気を取り直す。


「確かにあなたは聖女と婚姻関係にありますが、その程度でどうにかなる問題ですかね」

「その上で声をかけてくる輩は、何がどうあってもかけてくる。だがこちらが掲げる大義名分が明瞭な分、非難が相手に向かいやすくやりやすい。倫理的な問題以前に、重婚が法律で禁止されている異常、常に大義はこちらにある」

「そうかもしれませんが……どちらかと言うと手出しはエーレでは?」


 言い分は分かったが、言い方に若干納得がいかない。

 私の疑問に対し、エーレはあっさり頷いた。


「そうとも言う」

「私は愛を向けた覚えはありますが、手を出した覚えはありませんし」

「手を出したのは俺だな」

「おかげで私の顔と頭は、今日も元気にへこみ続けています」

「そういう面でも、確かに出した」


 手品のように私を結婚させていた人は、現在大変ご機嫌である。

 彼が元気ならそれでいいのだが、本当にそれでいいのか多少引っかかった。けれどエーレがそう言うのだからきっとそれでいいのだろう。そういうことにしておこう。

 私もエーレ同様に、夜空へと視線を向ける。美しい星々の下で告げていいのかは分からないが、私にはまだ、エーレに伝えなければならない重要な話が残っていた。


「――――それと、私はあなたの子どもを産めません」


 私は命ではないので、新たな命を生み出すことは出来ない。私は命の連鎖に還れない。そういうものである事実は、未来永劫変わらない。


「安心しろ。俺も産めない」

「えぇ……」


 対するエーレはしれっとしたものである。彼が返すべき反応は、どう考えてそうではないと私でも分かる。

 それなのにエーレは、私の様子を見て首を傾げた。


「何だお前、男は子どもを産めないと知らなかったのか? 俺に限らず誰も産めないぞ」

「そういうわけでは、ないのですが……」


 ありとあらゆる意味で、そういうわけではない。


「だったら問題ないだろう」


 エーレが言うならそうなのだろう。

 そんなわけないのであろう。


「……まあ、いいか」


 そんなわけはないのだけれど、エーレがいいならそれでいいのだろう。

 これもまた、そういうことにしておくべき事柄なのかもしれない。




 見上げる夜空には、数え切れないほどの星が瞬いている。それら一つ一つに、神が創りたもうた世界がある。

 滅んだ世界、繁栄する世界。

 干からびた世界、水に沈んだ世界。

 命が溢れ、他の世界へ命を送り出す世界。命が途切れ、神をも去った世界。

 どんな世界も存在する。ただ一つ存在しないのは、創造神を失った世界だ。世界は、創造神の消滅と連動し、消え去るのだから。

 あの空のどこかに、私の星もある。神の力を与えられたとはいえ、本質的に神とは成り得ぬ私には、自分の星がどこにあるのかすら分からないけれど。


「……私の世界がもっと広ければ」


 あの時、あの場にいた皆を。

 そう続いた思考を世界へは放てなかった。それなのに、エーレはそんな言葉すら受け取ってしまうのだ。


「もしもは未来へ向けてのみ有効となる。過去に向ける行為は、無意味な上に悪手でしかない、ただの未練だ」

「そう、ですね」


 こういう時、上手に笑えないことまで変わらない必要はなかったのに。いつか変わっていけるだろうか。

 変わってほしくないものは容赦なく失っていくのに、変わりたい箇所は変われずここにあるままだ。世界の理不尽さに嘆けばいいのか、己の未熟さを呪えばいいのか。

 それすら未だ分からぬ私には、世界を呪う資格などないのだろう。


「ちなみにそのもしもは、さっさと死んだ俺を責めていると判断することも可能だぞ」

「そんなことするわけないじゃないですか」

「それと、お前の世界に俺以外を入れたらはっ倒す」

「え。……まだそんな事例はありませんし、これはもしもに備えた一応の確認なのですが…………それって緊急事態には適応されませんよね?」


 エーレは私を見て、鼻で笑った。


「俺の欲深さをなめるな」

「えぇ……」

「事情を理解することと、怒りを覚えることは全くの別問題だ。俺の強欲さは、誰よりお前が一番知っているだろう」


 確かにエーレは強欲だ。何せ何一つとして諦める気がない。

 人の枠組みから外れて尚、諦めるどころか何一つとして譲る気もなさそうだ。


「俺の我の強さを甘く見ていたら痛い目を見るぞ」

「それ、胸を張って言う台詞で合っていますか?」


 満天の星空の下で唇を重ねる行為を、人が浪漫と呼ぶことは知っているが、初めて聞いた脅し文句と一緒の場合もそう呼ぶのだろうか。

 その辺がよく分からないのは、何も物として作られた私の情緒のせいではないように思うのだ。

 それと明日にはこの村を出立するので、エーレは早く眠ったほうがいい。人の枠組みから外れても、人の身体が必要とする行為はきちんとこなすに越したことはないのだ。

 そう伝えれば、先ほどまで満足げな顔をしていたエーレは、途端に面倒くささを隠さずに眉をひそめた。


「正直、人の枠組みを外れたというのなら、食事と睡眠を必要とする意味が分からない。時間の無駄だ」


 身体は簡単に人の枠組みから外れられる。

 けれど精神までもがそうあるわけではない。

 何せ心は、彼らを人たらしめ、個たらしめてきた核だ。

彼らが彼らたる所以が心であるのなら、彼らを彼らたらしめてきた心の常を守ることもまた、絶対に欠けてはならない行為である。


「人が生きていくために必要なことは、全て行ってください。食事を取って、休息を取って。その上で、遊戯を楽しみ、甘味を楽しみ、物語を楽しみ、知識を楽しみ、景色を楽しみ、世界を楽しみ。人が体感できるもの全てを楽しんでください。整備として必要なことも、そうでないことも大切にしてください。私も、そうしますから」

「――分かった」


 あなた達が教えてくれた全てを、これからも一緒に行っていくだけのこと。ただそれだけのことを喜んでくれた人々が、その光景を見てくれることはもうなくても。


「民にどこまで公表するかはルウィともまだ決めていませんが、エーレとルウィは運命の神子として周知されるでしょうね……けれど運命とは、それが神の使命だと特別視しないと耐えられないほど、つらく過酷な道を進まなければならなかった人々の慰めとなった言葉です。あなた方がこれから歩む道は、そういうものです。…………人の枠組みから外れるというのは、そういうことなのですから」

「はっきり言うが、人が己の持ち得る全てを持ってしがみつき得た結果を、運命などという言葉で片付けられるのは甚だ不快だ」

「本来エーレが持ち得た運命は、知恵と力の象徴である炎を命へ与えるアデウスの宝だったはずですし、確かにエーレがもぎ取った道ではありますが。それ、鼻で笑って言う台詞で合ってますか?」

「合ってる」

「えぇ……」


 エーレは変わらない。ルウィも変わらず。

 二人とも、強く気高いまま生きている。

 けれどいつしか、人の営みがただのままごととなってしまう日が来たら。それは最早、精神も人の枠組みから外れてしまった証左となる。

 私は、彼らをそこまで追い詰める未来が恐ろしい。この強く気高い二人が、そこまで苦しみ抜いた結果を突きつけられる未来が、何よりも。

 それなのに、至ってもいない遠い未来を恐れた私の隣で、エーレは機嫌のいい猫のような顔をして空を眺めている。


「それに、運命も別に悪いものじゃない」

「そう、ですか?」

「ああ」


 空を一つ、星が流れた。


「だから俺達はここにいるだろ」


 運命とは大抵、愛したものの形で現れる。

 だからこそ、その先が酷く険しい道だと分かっていながら、避けては通れない。 

 それは、人も神も同じだ。

 ハデルイ神は人の為に流れた。そうなると分かっていたのに、それ以外ならばどれを選んでも存続可能だった選択肢を捨て。

 自らが、自らだけが、流れる道を選んだ。

 エーレとルウィの行き着く先はまだ分からない。彼らの終焉は、私に連動されてしまったからだ。

 いつか私が流れいく時、彼らも共にあの夜空に散り果てる。

 いまこの時、同じ空を眺める私とエーレの表情は同じにはなれなかったし、騎士達とお酒を飲んでいるルウィはこの星空自体を見ていないだろうけれど。

 あの星空は、未来永劫人にはなれない私と、未来永劫人には戻れない彼らが還る場所となる。

 数え切れないほどの歳月が過ぎてなお変わらないあの場所を、毎夜躊躇わずに見上げられる内は、きっと大丈夫だと思っていることにした。


「さあ、エーレ。もう寝ましょう。明日に響くので、ルウィもそろそろお開きにするはずですし」


 神兵達は、実はもう眠っている。豪快なサヴァスの部下達は早寝早起きの人が多い。

 曰く、筋肉は愛し守られるものだからだそうだ。

 部位が限定的過ぎる気もするが、自らの身体を慈しむ心は大切だ。忘れず、ずっとその胸に抱き続けてほしい。

 私は先に立ち上がり、座ったとき同様に、危なげな様子で立ち上がろうとしているエーレに手を貸す。


「分かっている。北には体力が残った状態で到着したいからな」

「ついた途端に戦闘になりますかね」

「それも理由の一つではあるが、主軸は違う」

「うわっ」


 私の手を引きながら伸び上がってきたエーレと唇が重なる。色々思い出したが、 そういえばエーレは意外とひっつき虫なのだ。炎そのものみたいな人なので、寒がりではないはずだけれど。

 エーレは、格別に機嫌がいい笑顔を浮かべた。


「お前と見合いをした相手がいる場所に、お前の伴侶として出向くのは気分がいいだろう」


 そう、北の辺境伯の息子ジーンとは、かつてお見合いをしたことがあるのだ。ちなみにエーレではなく私がである。

 そうはいっても、東西南北全ての辺境伯家としたことがあるので、何も北だけが特殊なわけではない。

 それでも私が見合い相手の名前をちゃんと覚えていたのは、彼は誠実に私と向き合ってくれていた見合い相手だったと記憶しているからだ。


「確かに。忘却していたとはいえ、既にエーレと婚約状態にあったにもかかわらず、お見合いを受けたのは不誠実でした。ジーンには改めて謝罪しなければ。……それを考えると、アデウス全土に渡る謝罪行脚になるのでは?」


 それは最早、ただのアデウス一周旅行である。

 しかし理由はさておき、それもいいのかもしれない。いつかそんな時間が取れたらいいなと思う。

 その為には、早く王都へ戻らなくてはならない。だから、王都とは真逆の北を目指す。

 急がば回れを急いで回れ。

 私達がすべきはいつだって、至って単純な積み重ねである。









 村を発つのは早朝の予定だ。けれどそれよりもうんと早く、夜明けも遠い時間に私は目を覚ました。

 隣を見れば、エーレが静かに寝息を立てている。

 起きているときも寝ているときも温かいエーレは、冬には重宝するけれど夏場は少し暑い。

 交際を開始して忘却するまでの期間に、そう伝えたことがあった。一際暑い夏のことである。その夏は、エーレがずっと張り付いていた。

 ちなみに記憶を失った後だったのにだ。

 一体全体どういうことだと、今更疑問が浮かんだものだ。

 どうやら交際していた事実は忘れても、暑いからちょっと離れてほしいと言われたことは覚えていたらしい。つまりはただの嫌がらせであった。

 他にも似たような事例をちょくちょく思い出す。ちょくちょく……ぽろぽろ……わさわさ……。

 結構、ある。

 忘却中に発生した出来事が、忘却後にも影響を及ぼす現象に名前をつけるなら、絶対にエーレの名前は入っていると思う。




 眠っているエーレの隣から移動しようとして、その腕が私の寝間着を握りしめていることに気がついた。縋っているわけではない。どう考えても逃亡防止だ。

 つまりは私の信用がない。これから先も信用を得られる機会は皆無であろう。

 私の寝間着を握りしめる拳には怒りしか込められていない。ついでに寝顔もしっかり怒っている。

 これは、夢でも私が何かしらをやらかしていると見るべきだ。

 エーレが目覚めた暁には、夢の中の私の所為で、現実の私がとばっちりをくう未来が確定している。しかし元を正せば、夢の中の私の言動は現実の私が齎した結果によるもので。

 つまりは、どの角度から考察しても私の所為である。

 寝ていても怒っているエーレの頭を撫で、髪を梳く。すると寝顔が少しだけ穏やかになる。しかし拳は、渾身の力で私の寝間着を握りしめたままだ。

 よって私は、エーレの意思を尊重することとした。

 出来る限りエーレが握りしめている部分を動かさないよう気をつけながら、ごそごそと蠢く。

 そして私は脱皮した。

 このまま外に出たらエーレがいつも通り激怒するので、着替えを引っ掴み、音を立てずに窓から飛び降りる。

 私達の部屋は二階なので、外出しやすくて便利だ。



 地面に降り立った後、掴んでいた着替えをもそもそ着込む。靴を忘れたが、まあいいだろう。


「お仕事お疲れ様です」


 飛び降りてきた私を見て、今晩の護衛任務についていた神兵と騎士が反射で身構え、凄まじい速度で背中を向けた。


「早速それか! 馬鹿! 脱走魔! エーレに謝れ!」


 私の脱走には慣れている神兵の立ち直りは早い。

 自身の外套と上着を即座に剥ぎ取り、怒声と共に私へ降らせた。そんな神兵に、騎士がぎょっとした顔を向けていた。

 騎士も王子に対し軽口を叩くことはあっても、罵倒はあまりしないのだろう。だが安心してほしい。神殿では日常茶飯事であるし、聖女には罵倒される正当な理由があるのである。

 そして、外で仕事をしている人から上着を剥ぎ取るわけにはいかないので、どちらも丁重に返したら、上着だけが顔面に叩きつけられた。とどめに、上着だけでも着なければエーレを呼んでくるとのことだ。

 夜の静寂を人質に取られ、渋々有り難く上着を借りる。

 そういえば以前、他所の男の上着を借りて帰ってきたら有罪とエーレが言っていたけれど、神殿関係者は他所の男ではないはずだし、ルウィも違うだろうから、まあ大丈夫だろう 。


「ありがとうございます。それと、目が覚めてしまったので、せっかくの機会ですしベルナディアの様子を見に行きます。あまり眠っていないと聞いているので」


 そう伝えると、神兵は弱った顔をした。

 ベルナディアはドロータの世話を一人で行っている上に、ほとんど休息を取っていないらしいので、ずっと気になっていたのだ。


「エーレを起こすか、誰か護衛をつけてください。勿論、私でよろしければ私がつきます」

「すみません。彼女とは一度、二人で話してみたかったので」


 神兵はますます弱った顔となり、騎士は同情に満ちた視線を神兵へと向けている。

 結局、扉の前に護衛がつく運びとなった。流石にそこは譲れなかったらしい。

 部屋の中では一対一。ドロータもいるので二対一だけれど彼女は眠っているので、話す対象が一名という意味では一対一だという私の言い分に譲歩してくれた彼らの言い分も呑むべきである。




 私は、ベルナディアがドロータと共に籠もっている隣の家へと足を向けた。

 朝晩はめっきり冷え込むこの季節。夜明けもまだの時間に起き出している人は少ない。

 それでも村長宅がある丘の上を見れば、灯っている明かりが見えた。つくづく真面目な一家である。

 私がさっきまで眠っていた家も、エーレとルウィが眠っている二階の灯りは消えていても一階は灯っている。基本的に、護衛は交代しながら一日中起きているのだ。

本当に大変な仕事であり、いつも有り難く思っている。脱走するのはまた別の話として考えてほしいので、それはそれこれはこれだが。

 それはともかく、近場ではもう一軒明かりが灯っている家屋がある。そこは、これから私が向かう目的地。

 ベルナディアが眠るドロータと共に過ごしている家だ。


 本来ならば先触れを出すべきなのだろうが、なにぶん目と鼻の先だ。先触れを出すほうが嫌みである。

 私は用意してもらったお茶と軽食を手に、扉を叩く。


「ベルナディア、起きていますか?」


 少しの間があり、中で人の動く気配がした後、ゆっくりと扉が開いた。


「聖女様、如何なさいましたの」

「目が覚めてしまって、話し相手を求めています。よければ休憩がてら、お相手願えませんか?」


 ベルナディアはゆっくりと背後を振り返り、ベッドで眠るドロータを見た。彼女が動く度、荒れ始めてなお絹のような金の髪が光を放つ。

 さて、どうだろか。

 ベルナディアは、ドロータの側に人を寄せ付けたがらない。尚且つドロータの側を離れない。

 私が彼女と話したいと思うのは、情報収集でもなければ尋問でもない。ただ単に話したいだけなので、無理強いすることでもない。

 断られたなら大人しく部屋に戻って、用意してもらった軽食は私のお腹の中に収めてしまえばいい。二人分なんてぺろりである。

 しかし予想に反し、ベルナディアはやんわりと微笑んだ。


「どうぞ、お入りになって」

「ありがとうございます」


 身を引き、大きく開かれた扉の先は明るく、まるで昼間のようだった。





 他者を迎え入れたがらないこの部屋に、椅子は一つしかない。ベルナディアは唯一の椅子を私に勧め、自身はドロータが眠る寝台へと腰掛けた。

 水差しが置かれていた台の上に、お茶と軽食が入った籠を置く。食事もあまり取らないベルナディアが少しでも食べてくれればいいのだが。

 小さな村が冬を迎えようとしている際に開いてくれた、貴重な備蓄からの食事だ。内容が限られてしまうのは難点だが、文句などあるはずもない。

 ただただ、ベルナディアの食指とそれらがかみ合うことを祈るのみである。

 ベルナディアは、私が渡したお茶を両手で受け取り、はんなりと微笑んだ。

そうして。


「ドロータを殺しにいらしたの?」


 そう、言った。


「駄目よ、聖女様。ドロータは殺さないでくださいな。殺すのならわたくしにしてくださるかしら。ドロータは駄目。駄目なの」


 穏やかに微笑みながら言いつのる様子は、酷く歪で。

 とても、悲しいものだ。


「どうしてそう思うのですか?」

「わたくしは、あの御方が此度の生にて目的を達することが叶わなかった場合、その身を移し替えるための器。あの御片のもしもを繋ぐための道具。けれど、ドロータは違うわ。今を生きる子なの。人間なの。可愛くて優しくて、ほんの少し泣き虫な、ただの女の子なの。だから必要ないと言われたけれど、駄目よ。わたくしには、誰よりも何よりも必要なの。だから、よして。わたくしからドロータを取り上げないでちょうだい。何でもするわ。何でもしてきたわ。ドロータを取り上げると意地悪を言う人達の言うことを、何でも聞いてきたもの。だから、聖女様。あなた様の命も、何だって従うわ」


 眠っている人がいるとは思えぬ明るさの下で、ベルナディアは微笑み続ける。


「聖女様は、わたくしに何を求めるのかしら。わたくしを何に使いたいの? わたくしが何をすれば、ドロータは殺さないでくださるの?」


 この明るさは、ドロータの目覚めを待つベルナディアの願いだったのかもしれない。

 王都では、ふわり、ふわりと漂っていたベルナディアの視線と声音は私に固定され、揺れもしない。

 明かりを決して絶やさぬ行為が願いならば、揺れぬ視線は決意だ。

 少女のひたむきな願いは、一心にドロータの平穏へと向かっていた。


「そうですねぇ。あなたが何をしても、何をせずとも、ドロータを殺すという選択肢は生まれませんが、あなたにしてほしいこと、お願いしたいことならありますね」


 そう言えば、ベルナディアは花が綻ぶように笑った。

 どこかほっとした色を隠し持ったこの麗しい笑顔は、ドロータの安全を守るため心を明け渡してなお残った彼女の自我が、いつしか身につけた盾であり、武器だったのだ。


「あなたには食事を毎日三食取り、適度な睡眠を取ってほしいと願っています」


 そう告げれば、ベルナディアは微笑みを浮かべたまま、僅かに、けれど確かに首を傾けた。それは疑問を浮かべたというよりは、固定していた体の力が抜けたことで傾いだように見えた。

 先ほど笑みの裏側にほんの僅かに見えた安堵の色が、再び揺らぐ。


「それと、これはもしよかったらなんですけど、あなたの話を聞きたいです」

「ああ……そうね。当家の何をお知りになりたいの?」


 緩やかに、夢から覚めるように微笑んだベルナディアに首を振る。


「いいえ、いいえ、ベルナディア。あなたの話を聞きたいのです。あなたと、ドロータのお話を」

「ドロータ、の」

「ええ。ドロータと何をして遊びましたか? ドロータと何で笑い合いましたか? ドロータとあなたは、何が好きですか? そういう話を……私はあなたから聞きたいのです」


 誰かと分かち合う行為を、彼女はドロータとしかしてこなかったのだろう。どこかぼんやりとした色が瞳に浮かび、ついで警戒と戸惑いが揺れる。


「無論、始めに申し上げた通り、あなたが語りたくないのであれば話す必要はありませんし、今でなくても構いません。私から申し出ておきながら申し訳ないのですが、私は数時間後にはこの村を発たねばなりませんし、あなたの体調も万全ではありません。ゆっくり時間をかけ、あなたの体調と私の事情が整ってからでもいいのです。お茶は、いつ、何度したっていいのですから」


 ベルナディアの視線が僅かに揺れ、ドロータを見た後、私へと戻る。

 戸惑いが、大きく見える。見えるように、なってきた。

 自身の感情を、どこか遠い場所へと据えてドロータを守ってきた彼女が、自身の感情を揺らす。

 そこに不安が混ざっているのは私の所為なので大変申し訳ないけれど、変化としては喜ばしいものだと思えた。


「もし、もしもドロータを引き合いにあなたに何かを要求する者がいれば、すぐに教えてください。私がいなければ、神兵でも騎士でも構いませんし、同性が話しやすければ村の方にお願いしておきます。この村に、不届き者はおりません。村長一家は皆人がよく、そして人らしく悩む、善良なる魂の見本のような方々です。そんな村長一家が治める村に住む人々も、皆等しく。穏やかな、方々ですよ」


 そっと、その手に触れる。

 ベルナディアはゆっくりと、自身の手に触れる私の手を見下ろした。


「あなたが一人でドロータを看ていたいと願っているのは分かっています。けれど皆、あなたを案じています。一人で誰かを見ることは、とても難しいからです。村には、看病に慣れた方々がいます。だからこそ、その難しさをよく知っているのです。あなたの知らないやり方を知っている方も、あなたが知らなければならない方法を教えてくれる方も。ドロータが快適に過ごせるよう、心を砕き、手を貸してくださる方々が大勢います」


 苦楽を分かち合う相手がドロータだけだったベルナディアにとって、誰かの手を借りる行為どころか、相談すら躊躇うものなのだろう。否、その選択肢すら持ち得ないのかもしれない。

 それでも、一人で出来ることには限りがある。

 それもまた事実なのだ。


「……聖女様」

「はい」

「あなた様は、わたくしに何をさせたいの?」


 戸惑いと疑念が穏やかに揺れる瞳で、ベルナディアは再びそう問うた。

 理解できない現象が続けば、人はそこに慣れを探す。見知った事柄は、それがたとえ醜悪で辛酸をなめるようなものであっても、理解不能な未知と対峙するより安堵をもたらすのだ。

 だが、ベルナディアはそれでは駄目だ。彼女がドロータを守りたいと願うのであれば、それではいけないのだ。


「ベルナディア、聖女とはあなたに犠牲を求めるものではありません。聖女とは、民が、あなたが、祈りを求める為にあるのです。献身、そして従属を強いる存在あらば、それは聖女にあらず。聖女とは人と神を繋ぐもの。人を支配し、従える存在ではありません」


 神でさえ、人の子を愛し、その生を見守ってくれた。それなのに聖女が人の子を支配することなど許されるはずもない。

 そんなものは聖女などでは有り得ないのだ。


「ですので、あなたが私へ問う言葉は本来、私があなたへ問う為にあるのです」


 アデウスにおいて聖女とは神と同等だった。

 その聖女が支配し続けた家で生まれ育った、祈りを知らない少女。

 彼女に、私が出来ることは少ない。


「ベルナディア、私に何を望みますか?」


 ベルナディアの瞳に、はっきりと戸惑いが浮かんだ。その顔は、まるで幼子のようだ。


「困ったことはありませんか? 足らないものはありませんか? したいことはありませんか? してほしいことはありますか? 行きたい場所はありますか? 読みたい本は、知りたいことは、食べたいものはありますか? 願う明日の形を教えてください。あなたの願いを聞かせてください」


 祈りを知らずとも、夢の見方を知っていた少女に私は請う。


「私は、あなたの祈りを明日へ届けるために存在します。ですからどうか、あなたの願いを叶える手伝いを、私にさせてください」


 ベルナディアにとっての夢の在処は、彼女が守り通した。ならばこそ、彼女の夢は潰えてはいない。そしてこれからも、潰えてはならない。


「ベルナディア。聖女があなたに望むことはただ一つ。幸いであってほしい。ただ、それだけですよ」


 夢の見方を知ってさえいれば、人は歩いていけるのだから。





「……人の、身体、は、動くことを、前提と、して……いると思うの」

「ええ」


 小さく、途切れ途切れに、ベルナディアは言葉を零し始めた。


「ずっと、眠ってばかりいては……ドロータの身体に、負担となるのでは、ないかしら、と」

「そうですね。横たわり続ける人には、褥瘡と呼ばれる傷が出来ます。ですので、そうならないよう対処しなければなりません」

「この村に、それを知っている方が、いるの?」

「はい。人が年を取れば、ベッドから動けなくなる場合もあります。そして都から離れた位置にある集落では、そんな人を家族が看ることが多い。つまり、この村でもそういった経験のある方が何人もいます。皆、その大変さを理解しています。その上で、あなたの手伝いがしたいと、ずっと気を揉んでいました。眠り続ける人が快適に過ごせる方法、そしてそれを看る人の負担にならない方法。皆、自分で見つけたり、他者から教わったり、そうして身につけた知恵と技術を、あなたに教えてくれるでしょう。それだけでなく、目覚めた後、再び歩き出すために必要な身体を維持する方法も、ご存知でした」


 ベルナディアは一度大きく瞬きをした。

 ドロータの覚醒を、誰より願っているのはベルナディアである。再び立って、歩き、笑ってくれるその姿を、誰よりはっきり夢想できるのも彼女だ。

 ドロータへと向けられたベルナディアの瞳に、熱が籠もった。それは願いという名の光だ。


「……弟が屋敷から消えたと知った夜、わたくしはもう、二度と目覚めたくないと泣いたの」

「はい」

「そうしたら、そうしたらね。ドロータったら、目覚めるまでずっとわたくしの世話をすると言うの。お風呂に入れ、髪を梳かして、着替えさせて。おぶって散歩にも行くのですって」

「――ええ」


 ベルナディアは、泣いていた。

 嘗て存在したいつかを話しながら、目覚めぬドロータを見つめ続ける。


「聖女様、わたくしね、ドロータさえいればいいの。ドロータさえ笑っていてくれれば、それでいいの」

「はい」

「けれど……わたくしだけでは、ドロータに不便をかけてしまうわね。それに、それにね、聖女様。ドロータは怖がりだけれど、人が好きなの。世界にわたくし達だけになってしまったら、目を覚ました後、きっと悲しむわ」


 静かに涙を流していた瞳が私を向く。光が揺らめく水滴が、また一つその頬を伝い落ち。

 その後に続く滴は、ない。


「ベルナディア、あなたの幸いのために、私は何が出来ますか」


 ベルナディアは立ち上がり、私の足下に跪いた。ずっと触れていた彼女の手が離れていく。そして、今度は彼女から触れてくる。

 私の手を両手で掬い取ったベルナディアは、私の手の甲へ唇を寄せた。


「聖女様。ドロータのために出来ること全てへ、どうかわたくしをお導きください」

「あなたの祈りを聞き届けましょう」


 顔を上げたベルナディアの額へ、私も口づける。

 ふっと、火をかき消すような吐息が聞こえた次の瞬間、ベルナディアの身体が崩れ落ちる。

 口づけるために屈んでいた姿勢が功を奏し、ベルナディアの身体が床に倒れ込む前に抱え込むことに成功した。私が膝を打ち付けただけで済んだ。

 私の腕の中からは、静かな寝息が聞こえてくる。その顔を覗き込めば、目の下にくっきり刻まれた隈が色濃く見える。

 彼女がどんな人なのか、それはこれからおいおい知っていくことになるだろう。

何はともあれ今は、疲れ切った心身を癒やせる眠りであるようにと、祈るだけだ。








 そうして朝早く、私達はかつてアリアドナを、そして神喰らいを排出した国があったとは思えぬ、辺鄙で長閑で色鮮やかに澄んだ自然に囲まれた村を離れた。

 小さな村だからこそ出立を隠すことは出来ず、またその必要もないと判断した結果、村中の人々が私達を見送ってくれた。


 村人達はまだ夜も明けきらぬ内から皆が起き出していた。中には一睡もしていない人もいたようだ。

 村長一家は、まだ幼い末の子以外は全員、寝ずの一夜を過ごしたらしい。

 だいぶ吹っ切れたミクタは、この後末永く私達観光資源にする胆力を身につけていたけれど、それでも一家揃って大層真面目な気質なのだ。

 この村に王子と聖女がいる以上、村の長である村長とその家族が気を張らないわけがない。ずっと盛大に気を張り続けていたことだろう。今夜からはどうかぐっすり眠ってほしい。


 私達が離れることを、誰もが案じ、残念がり、そうして少しほっとしながら見送ってくれた。

 村人達が抱いた安堵は、決して負の感情ではない。

 私達の存在は、長らく穏やかに時を紡いできた村が、何の用意もなく受け入れるには、少々厄介すぎるのである。

 見送り人の中に、ベルナディアはいなかった。彼女はいつだってドロータの側にいるのだ。

 それに今は、二人仲良く隣同士のベッドで眠っている。

 ベルナディアが手伝いを了承したと伝えた際、村人達は皆ほっとしていた。

 自分の手が届く場所で、一人無茶をする人を見れば心配する。自らの手間が増えても、他者の負担が軽くなる事実に安堵する。

 それだけで、ここの村人達がどれほど真っ当で、善良な人間性を携えているか分かる。そんな人々が生きていける場所なのだとも、分かるのだ。


 そうして私達は村を後にした。手を振ってくれていた村人達の姿が見えなくなると、私達はその後一度も振り向かず、前だけを見て馬の速度を速めた。

 穏やかな時間はこれまでだ。

 この時間が奇跡に等しかったと、私達は理解していた。

 我らはこれより死地へと出向き、それらを死地と呼ばせぬ環境へと整える。

 それが、私達の仕事なのだ。












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