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94聖

 


 山からの道は、村の裏門に繋がっている。

 正門とは違い、こちらは背後に山しかないため、見張りもおらず静かなものだ。

 そうでなくとも、都から遠く離れ、尚且つ国境からも少し離れたこの村は、いつだって静かで穏やかだ。正門側も、普段は出入りする村人の姿以外はない。

 それなのに、村へと戻った私達を出迎えたのは、村中をひっくり返したかのような騒動だった。

 どうやら、来客は既に到達しているようだ。



 ひとまずルウィの元へ戻ろうと決めると同時に、青ざめた青年がこっちに駆け寄ってくる姿が見えて足を止める。

 彼はこの村の村長家長男、ミクタだ。

 村長家ではミクタの弟である末の子ノワが、希有なる神力を持っている。両親と兄であるミクタは平均的な神力の持ち主だが、ノワだけが平均を遙かに上回る神力を持っていたのだ。

 以前、ノワの神力関係の依頼で神殿が派遣された際、私もこの村を訪れた。村長一家、というよりはミクタとノワの間で少し騒動もあったようだが、基本的に互いを愛し尊重する、人がよく仲のいい家族だ。

 今も昔も変わらず、仲良くやっているらしい。


 最近ではよく村長代理も務めているらしいミクタは、転がるように私達の前に滑り込み、膝に手をついて必死に呼吸を整えた。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫なわけっ……平気です、聖女様」

「以前と同じように話していただいて結構ですよ?」

「そんなわけいくかっ……! げほっ」


 わりといっているように思うが、黙っていたほうが良さそうだと、がばりと顔を上げたミクタの形相を見て口を噤む。


「えーと……それで、どうしました?」

「こ、国境から、使いの人が、来た、の、ですが」

「ふむふむ」


 どことなく話しづらそうな理由は、呼吸のせいだけではなさそうなミクタの様子に、できるだけ話しやすそうな雰囲気を心がける。

 だがそうすればするほど、ミクタの怒りが発露しやすくなったようだ。

 以前は聖女だと知らなかった私が聖女だったことにより、どこか遠慮がちになっていた彼の勢いが、ここに来て爆発した。


「あんたらに対して丁重な扱いをしてないあんたらの連れのルーさん!」

「はい!」

「嫌な予感がしてたけど、さっき来た使いの人が殿下って呼んでたんだけど!?」

「あ、やっぱり呼び名解禁ですか? そうなんですよ。子ども達と一緒に馬糞飛ばして遊んであの人、アデウス国が第一王子ルウィード殿下その人なんで、呼び名解禁なら王子でも殿下でもルーさんでも、好きに呼んで大丈夫です」

「何でだよっ!」


 がくりと膝を折ったミクタは、その勢いのまま両の拳を地面に叩きつけた。


「ど田舎中のど田舎に聖女が来ただけでもおかしいのに、その後第一王子まで現われるなんてどう考えてもおかしいだろう! 田舎の対処能力を易々と超えていくなっ!」


 不可抗力とはいえ、そこは本当に申し訳ない。


「田舎をなめるな! この貴重な機会をなんとか観光資源にこじつけられないかと、苦しすぎるほど無理矢理であろうと、この後何百年に渡って縋り続ける羽目に陥るんだぞっ――ありがとう!」


 どうやら大丈夫らしい。

 以前は色々とややこしく悩んでいたミクタは見事に吹っ切れたようで、今は貪欲に村の利になることを考えているようだ。

大変素晴らしいことである。






 ひとまず王子焼きと聖女焼きは鉄板だと、王子と聖女を焼き討ちにする気満々のミクタに案内された先は、村で唯一の広場だった。

 ちなみに村で唯一の理由は、村の外で適当な場所の草を刈れば広場になるので、わざわざ意地の手間のかかる村内に作る必要がないからだという。

 そんな広場には、既に人集りが出来ていた。どうやら村中の人間が集まってきているようだ。皆、興味津々に広場の中心を見つめている。

 その視線は、広場の中心でルウィの手を取り、頭を垂れて震えている騎士に注がれていた。

 騎士の顔には見覚えがある。ルウィが国境に派遣した統括役の側に控えていた男だ。

 騎士は王子の手を取り、噎び泣いている。彼らからすれば、王子の命を受け何が待ち受けるとも知れぬ死線へと旅立てば、帰還場所である王都が落ちたのである。

 その後、王子の安否も知れずとくれば、無事の再会を果たせた瞬間、涙の一つや二つ、百や千は流すだろう。

 涙はともかく、命を賭けて守る為に旅立った地が落ちたのは神兵も同じである。

 私は王子の手を取り噎び泣く騎士の傍に立っていた、一人の神兵へと視線を向けた。

 人集りへ向けて視線を巡らせていた彼は、輪の外に私を見つけるや否や駆け出した。そして村人達をかき分け私の側に到達するなり、地面に額を叩きつけ、叫んだ。


「聖女様っ――――申し訳ございません!」

「思い出してくれて嬉しいです!」

「誠に勝手ながら、沙汰は後程賜りたく存じます」


 今の状況下では、村中の視線がある中、聖女を忘れた神殿関係者に沙汰を下すわけにはいかない。彼らが頼るべき寄る辺が揺らぐ様など、見せずに済むならそれに越したことはない。


「その願い、聞き届けましょう」

 

 神兵は一際深く額を擦りつけ、一拍の間を空けた後に勢いよく立ち上がった。


「王子が聖女と結婚したことになってるんだけど、エーレお前何やってんだよ! こっからか!? こっから盛り返すのか!?」

「なんかそんな感じで広まってしまっているようですが、あの時は一緒に死にましょうと言っただけですよ!?」

「やべぇ、ほんとに結婚してた! エーレの失恋とか世界が滅ぶぞ!?」


 彼はサヴァスの副官、ナッツァ。見ての通り、サヴァスととても気が合う男である。

 この村はこれからこの出来事を観光資源にしていくらしいので、ナッツァはそれを自覚して叫んでほしいし、エーレは人目も憚らず聖女を燃やさないでほしい。

 王子焼きはともかく、聖女焼き がただ事実の再現になってしまう。








「北の戦況は膠着状態となっております。今はまだ膠着を保てておりますが、アデウスの兵が軒並み神力を失ったため、現状を維持するだけで精一杯です。北の辺境伯統治下でなければ、侵攻されていたとしても不思議ではない状況です」


 王子の兵は、再会時は伸び放題だった髭をいつの間にか剃っていた。流石に髭伸び放題で王子の前に罷り通ることは憚られたらしい。

 戦闘続きの国境から、寝る間も惜しんでこの村に駆けつけた人の身なりなど、王子は気にしないけれど。

 ついでに私も気にしないが、それとこれとは別問題なのだろう。私達が気にしないことと、彼らが気にすることは、全く別の問題だ。

 彼らが気に病まないのであれば、それが一番大切なのである。


 ちなみに彼らは元々、二十人規模の集団でこの村を目指していたらしい。しかし、逸る心そのままに馬を飛ばした二人 が皆を引き離して到着してしまったという。誰もが急いていたため、誰一人としてそれを止めなかったというのだから、この結果は必然であった。

 ミクタは馬が四頭と言っていたが、どうやら何かあった際に私達が乗れる馬も一緒に連れてきてくれたらしい。

 他を引き離すほどかっ飛ばしてきてくれたのに、その上で移動手段も忘れず連れてきてくれた私達の兵は本当に優秀だ。

 ちなみに、この村にいるのは私とルウィとエーレの三人だが、私とルウィは誰かの馬に便乗させてもらえる体型である。

 二人が最大の速度を保ったまま連れてこられる馬が二頭だったこともあり、四頭の早馬が駆けつけてくれたのだ。

 かっ飛ばしながら、空馬を連れてくるのがどれだけ大変か。想像しなくても分かる。優秀な兵を持って、ルウィも私も本当に果報者だ。

 残りの集団は、半日後に到着するはずとのことだ。


 本隊が到着するまでの間を、ただ再会の喜びだけに費やすわけにはいかない。 私達は、村長が拠点として構えてくれた家に戻り、情報の共有と擦り合わせを行っていた。

 私達は王都が落ちるに至った経緯を、彼らからは北の情勢を、互いに開示する。

 王都が墜ちた情報自体は、彼らも知っていた。けれど詳細は知り得ず、私達も大まかな流れだけで、全てを話すことはなかった。

 特に、私達の有り様の変質は一切語っていない。とりあえず、いま話す必要はないと思われる。

 それでも騎士達は王城が、神兵達は神殿と神官長達が呑まれた事実に打ちのめされていた。


 王都から脱出できた人間は、一人も確認されていない。それなのに私とルウィが結婚したという勘違いが発生したのは、あの光景を遠目から見ていた術者がいたのだろう。

 王都に発生した大樹は、その名の通りあまりに大きく、王都外からも目視できる。異変をいち早く察知した近隣の町々は、慌てて状況を確認しようと飛ばした術により、私達のやりとりが補足されたのだろう。

 しかし今は、術者の神力はアリアドナにより徴収され、王都には誰も入れなくなっている。よって、誰一人として王都内の様子を確認できていない。

 死者も生者も確認できていない現状が、何より焦れる。皆、よく耐えてくれていると感謝するよりない。本当に、よく踏みとどまってくれた。


 大樹は今尚薄い発光を見せながら、変わらぬ姿で聳え立っている様が確認されている。

 王都の住人の生存は絶望的だという判断が、まことしやかに下されるほどに、王都からの反応は何もない。

 神兵と騎士は、それでもすぐに感情を務めの裏へと押し込んだ。家族を、故郷を案じる個の顔を裏へと回し、職務への意識を表とする。

 そんな人々が掲げる正しさに支えられ、国の日常は成り立つのだと。

 どうか、誰一人として忘れないでほしい。


「余らが知り得る王都の情勢は、落城するまでである。以降は、この地の村人らと同程度よ。よって、些末事であろうと構わん。知っている情報は全て報告せよ」

「は……しかし、恐れながら、我らも信憑性の裏を取れぬ情報しかご用意できておりませぬ」

「真偽は余らで検討する。構わん、話せ」


 報告をどう判断するかは、上に立つ者の責任だ。ましてこの状況下だ。正確な情報を手に入れられる者は少ない。


「仰せのままに」


 ほんの一瞬、瞳に安堵を過ぎらせた騎士は、深々と頭を下げた。


 王都はあれから、周辺の都市が行った規制により、主な街道は封鎖された。

 あまりに常軌を逸した大樹は、王都陥落の報が入るより早く、異常を視覚にて周辺地域へ伝えたのだ。

 無論、異常が起きて即座に救助は入った。

 異様な事態が起こっているというのに、住人が一人も逃げ出してこないのだから尚のことだ。

 早急に救助隊が編制され、王都に突入した。

 けれど、王都へと向かった人間は、誰一人として帰っては来なかった。後続の救助隊と調査隊もまた、誰一人として。

 その為、現在王都は、完全に封鎖されている。

 


 受けた報告内容は、大まかには想定内だった。だが、住民が一人として避難を成功させられていないとは思っていなかった。

 大樹が発生したとき、人々は逃げ惑っていた。中には、家族恋人に対してさえ脇目も降らず逃げ出した人間もいた。

 全ての繋がりを投げ捨て、生存にのみ特化した選択を取った人間でさえ、王都外へ出られなかったというのか。

 あの日、私の破片を握りしめ祈った人々はどうなったのか。


 自分の意思ではなかったとはいえ、王都を離れてしまった事実が悔やまれる。

 どこにもいけなかった人々が最後に縋ったのは私達だった。それなのに、縋った存在が掻き消えた瞬間、彼らが感じた絶望は如何ほどだったのか。


「ウルバイ兵の様子はどうだ。不審な点は見受けられたか」

「……これは私個人としての意見となりますが、士気のばらつきが激しいように感じました。死をも恐れぬ勢いで向かってくる者、そんな仲間に戸惑いを隠せぬ者、そういった印象を受けました」

「さもありなん、といったところか。先代聖女らしいやり口ではないか。相も変わらず、集団の要所をよく捉えるものよ」


 いっそ愉快だと笑うルウィに、私も同意見だ。

 私は基本的に、先代聖女のやり口を人伝手にしか知らない。それでも、先代聖女は効率よく集団を掌握できる手段をとっていた印象がある。

 集団の要となる人間を見つけ出す術に長けていたし、その人々を掌握する術に秀でていた。よって、最小の労力で最短にして最大の効果を発揮していた。

そこに彼女自身の求心力が合わさるのだから、堪らない。こちらとしては勘弁してほしいと頭を抱える能力である。

 絶対に敵に回したくないその能力は、彼女が先天的に恵まれたものか、後天的に獲得したものか。

 それは分からないけれど、後天的なのであれば末恐ろしく。

 そして、悲しい結果だった。



「ウルバイが国境境に設置していたのは、巨大な神玉でした」


 続いてあげられた神兵からの報告に、私は頭を抱えたくなった。


「それは、神殿にある神玉のような、と、捉えて構いませんか?」

「ご慧眼にございます、聖女様。遠目での把握となりますが、事と次第によっては、神殿の物より巨大である可能性もあります。更にそれらは現在、十二の個数が確認されております。ただし、どの石も濁りが酷く、とてもではありませんが神玉として機能できる状態にはないと思われます。しかし日に日に透明度が増しているとの報告もあり、戦況が長引けば不利になる一方かと愚考いたします」


 エイネ・ロイアーと呼ばれていた女がまだアリアドナであった時代から、彼女の周囲におわした神で在り、彼女が最初に喰った神。

 それが、神玉を創り出す神だった。

 他に喰らわれたどの神よりも、彼女に馴染んでいても不思議ではない力だ。


「王子」


 王子直属騎士の手前、再び解禁済みのルウィ呼びを封じれば、ルウィは奇妙な顔つきとなった。


「公の場以外でそなたにそう呼ばれると、奇妙な心地となるな」


 奇妙な心地となって、素直に奇妙な顔つきとなったルウィは珍しい。なんだかんだといって、ルウィなりに疲労と動揺が出ているようだ。


「最近はずっとそう呼んでいたので、私はだいぶ慣れてきたところなんですが。まあそれはともかく、やっぱり一度北の国境に向かいましょう。王都も気になりますが、北がウルバイに抜かれてはどうしようもありませんし」


 基本的に戦争とは、仕掛けてきた側の倫理が崩壊しているものだ。長年そんなウルバイの猛攻を凌いできた北方辺境伯の実力は保証されている。

 知略と戦闘力を併せ持った戦略を立てられる上に、忍耐力を持ち、夜襲を得意としているのだ。

 はっきり言って敵に回したくはないし、彼が守る砦を落とすのであれば、定石とされている三倍の兵力差では到底足りないだろう。

 だからこそ、そんな北方辺境伯がウルバイを押し返せていないのであれば、それは相当な状況なのだ。


「――――そなたも、それでよいか」

「無論です」


 だって神官長はきっと、北を放棄して王都を目指した私を悲しい目で見るだろう。

 私は聖女だ。聖女は神官長の進退で行動を変更してはならない。何よりも、神官長自身がそれを望まない。

 私が自身の意思と望みでもって、北へは向かわず王都を目指すのであれば、神官長は何も言わないだろう。けれどそうする理由の一端に自分がいると分かった瞬間、神官長はきっと苦しむ。

 そうと分かっていて、大切な人を苦しめるためにわざわざ優先順位を変えようとは思えない。

 元より、すべきではない。

 すべきではないことをするその言い訳に、大切な人を使うなら尚更だ。

 私は、神官長がその生を費やしてくれた日々を、神官長自身は勿論、アデウスの誰にも後悔させたくない。

 何より私自身が、神官長が育てた聖女がそのような愚行を犯すなど、どうしても許せないのだから。














「わたくしが物心つくよりずぅっと前、とうの昔から、当家は崩壊していたの」


 緩慢に口を開き、そう語り始めたのはドロータの側から離れないベルナディアだ。

 ベルナディアとドロータは、ハデルイ神の世界にはいなかった。けれど、私達と共にこの村に降り立っている。

 どういう原理が働いたのかは分からないけれど、私達がこの村に現われた原理も分かっていないのだから、それを知ることは不可能だろう。

 ハデルイ神の御心のままに。

 これはおそらく、それだけのことなのだ。



 この村に来てから一度も目覚めないドロータから片時も離れず、飲食に睡眠すらろくに取らずにいたベルナディアが、ようやく落ち着きを見せ始めた。

 それは良くも悪くもドロータの容体に変化が見えず、ベルナディアが目覚めぬ人間の世話に少し慣れてきたことが大きいのだろう。

 その辺りで、ベルナディアは私達に事情を話すと言ってくれた。今日は、そうして設けた時間だ。

 私とエーレとルウィの三人を前に話し始めたベルナディアの言葉を、私達は静かに待った。


「当家に、人はいなかったの。いたのは全て、あの方の物。持ち物ですらなく、必要なときに補充するための物。当家の物は、両親を含め誰も心ある言葉を話すことはなく」


 訥々と語る彼女の声に、感情は滲んでいなかった。


「聖女様に心身を捧げるべしと、そんな妄信であればまだよかったの。それならばよくある、己の無力さを認めたくないが為に異能へ縋る無能で事足りた。けれど、当家はそうではなかったの。そんな、自己犠牲に酔うための欲求すら存在せず、ただただあの方に使われるための歯車で在り続ける。そんな……家だったの」


 王都にいた頃と同等の手入れは望めず、少し荒れた金の髪を気にもとめず、ベルナディアは目覚めぬドロータの世話を一人でし続けていた。

 私達だけでなく、気のいい世話焼きの村人達も手伝いを申し出てくれたけれど、彼女は誰一人としてドロータに触れさせようとはしなかった。


「両親が、祖父母が……当家が脈々と信仰し続けている存在が、尊き神や聖女などでなく、もっと歪で悍ましい……災厄のような存在だと、気づいてはいたの。その存在に、当家が代々飲み込まれてきたのだとも」


 淡々と語られる内容は、酷く恐ろしいものであるはずなのに、やはりベルナディアはどこか遠い世界を語っているかのようだった。


「わたくしは、あの方の器として生まれ、器として磨かれ、形作られていたから、少しだけ猶予があったの。物にする必要もないほど、虚ろだったからなのかもしれないけれど。わたくしの生まれた家は歪だった。家としての体を為してなどおらず、虚ろが人の形をして災いに付き従う、そんな家。そういうものだったの。ずっと、ずっと、わたしくはそういう家で物心をつけていったの。だからわたくしは、全てがそういうものだと思っていたの。変えようとも逃げようとも思わず、いずれわたくしも、親族一同のようにがらんどうのまま、あの方に使われて終わるの。そういうものなの。そういうものであるべく生まれ、形作られてきたの」

「今でもそう思っているわけではないのですね」


 ドロータの頭を撫でていたベルナディアは、ゆっくりと私を見て、緩やかに頷いた。

 あれだけ微笑みを形作り、夢見るように語っていた少女は、ここにはいない。ベルナディアは、王都を離れてより一度も笑っていなかった。

 笑みは一度も浮かべず、されど地に足をつけないかのようにふわふわと語ることもない。

 淡々と、けれどはっきりとした視線で言葉が紡がれていく。


「わたくしには弟がいたの。どこにも届け出ず、国中から認識されていなかったけれど。……弟が、いたの。弟は、あの方の器の予備として用意された子ども。けれど生まれてきたのは男子。あの方に肉体を捧げるのは同じ性である女が望ましいの。両親はあの子にあの方が下ろせるか幾度か試してみたようだけれど、結局叶わなかった。そうしてわたくしがあの子の行方を聞いたときは、既に、廃棄したと。その情報を得ることしか出来ない有様だった。小さく無垢で愛らしい、わたくしの可愛い弟がどういう最期を迎えたのか、わたくしはそんなことすら知らないの。あの瞬間、わたくしはこんな家滅んでしまえばいいと思ったの。そんな当家の異質さに、わたくしの乳母も気がついたわ。ドロータの母である彼女は、ほとんど外部の人間と言っていいほど末端で遠縁の血筋であったけれど、この血筋の人間としては、どうしてだかまるで普通の人のようだったわ。乳母はわたくしとドロータを屋敷から逃がそうとした。そうして当然殺された。あの方の命に逆らう者が存在する可能性すら頭になかった両親は、それまで外にさえ出なければ比較的自由を与えられていたわたくしへの介入を強め、わたくしを自分達と同じように物へと移行させようとした。不思議とわたくしはわたくしのままだったし、ドロータもまた同様にドロータのままだったのだけれど。そんなわたくしに痺れを切らした当家は、ドロータを標的にしたわ」


 眠り続けるドロータの頭を撫でながら、ベルナディアは瞳を細めた。


「ドロータは、わたくしの一番のお友達。たった一人のお友達。怖いことや争い事だけでなく、自分が怒ることまで苦手な、穏やかで優しい子。そして、そうしてね、夢見ることがとっても上手なの。いつかを上手に夢見ては、震える手でわたくしの手を引いてくれた。母を殺した家の娘であるわたくしの手を決して放さず、わたくしが家から解放されるまで決して諦めないと、そう、泣きながら笑ってくれる……わたくしの、大好きなお友達なの」


 けれどもう笑わない。

 ベルナディアは、ぽつりと呟いた。


「わたくしは、どうしてだか、どうしてだってわたくしだった。どうしても、両親が望むようにわたくしをがらんどうに出来なかった。愚かだったわたくしは、家を変えようとしてしまった。当家をあの方から解放できる術を探し、それが叶わぬならばよそに助けを求めようと。それに気がついた両親は、あの方に指示を仰いだ。そうしてあの方は、ドロータを壊した。歪んだ神の力を持って、一人の人間を壊したの。愚かなわたくしは、そうしてようやく気がついたの。あの方に逆らおうなどと考えるべきではなかったのだと。抗わず、逆らわず、あの方に従順であれば、せめてドロータだけは、人の世界で生きていけたのに……わたくしが、必ずそうしたのに。あの方に逆らわず、この生き方を受け入れようと思えば、それまで保てていたわたくしという形はたちまち呑まれていった。怒りも悲しみも、どこか全て遠い場所にあるの。わたくしがそれまで抱いていた感情を、遠くから見つめているの。何も考えず、設定された規律と反射で動く人形が当家の形だもの」


 ベルナディアは、喋ることに慣れていないのかもしれない。

 そうと気がついたのは、話の最中に幾度も途切れた言葉であり、呼吸の在り方だった。喋る合間の息継ぎを無意識下で行えていない。

 それでも、ベルナディアは語ることをやめなかった。


「それなのに、どうしてだってわたくしは半分そこにいるの。壊されたはずのドロータも、以前の動きを残していて。だからわたくしは、ドロータだけ、ドロータだけ守れるように、そうしてきたの」


 どこか滑らかさを欠いた喋り方の中、最後の言葉だけはまるで歌うように淀みなく紡がれた。

 まるで、幾度も幾度も紡いできたかのように。


「国の行方も、誰の命も人生も、わたくしはどうでもいいの。わたくしはそれら全てが危機に曝されていると知っていながら、放置したわ。だから、殿下、聖女様、わたくしを罰してくださって結構よ。けれど、けれどドロータは、ドロータは何の罪も犯していないの。ただ、ただ、酷い目に遭っただけなの」


 ドロータに触れていた手がゆらりと離れ、凄まじい力で私の掌を握りしめる。


「自身の怒りより他者の痛みに敏感で、罵り言葉の一つも言えず躊躇ってしまうような子なの。本当よ。怒鳴ったりなんてしたことがないし、出来なかったわ。あの子が大声を出すのは、大きな虫が飛んできた時だけ。宝石よりおやつが好きで、いつまでだって一人で眠れないほどどうしようもない怖がりなのに、乳母が殺され絶望に打ちひしがれたわたくしを抱きしめ、一粒だって涙を零さない。わたくしの大好きなお友達は、そういう子なの」


 ベルナディアが語り終えるまでに過ぎた時間は、とても長かったようにも、瞬く間に過ぎたようにも思えた。

 呼吸音と僅かな衣擦れだけが響く部屋の中。最初に動いたのは、ベルナディアに白湯を渡したエーレだった。次いで、ルウィが口を開く。


「余が下す決断は、あくまで人の世に殉じたもの故、聖女の采配を先に聞こう」


 アデウスにおける最高位が王族と聖女であり、第一王子がそう言うのであればそうしよう。

 私は私の腕を握りしめるドロータの掌に、自分の手を重ねた。


「まず、聖女は人の子を罰するために存在するわけではありません。そしてこれは憶測となりますが、ベルナディア、あなたがエイネの影響を受けなかったのは体質でしょう。この世には、神力に耐性のある体質というものが存在していますので。そしてあなたの場合は、親しい他者にもその影響を与えられるのかもしれません。ゆえに、乳母やドロータは個を保ち続けていられたのでしょう」


 詳しくは、検査をしてその結果から判断したほうがいいのだろうが、おそらくこの結論は正しいという確信がある。

 そうでなければ、国中を飲み込む忘却をかけたエイネの身近にいながら、個を保ち続けられるはずがない。


「ベルナディア」


 通常、姓を含めて名を呼ぶべき場面だ。けれど、自身の生まれた家を当家とだけ呼び続けた彼女を、家名を含めて呼ぶべきではない。

 彼女をあの家の一部として扱うべきではないと判断したのは、彼女に対する哀れみや、まして怒りなどではなく。

 意思の尊重という、彼女が持ち得る当たり前の権利を遵守しただけだった。


「アデウスを蝕み続けた災厄に、曝されただけのあなたに罰が与えられるのであれば、それはあなたとドロータに災いを届かせた私が負うべき罪です。王子のご意見は如何でしょうか」

「民が生を繋ぐため犯した罪は、国を統べる者の罪。故に、ベルナディア。そなたが償うべき罪はここにない。それでも罰が望むのであれば、そなたの友をこれまで通り献身的に介抱するがいい」


 私とルウィの言葉を聞いても、ベルナディアは表情一つ変えない。

 安堵も嘆きも何もなく、ただ静かにドロータを見つめただけだった。








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