93聖
身を切るほどに冷たい水が世界を満たしている。岩の中で水が奏でる音だけが世界に蔓延し、天井から落ちてきた一粒が弾ける音さえ響き渡った。
そんな水に揺蕩いながら、ぼんやりと天井を眺める。
剥き出しの岩肌で構成された空間に、無造作に溜まった水が奏でる音が満ちていた。透き通った音は美しくも、どこか孤独だ。命を突き放すかのような冷たさなのだから、尚のことそう思うのかもしれない。
肌を切り裂くように冷たい、まるで氷のような水の中で揺蕩って、もうどれくらいになるだろう。髪は水と同じ動きで流れ、浮いた身体も同様に水に任せて揺れるだけだ。
また一つ、岩の天井から落ちた水滴が音を奏でる。ぼんやりその音を聞いていると、突如静寂が破られた。
岩肌を穿ち抜かんばかりに踏みしめた足音が近づいてくる。さっきまで命の気配がまるでなかった空間に、濃厚な生の気配が満ちていた。
足音だけで伝わってくる満ちた怒りは、あっという間に到着したらしい。そろそろ視線を向けようかと思った瞬間、視界が白く染まった。
「えぇー……」
世界を白く染めたのは、もくもくと沸き立つ湯気だ。
真っ白な湯気が岩の天井へと到達する様を眺めている私の腕が、むんずと掴まれた。ほかほか上がり続ける湯気の中でも、その怒りの持ち主は鮮明に見えるのだから不思議である。
ぷかぷか浮かんでいた私を引っ張り上げて立たせたエーレは、服のまま水の中に、訂正しよう、お湯の中に入ってきたらしい。濡れた服が身体に張り付いて動きづらいのだろう。盛大に舌打ちしている。ただでさえ浮かべていた怒りに、新たな怒りが加わったようだ。
ちなみにその怒りは、いつも通り私の頭へと到達した。
痛かった。
エーレとルウィは、命の枠組みから外れてしまった。
春の象徴のようであった新緑色の髪を失い、白髪となったエーレは、酷く儚げだ。ただでさえ妖精に例えられるような可憐さだったというのに、生と死の象徴とされがちな白をその身にまとってしまった。儚くならない訳がない。
「あだだだだだだだだ!」
ただし中身は何ら変わっていないので、今も元気に私の頭粉砕に勤しんでいる。
だから彼は、相も変わらず苛烈な怒りをその身に秘めた、否、全く秘めていない、ただのエーレであった。
「いたたたた……これ絶対頭砕けてますって。それにしても、一応神域だった過去を持つこの水源を、独断で温泉にするのは流石に問題では?」
「雪の降る中、水風呂を嗜むという阿呆の風流を嗜んでいる阿呆の責任だ」
「阿呆が重複していませんか?」
「阿呆を渋滞させている阿呆の責任だ」
酷い日照りが続こうとも、決して枯れることなく水が湧き出る僥倖を、神の御業と讃えた過去の人々は、聖女が水に浮かんでいるという理由だけでその水を湧かし、ただの風呂にしてしまったエーレをどう思うだろう。
過去の人々から、おそらく何ともいえない顔を向けられるであろうエーレは、何の罪悪も感じぬ顔で堂々と立っている。
「阿呆みたいに寒い今日、水風呂を嗜んでいた理由は?」
「アリアドナが日常的に行っていた行為を、体験しておこうかなと思いまして」
「成る程な。阿呆。ちなみに感想は?」
「寒かったです!」
「だろうな。阿呆」
理由を述べようが感想を告げようが、阿呆の称号から逃れる術はなかったようだ。
私とエーレとルウィの三人が、ハデルイ神と永久なる別れを経た後に目覚めた場所は、ホトル村だった。
ホトル村はアデウスの辺境に位置する小さな村だ。国境沿いではないものの、王都より断然国境に近い山の中にある。
ホトル村が位置するこの地域が、初代聖女アリアドナの生国がかつて存在していた土地だったと知るまで、さほどの時間はかからなかった。
この村は、私が聖女として国中に認識されていた頃に仕事で訪れた村でもあったが、あの頃はそんな歴史など露知らず。普通に聖女としての務めを果たして帰ってきたものだ。
聖女として認識されていたといっても、最悪の形で忘却が解かれた今も一応認識されている状態なので、私が忘却されるより以前といったほうが正しいのだろう。
何にせよ、王都を離れた記憶も移動した記憶も実感すらない私達が、気がついたら居ていい場所じゃないことだけは確かだ。
ホトル村は、仲のいい村長家族が力を合わせて守っている。住人達も好奇心は強いが気のいい人ばかりで、突然現れた私達を快く受け入れてくれた。
当時は聖女としてではなく一神官として訪れた私が聖女だった事実を後ほど知った彼らが、今回は最初から飛び上がって驚いていただけである。
樽をひっくり返し、農具をへし折り、水車を止め、驢馬を逃がし、麦を零しと、文字通り村中ひっくり返したかのような騒動の末、私達を丁重に快く受け入れてくれた。
その節は申し訳なかったと思っている。
私達の登場から遅れて数日後、王都陥落の報が確かな事実としてこの村に到達した際は、村中を埋め立てたかのように静まりかえってしまったが、今では神妙に受け入れてくれている。
ただし、ルウィが第一王子である事実は微妙に受け入れ切れていないようだ。
村長家の長男などはずっと「聖女の次は王子っ……こんな辺鄙な村に詰め込んでいい情報量じゃないだろっ!」と呻いていた。実質村の困り事解決を一身に担っているのは彼なので、彼には頑張ってほしいものである。
そんな中でもなんとか持ち直してくれた村人達のおかげで、私達はウルバイとの国境に派遣していた軍と神兵に連絡を取る算段をつけられた。村人の二人が、国境まで馬を飛ばしてくれたのだ。今は伝令の帰還待ちである。
その間も、やることは山積みだ。
ルウィは、軽く鍛錬をして身体の具合を確かめつつ、村長達と話し合いの時間を設けた後に子ども達と遊び回り、昼寝をしてはエーレと作戦を詰めている。追っ手が来ることも警戒し、村周辺の地形把握と同時に歴史も把握していく過程で、ここがアリアドナの生国があった場所だと判明したのだ。
エーレも、ルウィ同様身体の具合を確かめることから始めていた。二人とも、神に捧げられ、魂の構造が根本から書き換えられた状態では、身体も神力も勝手が違ってくるのだ。
ルウィの外見はエーレのように顕著な変化は見られない。外見的特徴の差違は、ルウィは自身がアデウスの王族であることまで手放さなかったからだろう。彼はどこまでも王族であり続ける。アデウスの、人の王なのだ。
対してエーレは完全に、その身どころかその生全てを私に捧げてしまった。なればこそ、私との連動が顕著にその身へ出てしまう。これより先も、私の変動は諸にエーレの身へ影響を及ぼすだろう。
どちらにせよ、二人とも、最早人ではない。
こんなにも何一つ変わらないのに、この世界で二人だけが人の枠組みから外れてしまった。元より人ではなく、未来永劫人とは成り得ぬ私の所為で、世界は尊き二人の命を失った。
なればこそ、私は私の為に躊躇いもなくその道を選んだ二人を、最後まで守り続けなければならない。私からの謝罪を望まぬ二人の為に私が出来ることは、その選択を二人が悔やまぬよう、そしていつの日か悔やむ日が来たとしても、そこまでの日々を彼ららしく過ごせるよう尽力することのみである。
やらなければならないことは山積みだが、現在一番重要なのは情報収集だ。
私達の情報は、現在村人頼りとなっている。ここには第一王子、聖女、特級神官でありリシュターク家がいるのだが、それしかいないのもまた事実だ。人手が足りないどころの話ではない。
村人達が近隣の町村に出向き集めてくれた情報によると、王都陥落の報がアデウス中に知れ渡り、国中が大混乱に陥っているという。
それは当然だ。アデウスの国民は、忘却中はほぼ百年ぶりに聖女選定の儀が開催されていると思っていたのに、突如十三代聖女は既にその任についていた記憶が戻るわ、王都は堕ちるわ、堕ちた王都は禍々しい大樹が住人諸共飲み込んだまま聳え立っているわ。
混乱しないほうが難しい。
ちなみに私は、人から人へ広げていくまるで呪いのようなエーレの術が、あの夜会からこんな短期間でホトル村にまで到達していた事実に一人驚愕していた。
意図して拡散させたい情報は、なんだかんだと時間を要するのに、感染という形で、それも人が媒介すると、こんなにも容易に広まるらしい。
病も情報も感情も、拡散が容易ければ容易いほど、危うさを伴う。制御が効かない歯止めのないそれは、善し悪しで言えば悪し側であることが多いのである。
エーレがただのお風呂に変化させた元水場から、よっこらせと上がる。硬い岩肌は、少しでも力加減や目測を誤り肌をかすめた瞬間、人の子の柔い皮膚など簡単に傷つけてしまう。だから、服を着たまま水に入ったエーレの判断は正しい。
先にお湯から上がったエーレは、脱いで置いておいた私の服を掴むと、押しつけるように渡してきた。まだ身体を拭いていないので、服が濡れてしまった。いま服が濡れたことにより、私は服を濡らさないようちゃんと脱いでから水に浮いていた女から、ただ素っ裸になっていた女へと移行したのである。
まあ私は人間ではないので、服を着ていようがいまいがどうでもいいとは思う。
「どうして服を着ていないんだ」
しかし、エーレはどうでもよくないようだ。
「濡れたまま村まで下りるのは寒いかなと」
いま濡れたけど。
濡れた肌に服も髪も張り付いたままの私に、エーレは深い溜息を吐いた。そして私の腕を掴んだ瞬間、温かな風が私達を包んだ。温かな風というには、真夏の熱波を感じる風だったけれど。
灼熱の業火が通り過ぎたかのような熱の後、熱波で浮いた髪がさらりと肌を撫でながら落ちていく。一瞬で服も身体も髪まで乾くのだから、本当にエーレは便利だ。一家に一人いてくれれば絶対に重宝される人材である。
しかしアデウスの国民には大変申し訳ないのだが、エーレはリシュターク家とクラウディオーツ家の子なので諦めてほしい。ちなみにルウィはアデウス国の子なので安心してほしい。所属する単位が国なので、どこの家の子にもならないだけである。
「エーレはどうしてここに?」
「どこかの馬鹿が、護衛も連れずに一人で山へ登ったからだ」
私は別に山へ登ることが目的ではなく、この場が山にあったから登っただけである。ホトル村から大した距離ではなく、高度もさほど気にしなくていい場所だから問題はないだろう。ここ最近は山賊や大型の肉食獣の目撃情報もないというので、尚更である。そもそもホトル村が山間にあるのだ。どう移動しても山になる。
そう思ったら引っぱたかれた。せめて口に出した文言に対して引っぱたいてほしいものだ。いくらエーレが私の眷属に近しい存在になったとはいえ、私の思考を読む能力が付随されたわけではないはずなのに、エーレは今日もエーレである。
とりあえず、服を着たほうがよさそうだと思い、私を乾かしてくれたと同時に乾いたエーレに着付けを手伝ってもらう。
現在私が着ている服は、聖女の衣装ではない。何せ聖女の衣装はその全てが陥落した王都の中だし、着ていた服はハデルイ神により神に近しい存在へと移行した際にどこかへいってしまった。
だから聖女の服を着ていないことは当然なのだが、村民から借りた服も着ていない。日常生活を送る服というよりは、祭事用に近い出で立ちを見れば分かってもらえるはずだ。
これは、村の女性達が急遽仕立ててくれた服である。皆、聖女様の服なんて作れるとは思えない、と言いつつも、様々な本や雑誌、果ては観劇の小冊などをあちらこちらから引っ張りだし、それは立派な服を作ってくれた。神様を呼ぶ催事用でも使えるくらい、それはもう立派な衣装に仕上げてくれたのである。
村長家長男曰く、観劇や小説の挿絵にかなり引っ張られているらしいが。
よって、一人で着られない。何着か着替えまで仕立ててくれたが、どれも一人で着られないことに変わりはなかった。
ちなみにルウィも同じような仕様である。
王都から遠く離れた国民は、王族や聖女などそうそう見る機会はない。だから憧れが先立った結果、日常生活を送る上での利便性がどこかにいってしまったらしいと、これまた村長家長男が教えてくれた。
ルウィと私は、それぞれの衣装をありがたく受け取った。何故かエーレは大変満足していたし、村民の皆様方も腕組みして頷いていたのだ。皆の喜びを奪うなど本意ではない。何より、民が喜んでいるのだ。それを喜びこそすれ、水を差す必要もないのだ。
ルウィも私も、民が喜ぶ姿を見るのが趣味なのである。
動きにくさは、逃亡で鍛えた動きと根性でどうにかすればいいだけだ。ちなみにルウィは優雅に着こなしていたし、私は虫のように優雅に蠢いていた。
村人達は、エーレにもいろいろ着せたかったようでそわそわしていたが、自分は聖女に仕える一神官に過ぎないからと頑なに辞退していた。村人達も残念無念を浮かべた表情を隠さなかったが、最終的には納得して引いていた。
彼らは、エーレがリシュターク家の愛し子だと知ったらどうするのだろう。おそらく、誰より先に村長長男が卒倒するはずだ。彼には強く生きてほしい。
私は、ホトル村の穏やかな有り様が損なわれないことを祈るのみである。
祈る神は最早なく、新たな神が生まれてくださる御業をただただ待つしかないこの身ではあるが、どうしたって、私は祈り続けるのだ。
私が上げた腕と身体の間から、抱きつくように腕を回し、布を通していくエーレの旋毛を見下ろす。
「それで本当に、エーレはどうしてここに? ルウィと額突きつけ合って話し込んでいたので、そう簡単に終わらないだろうと見込んで抜け出したのですが」
「はっ倒すぞ」
「はっ倒した後に言う感じで合ってますか?」
恙なく私をはっ倒したエーレが着せてくれた服にも、だいぶ慣れてきた。
着始めた当初は、布を絡めず引っかけず、されど汚さず踏みつけず動くのに、非常に苦労したものだ。それが今では、エーレの目を盗んで抜け出し、山を登っても汚さずいられるようになった。着こなしも逃亡も、やはり日々の鍛錬が重要である。
着替え終わったので、エーレと共に、かつて神域だった湯気沸き立つ場所に背を向けて、外へと出る。そして、村への道のりをのんびりと歩き始めた。
まだ日暮れを警戒する時間ではないが、あまり遅くなっては村人達が心配するので、そろそろ帰還の頃合いだったのも事実だ。
「残滓自体は、アリアドナの物も神の物もほとんどありませんでしたが、世界の記憶に近しい場所にこの地におわした神が記録されていました。ここにいた神は、人が好きではあったようですが、その願いを叶えようとは思い至らなかったようです。正確には、寄り添うという思考が存在しなかった。けれど人が好きだったからこの地に滞留し続けたし、人前に姿を現していた。そして、神の力を人が扱えるように、神玉という存在を作り出した。神の力を自然という命を通し、人が扱える姿へと形取らせた。これは、他の神ではあり得ぬことです。あれだけ人を愛したハデルイ神であっても、神の力を人へ授けはしなかった。それを考えれば、ここにいた神は、十二神中誰より人に甘かったのかもしれません」
あれだけ人を愛し、寄り添い、十二神中誰よりも人を理解していたハデルイ神でさえ、どこまでも人から遠かった。
それは、良い悪いの問題ではない。根本的に違う存在であり、どこまでいっても神は人の上位にある。上位であり、根本から違う存在で在り続けねばならぬ。それが世の理だ。
故に、人は神になれず、神は人になれぬのだ。
鳥が木となれぬよう、人が虫となれぬよう、死した形となって尚、そうはなれぬよう。これはただ、それだけのことなのだ。
かつてここにおわした神は、多くの人間がそうであるように、直接的な救いを神へ求めたアリアドナの祖国とどうしようもなく相性が悪かった。そもそも、人が己の事情だけで構成された解決を救いと呼ぶ以上、それこそ救われないほどに、合わなかったのだ。
かつてこの地に神がいた。弱く小さく傲慢で、されど些末事に喜んでみせる様が愛らしいと、人を好んだ神がいた。弱く小さな命が繋がるようにと、己が力を丸い石として、地より与えてくださった神がいた。
そんな神と、ただただ事態の解決を願った人の折り合いがつかなかった。
ただそれだけのことだ。
それだけのことで、何百年も経った今、アデウスが滅びようとしている。今を生きる命には、一切合切関係のない遺恨だ。
未来から過去を変えてはならないように、過去は未来を食らってはならない。アリアドナはその断りをも破った。私は、聖女としても、ハデルイ神より紡がれた存在としても、あの存在をこの世から消滅させなければならないのだ。
あまり人が通らない道は少し荒れている。もうすぐ本格的な冬が来る此の季節、ただでさえ木々は葉を落とす。今日は更に、昨晩吹いた嵐で枯れ葉が道中に積もっていた。
その上を歩くたび、水分を失った葉が細かく砕ける音が世界を満たす。
「お前は、自分がどういう存在としてあるつもりなんだ」
「私ですか? ……自分の判断を自分でつけるのは傲慢であり、非常に難解な問いではありませんか? 有り様の答えなら簡単なんですが。何せ私は、命にはなり得ぬ物として生まれ、神の器に至れなかった身体を保つ、この世の何より中途半端なまま固定された身の上ですので!」
「お前は誰より人に近しい。何せ大馬鹿だからだ」
「確かに……」
そう考えればそう自称していいのかもしれない。何せ、神と馬鹿は最も対角に位置する言葉だ。理由はどうあれ、人に近しい存在であれるのは嬉しい。
「そこで心底嬉しそうな顔をしている時点で、お前は何も変わっていないと断言できる」
「一応神に近くなったのに!?」
大問題である。
「出来ることも結構増えたじゃないですか。なんか、いろいろ」
「だからどうした」
「だからどうした!?」
アデウスの民が神力で成し得ることの出来る奇跡の類いは、私にも可能となった。何せアデウスの民が扱っていた神力は、元はといえば十二神が扱っていた力だ。アリアドナがそれらを自らへ吸収していく過程で、余剰分を勝手に民の中にしまっていたに過ぎない。
そして私は、ハデルイ神により神の権限を付与された。だから、神力を保たないが故に扱えなかった様々な能力は自由自在だ。
問題は、本来それらを扱うのに必要な神力の大半が、アリアドナの元にあることである。
それでも、力はあちらだが根幹はこちらだ。何もなかった人形の自分では考えもつかないほど、扱える奇跡だらけとなった。
それなのに、エーレは鼻で笑った。
「戦闘に関することは俺の仕事だから、お前が出る必要はない。お前の仕事は今まで通り癒やしと浄化だろう」
「か、過去を覗いて情報収集も出来ますし、自己を癒やせはしませんがある程度は勝手に修復されるようになったので、怪我をしても大事に至らず、以前より便利になりました!」
「大馬鹿者」
「いったぁ!?」
破損は勝手に修復されるようになったのに、何故エーレから繰り出される攻撃の痛みは全く軽減されぬのか。世の中、そううまくはいかないようになっているらしい。
その場にしゃがみ込み、抉られたこめかみを押さえてもだえる。
「思考及び行動が変わらないんだ。どこに変化を見出せと?」
「変わってますよ!?」
「どこがだ」
流石に人形から神に近しいものへの変質は、変化がないほうがおかしいと思うのだ。
私はまだまだ痛むこめかみに嘆きつつ、しゃがんだまま顔を上げる。エーレは胸を張り、高らかに私を見下ろしていた。どう見ても、私の眷属に近しい存在となった人が私に向けていい視線ではない。つまりは、以前と何も変わらない。
きらきらと光を通す白い髪を見上げ、そういえば私も同じ色だと思い至る。
「髪、とか?」
「俺もそうだが、髪の色が変わったことで俺に訪れた変化を言ってみろ」
「ありませんねぇ」
エーレは何時如何なる時であろうとエーレである。
ホトル村に来てから、状況説明及び状況把握など、とかく忙しかった。だから、私が人形から神に近しい存在となったことも、エーレ達が人の枠組みから外れてしまったことも、なあなあになってきてしまっていた。
大事なことをようやく話し合えているわけだが、その過程で私のこめかみが破壊されるのは何故だろう。
この際だから、他の議題も放り込んでおこう。
「そういえば、婚姻関係を結んだばかりの、いわゆる新婚と呼称される状態にありながら、態度に一切の変化が訪れないのはあまりよろしくないそうですよ?」
「誰の言だ」
「衣装合わせを行っていた村のご婦人方です。新婚家庭は、とかく甘くなければならないそうです。とりあえず、私達の部屋にお菓子並べとけばいいですかね? それとも頭から蜂蜜かぶっておきましょうか。砂糖をまぶしたほうが掃除が楽そうなので、そっちがいいですかね。でも食べ物を粗末に扱うべきではありませんので、後で私が美味しくいただく予定です」
「どう考えても、お前は何一つ変わっていないし常に大惨事だ」
「何故に」
人の枠組みから外れてしまったというのに、全く変わらないエーレにだけは言われたくない。
最早人として死ぬことは叶わぬ身となってしまったというのに、それらに関する悲壮感は皆無だ。
それに何故か、未だに誰よりも激しく命の気配をまとっているのだから、最早訳が分からない。常に怒っていることまで変わらないので、エーレこそ髪色以外何一つとして変わっていないではないか。
命の枠組みから外れた人は、未だ生の気配を保っているどころか、まるで命の象徴のような存在であり続けるのだから、本当に不思議な話である。
「流石に変わっていますよ。だって私はもう、あなたと離縁する気はありませんから」
エーレは少しだけ瞳孔を開き、すぐに鼻を鳴らした。
「当然だ。そもそも、リシュタークと縁続きになっておきながら離縁する気が合ったこと自体が問題だ。それに俺と結婚していながら、聖女と王子が行方不明になる前に永遠の愛を誓い合ったとの噂がまことしやかに流れている事実をどうするつもりだ」
「毎晩二人で部屋に下がる度に寝るまで続くその話題、昼間もやる流れですかね」
「流通を維持できている新聞のほとんどが、まるで事実のように書いているせいで毎朝目にするからな」
エーレはもう、朝に新聞を読まないほうがいいと思う。
「エーレはもう、朝に新聞を読まないほうがいいと思います」
「どの立場であろうと、読まない選択肢はないだろう」
それはそうだ。それに、王都にあるエーレの家に泊まっていた際は、新聞を読み終わればその辺にある本を読んでもらえばよかったが、ここではそれも出来ない。話題を逸らす方法も限られ、そろそろ手が尽きてきた。
村の女性達にも参考までに聞いてみたが、新婚ならではの方法でいけばいいとしか教えてくれなかった。夜ならば尚更、とりあえず引っ付いておけばいいとのことだったが、引っ付いたままずっと怒っていたので効果のほどは今一である。
そもそもエーレは何をしていても怒っているので、怒る体力をなくすしかないように思う。
「ところで、ルウィとの話し合いの結果はどうなりましたか?」
アリアドアは現在、国中に勝手に貯蓄していた神力を回収している。つまりアデウスは、これまで神力によって優勢を維持してきた戦闘力を失ったのだ。
国境沿いに派遣した兵士達が気になる。かといって、陥落した王都をそのまま放っておく訳にもいかない。あそこには、数え切れない数の住人がいるのだ。生死すら定かではない状態なのに、王都がまるごと飲まれてしまっては新たな情報を得ることさえ難しい。
それだけでなく、アデウス中の混乱への対処もある。それらに対する情報収集さえままならない状況で、何から優先させるか。どうにも堂々巡りとなってしまったので、私とエーレ、私とルウィ、エーレとルウィ、三回に分けて話し合いをもうけた上で、再び三人で話し合う予定となっているのだ。
今日はエーレとルウィの話し合いの日だったのだが、そう簡単に結論が出るはずのないエーレがここに来ているのは何故だろう。私やルウィではあるまいし、エーレがサボるはずはない。
「街道の見張り当番からの伝令だ。早馬が四頭、街道を走ってくるとのことだ」
「成程成程ぉ……それ、真っ先に共有すべき情報では?」
どういう要件の早馬であれ、のんびり山道を下っている場合ではないことだけは確かである。
「走りましょうか」
「マリヴェル」
「はい、エーレ」
エーレは走り出そうとした私の手を握った。そして、まっすぐに私を見つめる。
「山を登った俺に、下りを走る体力は、もう、ない」
「えぇー……」
人の枠組みから外れようと、エーレは何も変わらない。故に、その筋肉も変わっていなかった。悲しいことである。
サヴァス曰く、筋肉は一夜にしてならず。筋肉を愛し筋肉を裏切らず、丁寧に育て上げる
日々の鍛錬こそが筋肉を身につける唯一無二の方法らしいので、エーレには頑張ってもらいたいものだ。
しかし、歩いて山を降っている間も、体力が尽きてふらふらしているエーレは怒り続けたので、私の作戦は開始する前から失敗を余儀なくされた。
よく考えれば昔から、エーレの家でもよれよれになったエーレはそれでも一晩中怒り続けていたので、既に失敗が確約された作戦だったのかもしれない。