92聖
どうして。どうして、神との別離を嘆く存在が、私しかいないのだろう。
アデウスの民はその事実を知らぬまま、絶望だけを受け取る。嘆く権利をその身に持ち得ながら、知らぬがために嘆くことすら出来ぬまま。
あの日、人形であるこの身を知ったエーレの嘆きが、今更、今更理解できて。
絶望を抱くであろう人々が、嘆くことすら出来ぬまま結果だけを受け取ることが、どれだけ残酷な結末なのか。今なら、分かってしまうのだ。
誰かに助けてほしい。誰か、この人達を救ってほしい。
けれど、神と人は別離した。他でもない、人の決断によって。
どうすればいいのか、もう分からない。蹲っていても何にもならないと分かっているのに、私に出来ることがあれば何だって、本当に何でもするのに。
何でも、出来たのに。それなのに、死ねない。死にたく、ない。
あなたを抱えたままでは死ねない。あなたに愛されたまま、死にたくない。
そう思ってしまう自分が心底情けなかった。
いつか、いつの日か。私を失って良かったと。あなた達がそう思ってくれるいつかを祈ることすら出来なくなって。
次などない。次の生などないのだ。それは、私も彼らも同じで。神以外の何ものも、今の生しか持ち得ない。だからこそ命は希少で、縁は得難く、生は幸いなのだ。
それなのに。
アデウスの民は、最早祈りの先すら失ってしまったまま、その命を失おうとしていた。
何もないはずの真白い世界に、風が吹いた。
それが神の吐息だと気付いたのは、神の気配が世界に充満したからだ。既に死した身の神が放つ気配は薄く、今にも消えそうなものだった。けれど今は、その気配を肌で感じられるほどの濃度で世界を覆っている。
「――人の子の願い、このハデルイが聞き届けた」
弾かれたように顔を上げていた。神の世界に撒き散らした水の行き先など、思考の端にも登らない。
崩れかけた宙を纏う牡鹿は、何一つ変わらずそこにおわす。
けれど、人が神と別離した。
神は、人を。
見限って、しまわれたのか。
「お前もそれでよいか」
「いいよ」
ハデルイ神の言葉に応える、幼き神の声がする。
「どちらであっても、ぼくのけっかはかわらないのだから」
アデウスは最早、終わりを迎えるしかないのだろうか。神殿が、王城が、命を賭して守ろうとした国が、私が当代聖女であったばかりに。
エーレとルウィに、終わりを選択させてしまった。
この状況下で、神との別離は、人が持ち得る最後にして最大の切り札を手放すと同義だ。そうと分かっていて、最早止める術を持たない役立たずが当代聖女でさえなければ。
「それにしたって、ハデルイ。きみはすこし、いじわるではないかしら?」
幼い神の声が、すぐ傍で聞こえた。次いで、柔らかな風が背に触れる。その身を持たないはずの小さな神の手が、私の背に触れた気がした。
「かおをおあげよ、ハデルイのこ。そんなになかなくてもだいじょうぶ。だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。ハデルイはおこってなどいないよ」
小さな子どもが立っていた。昔、林檎の香りを抱いて死んでいった、小さな小さな幼子が、そこにいた。
「きみのきおくから、このこのすがたをかりたのだけれど、このこどもはつかいやすいのにつかいにくいね。きっときみは、とてもつかいやすいのだろうね」
「……あなた様が為に創られし器に、ございました」
そして、アデウスの希望になるはずだった器の、成れの果てだ。
「うん、そうさ。けれどもうちがうのだろう? だったらよろこぶといいよ。きみがあいするひとのこらの、ねがいがかなったのだから」
いつの間にか、私の背に触れる手は温かなエーレのものになっていた。エーレは私の身体を支えてくれたのに、その顔を見ることができない。私の視線は、ハデルイ神の傍へふわりと浮き上がった幼き神を追う。
ハデルイ神は小さき神をその身に寄り添わせながら、深い溜息をついた。
「……よもや、か細き人の子が、神の後ろ盾なくあれと対峙するを許さねばならぬとは」
「あはは、きみがあいしたぜんりょうなるひとのこらが、きみのにんぎょうをひととしたのだから。みとめてやらねばならないのではないかしら」
「人の子は時に神の都合を上回る故、今の我の姿は、先のお前の姿であるぞ」
「そうさ。たのしみだろう?」
神々の言の葉が、分からない。私が意味を把握しかねている間に、神々は私の前に下りてきた。
平伏しようとした私を、エーレは止めた。
「聖女よ、面を上げておけ」
エーレとルウィは、私を抱えながら立ち上がる。
「簡単に頭を下げるな。分かっているのか、マリヴェル。お前はアデウスの誇りだぞ」
私は人ではない。されど最早人形としても成り立たぬ身。本来ならば、神の視界に入ることすら許されぬ卑しき身だ。
されど、人が愛してくれた身なれば。
自分達同様に、顔を上げて並んでほしいと人が願うのであれば。
私は、人の願いを叶えるよう神が定めた身なれば。そうして、そう在りたいと願える自分に安堵する身へ形作ってもらった私ならば。
私はぐっと歯を食いしばって顔を上げ、真っ正面から神々を見上げた。
神から授かった天命を投げ出した。人と神の別離を生み出した。私は最悪の災いに等しい。
それでも、神官長達が形作ってくれたこの形を恥じ入ることだけはしてはならないのだと思えてしまう自分は、とうの昔に取り返しのつかないところまで来てしまっていたのだ。
ハデイル神は、そんな私を咎めはしなかった。厳かに言の葉を紡がれるだけだ。
「我は人の子を愛している。弱く卑怯で惨めだからこそ、美しいものであろうとする心根を愛らしく思う。だからこそ、新たな神が必要だ。我ら十二神は、最早神として存続できる力を有さない。我らは神の残滓である。なればこそ、新たな神が必要だ。人の子だけであれには勝てぬ。あれは最早人ではなく、されど未だ神でもない。ただただ力を食い散らかした、命の成れの果てよ」
未だ神ではない。
人に残された可能性は、それしかないのだ。
「人形よ。お前は未来永劫人とはなれぬ。我の命を放棄したとて、お前が人と成ることはない。お前は消滅を迎えるその瞬間まで、人の子らの世において異物で在り続ける、人形の成れの果てだ」
「承知しております」
分かっている。この身の罪深さまで全て分かっているのに、人の子らと合致してしまった願いがあるのだ。
それが人の子らの破滅への道だと分かっていても、その願いを光のように思えてしまう私を、人の子らが聖女と呼ぶのであれば。
神が創りし私は、神の器であった。
されど人の子らが作りし私は、願いであった。
世の安寧を、明日の恵みを。愛し子の無事を、恋し人の夢を。試験の点数を、洗濯物の無事を。味付けの成功を、頑固汚れの解決を。
聖女とは、何も人知の及ばない災厄にのみ必要とされるのではない。生死が関わる事から、生活のちょっとした悩みに至るまで、人は願い、祈るのだ。
初代聖女の手によって神々がこの地より損なわれ、祈りは変容した。各々の神へ向けられていた祈りが、神殿へと集約したのだ。
歴代の聖女は、人心を神殿へと集め続けた。そうして先代聖女は、人心を自身のみへと集めた。
アデウスの民にとって、神と聖女は同義だ。故に祈る。神へ、聖女へ。
寝食を忘れるほど深く祈る者は少ないだろう。けれど日常に現われる億劫さを伴う小さな陰りの解決を、祈る。それはどこか、愚痴にも似ていて。
初代聖女により、人の祈りは集約された。故に人は、どんな願いも一つの神へ祈るしかなくなった。それがどんな些細なものでさえ、一つの場所へ。
初代聖女がアデウスの民へと告げた神殿の神は存在しなかったけれど、祈りの先が人にとって畏れ多いものではなく、身近で親しみ深い場所になるほどに。
人々は祈り続けてきた。
人の子らが、眠る前ほっと一息つく瞬間に、今日という一日が終わった安堵を浮かべる先となった私は、もうこれ以上揺れるわけにはいかなかった。
私はアデウスの民を、不安定な場所へ日常の些細な平穏を祈る哀れな民にするわけにはいかないのだ。
そんな当たり前の在り方にルウィが満足し、エーレが泣き出しそうなほど安堵する事実に、今更気付くような私でも。
ここにある事実を捨て置けるはずはなかった。
顔を下げるわけにはいかない私をじっと見下ろしていたハデルイ神は、その身に残る宙を揺らした。
「人の子らへ問おう」
ぴくりと私の眉が動いてしまった。この状況下でハデルイ神が言葉を向ける相手がエーレ達であった事実に嫌な予感がする。ここでハデルイ神が告げるのであればそれは。
犠牲の有り様しかないのだから。
「それが為、何処まで手放せる」
事実、告げられた言の葉に、私の喉が掠れた悲鳴を上げた。
神よどうか、罰ならば、犠牲ならば。そう在るようお創りくださったこの身をお使いください。そう叫びそうになる唇を、必死に閉ざす。
この問いは、彼らの誇りへのものだ。故に、如何なる存在であろうが邪魔立ては許されぬ。
「当代聖女によるアデウスへの献身にとらせる褒美とあらば、王家の威信に関わる。よって、ハデルイ神に誓約申し上げる。アデウス国第一王子ルウィード・ネルヴァネス・アデウスは、これより先、王子としての生以外の全てを我らが聖女へ捧げよう」
「神ともあろうものが馬鹿げた問いをするものだ。マリヴェルが俺の心なれば、この身は魂の一片に至るまでの全てがマリヴェルの為にある」
諦めではない確かな決意で、ほんの僅かな躊躇もなく言い切られた言葉は酷い絶望だったのに。私はもう、蹲ることが出来ない。だって、分かってしまう。
私だってあなた達の為にそうして散りたかったと願う私が、エーレ達を否定することを許せない。そして、ここにお父さんがいたのなら、お父さんもまたそう言ってくれたのだろうかと。そう思ってしまう私を、お父さんはどう思うだろう。
「人形。お前は人の子に、お前が為何処までを捨てさせられる」
「……………………彼らが望みうる、全てを」
許されざる罪の中、この罪だけは、許されなくて、いい。
私の返答に、エーレが酷く満足げに笑った。
「それだけのものを懸けたところで、それが人になることは有り得ない。どこまでいこうが命の紛い物である域を出ることはない。それでもよいと申すのだな」
「くどい」
エーレの不遜にも、ハデルイ神は静かに宙を揺らし続ける。あれは宙だ。私達が毎夜眺め続けた夜空と同じ宙。
いま私達がいる場所は、ハデルイ神の世界だ。そして、一つの星だった。
ここは宙に遍く星の一つ。神々に運用された世界。放棄された世界。愛された世界。憎まれた世界。宙に瞬く全ての星が、世界のどこかに存在する神の世界であり、神の消滅と共に、あの宙のどこかにある巨大な星が一つ消えるのだ。
そして、小さいけれど神と同じ空間を持つ私の世界も、あの宙のどこかにあるのだろう。
「では人の子らよ。汝らはこれより人である己を捨て、神へと捧げよ」
ゆらりと一際大きく神の宙が揺れた瞬間、突如私達の視界を覆った。牡鹿の姿に止められていた宙が溢れ出したのだ。
けれどエーレもルウィも、身動ぎ一つしなかった。だから私も、静かに目蓋を伏せる。
そうして私達は、神の御許へと飲みこまれた。
一滴の水が、洞窟内に広がる水面へと落ちた。酷く澄んだ音が響き渡る。それは美しい音なのだろう。だが私にとっては聞き慣れた、そして苦行が続くだけの音だった。
身を切るような水に身を浸し、もう何時間経っただろう。命の灯らない偶像へ向け祈りを捧げ続けるだけの日々を、何年過ごしただろう。物心ついた日からもう既に、私はこの日々を過ごしていた。
また一つ、雫が水面へと落ちる。洞窟を満たすほどではないにしても、腰を超える高さにある水面は、こんなもので急に水量を増したりはしない。それでも、小さな一滴が落ちる度、身を切るような水が増えた気がした。
冷たい水に身を浸し、両手を組み、私が祈りを捧げる先へと視線を向ける。完全な円を形作っている、鉱石に似た何かがそこにはあった。
これは、この国では神玉と呼ばれている石だ。数多の神が統べるこの世界において、この国が祀る神だけが持ち得る奇跡だ。
この国にてぽつりぽつりと見つかる神玉は、酷く限られた人間にしか持ち得ぬ力を、誰でも扱える力を持つ、神の力を宿した奇跡の石だ。しかしその数はとても少なく、石がなくともそういった力を扱える希少な人間よりは多い。それだけの差だった。
「神様……」
私が祈れば、神玉は淡い光を灯す。ゆえに私は、聖女として我らが神へ祈りを捧げてきた。未だ神の御言葉も賜れない未熟な聖女だが、この国の誰が祈ろうと神玉は光を灯さない。
だから私が聖女だ。私だけが、聖女なのだ。
「聖女」
呼ばれ、振り向こうとした。しかし、長時間水に浸かり続けた身体を制御しきれず、水の中に倒れ込んでしまった。腰をも超える水量だ。倒れ込めば溺れてしまう。冷え切り感覚のない足を必死に叱咤し、なんとか呼吸が再開できる位置まで顔を上げる。
「お、とうさま」
「神官長と呼びなさい」
「はい、申し訳ございません……」
父である神官長は、じっと私を見下ろしている。その視線が、私が浸る水よりよほど冷たく感じてしまう自分を戒める。きっと、至らない自分を罰する責任を他者に押しつけてしまっているだけなのだ。
「今日も変わりないか」
「……申し訳ございません」
私は今日も神の御言葉を賜ることができなかった。私の祈りにのみ反応を示す神玉。しかし神は今日も我らに応えることはない。
神官長は眉を顰め、重い息を吐いた。
「日頃の怠惰を戒めろ。今日より睡眠時間を三時間減らし、精進に当てなさい」
「……はい」
既に一日五時間の睡眠もとれていない日々が、もう何年も続いている。一日の大半をこの水の中で過ごしてきた。それでも何も変わらない。神は我らに応えない。それは私が至らないからなのだろう。
世界はもう、二十年近く動乱の時代を迎えている。戦争の火種を抱えぬ国などどこにもありはしない。攻め入るか、攻め入られるか。そのどちらかしか選択肢は存在しない。
同じ神を信仰する国同士であっても、同盟と銘打った侵略によりその名を失う国が珍しくもない今この時代、平和な土地などどこにもありはしなかった。
私が生まれたこの国は、歴史こそあれどとても小さな国だ。当然近隣諸国の脅威にさらされ続けている。我らが祈る神だけが生み出せる神玉。それにより何とか周囲を牽制し、開戦寸前の現状を必死に維持しているだけだ。
現在この国に侵略してくる可能性が最も高い国は、この国ほどの歴史があるわけではないが、浅いわけでは決してない。年月を重ねた国らしい狡猾さと未だ衰えぬ勢いを持った国。隣国で会ったが故、その国の手札を知っている事でかろうじて現状を保っているが、そろそろ限界は近い。
一度開戦してしまえば、泥沼の末に両者壊滅的な被害を出した上、滅びるのはこの国だろう。
だから、神官長も王も神の力を欲しているのだ。否、二人だけではない。この国の民誰もが、神の救いを欲している。そしてその神と唯一通じる資格を持っているのは私だけなのだ。それなのに、私は生まれて十七年。一度も彼らの期待に応えられていない役立たずだ。
「我らと神を繋ぎ、神の尽力を乞う。それだけがお前の存在価値であろう。果たせぬならばお前は何の為に生まれてきたのだ」
「……申し訳ございません」
神官長は毎日同じことを言い、同じ言葉を残して行く。毎日同じ落胆と失望を残し、去っていく。神官長が去った後、再び静けさが洞窟内を満たす。この場に人は私しかいない。護衛の兵士が入り口に八人ほど立っているけれど、彼らは決してこの中に入ってこない。
ここは冷たく、静かで、何もない。価値ある物はただ一つ。今まで発見された中で、最も大きく、最も美しい円を保っている神玉だけだ。
彼らはこの神玉を守るために配置されているはずなのに、時々、どうしてだろう。まるで私を見張るために存在しているように思えてしまう。
それもまた、私が至らないゆえの思考なのだろうと分かっている。こんなにも至らない私なのだ。神官長が仰る通り、この国難は、私が至らないゆえなのだろう。
いつもより三時間長く祈りを捧げ、凍えきった身体でふらつきながら神殿の廊下を進む。護衛である四人の兵士達は、私の後ろをぞろぞろとついてくる。私の前を歩く者はいない。私は聖女だから。よろめく私を支える者はいない。私は聖女だから。
壁に手をつき、なんとか座り込まずに耐える。しかし歩行を再会できない。目眩がする。寒くて寒くて、歯がかちかちと鳴り続けている。冬場でもないのに、湯殿までの道程をこんなに遠く感じるだなんて幼い頃以来かもしれない。
「――まあ!」
跳ね上がった声に、最後の力で顔を上げる。侍女を数人連れた神官長の妻が、私の進行方向から歩いてきた。上着を羽織ってはいるが、寝支度は済ませてある。後ろの侍女が持っている覆いのある盆には、おそらく寝酒があるのだろう。
神官長の妻は、慌てて歩を早め、あっという間に私の前へと辿り着いた。
「まあ、大変。こんなに冷たくなって・・・・・・毎日こんなに長い間水に浸かっていては身体を壊してしまうわ」
神官長の妻は、痛ましげに私を見る。その声は、視線は、穏やかで優しい。この人は、世界でただ一人、私に優しさを向けてくれる人だ。
「そんなことにならない為にも、早くお務めが果たせるようになるといいわね。あなたが男であればお父様の後を継ぐこともできたのだけれど、あなたは女で他には何のお役にも立てないのだから、せめてあなたにしかできないことを早く果たしなさいな。そうすれば、お父様はお喜びになるし、王はもちろん、民も幸福になれるのだから」
優しい。
「風邪など引かないようになさいね。そんなことになれば、神の御言葉を賜れるようになるまで、もっと時間がかかってしまうのだから」
優しい。
「長い間大変な思いをしているのに、なかなか進展しないものね。やっぱり、あなたに私達を思う心が足りないのではないかしら。国を、民を、そして私達家族を守りたいと思えば、こんなに長い時間はかからないと思うの。そうねぇ、あなたもそろそろ年頃だもの。誰かと結婚させましょうか。あなたも恋でもすれば、自分ではなく誰かを大切に思うことができるようになるかもしれないじゃない。あなたはちょっと、自分勝手だものねぇ。だってこんなに皆があなたを大切にしても、あなたはちっともその音を返さないのだもの。ああ、でも大丈夫よ。お母様がちゃんとお父様と一緒にあなたが皆に尽くす優しい心を持てるよう考えますからね。今からお父様に寝酒を持っていくの。だから一緒に、あなたのこれからについてもお話ししてくるわ。あなたは早く身体を温めて、風邪を引かないようになさいね」
きっと、優しい。
けれど私は、その優しさを受け継ぐことはなかった。だって私は、一つだけ秘密を持っている。たった一つだけ、されど決して許されてはならない。そんな秘密を。
視界の端を、小さな鳥が飛んでいく。満天の夜空で形作ったかのような身体を持った、小さな鳥だ。夜なのに惑うことなく、自由自在に飛び回るその不思議な鳥を視線で追う者は誰もない。誰一人、鳥の存在に気付くことはない。
私は神の御言葉を賜ったことはない。けれど、御姿を知らないと言った覚えは一度もない。御姿を拝見したことがあるかという問いに、応えなかっただけだ。
この鳥が我らの神の御姿だと、聖女である私だけが知っている。
けれど私は、どうしてだかそれを、誰にも伝えられずにいた。
母の言葉通り、それからすぐに婚約者が宛がわれ、式の当日まで一度も会うことなく私は結婚した。
『アリアドナ』
私の家に婿入りした結婚相手は、誰も呼ぶことのない私の名を呼ぶ、とても優しい人だった。
本当に、優しい人だったのだ。
水に浸かり続ける私に飛びあがって驚き、慌てて毛布を持ってきた。ずっとこうしているのだと聞けば、泣いていた。毎日私と共に水場へと訪れた。誰も見ていないのだから構わないよと、私を水へ入れまいとした。甘いお菓子、温かなお茶、美味しい料理。人懐こい彼は気難しい屋敷の者達から大層気に入られ、そういった物をどこからともなく手に入れてきては私に与えてくれた。
屋敷からの抜け道を見つけては私に教えてくれた。私を外に連れ出し、外を、見せてくれた。
この人になら、神の存在を話してもいいと思った。話したかった。話を聞いてほしかった。私を知ってほしかった。誰からも顧みられることがなかったのだと気付いた私の心を、知ってほしかった。
彼が生きる国を守りたいと、初めて思った。彼の未来を、彼と生きる未来をこの手で守れることが誇らしいと。心の底から思った。仲睦まじいと評された結婚相手が戦場で死ねば、蘇らせようと神を降臨させるのではないかと、神官長が彼を殺すまでは。
いないのだどれだけ探しても彼がいないのだ他の血肉はこんなにも転がっているのに敵兵も自国の兵も神官長もお母様も民も獣も全部全部全部全部全部血肉になって大地を染めて臭いを放っているのにどうして彼がいないのだろう誰かの肉塊へ小鳥が舞い降りたこれだけ血肉が積み重なった場所へ降り立ったというのに小鳥には汚れ一つついていないいつも見ていた小鳥宙を纏った不思議な鳥は私にしか見えない神の御姿神の前へ膝をつきその御姿へ触れる神は美しかった本当に本当に美しかった神を握り潰し口を開ける神は美しい本当に美しい
本当に 美しいだけだったのだ
私の中の、誰かの記憶。私の中の、十二神の誰かの記憶。私の中にある、神を喰らった、誰かの記憶。
神を喰らいその力を奪った女が、新たな神になろうと用意した最後の鍵。その鍵が私の中にある以上、私の中には十二神の残滓がある。女の記憶が、女が喰らった神によって私の中に齎されていた。
「……あれが、始まりの聖女アリアドナ」
呟き初めて、私は私の声を自覚した。声を自覚し、思考を認識し、自己を把握する。
そうして、真白い世界で私は目覚めた。横たわる身体は、全身が水に濡れている。白だけが平坦に続いていた世界に、水が溢れていた。
緩慢な動きで身を起こす。あれだけ軋み、感覚の無くなっていた身体の何処にも不具合を感じない。
視界の先では、どこまでも続く世界に水面が広がっている。白しか存在しない世界を映す水面には、私が齎した波紋が流れていった。
私以外の二人は、未だ目覚めない。
私の前には、エーレとルウィが横たわっている。呼吸をしているかは、定かではない。けれど消滅していない。その事実があれば充分だった。
しばらく動かなくなっていた腕を伸ばし、エーレの頬にかかった髪を耳へとかける。エーレの髪は、真っ白に変わっていた。染まったのではない。エーレの髪は最早、あの柔らかな新緑を抱くことは二度とないのだ。
私の周りにも真っ白な髪が広がっている。私の動きに合わせて揺れる白い髪は、私の物だった。
髪を見た後、自分の身体を見下ろす。いつの間にか服が失われていたので、身体の確認がしやすい。
身体のどこにも罅が見当たらない。手足も自由に動かせる。しかし、胸元に咲いた石の花だけが広がった範囲をそのままに紋様へと姿を変えていた。
紋様を指で撫でてみる。傷ではないようだが、入れ墨でもないのだろう。神はそのような手段を用いずとも、この身へ刻印を刻めるのだから。
二神の御姿は見えない。それでも確かに存在を感じ取れる。
「――私に、何を為さったのですか」
『お前の中にある あれが纏めた十二神の源 そして その子らの命を混ぜ合わせた』
最早ハデルイ神の声が音として届くことはなかった。けれど、分かる。理解できる。
それは、私が彼の方へと近づいたからだ。
私の中に十二神の力を感じる。私の両手が風を呼び、風から水が溢れ出す。私に存在しないはずの神力が、この身に宿っている。
『お前は神ではない 人形は神となれず 元よりお前は器としての機能も失った だが この世で最も神に近しい身である事実に変動はない 人の規格より大いに逸脱した命二つがあれば お前を神の代理へ召し上げる程度造作なきことよ 故にこれより お前は神と呼ばれるであろう』
確かに、人形であったこの身が、神々に近しい気配を放っている。自分から神気が溢れる様に違和感は抱くが、重要なのは有り様の変化ではない。
「…………二人は、どうなりますか」
目覚めない二人の頭を水に浸け続けていることがどうにも出来ず、とにかく頭だけでも私の足に乗せる。足が二本あってよかった。
『最早人として死ぬことは罷り成らん お前の消滅と共に 消える定めと相成った お前に身を捧げた贄だ 一際の寵愛を授けよ』
「……そのような理由なくとも、愛した命にございますれば」
俯くことのない私の頬を、涙が滑り落ちていく。エーレとルウィの魂が人の枠組みから外れてしまった悲しみは、筆舌に尽くしがたい。けれど私は俯いてはならない。この件で、彼らに謝罪することはあってはならないのだ。
「エーレの肉体は、アリアドナにより心の臓を砕かれました」
『命が死を認識するより早く お前が開いた世界へ匿われた 命が途絶えていないのであらば 肉を修繕するなど造作もなきことよ』
ほっとして、エーレの頬へと触れる。この手に触れる温度は、彼の肉体が放つものなのだ。
『お前には 人の子を贄とし喰らった神の概念が付与された お前は未来永劫 そうした神として在り続ける ――――故に 申したのだ 愚かな人の子らよ
哀れな 人形よ』
神の声は、深い悲しみに満ちていた。
『人は お前の中に神を見る お前は 人の中に夢を見るというに ……理解しておるのか 我は残滓すらも消滅する あれと対峙する汝らへ 何一つとして手を貸してはやれぬのだぞ あれも哀れな人の子よ だが最早人の子にあらず されど神にもなれず あれが十二神の力を得たとて 生まれるはただただ力を宿した悍ましき穢れの集合体よ よって排除せねば人の子らの先はない 出来るか 人形よ お前に 人の子らに あれを消滅させる未来が思い描けるか』
案じている。自らの手を振り払った人の子らへの怒りや失望はどこにもなく、ただひたすらに、神は人の子らを案じ続けている。もうずっと、自らの死後ですら、一時も途切れず。
優しい、神なのだ。本当に、優しい神なのだ。
十二神中最も力を持った、水を司るハデルイ神。アデウスを国として成り立たせ、数多の命を育み続ける霊峰の主。
人が、まだそれを覚えていた時代。老いた人の子らが神を祀った霊峰を登れなくなった事実を嘆き悲しんだ声を聞き、自らの麓へと下りてきてくださった方。
人がそれを忘れ、あなたの神殿を塵溜めとし、スラムとまで貶めて尚、その怒りを人へと向けずひたすらに案じ続けてくださった、敬愛すべき我らが神よ。
この神に悪意など存在しない。神が私をスラムで生み落としたのは、スラムの地が彼の方を祀っていた神殿だったからに過ぎなかった。
『何もしてはやれぬのだぞ 最期に抱えた力とて使い果たした 何もない 何もしてやれぬまま 我にお前達を あれの前に放りだせと申すか あれだけ人を愛したお前を 人を喰らった神として手放せと申すか』
遍く全て、一切合切を人が為の物だと思ってしまうのは、人の悪い癖だ。
神は人の都合で変容しない。神は神のまま、時に人と都合が合うだけ。神は人の為に存在しない。
それなのにこの神は、自身に出来る精一杯で、人に寄り添い続けてくださった。ただ命を守るだけでなく、神に出来る精一杯で心まで守ろうとしてくださった。
こんなにも優しい神は今、嘆きの中で消滅しようとしているというのに。
『ほんに随分、人らしくなった それほど人に近づいたお前に 人を喰らわせた我を恨め』
「――いいえ、いいえ神様。我らが敬愛するハデルイ神よ。私を創り出してくださったこと、深い感謝を……心より、申し上げます」
『……心嬉しい 日々であったか?』
「はい。目映い日々で、ございました」
『すまなかった 物のまま 死なせてやれなんだ』
いいえ神様。私は幸せでした。ずっと、あの人と出会えたあの日からずっと、あり得べからざる幸いの中にいたのです。
『お前も すまなんだ 幼き同胞よ』
「かまいやしないよ。ぼくはいのちのためにうまれようとしていたかみだもの。そのこらのねがいをきりすててうまれては、ぼくのいみにはいちするのではないかしら」
小さき神の声がした。
「ああけれど。すこしだけざんねんだなぁ。ぼくも、きみたちがあいしたせかいをみたかった」
『なに 此奴らがあれを消滅させさえすれば 器を用意する必要もなくなる お前は常の神同様に時を懸け 自ら世界に確立した時間を証とし 生まれるであろう』
「そうだね。ああ、たのしみだ。……そこにきみがいないことが、すこし、さみしいけれど。きみをとどめるすべは、ほんとうになにもないのかい?」
『我の消滅を持って 十二神の怒りと怨みが充満したあの地を閉じねばならぬ 人の子に喰われたあの者らの憎悪は凄まじく 神の変質は世を滅ぼし 時すら歪ませる あの呪いを 人の子らの生きる今へと放出するわけにはいかぬのだ 既にあの地に残る十二神の残滓が 時折その人形へ漏れ出していたというに 我はあの墓地とこの身を連動させた 我の消滅は あの憎悪の消滅である』
ハデルイ神の言の葉が掠れていく。
白い世界に罅が入った。罅は凄まじい速度で広がっていく。
「ああ、そうか……では、これでおわかれだ。さようなら、いだいなるハデルイ。こころやさしき、わがどうほうよ」
『さらばだ この地で初めて人の姿を模る神となった 我が同胞よ』
小さき神の気配が遠ざかる。この場を去ったことがはっきりと分かった。この場に残る神の気配はもう私の物しか感じられないほどに、ハデルイ神は終わりを迎えようとしている。
「……ハデルイ神、あなた様に願いはございませんか。我々は、あなた様へ何一つ報いることが出来ていないのです」
最後の最期まで人の為にその身を使い続けてくださったこの御方が、誰にも知られず消えてしまっていいわけがない。人がそれを忘れても、受けた恩まで消えるはずがない。
私の願いは、きっと烏滸がましいのだろう。この思いは同情などでは決してないけれど、それでも、この御方には報われてほしいのだ。
私を生み出し、私が愛する人々を愛してくださった神様を、誰か、どうか、救ってほしい。
無数の細かい罅から、白い世界が降り注いでくる。割れた世界の向こうに、宙が見えた。どこまでも果てしなく広がる宙の中に、数多の神が創りし星(世界)が瞬いている。
『マリヴェル』
驚きに、目を見張る。お父さんからもらった名を、ハデルイ神が音にしたのは初めてだった。
「私の名を、御存知だったのですか?」
『無論よ 命を愛する我が よもや自身が創りしお前を 愛さぬはずがないではないか 一際可愛いに 決まっておろう』
こんな状況なのに、ハデルイ神は心外だと言わんばかりの声を上げた。
『よい名を もらったものだ ――――定めを帯びぬ存在と生み出してやれず すまなんだ 我からしてやれることは もうないが』
「……わ、たし、も、私もっ、心より、お慕い申し上げて、おります」
御姿どころかその気配すら感じ取れぬほどだったのに、どうしてだか、ハデルイ神が笑ったような気がした。
白い世界が無数に降り注ぐ。その景色は雪降る夜のようだったのに。
『永劫人の子らに愛され どうか 幸いであれ』
我が子よ
ハデルイ神の世界は、最期まで温かかった。