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「人の子よ。通常命とは、肉の身を破壊されれば、時を同じくその魂もまた個を失うものだ。それをお前はそれの世界に滑り込んだ上、我がそれの稼働を停止させる度に再稼働させおってからに……お前が持つその力は、それの核に鼓動を与える為にあるのではないのだぞ」

「俺の力を俺がどう使おうが俺の勝手だ。そして以前にも言ったが、俺の聖女をそれ呼ばわりするな」


 エーレがここにいる事実を私の感情は未だ飲みこみきれていないのに、エーレは既に会話が可能な状態のようだ。しかも相手は神なので、エーレはどこまでいってもエーレなのだと再確認するより他にない。

 惚れ直すべきなのかもしれないが、最早ここまで来ると諦念か呆れの感情を抱くほうが正しい気がしてきた。憧れを抱くのはちょっと駄目な気がするので、そこはとりあえず保留したほうがいいと思っている。


 私が言うのも何なのだが、神を相手に平然と会話を繰り広げるエーレと王子を人間と呼んでいいのか、若干迷う。

 ハデルイ神におかれましては、この二人で人間の基準を量らないでいただければ人類にとってかなりの幸いでございます。


「それはそれであろう。ほんにお前達は、我の人形を命のように扱うのだから困り者よ」

「仮令神であろうが、我らがアデウスの聖女をそれ呼ばわりは許されない。始まりは人形であれ、神官長が名付け、神殿が育て、第一王子である余が友とした。そうして心を得た存在を命と呼べないのであれば、この世にある全ての存在が命と定義されることはないだろう」

「それを命と定義すれば、お前達があれの執念より生き延びる術を我は与えられぬぞ。それでもよいと言うのであれば、我も少しは考えよう」

「マリヴェルを贄として生き延びる世界など願い捨てだ」

「アデウスの王子としてはその意見に反するが、聖女の友としては同意見としよう」

「王子、人が死んだ瞬間、人の妻に言い寄る行為は道義に反しているのでは?」

「エーレよ、通常人は、死ねばそこで終わりなのだ。よってその後は、生きた命の独壇場であろう? まあ余に言い寄った記憶は皆無であるがな!」

「マリヴェルに捧げると仰った愛の中から省かれていたのは恋愛だけで、性愛が省かれていなかったように思いますが」

「まあ、余も男であるがゆえにな?」

「王子、リシュタークの離反を覚悟の上でのお言葉でしょうか」

「そもそもはそなたの死が発端だと思うがなぁ」

「神をのけ者にするなど、傲岸不遜この上なし。だが構わぬ。幼い命は自由奔放であることこそが健全の証であろう」


 いつの間にか応酬の対象者から外された神の声が笑っている。ハデルイ神は命をこよなく愛した神だから、命による大抵の不遜は許される。

 核が砕けてからずっと、今までとは比べものにならないほどより深く、世界を見渡す神の権能が私の中に馴染んでいた。だからこそ改めて理解できる。その権能は、この空間に許された当初より更に強くなっていた。

 だからこそ、十二神の中最も力あるハデルイ神があの神喰らいの女に勝利を許してしまったその事実が、神の愛ゆえの結末だったと、今ならもう、分かるのだ。


 ハデルイ神ならば、あの女を滅することは可能だった。

 だが既に十一神を喰らった女の力は、当然尋常ではなかった。ハデルイ神とぶつかり合えば、その煽りをくらうアデウスが保たなかったほどに。

 争いの余波で死ぬ命を、あの女は一切考慮せず、神は守った。その違いが勝敗を分けた。

 人であった女は同胞の命を質にとり、神はその質を見捨てることはしなかった。その結果、女は残り、神は死んだ。

 人であった女は自身を守り人を殺し、神は人を守り自身を殺した。

 ハデルイ神はそういう神であってくださったのだ。人が救いを求めたとき、真っ先に浮かべる神は、きっとこの御方の姿をしている。

 この御方はご自身の死を以てしても、人を愛し続けてくださった。今尚死した自身を眠りにつかせることも、殺した女を憎むこともなく、ただただ人を守り続けてくださっている。

 本当に優しい神であらせられるのだ。

 そんな神を、人が殺した。人が忘れ去った。既に終わった神として人が忘却した後も、その身勝手を許し、守り続ける。本当に、恐ろしいほどに優しい神なのだ。

 私はそこまでして人を愛し、守り続けてくださっている御方に、人の子を贄にしてほしいと願っている。許される道理は初めから存在しない。

 この御方が私を砕かんとしているのは、何も悪意や憎悪ではない。ただひたすらに人の子を死なせぬよう、最善の手段を取ってくださっているだけだ。

 それを受け入れられない人の子らと、悲しいと思う私の浅ましさがなければ、アデウスはもっと簡単に救われたのだ。


「人の子らよ。我であれば、お前達の世よりあれの排除は可能であるぞ。それでも何の役にも立たぬその人形がよいのか? もっとよい玩具を幾らでも創ってやると言っても聞けぬか?」

「玩具など端から求めてはいない。俺は玩具としてマリヴェルを欲しているわけではない。仮令世界と天秤に懸けられても、マリヴェルと引き換えに出来るものなどありはしない」

「お前は強者であるがゆえそう思うのであろうが、弱き者はその決断を嘆くであろうな」


 エーレは開きかけた口を噤んだ。それは答えに詰まったわけではない。この言葉に応えるべき人物が他にいたからだ。


「そうは仰るがな。人は怠惰と堕落が基本ゆえ。直接的な救いは、次なる脅威に立ち向かう気力を散らしてしまう。絶対的な救いがあれば、弱き者ほど縋ってしまうものだ。御身による救いは、脅威や困難に対し、自身で立ち向かう心を支えてくださるだけで充分すぎるほどだ。それ以上となれば、アデウスはこの脅威を乗り越えたとて、明日が潰えるであろう。人の脅威は人自身が取り除かねば、国を繋ぐは不可能だ」


 誰かがなんとかしてくれる。だって前もそうだった。

 そう思ってしまった瞬間、人は目を瞑り、息を潜め、耳を塞ぎ、災厄が通り過ぎるのを待ってしまう。誰かが脅威を倒してくれる瞬間を待ち続けてしまう。

 その結果、自ら立てる者が、立たねばならぬ者だけが傷を負い、命を失い、数を減らしていく。そうして、蹲る者だけが残る国が歴史を繋いでいける道理はなかった。


「神よ、分かっていただけぬか。何も余は、友可愛さに御身の策を拒むわけではない。国には誰かがやらねばならぬ責務、そして誰もがやらねばならぬ義務がある。アデウスの王となる身である余は当然その責務を負っているとしても、大なり小なりアデウスに生きる全ての命が担うべき義務があるのだ。余はアデウスの王子として、民からその義務を取り上げるような真似はできぬのだ」


 神とエーレと王子。三者の会話に違和感を覚えた。何か、途中から会話の前提が変わり始めている。


「人は弱い。それが基本形なのだ。故に群れる。群れという名の国を作るのは、一個体では生存できぬほどに弱いからだ。弱い故に、全員が何かしらを担わねば国というものは回らん。国の存続には、それらの維持が為に個々人が何かしらを割かねばならぬ。しかし弱さが基本の人間は、すぐにそれを忘れる。無意識を騙った自意識により、一度知った楽へと流されたがるのだ。義務を果たさぬ個体が増えれば、義務を果たす個体が死ぬ。その結果は、人間の歴史を知る御身が余より余程御存知であろう」


 いつかの時代に生まれた英雄を頼りに現在を過ごし、未来を望むは簡単だ。

 そうして過ごした先に、本当に未来が残るかは定かではないだけで。


「神よ、人を愛してくださるというならば、矮小なる人の身から義務を取り上げてはくださるな。民の預かり知らぬ場所で回避された危機ほど甘やかな絶望はなく、緩慢な亡国への道程は存在し得ぬのだから」


 王子の要求が、私を人形ではなく命として砕く認識への変換から、神の策を拒む方向へはっきりと変わっていた。

 幾度も砕けたはずの私の稼働核が、妙な速度で脈打っている。人の子は心臓と呼ぶそこが、異様な音で。


「ハデルイ神」


 エーレの声に、私の稼働核は一際大きな音を立てた。


「俺達の為と言うのなら、俺達の願いが叶うよう力を貸してくれ。それが出来ないと言うのなら……俺達の願いが叶うよう、祈ってくれ」


 それは明確な、神との別離だった。






 悲鳴を上げそうになった。引き攣った、断末魔とも呼べる悲鳴が私の口からエーレの名前として音になろうとしていたのに、いつの間にか私の手は自らの口元を押さえ、俯いていた。

 酷く震える手では、がちがちとぶつかり合う歯の根を止めることも出来ない。しかし全身がその状態なのだから、何をしたってどうしようもなかった。

 見開いたままの瞳から、夥しい量の涙が落ちていく。

 今すぐエーレの言葉を撤回し、神に許しを請わねばならない。けれどこれは人と神の問答だ。元より人ではなく、そして人形ですらなくなった私が口を挟んでいい問題ではない。

 神の決定に抗うことは勿論、人の選択を妨げる権利も、持ち得ないのだ。

 それに、私に何が言えるだろう。エーレが抱く絶望を理解してしまったこの身で、一体何を。自分は堕ちた厄災と化した癖に、それだけの絶望をエーレに乗り越えろと、どの口で。

 最早何物でもなくなったこの身では、神の怒りを代わりに受けることすら出来はしない。

 私に出来ることなど、もう、どこにもなかった。

 







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