90聖
起動権限解除
全感覚及び自己認識消失
物質的個体稼働停止。個体温度低下
後、再点火
後、個体温度上昇
後、個体温度維持
後、再起動
意識と稼働権限が解けた感覚が未だ残る身体に、熱が灯っている。熱く、けれど温かな熱の知覚により、私は私という個を感知し、自覚した。同時に思考が再開される。
おかしい。私が在る。これはとんでもないことだ。尋常ではない異常だ。
私という個は廃棄、そして器は粉砕後、使用可能部位と不可部位に分別されているはずなのに。
私の中にある十二神の力を解放するための鍵も、そうして回収されるはずだったのに。
初代聖女が現在のアデウスに聖女という概念を作り上げた。その際、一度では己がものと馴染ませ切れなかった神の力を十二回に分け、それらを魂に馴染ませる術式を組んだ。
問題は、馴染ませた力を次の生へ繋ぐ方法だったのだろう。殺してしまえば奪える形ならば手っ取り早いが、それを定義づけてしまえば自身にも適用されてしまう。
己が殺され、それ以外の者がその力を手に入れてしまっては意味がない。それまで蓄えた神の力が殺害相手へ渡ってしまえば、取り返すために殺すことも難しくなる。
次の生を始め、聖女選定の儀へ出られるようになるまでの条件は分からないが、歴代の聖女就任期間を見るに統一されていないので、彼女自身も制御しきれていないのだろう。
だから初代聖女は、鍵の移行を所持者の死ではなく自壊のみと定義した。自壊後、神の気配を纏った存在が聖女選定の儀を行った際にのみ、その鍵を移行させることとしたのだ。
事故及び殺害による死が計画の致命的な狂いを生むのだから、当然といえば当然だ。
だがその定義が、結果的にアデウスを延命させた。彼女の十三回目の生を待たず投入された、神に創られた人形が十三代目聖女と成ったことで、計画を守るために定めた定義が彼女を縛ったのだ。
しかし、そうまでして彼女が回収しようとした鍵は、私の完全なる自壊を待たず神が回収してくださったはずだ。後は私の中から使える破片を篩にかけ、ルウィを器として再構築する過程の繋ぎにすれば、最終的には神の描いた結果が紡ぎ出され、アデウスは救われる。
私とルウィの消滅を以て、神が全てを治めてくださるだろう。
そう、思っていたのに。
どうして私の意識は未だここにある?
どこかぼんやりと漂うだけだった思考が改めてその疑問へと到達した瞬間、私の聴覚は音を捉えた。それは外界の音であり、自己以外の音であり。
互いに友と呼び合った、命の言葉だ。
「まったく、異な場所よな」
ルウィの声がした。ルウィの声と、その生体音しか聞こえない。
その事実で、現状を把握した瞬間に飛び起きた。どうやら私を抱えていたらしいルウィのおかげで、稼働限界が来た身体でも飛び起きることができた。
「どうした、マリヴェル」
地面に平伏した私に、ルウィの声が降る。私は額を地面に、これを地面と定義していいのかは分からないが、侍従を乗せる場として機能している平らな空間に額をつけたまま、口を開く。
「この空間において、私は面を上げる行為を許されていません。ここはハデルイ神の世界。許されるのは、ハデルイ神と同等の立場である神々、そしてハデルイ神が愛した命。一被造物に過ぎない私は、あの御方の許しなく面を上げることは罷り成りません」
同じ無音の真白い世界でも、私の小さな丸い場所とは存在自体が異なる。あれは確かに私の世界だったけれど、私の世界はこの広大なハデルイ神の世界の片隅に存在していた。
あの御方が創ったから、あの御方が所有する世界の隅に在る。ただそれだけの理由しか持たない私には、この空間での存在を許されていない。
透明な膜一枚。それがなければ、私にはこの空間に存在していい理由がなかった。
聴覚でしか周囲を把握することはできないが、ルウィの気配しかないこの世界はいま、凪いでいる。それはハデルイ神が御姿を現わしておられないこと示していた。今ならば言葉を発しても許される。
「ルウィ、怪我はありますか?」
「寧ろ、擦り傷に至るまで消えている」
「成程。体感としてどのくらいここにいますか」
「さてな。数分のような、数年のような。最大限曖昧さを駆使したところで、判断できるのはその程度よ」
果てなどない、無音の真白い世界。動植物は勿論、風も水も存在しない既に死した世界。そこで平静さを保てている現状が、ルウィが王子たる所以だろう。神々の墓場に墜とされればまた違っただろうが、あの場所は本来、人が認識していい場所ではない。未来永劫、誰一人として知るべきではなかった場所だ。
ルウィがこの場にいる理由は分かる。神は民の祈りを聞き届けてくださったのだ。だからルウィをこの場へと召し上げた。
神だけが抱ける空間にルウィが召し上げられた理由は分かるのだが、それならば私が私という個を保ったままこの場に存在しているわけがない。神と人の繋ぎとして砕けていなければおかしい。それ以外で、私がこの場での存在を許されるはずがなかった。
真白い世界に、深く重い音が響き渡った。それは溜息と呼ぶには嵐のようで、ただの風と呼ぶには思考が滲みすぎている、神の吐息だった。
「――さて、如何様にすべきか」
ハデルイ神の声から機微を察することはできない。機微どころか、大きく最も重要な、この方がどのような判断を下すかまで何一つ。
「人の子よ。数多の命が為その命擲った献身、賛美に値する。このハデルイが褒めてやろうな。よい子だ」
「……御身は、我々アデウスの民がハデルイ神と認識している御方である。そう判断してよろしいか」
「如何にも、人の子よ。我は嘗てこの地に在った十二神が一つ、ハデルイである」
王子が体勢を変えた衣擦れの音がした。その姿を見ることはできないけれど、容易に想像がつく。相手に敬意を払いつつも決して背を曲げず、瞳も揺らさない、まるで揺るぎない大樹のような青年。
そこにいるのは、この日この世界、時代が用意した国の守り人が一人。
アデウスの第一王子だ。
「ならば申し上げよう。御身による賛美は有り難く。だがその賛美、我らアデウスが愛した聖女を贄と捧げた判断にこそ賜りたい」
びくりと震えた身体を、それ以上動かさないよう必死に止める。大丈夫、ハデルイ神は人の子にはお怒りにならない。だから、大丈夫。大丈夫だと、何度も身の内で繰り返す。
再び重い吐息が、果てのない空間に広がっていく。
「お前もあの子も賢い子であるというに、どうしてこうも聞き分けがないものか……。まあよい。人の子は欲に塗れているくらいが丁度いい。そうでもなければ少々儚すぎる」
ハデルイ神の御言葉でルウィへの許しを悟り、ほっと、震えを抑え強張っていた肩の力が少し抜けた。この御方が万が一でもルウィ、達に、怒りという感情を抱けば、それを知覚する間もなく私達は消滅している。
そうと分からぬ人々ではないのに、ルウィも、――――――エーレ、も、簡単に、この御方へ言葉を、要求を、感情を、向けてしまうのだから、堪らない。私はいつだって、エーレ達の消滅が震え上がるほど恐ろしいのに。
恐ろしかったのに。
今でも、こんなにも、恐ろしいままなのに。
「人形」
「は」
ルウィ達へ向けていた声音とは根本的に違う、重くのし掛かる声が私に降る。
「我が命じたは、人の子が為散る任であった。しかし数多の人の子が人形が為散った罪、どう贖う」
「…………贖いようも、ございません。私という存在を未来永劫業火に焼べて尚、許されぬ大罪にございます。――しかし、しかしどうか、神様。最早許されぬ大罪を犯したこの人形ではございますが、どうか、そんな愚かな人形の為に散ってまで、アデウスを、民を守らんとしたあの方々の献身を、どうか汲んではいただけませんか。どうか、どうか切に、切に、願い奉ります」
擦りつける額に力を籠める度、私の破片が落ちる音がする。額を割る程度では許されない。私の何を割ってでも許されるはずはない。神は人形の願いなど聞き届けてはくださらない。
だが、その願いの為に散ったあの人達の献身が、あの人達の終が、無として散ることだけは。
それだけは、どうしても。
石が割れたような、高く澄んだ音が響き渡る。重い。空間に存在しているかも定かではない空気が、重く厚い。
さっきの音は、神により放たれた重圧で私の首が割れた音だ。
まだかろうじて繋がっているのは分かる。だって落ちきっていない。まだ、顔についた器官を動かせる。
「どの口がそのような世迷い言をほざくか、がらくため。このハデルイの命を破っただけでは飽き足らず、命を苗床に巣食った寄生虫が如き蠢きの末ここにある分際で、よくも浅ましき願いなど抱けたものよ。人の子らの願いは我が叶えよう。だが人形、お前はこのまま砕け散れ」
願いの成就も救いも見るは叶わず、ここで朽ちるが私への罰だというのなら。
「仰せのままに」
喜んで無へと還ろう。
そうして私は、私の核が砕け散った音を聞いた。
起動権限再解除
全感覚及び自己認識消失
物質的個体稼働停止。個体温度低下
後、消失
後、再点火
後、個体温度上昇
後、個体温度維持
後、再起動
起動権限再解除
全感覚及び自己認識消失
物質的個体稼働停止。個体温度低下
後、消失
後、再点火
後、個体温度上昇
後、個体温度維持
後、再起動
起動権限再解除
全感覚及び自己認識消失
物質的個体稼働停止。個体温度低下
後、消失
後、再点火
後、個体温度上昇
後、個体温度維持
後、再起動
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全感覚及び自己認識消失
物質的個体稼働停止。個体温度低下
後、消失
後、再点火
後、個体温度上昇
後、個体温度維持
後、再起動――――――――――――――――――――――……
私の視界いっぱいに、真白い光に焼かれぬよう落ちた、日陰のような色が見えた。
ルウィだ。私は私を抱える肩越しに、真白い世界を見ている。
まるでさっきの再現だ。さっきのさっきの再現だ。さっきのさっきのさっきのさっきの――。
「――――え?」
私が上げた間の抜けた声に、ルウィはその頬を膨らませた。次いで。
「はははははははははははははははははは!」
腹と私を抱えて笑い始めた。
「は?」
そして世界を揺るがす重たい吐息が、やはりハデルイ神から放たれた。
私は許しなく面を上げることはできないけれど、ひっくり返された亀のように仰向けだった為、視線は無意識に吐息を発したハデルイ神を向いていた。
そこには牡鹿の姿をした私の神がおわす。
巨大な角を持った牡鹿だ。しかし形状は牡鹿であっても、確実に動物と違うと断じることができる。それは気配やこの場所にいらっしゃることが理由ではない。
牡鹿は本来ならば骨の上にあるはずの肉を纏わず、宙を纏っていた。纏っている深い夜空に瞬く星々が、その身体の中に渦巻く。
しかしその美しい宙はところどころ大きく損なわれ、内の骨を露出させている。顔も半分溶け落ち、大きな角が頭蓋骨と繋がっている様がはっきり見えてしまうほどに。
そうして宙より遙か遠い眼が、私を見ている。
「あ」
顔を、伏せなければ。そう思うのに、思考がうまく動かない。
私は確かに起動権限が取り消された。それなのに何故。さっきも、そう思ったのは、何故?
一度ではなく、何度もそう思ったような気がするのは。
「神よ、諦めてはくれまいか。始まりは御身が我らに与えた人形であれど、マリヴェルは人が育み人とした。御存知であろうが、我らは生み出すことに長けた命。確かに我らアデウスは、神の器を生むは叶わなかった。だが人は、余の民は、彼女の終を命と定めたのだ」
何を、言っているのだろう。ルウィは一体何を。
「御身が余の前でマリヴェルを砕いた数え切れぬ回数に劣らぬほど幾度も、激しい執着と欲を以て、決して折れぬ意志で願い続けた」
何、を。
「最早マリヴェルは、人の願いの結晶だ。余の友を人形として砕くことだけは許容出来ぬ。命を愛し、命に愛された彼女の結末は、余と共に人としてアデウスの礎となる。それがアデウスの総意である。我らが人を愛してくださった神と名高いハデルイ神よ。どうか、我らの願いを無碍に捨て置いてくださるな」
私の核が熱い。私の核は幾度も幾度も、幾千回幾万回、数えきれぬほどに潰えた。その感覚は確かに刻まれている。それなのに何故、私は潰えていない?
息が、おかしい。もう先程のような重圧は感じないのに、核が熱くて、瞳が熱くて、核が、まるで鼓動のように脈打つ核の熱さが、叫び出したいほどに苦しくて。愛おしさと、区別がつかないほどに、熱いのだ。
ハデルイ神は、ゆるりと首を振った。
「よもや、二度に渡り人の子に勝利を許すとはな」
ハデルイ神の、深い諦めを含んだかのような言葉と共に、私の中から私の世界が引きずり出された。その衝撃で、詰まっていた息と熱が吐き出される。灼熱の真空に放り出された如きの衝撃だったのに、私は目蓋を閉じることすらできなかった。
衝撃に煽られた私の髪と破片が視界を埋める。けれど、その隙間から世界が見える。
果てのない神の世界と根本からして違う、小さな小さな私の世界。色のない透明な膜に覆われた、この世で私に許された唯一の世界。
小さく丸い私の世界の中にいるその人は。
「それの中は随分小さきゆえ窮屈であったであろうが、お前も小さきゆえ、然程の苦労はせなんだか?」
「余計な一言は神の特徴か、それとも個々の特性か?」
ハデルイ神により取り出された私の世界にいるその人は、不機嫌そうな顔を隠しもせず、私を見た。
「マリヴェルお前、夫が死んだ途端王子と愛を誓い合うとは何事だ。大体いつも言っているが、お前と王子の距離感はおかしい。お前と王子より身分の高い存在がいない弊害で止められずここまで来てしまったが、本来ならば俺の個人的な市場を除いたとしても許されない。今もどう考えても近い………………マリヴェル?」
どうして。
思考も思いも、何一つとして音にはできなかった。
口だけが、はくりと動く。
うまく息ができない。うまくできないのに。全てが裏返ったあの瞬間から初めて、息ができたような気がした。
これは夢だろうか。否、そんなはずがない。ハデルイ神の世界において、人形に許された夢などありはしない。だったらこれは。この人、は。
「王子、マリヴェルを」
「ほれ」
熱が移行する。私の体勢を維持していた熱から、私の身の内で私を維持していた熱に移動していく。引きずり出された私の世界にいる人は、私の世界の中から私を受け取り、ゆっくりと抱え直した。
その瞬間、私は大きく口を開けていた。
「う、ぁ、っ、あ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!」
口から喉の奥、胸に至るまで全てが開いているような音が私の奥から溢れ出す。割れ落ちた腕がもどかしいと思うことさえできなかった。どうしてと思うことさえできなかったのに、そんなどうでもいいことが気になるはずもない。
だって温かいのだ。だって熱いのだ。
だってだってだって。
エーレ、が。
「……悪かった」
私を抱きしめるエーレは、彼にしてはとても珍しい、困惑が混ざる弱り切った声でそう言った。本当にとても珍しい声だったのに、私はその声を珍しがることもできなくて。
「死ぬつもりはなかったが……もし俺が死んだとしても…………お前をそれほどに打ちのめす事態になるとは、思わなかったんだ」
その言葉は、許せなかった。それまで意味のない叫びしか発することのできなかった私が、思考を開始し、言葉を発するほどに、どうしても。
「――っ、なたは、わ、わた、し、の、っ、いっ、いの、いのち、なのに」
それでも、出せた声は酷いものだった。たったそれだけの言葉を伝えるだけで、つっかえ引っかかり裏返り、しゃくり上げる嗚咽と声が同時に発生して酷く聞きづらい。
そんなものしか出せなかった私に、エーレはきっと息を呑んだのだろう。私を抱きしめる身体が震えた。
エーレは私を抱え直しはしなかった。けれど抱く力はさっきよりずっと強くなる。そして、深く深く吸った息を全て吐ききるような声で、言った。
「お前は俺の心だよ」
温かい。熱い。死んだ人の体温が、言葉が、感情が。それらに向かう私の全てが熱くて熱くて、苦しいほどに優しくて。
終わったはずの人がここにいる理由など何でもよかった。この瞬間が続くのなら、理由なんて必要ない。今この時が禁忌だと言われても、それを神が断じたとしても、私はきっと抗ってしまう。この人を終わらせない為なら、神に歯向かう禁忌でさえ恐ろしくはない。
だってもっと恐ろしいのは、この人を永遠に失うことなのだ。あの瞬間が、私の命が砕けた、憎悪に覆われた絶望がもう一度訪れる。それこそが、恐ろしくて堪らない。
でも、鼓動が聞こえない。こんなにも温かいのに、こんなにもいつも通りのエーレなのに、鼓動がどこにも存在しない。
「……悪かったとは思っている。そして意図してお前を苦しめたわけじゃない。だがな、マリヴェル。俺達の気持ちが分かったか。俺達はずっと、お前を失えばその絶望に沈むのだと何度も言ってきたんだぞ」
私達がいるのは、小さな小さな私の世界。この人を閉じ込めるには、あまりに矮小な大きさしかない世界。エーレにしがみつけない自分の腕に、初めてもどかしさを覚えた。
私の世界にこの人を止めておかないと、この人は霞のように消えてしまうかもしれない。彼は死んだのだから、それは当然の末路だ。
けれど神様。それが何だというのでしょう。この人の肉体が損なわれ、最早人と断じることはできない存在だとしても。それでもこの人はこうして温もりを持ち、言葉を発し、思考と感情を発生させている。
それなのに、この人が人としての定義から外れてしまったという理由だけで、人として扱わないだなんてできるはずもない。
――そう、皆、言ってくれていたのだと。
今になってようやく、唐突に、理解できた。できてしまった。私が今エーレに抱いた、思いと呼ぶにはあまりに強固で取り返しのつかない、まるで激情のような誓いを。皆は私に与えてくれていたのだと、叫び出したいほど分かってしまった。
ごめんなさいと、ありがとうと、嬉しいと、悲しいと、恥ずかしいと、申し訳ないと、居たたまれないと、苦しいと、悔しいと。自分でも最早どの感情と言葉が胸を突き破らんばかりに暴れ回っているのか分からない。
エーレがここにいる。エーレは温かい。それだけは、分かるのに。
このまま割れてしまいそうな激しい衝撃が私の中で暴れ回っている。けれど、そんな私の意識でも聞き捨てならない言葉をエーレが紡いだ。
「だが…………お前には悪いとは思うんだが、正直、お前が俺の喪失にそこまで絶望を抱いてくれたのは……結構嬉しいな」
なんてことを言うのだ。それは、あんまりだ。あんまりではないか。
もうどういう感情を抱けばいいかも分からないまま、ぐしゃぐしゃに濡らしたエーレの肩から離した顔をエーレに向ける。
私の首を案じてだろう。首の据わらぬ赤子のように私の頭を支えてくれている手に、例の一つも言えやしない。それどころか何か一言言ってやりたかった。何を言いたいのかは全く定まらなかったけれど、抗議の一つはしたかった。
「…………エーレ」
「…………何だ」
私が何度もしゃくり上げ、なんとかまともに言葉を紡げるようになる間、エーレは黙って待ってくれていた。
「凄い顔、してますよ」
「…………うるさい」
あ、違う。これは私の言葉を待ってくれていたわけではない。ふいっとそっぽを向いたその耳まで薄ら赤いことで、それを悟る。
「人のこと言えるのか」
「私がぐちゃぐちゃなのはエーレが戦犯ですし……」
「俺の顔もお前が戦犯だろう」
「えぇ……」
エーレはどこまでいってもエーレであった。当たり前だ。初めて会ったその時から、エーレはずっとエーレだったのだ。
どこまでいっても当たり前の事実が改めて胸に広がっていく。なんだかじっとしていられなくなって、そっぽを向き続けているエーレの耳裏へ唇を寄せる。未だ薄ら赤みを残す肌は他より熱いのかなと思ったけれど、その判断をする前に凄まじい速度で引き離されたので分からなかった。
「お前っ」
「エーレ、私、エーレが好きですよ」
「っ――知ってる!」
お父さん。ねえ、お父さん。見て、ねえ、お父さん。
この人、私の好きな人。
あなたが与えてくれた心で、私が好きになった人。
そう伝えることができていたら、あなたはどんな顔をしてくれたのでしょう。
エーレが滲む。滲んだままはらりと剥がれて、落ちる。だけど滲んだエーレはそのままで、またはらりと落ちていく。さっき治まったはずの熱い水はずっとずっと落ち続ける。
エーレは無言で、私を柔らかく抱き直した。
「エーレ……お父さん達が…………」
「……ああ………………お父さんと呼べて、よかったな。ずっと練習してきた甲斐があったじゃないか。お前を逃がせた時、神官長達がどれだけ誇らしい顔をしていたか、手に取るように分かる」
あなたを失っても稼働できる自分が呪わしかった。あなた達を失っても停止しなかった自分が惨めだった。あなた達を奪った女が憎かった。
何より、あなた達を失ってもどこにもいけない自分が、愚かしいほどに誇らしかったのだから、初めからもうどうしようもなかったのかもしれない。
それなのに、術がない。私はルウィと砕けるというのに、私の世界にエーレがいてはエーレも共に砕けてしまう。世界はこんなにも広いのに。どうしてエーレは私の世界なんかにその心を置いてしまったのだ。
その身が損なわれても、精神だけが離脱できたのであればそれは喜ばしいことだ。それは禁忌ではないが、誰もができることではない。エーレの強靱な精神が成し遂げた、奇跡に近い根性だ。
だがその奇跡の結果、消滅が定まっている私の中を避難先にしてしまっては意味がない。数多の命が誰も認識していない、世界と呼ぶことも憚られる。そんな神の権能のおまけで派生した世界以外に、選択肢は幾らでもあったはずなのに。
エーレが考える自分にとっての最善の選択は、いつも盛大にずれていると思うのだ。それなのに、それがどこまでもエーレで、もう怒る気にもなれなかった。
何より、今なら分かってしまう。私が抱いた絶望をこの人も抱いてしまうというのなら、いっそ一緒に砕けたいと願ってしまう気持ちが。
どこまでも、深く、理解できてしまった以上、私に何が言えるというのだろう。到底受け入れがたい事実に変わりはなくとも、そう思ってしまうのだ。