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89聖





 夜だ。夜が来た。明けることのない、夜が来た。

 恐怖を主とし、絶望を拠所とする深い夜が、アデウスに訪れた。

 神殿と王城を飲みこんだ大樹は、霊峰でさえも飲みこんでいく。根と枝葉は王都を夜に閉ざすだけでは飽き足らず、やがてアデウス全土を覆うだろう。


 城下町まで下りてしまえばもう、神殿も王城もその痕跡すら認識は難しくなる。大樹だけがその大きさゆえ、どこにいても視認できる。できてしまう。

 アデウスの民が逃げ惑う。巣をつつかれた蜂のような勢いだが、人々に敵意はない。あるのはひたすら、恐怖と惑いだけだ。

 建物の中にいるべきか、否か。王都を出るべきか、否か。何もかもが錯綜している。大人も子どもも、女も男も、者も物も。溢れ出した全てが暴走し、薙ぎ倒し、踏み倒し、倒れ込み、消えていく。子どもだけはと、この人だけはと、これだけはと、我だけはと。守ろうと、押しのけようと、消えていく。


 砂利より緻密に人が折り重なる大通りを外れ、王子は路地裏で一度背を壁へとついた。激しく呼吸が乱れている。王子がここまで外聞を取り繕えないのは初めてだ。

 無理もない。大地がうねり空が堕ちるこの状況下、逃げ惑う人々の中、走り慣れぬ女二人と荷物を抱えて走り抜けたのだ。

 王子の足元では、ベルナディアが地べたに座り込み、肺を患ったかのような咳をしている。最早荒い呼吸という表現では追いつかないほど限界を見せていた。そんなベルナディアと共にぺたりと座り込んでいるドロータは、息一つ乱していない。ずっと、ぼんやり虚空を見つめたままだ。

 大樹のせいか、命が駆けずり回る土埃のせいか。視界はずっと霞み、空気は濁り淀んでいる。そんな状況下で呼吸を整えるのは、少し時間が必要だ。


 正常な意識を保っている二人の息が整う前に、向かいの建物の裏戸が開いた。慌ただしくも恐怖より欲を取った目をした男三人が抱える鞄には、彼らが金目の物と判断した物体が詰め込まれている。何をしているのか、考えなくても分かった。

 王子が私を抱えたまま、剣を抜こうとした。それより早く、男達が倒れ込む。首元と喉を押さえ、地べたでのたうち回る。男達の手から離れた鞄から、彼らが掻き集めた盗品が音を立てて散らばっていく。


「――聖女、何をしておる」


 王子の声に応える意識が構築される前に、私の視線は大通りへと向いた。


「どけ!」

「死ねよばばあ!」

「神殿は何をしてるのよ!」

「邪魔だってば!」

「どいて!」

「平民は道を空けろ!」

「うわ、汚い!」

「当代の神殿はくそほどの役にもたたねぇじゃねぇか!」

「この、邪魔なガキなんざ殺しちまえ!」


 倒れ込んだ幼子が潰されぬよう、必死に覆い被さった母親を蹴り飛ばそうとした男が倒れ込む。隣を走る女の首から宝石をむしり取ろうとしていた女が倒れ込む。老爺から鞄をひったくった子どもが倒れ込む。建物に火をつけようとしていた人間が倒れ込む。

 人間が人間が人間が、倒れ込む。スラムから溢れ出した物も、王都に住まう者も、区別なく。

 あれだけ入り乱れていた人々の足が止まったのは、本能的な恐怖だろう。だってここにいるのは、神が授けてくださった命への愛を裏返した厄災だ。

 私の髪は意思あるかの如く不自然に波打っている。まるで生き物のような様に、嗤いがこみあげてくる。

 こんな物が命であってたまるものか。こんな物を人にするために、何が砕けたか。彼らが砕けてまで与えてくれた命がこんなものだなんて許されない。だからわたしはさいごまでずっと、物でなければゆるされない。


「聖女、さま……」


 大樹が夜を呼んでいる中、人々はへたり込んだ。無秩序な混乱を自ら益にしようとしていたものだけでなく、全てのものが、新たな恐怖に顔を引き攣らせ、一歩も動けなくなっている。


「マリヴェル様っ」

「お、お許しください、聖女様!」

「貴女様を忘れたわたくし共へのお怒りはご尤もでございます! ですが、ああどうかお許しください!」


 アデウスの民にとって、最早神も神殿も聖女も同じだ。同じだからこそ、こんなにも震え上がる。

 だが、私は怒ってなどいない。そんなもの、もう残っていない。まともな思考を抱く精神すら残っていないのに、最も心を消費する怒りなど抱けるはずもないではないか。

 顔を酷く青ざめさせた貴族の男が、震える声を上げる。


「あれが当代聖女だというのか!? あれではまるで」


 化け物じゃないかっ!


 その言葉への賛同は、私を見つめる人々の視線が語っていた。

 その通りだ。ひび割れた身体は血を流さず、裏返った神の愛を人へと向ける。命もないのに稼働していた私は、誰より善良なる人たらんと存在していた人々の命を吸って、その稼働を持続している。

 これを化け物と呼ばずして、何とする。


「我らが人である以上、愛する者を守ろうとその身を砕く存在を、化け物と呼んではならぬ」


 王子が言葉を発し、人々は初めてその存在を認識した。貴族の男が、その丸い体で転がるように王子の足元へ駆け寄る。


「お、おお、殿下! 我らがルウィード殿下ではございませんか! わたくしめ、ズタ男爵家当主カガーイと申します!」


 男は王子へ向けて手を伸ばす。しかし、見上げる過程で私と目が合い、慌ててその手を下げる。


「殿下! そのような危険な存在、捨て置いてくださらねば御身に危険が迫りましょう! この大事件、全ての元凶は先代聖女によるものと我らにお伝えくださったのは貴方様でございます!」

「王城と当代聖女の神殿は協力体制にある。そなたの発言、不敬罪と捉えるぞ」

「で、ですが!」


 いくら王子が気さくに見える対応を取るとはいえ、本来ならば余程の事情がなければ男爵の身分で王子に話しかけることなど許されない。ゆえに男爵は今、興奮状態にある。この非現実的な状況もまた、それらを後押ししているのだろう。


「あの禍々しき大樹をご覧ください! 当代聖女は先代聖女の不始末を神殿内に止められず、あの禍をアデウスへと溢れさせたのです!」


 何をすればいいのだろう。どこへ行けばいいのだろう。何を守ればいいのだろう。


「やはり我々アデウスの民には王城こそが全て! 王族であらせられる貴方様こそが、我らの導! 当代の神殿など、金を使ってばかりで大した功績もない! 国家への寄生虫だ! ゆえにこそ、我らの輝かしき太陽は貴方様方王族でございます!」

「その方、しばし口を閉じよ」


 あの人達によって形作ってもらったマリヴェルという存在は、あの人達を失ってまで稼働する必要はあるのだろうか。


「神殿など落ちて当然の無能の集まりでございますゆえ!」


 あの人達が守り続けてくれた聖女という存在は、何も救えはしなかったのに。

 あの人達が命を賭して守り続けたこの国の民は、善を、理を、簡単に投げ出してしまうのに。


「聞こえぬか。ならば素っ首、余が落としても構わんな」


 お父さん、ねえ、お父さん。


「……聖女、よせ」


 ねえ、エーレ。


「聖女……!」


 守られるべきは、生を紡ぐべきは。

 そうしてほしかったのは、あなた達だったのに。



 神の器を覆っているだけの表皮が、神の器を堕とした。私の身は、最早災厄そのものだ。その災厄が、私の身体から溢れ出そうとしている。それをかろうじて身の内に止めていた私の意識が曖昧になっていく。


 救わなければ。救わなければ。救わなければ。救わなければ救わなければ。

 救え。

 それが定め。それが役割。それが存在。それが私。それが命令。それがそれがそれが、創られた意味。

 堕ちるならどこまでも堕ちてしまえばいい。

 奈落の底より遙か遠く、いずれ天すら割るほどに深くまで。

 そうすればあの女を殺せるだろうか。

 救わなければ救わなければ救わなければ救え救い救う救う救う救う救う救う。

 救う。

 ――救う?


「マリヴェルっ……」


 世界はあなた達を救わなかったのに?



 

 お父さん、ねえ、お父さん。

 いなくなるのなら、救われてくれないのなら。

 報われてくれないのなら、幸せになってくれないのなら。

 私をおいて、いくのなら。

 どうして。

 どうして私に、心なんてくれたの。


 怒りに、憎悪に焼けた、最早水を零すこともないのに――に覆われた、私の思考が焼き切れる。

 そうして燃え尽きた先には何があるのだろうと、考える個が。

 もう、保てない――――――――……











「マリヴェル?」


 全てが崩れ去る瞬間、澄んだ声がやけに響いた。

 ぐるりと眼球が動く。その拍子に破片が転がり落ちていく。引き攣った悲鳴があちこちから上がる。

 私を呼んだ澄んだ幼い声は、制止の声を振り切ったのかだんだん近づいてきた。


「――マリ、ヴェル」


 子ども達に応えられたのは、無意識の反射だった。そうありたいと、そうでありたいと願った、私の残滓。

 私の応えに、王子の背後から聞こえる声が、嬉しそうに弾む。


「やっぱりマリヴェルだ!」

「マリヴェウ!」


 そしてこんな姿を王子の陰で見せずに済んだのは、神の采配だったのだろうか。


「こっちに来ては、駄目ですよ。今はとても危ないので、所長達と一緒にいてくださいね」

「……ごめん。あのさ、あの、マリヴェルのきれいなかみの色が、みえたから。げんきかなって。ながいからちがうかなっておもったんだけど、でも、そんなにきれいなはるのいろしたの、マリヴェルしかしらなくて、それで、げんきかなって」

「はい、元気ですよ。ありがとうございます。あなた達も元気ですか? 毎日、楽しいですか?」

「たのしい! まい日いっぱいたべられるし、おもちゃであそんでもいいし、え本もいっぱいあって!」

「うん」

「みんな、だっこしてくれる! おいしいものもいっぱいで! ね、ヴェル!」

「がじゃいもすき!」

「うん、そっか。それは嬉しいですね。あなた達が毎日楽しいのなら、私も」


 嬉しい。

 熱い滴が頬を滑り落ち、ひび割れた、かつて肌として構成されていた物に吸収されていく。

 嬉しいと、そう思えた自分に募るのは、安堵か惨めな浅ましさか。あの人達を殺して維持された私が、そんなことを思っていいのか。あの人達が生を尽くして教えてくれた心で、こんなことを思えない自分でいていいはずがない。相反する思考が、ぐるぐると。


「マリヴェル? どうしたの? どこかいたいの? あたまいたいの? ころんだの?」

「マリヴェウ、たいたい?」

「――いいえ。いいえ、いいえ、どこも痛くはありません。私は元気です。ありがとうございます。傷一つなく、ぴんぴんしていますよ。だから、マリ、ヴェル、大丈夫ですから、所長達といてくださいね。転ばないように、怪我をしないよう、どうか気をつけて……所長、子ども達をお願いします」


 駆けつける大人の足音。その中で、他とは違う三つの音。杖をつくのに杖に頼り切らない、少し不思議な足音を立てる人へ、言葉を繋げる。


「……ええ、聖女。子ども達の生を真っ当に守り通す。それが、君がこの老いぼれを信じ託してくれた、約束なのだから」

「がじゃいも、ヴェウのあげう!」

「マリヴェル、またね!」


 ああ、愛おしいと。

 この子達が、命が、生を紡ぐ人の子が幸いであれと。どうしたって、願ってしまう私がいるのも、本当なのだ。

 そう創られた。そう稼働するよう設定された。そう祈るよう定められた。

 けれど、思い、想い、願うのは。そうあれるのは、そうありたいと思える私なのは、あの人達がそうしてくれたから。

 教え、聡し。

 愛し。

 そうやって、そういう私を、紡いでくれたから。

 そして、そして、ああ、エーレ。

 エーレ。

 あなたが自身にかけた術が、あなたがいなくなった後も、私を一人にしないのか。

 あなたは、そうだった。ずっと。ずっとそうだった。

 私がこの世界に発生し、誰からも認識されていなくても、全てから忘れ去られても。

 あなただけが、私を一人にしなかった。私と一緒に二人ぼっちになってまで、傍に居続けてくれた。

 自分の死と連動させてまで、あなたは最期まで、私を一人にしなかった。





「何をっ……お前は何を言っているんだ!」


 杖をついた青年が、王子の足元にへたりこんでいた男の背を杖で叩いた。


「当代の神殿が何をしてくださったかっ! お前にはどうせ分からないだろうさ!」


 青年は、泣いていた。


「先代聖女は、そりゃ凄かったんだろうさ! でも、俺達には何もしてはくださらなかった! 小さな、目立たない不幸には、何も! ずっと!」

「い、いた! 痛い! ひぃ! 助けろ! 誰か、助けろ!」


 泣きながら、震える手で杖を振り回す。


「でも、マリヴェル様は助けてくださった! 誰もが知っている差別や不幸じゃなくて、小さくて目立たない、当たり前の不幸にも手を差し伸べてくださった! 俺達みたいな、新聞の片隅にも載らないような不幸はどこにでもあるんだよ! 働き手が死んだり、事故に遭ったり、病気になったり! 死んじゃいねぇけど、生きていくことはできるけど! でも、前と同じようには絶対に生きられなくて! できないことと苦労と不安が大量に積み重なるような、そんな人生に一瞬で変わっちまうのに、生きてはいるから。生きてはいけるからっ……生きてはいけて、しまうから。だから、頑張ってって、他にもたくさん大変な人はいるって、もっと大変な人はいるからって、そんな言葉で今までと同じ世界に放り出されてっ」


 泣いているのは、青年だけではなかった。


「……分かってるよ。今にも死にそうな人に金や人手は使われるべきだって。そっちのほうが急ぎだって、分かってる。でもさ、じゃあ、俺達はいつになったら順番が回ってくるんだよ。生きてはいけてしまうから、一生、普通には生きられないまま、普通の基準で回ってる世界で死なないだけましだと思いながら生きていって、どうしようもなく追い詰められて、死にたくなりそうなほど苦しんで、死にそうになったら助けてもらえる権利を得る。ずっとそうだった。それが社会の仕組みだった。俺達みたいなのはいっぱいいて、当たり前で。当たり前のことは、誰も助けてくれなかった。ずっと、そういうものだってことで、社会は回ってきたんだ。継続して金と手間がかかり続けることは、最初から触らないようにされてきた。すぐには死なないから、一応生きてはいけるからって、暗黙の了解で」


 あちこちで、啜り泣くような声が聞こえる。


「でも……マリヴェル様は、マリヴェル様の代になってからの神殿は、目立たない、誰にでも起こりうる不幸にも手を差し伸べてくださった。明日をも知れないわけじゃない、だけど確実に普通より苦労する。普通では苦労する。そんな状況に陥った人間を助けようとしてくださったんだ。……小さいことで、よかったんだ。当事者じゃないと分からない、日常の苦労って、そういうことなんだ。そういうものが積み重なって、苦痛だらけになるんだ。本当に小さいことで、いいんだよ。その少しがあるとないとで、変わる。その少しで、救われる。そういうものがあるってことすら、あんたらは知らないだろ……。毎日、時々、ほんの少しだけ助かる。それだけで、人生がうんと楽になるって、あんたらには分からないだろ」


 貴族の男は頭を抱えて丸まったまま、ぶるぶる震えている。青年の杖は、もうとっくに止まっている。それなのに、ずっと、ぼろぼろと泣いている。


「マリヴェル様が俺達にしてくださっていたことは、そういうことなんだよ……先代聖女が王城への非難にかけていた時間と手間と金を、俺達に向けてくださった。子ども達に向けてくださった。すぐに社会のお荷物扱いされる俺達や子ども達じゃ、権力とか財力とかそんなものは普通の人よりなくて。マリヴェル様のお力になるどころか恩返し一つできやしないのに、そんな俺達に使ってくださったんだよ。なあ、分かるか。助けてもらえるってことがどれだけありがたいか。助けてくれない誰かを恨んでしまう自分の傲慢が、どれだけ情けなくて惨めか。自分の苦しみを上の人が知ってくれていることが、そうして助けようとしてくれて、実際に助けてくれることがどれだけ……どれだけ、嬉しいか」


 啜り泣いていた人達は、呼吸が心配になるほどの嗚咽を零している。


「俺は、俺はな……生きてていいんだよって、言ってもらえた気がしたんだ。苦労に歪まず、変わらず、俺のまま生きていっていいんだよって、許してもらえたとさえ、思えたんだ」




 一際激しく大地が揺れた。人々が悲鳴を上げる。引き攣るような悲鳴が重なりすぎて、まるで一つのうねりのように響き渡っていく。

 数え切れない王都の民の悲鳴を飲みこもうと、大樹が巨大な口を開けた。根の、枝の数が多すぎて、もう命が生を紡ぐ場所がない。

 今までこの規模で大樹が稼働していなかったのは、あの中心で、最後まで抗っていた人達がいたからだ。

 大樹はどこまでも私を追ってくる。だって私の中には、初代聖女が長い年月をかけた鍵があるのだ。聖女選定の儀と銘打ち、そうして十二神の力に十二回の生をかけた。人の身に取り込めるよう儀式を繰り返し、次の代へと渡し続け。

 それら全ての集合体となる最後の鍵が、私の中にある。この鍵を初代聖女が手に入れていた場合、生まれたのは十三代聖女ではなく。

 新たな神だったのだろう。

 だからハデルイ神は言ったのだ。

 本来、十三番目の聖女はあり得なかった、と。


 私の胸に咲いた花が大樹と共鳴している。私の身体中に宝石のような根を張る音が、他者へも聞こえるほどに。

 私がいつまで経っても砕けぬから、痺れを切らせた女が追ってきた。私の命を殺し尽くした女が、私ごと、全てを飲みこまんと歓喜に叫んでいる。


「聖女」

「はい、王子」

「アデウスは、終わるか?」


 もう空は、ほんの欠片も見えなくて。


「嫌だ! 死にたくない!」

「助けて!」

「誰か助けて!」

「お救いください!」


 人々の恐怖に引き攣った絶叫でさえも、大樹に飲みこまれ、もうどこにも届かなくなるだろう。


「そうかも、しれませんね」

「そうか」


 けれど今はまだ聞こえている。


「神様! お救いください!」

「神様どうか!」

「聖女様と王子様を、お二人だけでも、どうか! 神様ぁ!」


 私達には、聞こえているのだ。


「そうであったら諦めますか?」

「いや? ここがアデウスであり、余がアデウスの王子である限り――そして我が友マリヴェル。余とそなたが揃って尚、諦めるなどとつまらぬ選択をしたことがあったであろうか。さて、余の記憶にはないようだが」

「私の記憶にもないから脳天かち割られてばかりだったんですよねぇ。……ルウィ、一つだけ試していないことがあります。今まで思いつきもしませんでしたが、私達の初めての諦めは、全て試してからでも遅くはないかと」

「論じる必要もあるまいさ」


 王子はそれまで大樹へ向けていた穏やかとさえ思える視線を、背後へと巡らせる。その視線を受けた所長が、静かに歩み寄った。一瞬だけ私へと向いた所長の視線は痛ましげに歪められ、静かに王子へと辿り着く。


「余の名を使って構わん。サロスン家へ迎え。幼子を連れての王都脱出、現状不可能であろう」

「有り難きお言葉……お二方、ご武運を」

「所長、今までありがとうございました。子ども達をよろしくお願いします」


 所長は一度強く杖を握りしめ、すぐに下がっていった。

 それを最後まで見送らず、視線を空へと戻す。

 随分と、世界は窮屈になった。空が堕ちてきて狭くなった世界は、息苦しくやかましい。音も視界もぎゅうぎゅうで、成程、命が生きる場所がないのも頷ける。あれは一人だけが生きる世界だ。他者が生きる隙間が欠片もない。

 今にも落ちそうな腕をかろうじて動かせる部位で抑えながら、お腹の上で移動させていく。視線の中に入った指輪を見て、一度目蓋を閉ざす。

 お父さん、皆。ごめんなさい。あなた達がくれた全て、大切に使うのであれば、あなた達は許してくれるでしょうか。お父さん、皆、ありがとうございます。あなた達が紡いだ全てがアデウスを救うのであれば、私は憎悪より誇らしさを抱けると思えるのです。

 エーレ。この結果がどう転ぼうと、何故かあなたは全く違うところで怒るような気がするんですけど、怒りに来てくれますかね。……来てくれたら、嬉しいな。

 私とあなたは違うから、終わった後に出会えることはないでしょう。あなたは命で、私は物。終わった後に残るものなど何もない。

 それでも、エーレなら。エーレなら全ての常識を力尽くでぶち破り、会いに来てくれるように思えてしまう。そんなエーレの無茶苦茶を勝手に想像して、思わず笑ってしまう。

 そう、笑えるのだ。私は、笑える。あの人達が教えてくれたものを、誤ず持っていける。あの人達が分けてくれたその生で紡いだものを、余さず持っていける。

 それにしても、ずるいですよ、エーレ。私が死んだら一緒に死ぬだなんてとんでもないことを言っていたのに、最初から私より後に死ぬつもりがなかったんじゃないですか。私には散々死ぬなと、壊れるなと言い続けたのに、その実、後に残るつもりが更々なかったのはあなたのほうで。

 置いていかれるのが嫌なのは、あなたも私も同じだったのだろう。そしてエーレのほうが、私よりずっとずっと要領がよくて。言わなければ止められることもないと、こんな時まで、末っ子力全開の作戦を押し通し、やり通した。

 私の命は、そんな人。

 勢いよく開けた視線で、ルウィを見る。


「ではルウィ、私と死にましょうか!」

「心中相手として申し分なし! 好きに使え!」


 本当に楽しそうに笑うルウィが、私を抱きしめながら振り回した。




「…………綺麗」


 恐怖ばかりを紡いでいた人々の口から、ほろりと言葉が零れ落ちる。

 きらきらきらきら、私の破片が散らばっていく。雨のように、涙のように、花のように、夢のように、欠けた私が世界を彩っているとさえ思えた。あの人達が紡いでくれた私が、人の心に安らぎを渡せるのならば、こんなに嬉しいことはない。


 神様。神様。神様。

 ハデルイ神。そして、新たに生まれ出ずるはずだった、幼き神よ。

 神の器である尊き栄誉を自ら放棄したがらくたではありますが、人に愛してもらった人形では如何でしょう。人に、素晴らしい命達に与えてもらった心を持った人形では、如何でしょう。

 神の器に人から与えられた心が入った人形には、あなた方が必要とした世界への繋がりが入っています。


「マリヴェル」

「はい、ルウィ」


 ルウィは笑う。私も笑う。


「余の恋以外の全ての愛は、そなたに捧げよう」

「えぇー……、ルウィ、生涯恋愛する予定はないって言ったじゃないですか」

「無論よ。余は王子である故にな。よって王子に許された愛全て、そなたにくれてやると言っておるのだ。いらぬしな!」

「……王子がいらないもの、基本的に私もいらないのでは?」

「それよ」


 そして、あの恐ろしい脅威から何百年も王座を守り続けた、特異な一族の血と魂は如何でしょう。その中でも顕著に突出した、彼の血と魂は如何でしょう。

 神力による影響を受けづらいその特異は、あの脅威への手立てと成り得ないでしょうか。


「まあいいや。ルウィ、私もあなたのことを大雑把に愛してますよ!」

「はははははははははは!」


 あなた方と彼への繋ぎに、私をお使いください。器としての務めは最早果たせぬ私ではございますが、美しく優しい命達が仕上げてくれた人形です。人とあなた方を繋ぐ任くらいは果たせましょう。


 人形として創られ、人としての心をもらった。神が創り、神官長達が仕上げた。

 神と人の創作物が、私という個だ。それが私という創作物の終だ。この形を終とし、私という個は固定された。

 人々は堕ちてくる空に押されるように座り込んだまま、立ち上がれないでいる。いまこの場で立っているのは、私を抱えて踊るルウィだけだ。私の破片が人の上に降り注いでいく。その破片を、人々は握りしめた。両手で、皆で、固く固く握りしめ、祈るように額をつける。


 歌が聞こえた。澄んだ美しい歌は、王子の足元でドロータを抱きしめるベルナディアから紡がれている。

 私は知らなかった、誰もが知っている歌。アデウスの子守歌。優しく静かで穏やかな、まるで神官長のような歌。他者の平穏を願う、慈しみの歌。他者が紡がねば知れぬ歌。

 命だけが紡げる、愛の歌。

 その歌を、私に歌ってくれた人がいる。その人が与えてくれたこの心を、憎悪に使おうとした私の愚かさに。神よ、どうか裁きをお与えください。

 そしてどうかアデウスに延命を。憐れみを。慈悲を。慶びを。 

 神様。どうかアデウスに生きる命を。

 どうか、どうか、どうか。

 

 神殿と王城の献身を以て。

 第一王子と聖女の贄を以て。


 どうか、お救いください。








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