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 雇い主を売るという、傭兵としての職を生涯擲つ選択をしてくれたポリアナは、洗いざらい話してくれた。新たな情報を得る度、即座に神官達が飛び出していく。その度入れ違いで補充されていくが、正直入れ替わりが激しすぎて、扉の開閉を担っている神兵の筋力が試される事態となっている。

 機密性を重視した部屋の扉が重たいばっかりに……。

 ポリアナの話を聞きながら神兵に申し訳なく思っていたが、平静を装っているように見えて嬉々とした表情が垣間見えている神兵二人を見て杞憂だと悟った。あれは筋肉鍛えを楽しんでいる。

 流石サヴァス直属。目に見えるもの全てが筋肉を鍛える道具に見える猛者達。彼らはいつも人生が楽しそうで、私も嬉しい。 


「ああ、そうだ。あたしのことが調べられてるくらいなんだから、全員の調べもついてるんだろうけどさ。ラダ・ルッテンには気をつけてやってくれないかい?」

「あ、はい。ここまでの参加者への対応同様、保護する予定です」


 そう答えれば、ポリアナさんは少しだけ奇妙な表情を浮かべた後、穏やかに笑った。

 ラダ・ルッテンは男爵家の令嬢だ。父であるルッテン男爵と愛人との間に生まれた令嬢であり、愛人の死をきっかけにルッテン家に引き取られている。茶色の髪を持って生まれてきたが、みっともないからと金に染められここまで生きてきたらしい。

 報告書にあった令嬢の生は、決して愉快な生育環境ではなかった。本妻からの憎悪と、兄弟姉妹からの嫌悪と、男爵からの無関心は、たったこれだけの時間で令嬢の人生を詳らかにできてしまうほどあからさまだったのだから、想像するに難くない。


「あの娘さ、最初は全く会話にも加わらないし、ずっと頑なだったんだけどさ。アノンがしょっちゅうお茶だの食事だの昼寝だのに誘ってたら、いつの間にか仲良くなっちまってね。ぽつぽつ、今までのことを話してくれたんだよ。そうしたらさ、どう考えても真っ当な家じゃなくてねぇ」

「私には真っ当な家というものがよく分かりませんが、心身どちらであっても負傷することが常である生育環境が、命にとって正常でないことは理解しています」

「あんた、独特の言い回しするよね……まあいいさ。ラダはさ、自分が聖女になったら家族に愛してもらえると思って、それだけに縋ってここまで来たみたいでねぇ。無邪気に話しかけるアノンにだいぶ絆されちまってはいるけど、最後の砦として縋った夢がそう簡単に諦めきれるとも思えない。だからさ、ちゃんと面倒見てやってくれよ。あの娘らは、まだ子どもなんだから」

「無論です。大人が保護者を名乗れるのは、子の代わりに責を担うからに他なりません。その義務を放棄し権利だけを主張するのであれば、それは保護者ではなく所有者です。そして保護者が存在しないのなら尚のこと、社会が子どもを守らねば国は秩序の意味を見失う。どのような分野においても、育成が為されぬ地は廃れ枯れ果てるのみです」


 ポリアナさんは静かに笑んでいる。だがそれを臆面通り受け取るわけにはいかない。

 少なくとも、当代聖女とアデウスの王族だけは、絶対に。


「――ああ、あんたと話していると、本当にアデウスの聖女は代替わりしていたんだって思えるよ。……この国は、先代聖女が平民や女の権利や自由をうたって言葉通りのものを与えていったけどさ…………子どもの保護には、全く手を入れないままだっただろ」


 笑顔と同じ、まるで霧雨のような静けさで紡がれる言葉がこの温度になるまでに、どれほどの慟哭があったのか。私には分からない。だが、その過酷さを想うことはできる。

 怒りを、そして憎悪を。今に至るまで煮詰め続けてきた人が、それを音と、言葉として放出するまでに至ったが故の、安堵にも似た静寂の惨さを、アデウスは知らなければならないのだ。


「先代聖女が子どもの保護に力を入れていたのなら、あれだけの数の子どもがスラムの塵山で腐り落ちることはなかったでしょう」


 今まで当たり前として蔑ろにされていた分野の人権に尊重をと掲げ、あれだけ国民の信奉を集めることに心血注いでいた先代聖女は、子どもの権利には一切手をつけなかった。

 これには幾つか仮説を立てている。

 先代聖女が国民に配分している神の力、神力を回収するとき、自身に信奉があったほうが拒絶反応がない可能性。死者のみならず、場合によっては生者すらも傀儡として扱いやすい可能性。

 そして、役に立たない存在として、切り捨てた可能性。


「今回の聖女選定の儀、ほぼ全員が妙な感じで訳ありっぽいからこそ、普通に周りを気遣えてわたわたしてる奴が目立つ。皆一杯一杯の中、一人思い詰めていたラダを気遣えるような子が、普段なら聖女に相応しいと思ったもんだけど、どうしてもそうは思えなかった。だってさ、あんたが強烈過ぎるんだよ」


 ポリアナは、浮かべていた穏やかな表情をどこか泣き出しそうな苦笑へと変えた。傷跡の残る節くれ立った掌で、ぎゅっと自身の前髪を握りしめる。俯き、影が落ちた顔でさえも隠してしまうように。


「……当時の聖女があなた様であったのならば、わたしの弟妹は今も生きたまま、ウルバイで暮らしていたでしょうか」

「いいえ」


 そんなことは有り得ない。


「その時代、私が当代であったのならば――クルーム家はそれまで通りアデウスでずっと、穏やかに暮らしていました」


 私は、そんなあなた達と出会いたかった。

 その願いを口にすることは許されないけれど、心からそう思う。

 ポリアナは俯いたまま顔を上げなかった。その肩は震えず、嗚咽が漏れることもない。


「ありがとう、ございます」


 真っ白になるほど握りしめられた拳だけが、彼女の悼みを如実に示していた。






 最近狭間の庭が大活躍だなと、撤去する手が足りず放置された瓦礫の上に座りながら思う。すぐ隣に立つエーレと神官達が周囲を囲む中、今は私だけが暇をしている。

 だってエーレ達は私の見張りという名の仕事中で、私が視線を向けている先では王子が自らの部下を相手に仕事中なのだ。


「誰がどんな手を使おうが責は問わん。ウルバイが建造している兵器、必ず全てを破壊せよ」

「しかし殿下。あれはアデウス国境外となります。彼奴らは、我々からの先制攻撃と周知するでしょう」


 目の前で膝をつく王子直属である部隊長の進言に、王子は笑い声を上げた。


「構わん。この状況下で、先代聖女が流した神玉を使い、何かしらの建造物を造っておるのだ。そんなものの完成を目と鼻の先で指をくわえて待つ必要もあるまい。全ての責は余を含めた王族で取る。行け」

「御意!」


 部隊長は素早く立ち上がった。共に立ち上がった部下三名を連れ、マントを翻し足早に去っていく。私達の視界から外れた瞬間、派手な鎧の音が聞こえてきたから駆け出したのだろう。今は一秒も無駄にできない事態だ。


 ポリアナからの情報は、大変ありがたかったと同時に頭を抱えさせるもので、結果的に私達の速度を速めた。

 ウルバイが、アデウスとの国境付近で何かしらを建造している。それもアデウスから大量に横流しされた神玉を使ってときたら、もう誰からもはっ倒すぞ以外の感想は出ず、完成前に破壊する以外の選択肢は消え失せた。

 どんな無茶をしようが、世界中から非難を浴びる可能性がないとはいえなくても破壊する。その建造物が何を目的としたものかの調査より先にまず破壊。おやつ食べるよりまず破壊。昼寝するよりまず破壊。全ては破壊してから考えるのでまず破壊。

 それが私と王子の決定だ。

 王子も言っていたが、この状況下で、まさか遊技場を造っているわけもなく。どう好意的に見てもアデウスに対する兵器か、アデウスへの呪具か、最高に楽観視しても自軍を底上げする何かである。


 しかしこの王子、さりげなく自分だけでなく王族全てが取ると責任を分配した。これで何かがあった際も、即座に王子から指揮権が取り下げられることはない。とりあえず責任を取るという形で真っ先に隠居の流れになるのは国王であろう。

 国王は永久的に移住した国から出られない可能性が出てきた。


 王子の部隊長達はこの後すぐに、神殿の兵力と共にウルバイとの国境へ出てもらう。神殿も王城もいま兵力を割くのは痛いが、そうも言ってはいられない。大々的な呪い発生装置など造られては、それこそ目も当てられないことになる。

 部隊長達の背を見送ると同時に王子は踵を返し、私と向き合った。


「全ての責とは申したが、神官の責任までは取らんぞ」

「場合によっては王子の責任も私が取りますよ。何せ先代聖女の後始末。責の在処は当代聖女が相応しい」

「そなたの道理ではそうであろうが、流石にそれを許せば王家の威信が揺らごうぞ。責の在処は、そなたと余の折半だ」


 笑いながら髪を掻き上げた王子は、その動作の間に小さく息を吐いた。目の前に立っている王子を見上げているからこそ分かるほどの小さな吐息だが、これは珍しい動作だ。

 王子が人前で疲れを見せた。どこもぎりぎりで回っているのだ。

 疲れを散らすように大仰な、人によっては優美と表現するであろう動作でひょいっと腰を曲げた王子は、座っている私の顔の上に己の顔を持ってきた。


「ポリアナ・キャメラとの橋渡し、感謝する。――先代聖女により裁かれた犠牲は、王家の罪であるがゆえに」


 私を覆った王子の影が隠しているのは私ではない。これは、己の表情を隠しているのだ。世界で今、私だけが王子の顔を見ている。降ってくるのは王子の吐息と、懺悔と似た、全く違う何かだ。

 だって王子は、許しを乞いはしないのだから。


「いいえ。あなたと話すと決めたのは彼女自身の決意です」

「……我らがアデウスの民の強さ、余は生涯誇ろうぞ」


 王子が許しを乞うのは戯れ時だけだ。


「しかし聖女よ、弱った男は慰めておいたほうが後々有益であるぞ?」

「えー、王子慰めを同情に感じる類いですし、情けをかけるのは日常でもかけられるのは好まないじゃないですか」

「うむ、その通りだ」


 この状態で慰めておけと助言してくるのは罠ではなかろうか。そして廃棄物に慰められて癒されるのは人としてどうかと思うので、全くおすすめしない。塵山に向かって飛び込んでいるようなものである。

 そう思っていたら、ごつんと音が鳴った。ついでに星が散る。


「いった」


 痺れる痛みは、王子が落とした重さによるものだ。人の頭は重いのだ。


「王子、痛いです」

「はっはっはっ。気落ちする余を放置した償いとしておけ」

「えー……」


 慰めていたら王子は私を二度と対等の位置には置かないだろうし、慰めなかったら頭突きである。つまり、どっちであっても結末は悲しい。ついでに痛い。


「余は何も覚えてはおらぬが、そなたを悪友とした過去の余の慧眼、賞賛に値するものだ」

「どっちであっても褒められるのご自身なんですよねぇ」

「王子であるからな」

「王子関係なくないですか?」

「さて、戯れは終いとするか」


 曲げたときと同じくらい軽い動作でひょいっと背を正した王子は、先程まで影を負っていたとは思えない顔で笑う。相変わらず、常に楽しそうに生きている顔で笑う人だ。


「そろそろ、そなたの屋根から許可が取り下げられる頃合いよ」

「屋根?」


 思わず上を見る。曇りだ。

 ここは屋外だし、現在狭間の間は壊滅状態なので、もしここが屋内区域だったとしても屋根は失われていたと思われる。そんなことを王子が理解していないわけがない。ならばこの場合、屋根は比喩で、対象は人なのだろう。

 ひとまず、一番近くにいる王子以外の人間へと視線を向けてみる。うむ、いつも通り怒っている。見なかったことにしよう。

 反射的にそう思ったが、どうも普段とは様子が違うようにも思えて、逸らそうとした視線を向け直す。

 エーレは確かに怒っている。いつもならもうとっくに、その怒りが私に降ってきてもおかしくないほどには。けれど怒りはエーレの中に留まっている。

 エーレと視線が合った。エーレは私の視線を絡めたまま、自身の視線を流す。その先を見て、ぱっと嬉しくなる。

 神官長だ。神官長がこっちを見ている。神官長の周りには、常に報告と指示を待つ神官達がわんさかいるくらい忙しいので、ここを通りがかったのは偶然だろう。素晴らしい偶然だ。こんな素晴らしい偶然なら、毎秒あってもいい。あってほしい。

 嬉しくなっている私と目が合った神官長は、瞬き一つの後、ちょっと困ったような、怒っているような、悲しんでいるような。そんな顔になった。何をやらかしたのかは全く分からないが、私がいつも通り真っ直ぐな顔をした神官長を困らせたと、それだけは分かる。

 とりあえず、私が砕ける程度では許されない大罪だ。


「あれはご自身が関係性を忘却している相手であるお前が顔を見ただけで子どものように破顔するから自責の念に駆られている顔だ」


 エーレ一息翻訳がなければ即死だった。エーレ一息翻訳があったおかげで瀕死で済んだ。泣きそう。


「分かったら今すぐその泣き出しそうな表情を引っ込めろ。神官長が更なる自責の念に駆られた結果、ヴァレトリが出てくるぞ」

「私の終わりがすぐそこですね」


 それはともかく神官長を悲しませるなんてこれまた大罪だし、何はともあれ神官長と目が合った事実は猛烈に嬉しいので笑顔なら任せてほしい。そんなもの、作らなくても勝手に染みだしてしまう。

 意識的に作り出しているものはその限りではないが、表情とは基本的に感情が表面へ滲みだしたことにより現れる。だからこんなときは自分がまるで命に似ていているように感じて申し訳なく思うのに、少しだけくすぐったくなる。まあ私は廃棄物なわけなんだが。


「ヴァレトリが本気で向かってくるなら俺が出るが、その前に今尚猛烈に忙しい神官長のお手を煩わせることになることは確実だ」

「大罪ですね。そんなことになる前に自分で砕けときますね!」

「今この場で噛みつかれるのと甘やかされるのと口説かれるの、どれが嫌だ」

「自ら処刑方法選択できる制度、斬新すぎません!?」


 忘却が解除されたエーレは以前に増して突拍子がないし、いつも通り容赦が微塵もない。


「そなたら余の存在忘れるの早すぎない?」

「忘れてはおりませんが、何時如何なる場合も優先順位は聖女が上です」


 神官かリシュタークか王子の友達でないと許されない台詞だが、そのどれもであるエーレによる発言なので全く問題がない。……どうしよう。エーレを止められる人が思い浮かばない。


「当代聖女は、見事扱いにくい頑固者で周囲を固めておるなぁ」

「固めた覚えは皆無ですし、皆は芯が強いしっかり者なんです」

「してそなた、固められた覚えは?」

「それも特にないですねぇ……え? ないですよね?」


 エーレを見る。


「王子、そろそろお時間では」

「エーレさん?」

「マリヴェル、神官長が場を離れるようだが手くらいは振ったらどうだ」

「あ、神官長ー! お仕事頑張ってくださーい! でもちょっとは休んでくださいねー!」


 いま私が出せる全力の速度と威力で、手をぶんぶん振る。これ以上はたぶん腕が肩からもげる。

 神官と神兵に囲まれつつ移動を始めていた神官長は一度立ち止まり、振り向いてくれた。


「その動きは腕への負担が大きい。気をつけなさい」


 私のような大声ではない静かな声なのに、神官長の声はよく通る。


「だが、ありがとう。君も休憩を挟みなさい」

「はい!」


 神官長は手を軽く上げてくれた後、去っていった。その背が見えなくなってもずっと見てしまう。神官長の姿を見られただけではなく、目が合い、尚且つ声までかけてくれた。幸せすぎて、身体がぽかぽかしてきた。思考が嬉しいと身体まで嬉しくなるのだから、心とはありがたい存在だと、こういうときいつも思う。


「そなたいつも、世の存在すぐ忘れる」

「大丈夫です王子。エーレの存在も若干忘れていました!」

「エーレ、言ってやれ」

「王子、そろそろお時間では」

「ここでも余を追い払わんとするその胆力。流石余の友。二人とも不敬」


 実際王子も時間がないのだろう。この会話を小休止とし、すぐ人の渦に戻らなければならない。王子という渦の中心がいないと、人は波となり散ってしまう。


「その胆力を持った希有な人間達が、主と定めるそなたと同じ時代に生きている差配は、神に感謝しよう」


 私の前に片膝をついた王子は、自身の胸に手を当て、私を見上げた。


「聖女、祝福を」


 私は一度閉ざした目蓋を、ゆるりと開いた。


「アデウス国第一王子、あなたが先代聖女という禍を退け、アデウスに安寧を齎さんことを祈りましょう」


 そして。


「ルウィ。あなたの生が終わるとき、虚無が微塵もありませんように」


 自身がやるべきと定めたことも、やりたいと願ったことも、予想だにしなかった幸いも。全てを得た充足感と共に、虚しさなど欠片も抱えず終えますように。

 その額へと唇を落とす。王子は目蓋を閉ざしてそれを受けた後、緩やかに笑った。


「余の生において、友からの祝福を得られるとは思わなんだ」

「王子は人の何倍も祝福と怨嗟を授かる生でしょうから。一つくらい増えても問題ないかなと思いまして」

「違いない」


 笑い声を上げながらさっと立ち上がった王子は、私の頬に唇を落とした後、背を向けた。そのまま王城の面子を一塊連れて狭間の庭を出ていく。

 全ての兵が去ったわけではない。王城の兵は現在、伝達役も兼ねて狭間の庭に常駐しているので、残った面子はそのままここにいる。

 最近ずっと狭間の庭が混雑しているなぁと思いながら、伸ばしていた背はそのままだけれど身体の力は少し抜く。さて、これからまた忙しくなる。

 まだまだ元聖女候補達と会わなければならないし、ウルバイの動向は気になるし、加速している神力喪失事件は最早歯止めが利かないし、悪いとは思うがこの状況下ではどうしたって七代聖女の子孫となるトファ家は軟禁状態になってもらわなければならなかったしそれをアーティに伝えなければならないし。

 ……先代聖女がこんなことをしでかさなければ、どれもしなくてはよかった仕事だ。誰の命も、失われるべきではなかったのに。誰も、誰一人として、涙を流す必要など、なかったのに。

 湧きそうになった感情を、溜息になり損なった息と共に散らす。


「じゃあエーレ、私達も頑張りましょうか、ったぁー!?」


 視線を向ければ、本日二度目の星が散った。そろそろ星と一緒に砕けそうだ。

 エーレから降ってきた頭突きを真っ正面から正しく受け取った私は、額を抑えたまま呻く。エーレは無情にも、そんな私の頬を鷲掴みにして顔の向きを変えた。

 必然的に私の顔は上を向き、エーレを見上げる。痛みに俯くことすら許されぬ大罪を私は犯したというのだろうか。

 犯したな、色々。

 神の意に反している段階で、どう考えても私は大罪を犯し、今尚犯し続けているがらくただ。つまり、頭突きが落ちてきた上に指をめり込ませ、顔面が半分になるくらい潰されているこの罰は必然である。


「マリヴェル」

「びゃい」

「俺に何か言うことは?」


 言うことは特に思いつかないが、この体勢では思いついたことも言えないのではなかろうか。

 表面的に見れば思っていたより怒っていないように感じられるエーレだが、エーレが怒っていない状態は夏の雪より珍しい。眠っているときも怒っているくらいである。

 寝相が悪いわけでも、歯ぎしりや寝言で表現をしているわけでもなく静かなものだが、怒っている。そんな不思議な寝方をする人なのだ。

 最近はエーレもちゃんと眠れていないだろうなぁと目の下にできた隈を見ながら心配になっていると、やけに静かなエーレの目が据わった。


「この状況下でお前の手を煩わせる必要もないと俺だけで内々に処理するつもりだったが、丁度いい。お前も巻き込んでやる」

「何の情報もなくて全く内容が分かりませんが、私が盛大に巻き込まれることだけは分かりました」


何の追撃もなく顔が解放されたものの、手ぶらでの解放とはいかなかったようだ。まあそれがなんであろうと、私が役に立つなら存分に使ってほしい。私は万人が使える塵箱だが、やっぱり好きな人に使ってもらえると嬉しいものだ。


「マリヴェル」

「はい、何したらいいですか? 何でもしますよ! どうぞ私を好きに使ってくださ――……」


 とりあえずエーレはしばらくの間、噛みついてくるの停止してもらっていいだろうか。

 口もげるかと思った。

 








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