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 アデウスの民はいま、恐怖と絶望と猜疑と憤怒と困惑と悲哀と。その他諸々、決して喜ばしい方面に部類されない感情に苛まされていることだろう。

 最終的に国民感情の傾く先はまだ分からないが、神力喪失事件という既に隠しようがなくなっていた事件を神殿と王城が把握している事実を公表した事実は大きいはずだ。多少なりと安堵を渡せてよかった。

 本来ならば、そこから更に王城と当代聖女が手を取り合う場面を演出すべきだった。だが私の顔が割れている上に、身体も機能不全のままだ。よれよれの聖女が出てきては、安心どころか不安しか煽らない。

 当代聖女は、先代聖女派による襲撃で負傷。現在治療中と公表された。国王は突然の病に倒れ、王城と神殿による厳重な調査と治療が重ねられている。らしい。

 当代聖女の負傷ついでに、しれっと国王が寝台の住人となってしまった。国民に事件を周知してから移住すると聞いていたが、早急に引っ越したくなったようだ。

 寝台の国は、よほど魅力的な国らしい。

 これからしばらく、国王はアデウス王城国王居室及び寝室帝国から、居住地を移す予定はなさそうだ。

 代わりに王子がアデウス王城玉座に居住地を移している


 国民への通達は、王子と神官長達がうまくやってくれるだろう。

 私の身体は、フェリス・モールがほぼ休憩なしで調査し調整してくれたおかげで、多少はましになっている。しかし多少は多少だ。彼自身も付け焼き刃の応急処置だと何度も念を押していた。

 フェリス・モール、ココ、カグマの見解としては、満場一致で一人で歩くな、であった。ついでに、こけるなぶつけるな殴られるな何が何でも衝撃を与えるな、である。割れ物注意の札でも貼っておくべきだろうか。

 まあ割れたら割れたでいいとして、私は私の役割を果たそう。

 神官により開かれた扉を進む。エーレに支えられながらよたよたと入室したら、室内の時間が止まってしまった。

 たくさんの、息を呑んだ音が聞こえた。


「っ――マリヴェルさん!」


 ぐしゃりと顔を歪ませたアノンが椅子を蹴倒し、私の前に転がり込んだ。私の罅割れは手当の要領で隠しているので分からないだろうが、怪我人を前にした判断だろう。アノンは私自身には触れず、私の足元で泣き出しそうな顔をしていた。


「よ、よかった。あれから全然、全然会えなくて。神官様達も、怪我とか、教えてくださらなくてっ!」

「あ、あなた、あなた本当に、あなた!」


 アノンより奥にいたため位置的に一拍遅れたものの、アノンより派手に椅子を吹き飛ばし駆け寄ってきたアーティは、地上で溺れそうだ。ゆっくりと追いついてきたポリアナは、その肩に手を置いてなだめている。


「あんた、その髪……いや、こいつはまた、驚いたね。ああ、ほら、あんたらは落ち着きな。……それにしても、神官様達にいくら聞いても容体一つ教えちゃくれないし、見舞い許可も出ないときた。相当まずい状態だと思ってたのに、もういいのかい?」

「ええ、私はずっともういいんですが、神官達曰く全く駄目らしいんです」

「駄目なんですの!?」


 アーティの反射が一番早く、大きかった。サヴァスの波動を鼓膜で感じる。

 若干エーレが瀕死だ。


「あんた声大きいねぇ。それはともかく、あたしはこの子に聞きたいことがあるんだけどね」


 ポリアナは、まだ呼吸が整わない二人へ向けていた柔らかな瞳を、猫のように絞り上げた。


「これ、どういうことか説明してもらえるかい?」


 表情としては笑顔に分類される顔をしながらも、私と三人の間に割って入っている神兵達の肩越しに向けられるその声は、随分冷ややかだった。視線は面白がっているようにも、殺気立っているようにも見える。

 私は周りを囲む神兵と神官をぐるりと視線で巡り、再びポリアナへと返す。


「見ていただいた通りかと」

「へぇ? あたしはこれでも、あんたのこと結構好きだったんだけどね」

「あなたの感情はあなただけのものですので、それらに私が関与することはできません。けれど嫌いよりは好きと言っていただけるほうが嬉しいのもまた事実です」


 ポリアナはちょっとだけ歪に片眉を上げた。挑戦的にも、困り顔にも見える。


「だったらさ、そのお綺麗な顔で神官様達を誑かしたかのよう布陣はやめてくれないかい? 聖女候補に貴賤なく、皆平等。まさか神殿がこの理を破ろうってのかい? そんな服まで着せちゃってさ」

「神殿は正常に稼働しております。ゆえにこそ、私がここにいるのです」


 足元で泣いていたアノンに手を貸し、共に立ち上がったアーティの案じと怪訝な視線が私を見た。私は、開かれたままの扉の奥へと視線を巡らせる。

 現在残っている聖女候補は、私とフェリスを除いて七名。

 ベルナディア・マレイン。ドロータ・コーデ。アーティ・トファ。ポリアナ・キャメラ。アノン・ウガール。アレッタ・ポルスト。ラダ・ルッテンだ。

 会話の機会を得られた人がほとんどだが、一言も交わさなかった人もいる。

 候補者の選定は神の所業であり、人が疑念を持つことは許されぬ。初代聖女の取り決めによりろくに調査が許されていなかった彼女達の身元を改めて調べた結果、色々、もう、色々、頭を抱えた。

 おのれ初代聖女、つまりは先代聖女エイネ・ロイアー。神殿がここまで後手しか踏んでこられなかったのは、面倒な決まり事を作ってくれたおかげである。

 しかし最早、神殿に枷はない。


「皆様方、席にお戻りを」


 神兵が部屋から出ている三人を室内へと促す。後ろ髪を引かれるように、または疑念を抱きながら、ひたすらに困惑しながら、三人が室内へと戻されていく。

 その間に私も、エーレに支えてもらいながら歩を進める。三人の着席と、聖女の服を着た私が彼女達の前方に用意された椅子に座ったのは、残念ながら同時とはならなかった。私は非常にゆっくりなのだ。優雅に余裕を持たせた歩に見えているといいのだけれどと、座りながら思う。

 私の前には重たい机も置かれている。そこに手を置くことも可能だが、今は背を伸ばし、姿勢を正す。


「これより、神殿の主、十三代聖女マリヴェル様よりお言葉を賜る。皆、拝聴せよ」


 今この瞬間、室内には人が浮かべることのできる負の感情全てが沸き立った。人の感情は肌を打つ。それでも結果は変わらない。私が彼女達へ伝えるものは、何一つ。


「まずは結論から申し上げます。此度の聖女選定の儀は、十三代聖女である私が存在する時点で全て無効となります。よって十三代聖女マリヴェルの名において、聖女選定の儀を中止します。同様の内容は現在、神官長及び第一王子によりアデウス全土へ通達されています」


 ざわめきは起こらなかった。誰もが言葉を発さなかったからだ。飲まれた息だけが、驚愕と動揺を発した人数分重なり、音となる。そしてここで無を帰したのは、ベルナディアだけだった。


「当代聖女の存在がアデウス全土より忘却された此度の事件、及びアデウス国内に発生している神力喪失事件。我々神殿と王城はどちらの事件も、首謀者は先代聖女エイネ・ロイアーであると結論づけました。彼女の罪状はこれだけではありませんが、今のあなた方はこれだけ把握していただければそれで結構です」


 ベルナディアだけが、怒りも嫌悪も敵意も、動揺も困惑すらない瞳で、どこかぼんやりと私を見ている。


「既にご存じのこととは思いますが、神殿の全ては私の管轄であり、権限もまた全て私にあります。よってこの決定が覆ることはありません。そしてあなた方の身柄は、今この時より神殿預かりとなります。私の権限により、あなた方にはこれまで通り外部と一切の接触を禁じた上、行動範囲も制限します」


 ついにドロータが立ち上がる。目を血走り、額には青筋が走っているその身体は震えるほどの怒りを纏っていた。


「座りなさい、ドロータ・コーデ」

「何をっ! そんな言葉に従えるわけがないでしょう! これは、これは神に対する謀反と同義です! 神殿はその自治権への誇りを忘れたのですか! 王城へ媚びを売りたいが為に、先代聖女様の御心を宿すベルナディア様を排除せんと言わんばかりの態度! こんなことが許されるはずがない! 民意はあなた方を裁くでしょう!」


 先代聖女派が大々的に打ち出してきたベルナディアの付き人としてこの場にあり、唯一選定に残った娘だ。その胆力は折り紙付きだろう。

 だがそんなもの、この場では何の意味も持たない。


「これより先、神殿はあなた方を聖女候補として扱わない。それを理解した上で、私への対応を考えなさい。ドロータ・コーデ、分かっているのですか。ここは神殿ですよ」


 ドロータは、はっと周囲を見回した。神官と神兵が、武器に手を当て神力を纏っている。

 聖女が統括する神殿に王城が関与できないのは、聖女に法が適用されないからだ。法は聖女を裁けない。だから神官長は、私に己を律する方法を叩き込んだのだ。

 そしてアデウスの聖女は同時に顕現しない。そう定まっている。初代聖女が、神の名を使い、そう定めた。聖女は一つの時代に一人だけ。私がここにいるのであれば、法が裁けない聖女は私だけ。

 初代聖女が定めた規律が、彼女の願いを阻む私を守るのだ。

 ドロータは青ざめ、その唇を震わせた。しかし、ぐっと噛みしめ、再度開く。


「……逆らえば、どうすると仰るのですか。あなたが隣に従えているのは、エーレ・リシュターク様とお見受けします。幼い時分より人を焼き殺すことに慣れていらっしゃる方。相手は罪人ばかりとはいえ、恐ろしい方。その方に、私共を焼かせようと仰るのでしょうか。武力で以て人を制すのであれば、当代聖女を名乗るあなたの格は、たかがしれているのでは」


 この状況下でなおも食い下がってくるので、少し笑ってしまう。私が軽んじられるのは別にいい。正しい判断だ。だが、神殿を、神官長を、エーレを軽んじるのであれば、それは彼女の判断の誤りである。


「確かに私は、彼に人を焼かせることを躊躇わないでしょう。ですが、それではあなた方も恐ろしいでしょう。ですので、教えてあげましょう。どうすれば彼に焼かれないのかを」


 それまで正していた姿勢を崩し、肘をつき、掌に顎を乗せる。


「神殿に、許可なく侵入しなかったらいいんですよ」


 人を食った笑みは、王子が相手を挑発するときに使うものを真似ている。だから、どこで使っても評判は上々だ。何せ結構な確率で結果が伴う。神官長からは怒られるが。


「または人を襲わなかったらいいんです。物を盗まなかったらいいんです。つまりは人に危害を及ばさなかったらいいんです。ようは、罪を犯さなかったらいいんです」


 くつくつと笑う。本当なら背もたれに背を預ける形でふんぞり返り、足を組みながら笑って見せたいところだけれど、如何せん身体が動かない。なので、とりあえずそのまま笑っておく。


「そんなに難しいとも思いませんが……それとも、あなた方には難しいのですか? ああそれは、法の下で生きる人間としてさぞかしご苦労為さったことでしょう。あなたが主と仰ぐ方の格もしれてしまいますし、大変だったことでしょう」


 ドロータの顔がどす黒い怒りに染まる。


「ですが心配ありませんよ。あなたのお話を聞きましょう。ここは神殿。アデウスの神と人を繋ぐ場所。よろしければ、私がご案内いたしましょう。何せ、先代聖女が終わった瞬間から、ここは私の神殿ですので」

「き、さまっ!」

「ああ、それともう一つ申し上げましょう。ベルナディアを聖女と掲げたいと願うあなたの祈りは結構ですが、神殿を蔑ろにするのであれば、それは聖女を蔑ろにすると同義では?」

「――……っ、失礼、いたしました。無礼をお許しください」


 どす黒い顔のまま何かを叫ぼうとしたドロータは、ぐっと堪えた。それが少し意外だった。

 耐えたと、思った。

 先代聖女派は、深くそこに沈んでいた人々ほど感情の制御が危うくなる。彼らはまるで、心を剥き出しにされているようだった。

 自身の誇り、培ってきた経験、見栄、恥、理性、理想。それら全てを剥ぎ取られ、剥き出しの、怒りと憎悪を抱きやすくなった心で日々を生きている。

 それはとてもつらいことだ。

 負の感情は、ただでさえ自身を剥き出しにしがちだ。負の感情表出方法にこそ、その人の為人が現れる。だからこそ私は今回、多用しているわけだが。

 決して、厭味を言える人間が強いわけではない。煽りを返せる人間が賢いわけではない。それらは簡単な方法だから誰にでもできるだけだ。

 厭味に厭味以外を、煽りで感情を曝け出させるのではなく対話で開かれる心を待つ人が、強く優しく、そして正しい。だからこそ難しく、尊ばれる。

 私はそんな存在には成り得ない塵屑なので、こんな方法しか扱えない。誰にでも簡単にできる手段しか選べないのだから、情けない話だ。だからこそ私は、塵屑のままなのだろうなと思う。

 そして、ドロータは耐えた。これは彼女が先代聖女派としての関わりが薄いからだろうか。否、そんなはずはない。先代聖女派の切り札であるベルナディアの付き人としてここにいるのだから。

 先代聖女の影響の仕方がよく分からない。静まりかえった部屋の中へゆっくりと視線を巡らせながら、常に答えを探さなければならない疑問として思考の隅に追加した。

 反応は様々だ。部屋に入ったときから変わっていない。

 ベルナディア・マレインは、ぼんやりと微笑んでいる。ドロータ・コーデは、憤怒を堪えている。アーティ・トファは、困惑している。ポリアナ・キャメラは、私を見ている。アノン・ウガールは、困惑している。アレッタ・ポルストは、エーレを見ている。ラダ・ルッテンは、動揺している。

 感情だけが充満する部屋で、一人が手を上げた。ポリアナだ。


「質問は許されているのでしょうか?」


 これまでの気さくな話し方とは打って変わった、静かな声だった。しかしそこまで意外でも無い。これまでの状況判断、そして対応。粗雑な物言いで覆い隠されてはいるが、そのどれも感情的に行動している人間とは真逆のものだった。

 調査報告書による経歴を見れば、それも頷ける。


「勿論ですよ、ポリアナ・キャメラ。聞きましょう」

「ありがとうございます。あなたが聖女であるというのなら、聖女選定の儀が中止されるのは真っ当な有り様でしょう。けれど、わたし達が拘束される理由をお話しいただけない理由は?」

「いまお伝えする必要性を感じておりません。あなたご自身のことを、ここでお伺いする必要がないように」


 ポリアナは僅かに目を開いた後、ひょいっと肩を竦めた。


「他に質問のある方はいらっしゃいますか? ――では、これで終わりとしましょう。皆様方、後程またお会いいたしましょう。それまでは引き続き、神官の指示に従ってください」


 エーレの手を借りて立ち上がる。できるかぎり可動域に問題を見せないよう。ただ神官を従えさせているだけのように。

 当代聖女が壊れかけだとは、あまり知られたくない。神殿外では勿論、神殿内にいる彼女達にも。

 先代聖女からどう見えようが別に構わないが、それとは全く無関係な元聖女候補が不安を抱くかもしれないのだ。聖女は民の不安を取り除き、私という存在は彼らの不幸の盾となるためにある。決して、不安を振りまくためにあるわけではない。

 私の意地で、少しでも安堵の要因を増やせるのならそれに越したことはない。


 雄弁な感情を背に受けながら、私はエーレと数名の神官達を連れて退出した。神官により扉が閉められた瞬間、背後から感情の爆発が音として聞こえてきたが、中に残っている神官達に任せよう。

 詰め寄られるために残っている神官達は、エーレ直属である歴戦の戦士達だ。体力より知識、口弁、根気、執念などに長けた面子である。正直、エーレと彼らが一緒になれば、王子でも引き分けに持ち込めるか少々怪しい。

 安心して後を任せつつ、扉が閉まると同時に私の自律歩行は終了した。サヴァスではないが、神兵に抱え上げられたのだ。

 これは最初から、神兵による運搬をお願いしているからだ。杖でもつけば歩行は可能だが、猛烈に遅い。無駄にできる時間など全くないのだ。

 エーレもさっさと私の頭がある側へと移動し、歩行を開始した。


「どうする」

「予定通り一人ずつ隔離した後……まずはポリアナ・キャメラからとしましょう。ここを放置すると、先代聖女であろうがなかろうが一番響く」


 両手で顔を覆い、深く息を吐く。ここが正念場だ。ここでの対応を誤ると、事態が停滞か、こちらに不利な状態で急変してしまう。

 そう思うと、全身に鉛が張りついたかのような重さがのし掛かる。私の崩壊に、神殿が連動してしまうのだ。あまりの重さに自壊してしまいたくなるほどだ。

 閉じた目蓋を薄く開き、自身の顔を覆っていた両手を見る。応急処置であろうと動くようにしてもらったのだ。動くのなら、動かねば。動かなくなっても、動かないと。

 道具は使ってこそ意味がある。神官長達は私を使ってくれないので、私という道具が使われることはない。だから私が使うのだ。私が私を使うのは、なんだか不思議な気持ちだけれど。

 だってどうしてだか、神官長に拾われてからずっと、私は私が使ってきた気がするのだ。だから不思議と不思議が重なって、なんだか当たり前のようにすら思えて、また不思議で。


「さあ、正念場ですね。頑張りましょう!」


 気合いを入れて両手と目蓋を開ききれば、猛烈に渋い顔をした神官達が私を見ていた。ここは、よしきたと皆で気合いを入れ直すところではなかろうか。


「今のお前を頑張らせている時点で、神殿は機能不全に陥っていると言われても反論できない」

「神殿は正常に稼働していますよ。初代聖女が自身の都合のように定めた形であるとしても、民が望む救いの形としてちゃんと機能しています」


 神官長率いる神殿は、民の祈りの先を守ってきた。瓦解しかけていたその場所を守り切ったのだ。


「だって民にとって、神も神殿も、最早同義でしょう?」


 先代聖女は自身に異様なまでの信仰を集めた。そして聖女とは神殿に宿るものと、民は認識している。だって神殿は聖女の家なのだ。神は聖女を選び、聖女は神殿に位置し、神殿は民を受け入れる。

 民の祈りの先も、救いの先も、神で、聖女で、神殿だ。

 実際は全く違うものであっても、民はそう認識している。その神殿が、正しく美しく存在してくれる。それは紛う方なき救いだ。

 祈りの先が惑えば、救いが乱立する。人は乱立した救いに混迷し、地獄を救いと取り違え始める。

 いま手にしているものよりもっといいものがあるかもしれないと、他者が手にしているもののほうがきっといいものだと。自身の幸いの先に惑い、他者の幸いを最も素晴らしい幸いだと誤認した瞬間、その生は地獄の歩みとなるだろう。

 救いとは、素朴で単純なものから突然零れ落ちてくる。だからこそ、人だけがそれに難癖をつける。救いを高尚で絶対的なものだと思い込んでいるがために、こんなに簡単に手に入るわけがないと、こんなすぐ傍から落ちてくるはずがないと、一人で勝手に惑うのだ。

 これまでアデウスが平和だったのは、祈りの先が惑わなかったからに他ならない。


「神官長の神殿はずっと美しかったですよ」


 人の救いで在り続けられるほどに。

 それが嬉しい。自分の功績でもないのに誇らしい。


「ここはお前の神殿だ」


 エーレの手が、私の頬にかかった髪を耳へと流す。


「神官長はお前の神殿を整え、守ったんだ」


 その手の温度と鼓膜を震わせる音は、同じほどに温かい。柔らかな温もりは、鈍い痛みを私に与え続ける。

 私は人ではないけれど。私は人に生まれることはできなかったけれど。

 この人達と同じ時代に稼働できた。その事実があるだけで、私はこの世界に存在してからずっと幸せだったと思えるのだ。







 厚い壁と重い扉。神殿には牢屋以外にもそういう部屋がいくつかある。

 その内の一室。五人が向かい合える机を縦に挟む形で、向かい合う。何人もの人間がいる中、座っているのは向かい合う私達だけだ。

 見た目の同じ椅子は、私のほうは軽く、相手のほうは酷く重い。咄嗟に引けるよう、急には立ち上がれぬよう。

 たっぷりとした青髪が特徴的な人を前に、私は最後の最後まで決めかねていたことに決着をつけた。


「ポリアナさぁん、困りますよー。国境付近でウルバイが大規模演習を始めているこの情勢で、ウルバイの傭兵がその身を明かさず神殿にいるのは」


 ばさばさ振った聖女候補身元調査の束を手元に投げ出し、その隣にべったり頬をつけた私に、ポリアナは面食らった顔をした。


「……おや、まあ。いいのかい? そのあたしの前で、聖女様の振り止めちまって」

「私がどういう行動を取ろうと、私が聖女である以上結果としてそれが当代聖女の行動になりますから、特に問題はないかと」


 もう一度、改めて面食らった顔を見せたポリアナは、徐々にその相貌を崩した。震わせた肩を盛大に背もたれに預け、大きく口を開く。


「あっはっは! そりゃそうだ! あんた、最初からそう言ってたもんね!」


 机をばんばんと叩くその手は、傷が多く厚みがある。決して大きいと言えるわけではない掌は、彼女の人生を示していた。

 ポリアナ・キャメラ。職業傭兵。十三才の時分よりウルバイに居住。

 本名ポリアナ・クルーム。十年以上前に断絶した、クルーム元子爵家長女。

 出身、アデウス。



「で、いきなり牢獄行きじゃなかった理由でも聞こうかね」


 ポリアナは笑いすぎて滲んだらしい目尻を拭いながら、前のめりに近い体勢でついた肘に顎を乗せる。私は身を起こし、背筋を伸ばしながらにこりと微笑む。


「王城に引き渡されるのと、我々に情報を提供するの、どっちがいいですか?」

「あんたらに情報を提供した後、王城に引き渡されない保証でもあるってのかい?」

「現在神殿には、今朝この事件の全権を任された第一王子の友人が二人いるんですよね」

「豪儀だね、そりゃ」


 さっき投げ出した調査書を持ち直し、端を揃えて置き直す。


「流石に、この後王城からの取り調べくらいは受けてもらう予定ですが、身元を引き渡すか否か、権限は私にあります。というわけで、どうします?」

「さぁて、どうしたもんかねぇ。命惜しさに雇い主売ったとあっちゃぁ、どっちにしろ傭兵で食っていけなくなっちまうからね」

「用心棒でよければ職の斡旋もできますが」

「へぇ? あんたを守れって?」


 挑発的な笑みが様になる、手慣れた表情をしている。しかしどこか厭味のないさっぱりとした感情が見えるので、サヴァスを思い浮かべてしまった。サヴァスは常にからっとしているか、しょぼんとしているか、爆音出しているかのどれかであるが。


「いいえ、未成年保護義務法により設立された保護機関での用心棒です」

「――は?」


 人手不足なのである。


「詳細としましては、拳、鈍器、刃物などを振り回しながら怒鳴り込んでくる保護者を名乗る何かなどから、子どもは勿論職員も守っていただくお仕事です。警邏とも連携していただきますが、身体を張っていただくお仕事なのと時間制で夜間の勤務もあるので、賃金は平均収入より高めに設定されています。所長は甘い物好きなので、職員へ頻繁にお菓子のお土産があります。後、子ども達が手紙とか描いた絵とかドングリとか虫とか葉っぱとか枝とかくれます。後は、えーと」


 慢性的に、深刻な人手不足なのである。

 この仕事の利点を真剣に並べていると、だんだんポリアナは背を折り曲げていった。その背は小刻みに震えている。待ってほしい。海老は王子だけで充分なのだ。

 弾けたように大笑いを始めたポリアナの声は、静かな会議室に響き渡った。


 彼女が落ち着くまでそれなりに要した時間が無駄だったとは思わない。上げられた顔を見て、そう思った。

 そこにいたのは、傭兵ではない。かつて子爵令嬢だったその人が、まっすぐに私を見ている。


「本当に、先代聖女の罪を暴いてくださいますか」


 かつてこの国で子爵令嬢だったその人は、そう言った。

 かつて、先代聖女を害そうと企んだ罪として、先代聖女の付き人を務めていた母親のみならず父親までもを処刑され、一族郎党離散した先で幼い弟妹を亡くしたその人は、そう、言った。

 この目は、この光は、先代聖女を宿した人間には紡げない。ポリアナが宿す光は、先代聖女に壊された人間が宿せる怒りではなかった。

 剥き出しにされた心から反射のように感情を放出する先代聖女派の怒りとは全く違う。長く静かに煮詰め続け、深く沈めていたそれが今、浮上した。ポリアナが、浮上させたのだ。

 私には、この感情に答える義務があり、この祈りに報う願いがある。


「無論です。当代聖女は、先代聖女の罪を白日の下へと曝し、アデウスをあなた達の手に返すために存在するのですから」


 ポリアナはゆっくりと、けれど滑らかに頭を下げた。その動きは傭兵のそれではなく、洗練された貴族令嬢の、美しい礼だった。








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