<< 前へ  次へ >>  更新
84/84

84聖



 神力による篝火は、夜の闇も冷気も通さない。日の光とは違う色をしているが、それでも昼間のような明るさを保ったまま、協議は続いた。

 王城側はほとんどの兵士を下げた。同時に神殿も神兵を下げている。

 そうは言ってもエーレのように神官が戦闘能力を有していないわけでないのだが、それでも兵としての立ち位置が強い存在を互いに下げたことに意味がある。

 言葉では誰も紡がない。王城は神殿への言質を重く警戒する。しかしその行為は明確な、私達への信の証だった。


 協議は長く続いた。始まりのように、牽制や疑念からではない。ただただ、議題が難儀すぎたのである。だがそれは最初から覚悟の上だった。

 どこまで国民が耐えられるか。情報開示の境界調整には一番時間を使った。ただでさえ先代聖女を敵と定義することに抵抗感を持つ国民が多いところに、人には想定すらされていない恐怖を叩き込まなければならないのだ。開示範囲を間違えば、アデウスは人の内から瓦解する可能性も否定できない。否定できないどころかその危険性が高すぎる。

 何せ他国から見たアデウスは、人材含め資源溢れる夢の国なのだから。

 現にウルバイが大変きな臭い。神玉が優秀な呪具に加工できると判明した今、それらがウルバイに流されていた事実が効いてくる。しかしそれを流したサロスンの弱みを握れた強みが効いてくるのもまた事実。

 どの事象をいつどこで誰にどう使うか。これが協議を進めていく上で重要となる。まあ、星落としみたいなものだ。

 ひとまずの結論が出たとき、朝はもうすぐそこまで来ていた。


 国民には段階を踏んで情報開示を行うことは当初の予定通りだ。第一段は、神力喪失事件、当代聖女忘却事件、主犯が先代聖女。ここまでである。

 これだけでも相当な情報量なので、アデウス国内ではそれ相応の混乱が巻き起こるだろうことが予想されている。

 だが致し方ない。この三つは情報開示の上でどれも外せないのだ。神力喪失事件の規模は増す一方で、既に隠しようがない。犯人の目星がついていないと錯綜し凶暴化した混乱がそのままかそれ以上の大きさで、怒りとなってこちらに飛んでくる。

 事件発見と犯人の目星をつけた功績を引っ提げておかないと、敬愛する先代聖女を犯人呼ばわりする謎の当代聖女がどこからか登場する形となり、混乱と不安の矛先がこれまた攻撃という形で当代聖女と神殿に向いてしまう。

 それが共同発表した王城にも向いてしまえば、アデウスは全土で一致団結しても太刀打ちできるか分からない強大な敵を前に、真っ二つどころか木っ端微塵に割れてしまう。

 というわけで、ここが落とし所として妥当だろうと纏まった。無難である。その無難な結論を出すまでにかかった労力を思うと嘆きたくなるが。

 しかしそれも仕様がないことだ。どこかに抜かりがないか、希望的観測で被害を低く見積もっていないか。思考の無意識下に現れる楽観がどこかに潜んでいないか。徹底的に洗い直しておかないと、始まりから致命傷になってしまうのである。

 細かいところをきっちり詰めるまでは到底時間が足りなかったが、ひとまずお互いの方針を把握した上で足並みを揃えられるくらいにはなったはずだ。ある程度共有できていれば、私や王子がいなくても大きく方針から外れることはないだろう。

 場を締めたのは王だ。神殿以外の全員が頭を下げた。神殿と王子は浅く、全ての頭が下がった後、王と私だけが正面を向いたまま、協議は終わった。




 王は護衛と側近を連れて王城へと戻っていった。残りの面々は、座しているか立ち上がっているかの違いはあれど、場に残っている者がほとんどだった。

 疲れたから少し休んでから戻ろうと、なんとなく疲労回復をしているように見せてはいるが、そんな理由ではないことは明白だ。

 突如現れた、しかし突如ではなかった当代聖女の為人を見ておきたいといったところだろう。

 まあ私は人ではないので、どんなに観察しても為人は分からないだろうし、姿形は服を着ているから分からないはずだ。ひとまず私からの敵意はないことが分かってもらえれば大体事足りると思っている。

 鑑定されることも品定めされることも慣れている上に、元々特にどうとも思わない。姿形を知りたければ服を全部脱げばいいし、品質を見たければ髪でも肌でも持っていけばいい。

 私にはそんなことより意識を向けなければならない問題があるのだ。


 私は、場が解散し、人が散会し始めようやく空気と音が動き始めた狭間の庭の中、こちらに向かってくる人々を確認し、静かに覚悟を決めた。

 否、まだちょっと覚悟を決めきれない。ちらりと視線を向けて再確認した顔ぶれを前に、思わず笑いが漏れる。リシュタークにリシュタークにサロスン。わりとどれも、どうしようこれ案件である。

 どうしようと思っていても事態は変わらないので、とりあえず覚悟を決めていた私の隣の椅子が引かれた。


「はっはっはっ、今日も見事な満身創痍だな、聖女」


 真っ先に机を回ってきて、さっきまで神官長がいた場所に座った王子は今日も元気だ。王子は私の肩に腕を回し、顔を寄せる。


「王子、肩を組むの私は別にいいんですが、そちらの方々は今にも卒倒しそうですよ。この罅も生えている花も、内部崩壊からくる自滅の類いなので感染などはしないと一応お伝えしていますが、後でもう一度念を押しておいてもらっていいですか? 王子の顔に罅を入れたとあっては、色んな意味で大問題です」

「顔に罅か……なかなか小粋ではないか? それに感染症の類いであれば、とうの昔にエーレの顔に罅が入っているであろうな」

「そうなったら国難ですよ。別の意味で暗殺者殺到です」


 しかしエーレのためであろうと、私に向けた暗殺者を阻むのは、私の影であるエーレである可能性が高い。誰の想いも報われない悲しい結末となりそうだ。

 それはともかく、護衛含む側近の方々、ついでに第二王子が可哀想な表情となっている。王子は第二王子と肩を組んであげればいいと思う。

 第二王子とはあまり話したことはないが、私と王子が何故か噂になった時分に偶然会ったとき、「兄上は、家族にご興味がおありではないからな」と寂しそうにしていた。

 ちなみに王子は興味があろうがなかろうが、基本的に用事がないと会いに来ない人である。

 王城側はわりと絶望的な顔を隠し切れていないが、神殿側は平常通りだ。神官長もエーレもとうに席を立ち、王城側の面子と社交と世間話の顔をした責任の所在合戦を繰り広げているところなので、神殿側に第二王子達と同じような顔をしている人はいない。さっきエーレの存在を確認した政務官と話しているエーレの背中が若干燃えている気がするが、気のせいということにしておこう。


「余と聖女の友情を示しておいたほうがよかろう。まあ、余は覚えておらんがな!」

「これで王子に何かあったら、また私が寝首かいたって言われそうなんですよねぇ」

「ほお? そんな愉快な話を余に隠していたとは。不敬ではないか、聖女よ」

「忘れてるの王子なんですけどね。それに大して愉快でもありませんし。あれですよ、王子と空き部屋で昼寝してたら王子由来の暗殺者が来ちゃって、私が手引きしたとか王子の子種もらおうとしたとか、王子が私を手籠めにしようとしたとか先代聖女派と手を組んだとか、なんかそれまでの鬱憤だの暇潰しだのが錯綜して大荒れになっちゃったんですよ。最終的には、エーレを巡る私と王子の三角関係で落ち着きました」


 そして私の脳天は毎日七回くらいはかち割れ続けた。エーレ曰く、エーレと婚約した人間は他人と同じベッドで寝てはいけないらしい。つまり私か王子が床で寝ていたらよかったのだ。

 次回から気をつけようと思っていたのに、その件も忘れていたので同じ失敗を繰り返してきてしまった。今度から気をつけようと思う。

 今度が来るような明日を迎えられるかは知らないが。


「王子、海老になりかけてますが要件言ってから海老になりません?」

「一国の王子を活きのいい海老呼ばわりするは聖女くらいであろうな」


 活きがいいとは別に言っていないが、現に活きがいいので訂正する必要はなさそうだ。

 活きのいい海老は、私の肩に回していた腕を更に引き寄せた。これ以上は身体の傾きを維持できず、王子に凭れる。


「陛下はこの件より手を引かれるおつもりだ」

「病と怪我、どちらできますか?」

「また一つ陛下の持病が増えるであろうな。平和な時代に息を潜めていた革命児となる胆力をお持ちではないのだ、致し方ない。――明日、先代聖女をアデウスの敵と公表した後、陛下は病に倒れ、余が全権を託される」

「分かりました。陛下の病は先代聖女の呪いやも……的な雰囲気作りに勤しみますね」

「流石聖女、話が分かる」

「この会話で聖女判定されたことに関しては、先代聖女にはっ倒されても文句言えない気がしてきました」


 小さく笑った後、王子はすぐに愉快げな笑い声を高く上げた。

 私に回していた手を離し、ついでに元の傾きに直していく。その後、切れの良い優雅さで立ち上がる。


「さて聖女、互いの仕事を回そうぞ――人事を尽くして天命を待つ、と、言うべきか?」

「天命の先が、神基準しか持ち得ない神と呪いの先代聖女になるので、今は天命を待たないほうが無難かと」

「であろうな。ではな、聖女」

「王子もお気をつけて」


 既に向けられている背に向かい言えば、王子は慣れた手つきで裾が絡まらないよう再度踵を返した。そうして腰を折り、同じ位置に肩を回してきた。


「そなたはこの後が一番の難関であろうなぁ」

「そうなんですよねぇー! 王子がエーレに許可出すからですよ!?」

「数少ない友の頼みだ。これを弾けば王子が廃るというものよ。それに」


 ちらりと視線を向ければ、流石に王子が陣取っている間は待ってくれているリシュターク家のお二方と、その二人と談笑しているサロスン家が見えた。談笑しているのは当主代理だけだが、些末事であろう。

 しかし王子が見ているのはそこではないことは分かりきっていた。サロスン家三男が絶えず視線を向けているその近くで、政務官をやり込めている人だ。


「人生を砕いてもいいと言い切った男の決意を無碍にしては、それこそ男が廃るであろう?」


 王子の笑顔は珍しくない。だが、感情の動きは、それを瞳に出すことは決して多くない。執着の持ち方を、在り方を。知らないのか分からないのか、自分でも定かではないこの人が誰かに憧憬を抱いたとき、その瞳はきっとこんな色をするのだろう。

 一度目蓋を閉ざした王子はすぐに開き、背を伸ばす。そうしてさっさと踵を返し、今度こそ振り向かなかった。

 会話が届かない距離に留まっていた第二王子とその側近達と一緒に去っていった王子の背中を見送りつつ、そういえばエーレが静かだったなと視線を向ける。珍しく怒ってないのかなと思ったが、いつも通り怒っていたので何の問題もない。


「浮気者」

「今までのどこに浮ついた気の現れる要素が!?」


 いつの間にか隣に戻ってきていたエーレは、今日も元気だ。普段ならそろそろ体力が尽きているはずだが、気力だけで保たせている気配が漂っている。ちなみにさっきまでエーレと話していた政務官はよれよれになり、場を離脱していく。何かしらやり込められたらしい。


「ちなみに俺がお前を燃やしていないのは、兄上達が俺達の不仲を疑うと面倒だからであって、浮気を許したわけじゃないぞ」

「……つまりお兄さん達の前で喧嘩をすると、リシュタークが婚姻解除に乗り出してくれる?」

「立ちはだかるのもリシュタークだぞ」

「世界って不思議に満ちてますよね……」


 お兄さん達がいるから大変なことになりそうなのに、お兄さん達がいるから大変なことになる一歩手前で抑えられている。

 そしてどうして私は、先代聖女に全く関係ないところで窮地に陥っているのだろう。

 ……否、そもそも窮地に陥る必要などないではないか。私がすべきことは、最初から決まっているのだ。

 お兄さん達は、既に歩みを開始している。サロスン家は謁見待ち状態として、やんわり遮られていた。神殿に弱みを作ったサロスンは、現状リシュタークより前には出られない。

 そうして、私の前で揃ったリシュターク家三兄弟の兄二人に向け、私はゆっくりと口を開いた。


「あなた方の愛し子たるエーレを誑かして本当に申し訳ありませんでした!」


 全力の謝罪、これ一択である。

 普段であれば全力で頭も一緒に下げるのだが、王城側の面子が残っている場所で聖女が頭を下げるのは大変まずい。協議自体は終了しているが、ここはまだ公の場なのだ。

 そんな私の謝罪に対し、長兄は無言無表情を返し、次兄は笑みを濃く浮かべる。末っ子? 私の隣でどうでもよさそうな顔をしている。見てほしい。これが当代聖女に誑かされ、盛大に人の道から外れようとしている男の顔である。

 悲壮感が欠片もない。


「俺を誑かした責任を取るそうです」

「今の謝罪がそんな結論に!?」

「へぇ……僕達の可愛い弟を誑かしておきながら、責任を取らないと。兄上、どうしましょうね。これは」

「責任の取り方として婚姻解除をですね!?」

「君は、私達の弟を愛してはいない、と?」

「私のような存在ならば、相手からの消失だけを愛と呼ぶのでは!?」

「誑かした挙げ句、俺を捨てると」

「ここからまた同じ会話が一周しそうな予感がするんですが!?」


 末っ子、次男、長男と巡り、末っ子に戻ってきた結果、ほぼ同じ会話がもう一週繰り返された。酷い時代、互いを抱きしめ乗り越えてきただけあり、この兄弟、息がぴったりだ。


「ラーシュ、コーレ」


 後ろからかけられた神官長の声に、対象の二人は身体の向きを変えた。神官長は疲労を隠し切れていないが、穏やかな表情を浮かべこちらに歩いてきた。疲労を隠し切れていないのはこの場にいる全員がそうなので、誰も気にかけられていない。


「もう夜も明けるため多くの時間は取れないだろうが、休む時間を取れそうかね? 君達はいつも無理をしているのだから、少しでも身体を休めなさい」


 神官長以外。

 流石神官長だ。何時如何なる時も人としての決断を間違わないこの人の存在を知っている。それだけで誰かの救いとなるほどに、ディーク・クラウディオーツという存在が齎す安心感は凄まじい。

 現に、名を呼ばれたリシュタークの二人の雰囲気は急速な緩みを見せた。柔らかく、穏やかな気配を纏う。顔つきまで少し幼く見えるほどだ。


「お気遣いありがとうございます。神官長こそ、疲れた顔をしていらっしゃる。どうかご自愛を」

「そうですよ、神官長。もう若くないんですから」


 返された言葉に、神官長は苦笑した。


「君達は相変わらず優しい子だ。十代の子達すら休ませてやれない私の至らなさを、君達は責めていいのだよ」

「神官長が倒れたら、余計にエーレが休めないじゃないですか」

「コーレが失礼を。そろそろあなたへの贈り物を、健康に関する物にしようと調べているというのに、素直になれないようです」

「兄上」


 リシュターク家は、家族ぐるみで神官長と仲がいいのだ。羨ましい。そもそもこの兄二人が、信用も信頼もしていない相手にエーレを預けるわけがない。

 神官長が二人と話している隙に、エーレの手を借りて立ち上がる。エーレがよいしょと立ち上がらせてくれる一連の動作も、だいぶ手慣れてきた。介護と呼ぶべきか介助と呼ぶべきかは分からないが、エーレの物覚えはこんな所でも遺憾なく発揮される。


「お兄さん達、神官長と会えて嬉しそうですね」

「神官長は、兄上達が懐いている数少ない年上の人だからな」


 人の欲に掻き回される生を知っている人間にとって、正しく背を伸ばし、誠実に前を見据え、美しく歩く大人がいる。まるで当たり前のように、しかしそれらが人の道理だと定めたゆえの行動であり、そうあろうとしている事実が。

 そんな大人がいると、その存在を信じさせてくれる。

 それがどれほどの救いになるか、恐らく神官長が一番分かっていない。この人はもっと自分の価値を理解してほしい。自身が他者から向けられる敬愛と親愛の情にもっともっと敏感になってほしいものだ。それなのにいつも無理をするので、周りはいつもやきもきしている。

 神官長はもっと自分を大事に守り、甘やかしてほしい。そうしてくれたら、私達はとても嬉しいのに。


 エーレに支えてもらっていても、立ち上がるとやはり疲れてくる。ずるずると落ち始めている私の身体を抱えるように持ったエーレに悪いと思いつつも、そっちに傾く。エーレは、よろめきつつも怒らず抱え直してくれた。

 人の温度は温かい。その温度と自分の温度が混ざるように重なったときが一番、他者の存在を明確に感じるように思う。離れているときより混ざっているときのほうが鮮明だ。

 夜が終わろうとしているこの時間、今の今まで神経をすり減らす協議を行っていた人々の間には共通の倦怠感が漂っている。それでいて妙な陽気さもひょこひょこ顔を出している。

 祭りの始まりのような、失敗できない壇上前のような。何かを控えている前のように浮き足立っているようであり、居ても立ってもいられない焦燥が駆け巡っているようでもある。酩酊感に似た独特の不安定さが残る空気だ。

 この空間は、人でなければ作れない。そこに交ざっているような気持ちになるのは、エーレの体温が混ざっているからだろうか。

 人だけが作り上げられる空間を、私の大切な人達が作っている光景を見ると、いつも思考が揺れる。身の置き場のなさと、安堵に似た心地よさが不安定な精神を作り出す。

 その精神は不快ではないのに、うれしいのかさみしいのか、わからないのだ。


「……マリヴェル?」


 人の気配は騒がしい。命の躍動はけたたましい。まるで太陽のように。命を奪い育み、燃やし慈しむ。


「私はどうして」


 人として生まれてこられなかったのだろう。

 その思想を、音として世界に放つことはできなかった。それが私の意思だったのか意地だったのか、それともただの禁忌だったのか。私には分からない。

 けれどどうでもいいことだった。私が何を思おうが、世界は何も変わらない。私という存在は世界に何の影響も齎さない。先代聖女という災厄による嘆きを、アデウスの民に齎さないために創り出されただけなのだから。

 そんなこと最初から分かっていた。そこに不満や嘆きなど一つもなかったのに。


 言葉を続けなかった私を、エーレは問い詰めなかった。

 そろそろ夜が明ける。つられて寄ってきた篝火によって視認できていた虫達の姿は、逆に篝火に近づくにつれて視認しづらくなってきた。

 人の動きによって未だ冷気を纏った夜風が掻き混ぜられ、時々ここまで届いてくる。それでも人は温かい。エーレはずっと、温かいのだ。


「未来と呼べる先まで稼働が保証されていない私と、あなたの未来を繋げるべきじゃないんですよ。そんな物にあなたの生を費やしてほしくないと思う気持ちは、愛と呼んではいけないのでしょうか」


 私の大切な人達が生きている音が、寝静まった世界を騒がせている。声も、作業音も、衣擦れの音も、生を紡いでいる音も。そのどれもが美しい。夜に光を灯し、静寂に音を宿す。この営みの中で生きていってほしい。これらに弾かれる異物は私だけなのだ。


「お前に限らず、命はいつか死ぬ。誰の明日も保証されていない。お前も俺も、何も変わらない。終わるものと生きることに価値がないというのなら、この世に価値ある生は一瞬たりとも存在しないぞ」


 分かっている。命はそれだけで価値があり、尚且つそもそも命に価値という基準は存在しない。それに私だって、エーレに価値があるから好きなのではない。価値があるから幸せになってほしいわけじゃない。


「……エーレはどうして、私のために生きようなんて思っちゃったんですか」


 いくら言葉を積み重ねてもらっても、いつも疑いようのない行動を取ってくれていても。

 到底納得なんてできない。分からない。エーレほど賢明な人が、どうしてと。どうしてこんな、奈落の底へ堕ちる道を。

 この人をそんな場所へ引き摺り落とす可能性を排除したい。そんな願いを、諦めきれない。

 未来の約束は、未来が確定されてからでもできるじゃないかと。真っ当な命が溢れるこの世界で、どうしてよりにもよって。

 何度も同じことを繰り返す私に飽いてくれたらいい。その度言葉も想いも尽くしてくれるのに、それら全てを蔑ろにする私を疎ましく感じてくれたらいい。

 いい加減にしろと、何度同じことを繰り返すのだと、鬱陶しいと怒ってくれたらいい。そうして徐々に重荷に感じ、手放してくれたらいい。

 だってそれが当たり前なのだ。それが正しい形なのだ。日が空にあるように、星が夜に瞬くように、当たり前の形なのだから。

 私は私だけで皆を愛せるし、エーレを好きでいられるのだから、それでいいじゃないか。叫びだしそうな痛みも、砕け散りそうな苦しみも、吐き戻しそうな絶望も、私の愛する人達には何の関係もないのだ。

 皆から手を離してもらえる安堵に比べたら、私の崩壊などどうでもいいじゃないか。嫌だと、一人にしないでと、呪わしくしがみついてしまう前に早くそうしてほしいのに。

 今だって、もう。

 私も、人に生まれたかっただなんて。

 願いと呼ぶにはあまりに滑稽な、笑い話と呼ぶにはあまりに、あまりに、命に対して侮辱的な思考が。私の奥で、人が作り出した文字や音になりたいと、のたうち回っているのに。

 言葉にも文字にもしてはならない、自分の中で言語化してはならない物が、何を馬鹿げたことをと、自分を嘲笑う行為にも、もう、疲れ果てるほど。


 穏やかに会話を続けている神官長を見ながら、息をする。命を紡いでいる人達の中で、私だけが稼働する。

 エーレも私と同じ景色を見ている。この気怠い喧噪が漂う世界にいる権利を、エーレは手放してはならない。


「神々しい存在は、幾つか見た。それこそ、神そのものに至るまで」


 それが世界の申し子たる証明だろう。この時代の神殿に集った人々の才、平和な世には不要なほどの資質を持った王子。幾度も神と邂逅し、愛された子。

 神と時代は、きちんと世界を維持する術を構えていた。

 それなのに。


「だが、これが聖なる存在なのだと思ったのはお前だけだ。お前だけが、そう思えたんだ」


 どうしてそんなに穏やかな顔で笑うのだ。


「これは害されてはならない存在だと、この存在を美しく整えることが人の責務だと思った。お前を保つことが、人が人であるゆえの理だと、そう思った」


 どうしてそんな瞳で、世界を裏切るのだ。


「お前が生きていけないのならそれは世界が間違っているのだと思った。お前が砕かれるのならそれは人の罪だと思った。そうして、お前が笑っていられないのなら、そんなものをお前に届かせたのなら、それは俺の罪だと思った」


 ああ、神様。


「そこまでなら信仰心で終わらせられた。だが結局はこのざまだ。お前と他の男との幸せを願えなかった時点で終わりだろう」


 どうしてこの人なのですか。


「俺の生に泥を投げつけてくる奴らを引き寄せた生まれも、顔も身体も、その全てがお前の役に立つのならそれでいいと思えた。他の誰でもない、俺が持って生まれた物が役に立つのなら、誇らしいとさえ。言っただろう、マリヴェル。俺が他者より恵まれたもの全て、その全てがお前の物だ。お前のために俺がいる。そう思えたことが、俺にとってどれだけの救いであったのか」


 どうして、どうしてこんな人が。

 私の発生から消滅まで、傍にいてくれるのだろう。


「敬虔たる神子であったお前を、人である俺の欲で引き摺り落とした。それはきっと大罪だろう。だがそれがどうした。罰を恐れる程度で、俺がお前を諦めるわけがないだろう。その程度の熱で、自分の神と定めた女に惚れるか」


 身体が重い。心が軋む。神様がくれた身体が機能を終えかけている。エーレ達がくれた心が悲鳴を上げている。


「………………神の愛し子として生まれてきた人が、何てこと言うんですか」

「それでお前の唯一を得られるのなら安い代償だろう。生まれたときから恵まれていた俺は、大抵のものが手に入る。ゆえにこそ強欲だ。何せ諦めることを知らない。俺のように強欲な人間に目をつけられた自分の不運を嘆け」

「……エーレはきっと、私より馬鹿です」

「残念だったな、お前の男だ」


 どうしようかな。どうしたらいいのかな。この人から私を切り離さなくてはと焦げ付くほどの焦燥があるのに、酷い倦怠感が身体を覆っている。その倦怠感が、つらくも不快でもないのだからこそ、耐え難い。

 他者を抱きしめ、抱きしめられているゆえに動きづらい。その窮屈感に近しい不便さで、苦しい。





「しかし、君達がエーレの婚姻を後押しするとは思わなかった」


 いつの間にか、神官長達の話題はエーレの戸籍の話になっていた。

 神官長はずっと困った顔をしている。兄二人は顔を見合わせ、エーレを見た。


「僕達も寝耳に水でしたし、本来なら厳密な調査と検討を重ねますけど、ご存じの通り僕達はエーレに甘いんですよ」


 ひょいっと肩を竦めたコーレは、やれやれと首を振りながらラーシュに凭れる。


「ですよね、兄上」


 ラーシュもゆっくりとエーレを見つめ、細めた瞳を神官長へと戻す。


「ああ言われてしまっては、私達に止める選択肢は生まれませんでした」


 静かに笑ったラーシュの顔は、どこか神官長に似ていた。




 穏やかな二人の視線を受けた神官長は少し驚いた後、柔らかく微笑んだ。事情は分からずとも、相手が心穏やかに過ごせることを喜べる人なのだ。私は神官長がこんな顔をしている時間がとても好きだった。きっとこれからも、私が稼働している間、ずっと好きなのだろう。

 神官長はエーレが二人に告げたという言葉を問いはしなかった。けれどエーレは口を開く。それは私への攻撃と成り得るのだけれど、エーレは私への攻撃を躊躇わないどころか推奨行為として優先的に行うのである。

 そういう人なのだ。この人の、そういう優しさを愛してしまった私以上の大罪を、人の子らは侵しようがないだろう。


「俺はマリヴェルを愛して初めて、誰かの為に生きることが誇らしく思えたんです」

「ああそれは……とても、幸せなことだ」


 まだ夜も明けていないというのに、朝日のように柔らかな温度で浮かべられた笑みがぼやけ、その熱で開けていられなくなった目蓋を閉ざす。

 熱くて痛くて苦しくて、幸せで恐ろしくて悲しくて。人形はこんな、自分が解けるような熱を流すべきではない。

 誰かがかけてくれた白のベールの中、それでも私は世界を見つめることなく熱を落とす。

 この熱を抱えて終わることこそ、私が犯した罪への報いだ。

 そしてこの熱こそが、神官長達が私に与えてくれた祝福だった。









<< 前へ目次  次へ >>  更新