80聖
「お前さん達さ、なんでちょっと目を離した隙に結婚してんの」
最早驚愕すら浮かばないらしいヴァレトリの、ただひたすら呆れた顔と同じ呆れ声を聞きながら、私は私を運搬するサヴァスに揺られている。
「いやぁほんと……なんでなんですかね?」
この件において戦犯である人へ視線を向ければ、息も絶え絶えだった。ヴァレトリがその口元に耳を近づけ、呼吸から声を拾う。
「……王子と温泉入れさせないためぇ? 何? お前さん寝ぼけてる?」
「熊とか猪とかも一緒だったんですけど」
「分かった。お前さんも寝ぼけてんだな」
「まあ、私の存在は神様が二度寝中に見てる夢みたいなもんですしね。それはともかく、エーレ大丈夫ですか?」
「…………………………」
大丈夫じゃないらしい。
それはそうだろう。何せ今の神殿は最大出力で動き続けているので、皆休息すらろくに取れていない。
そんな中、私達は霊峰を登っているわけで。
この霊峰は明日からの聖女選定の儀の舞台となる。しかし、だから登っているというわけではない。勿論整備や警備の問題などを含めての人員は入っているが、それはもっと下降のほうだ。
私達が目指しているのは頂上付近である。
つまり、エーレが瀕死にならないわけがなかった。
「――水じゃない?」
神官長含む神殿の大勢力が山登りに勤しんでいる事の発端は、ヴァレトリのこの発言から始まった。
神殿が私を当代聖女と掲げ稼働を始めると同時に、今後の方針について当然話し合っている。その中で、国中にかけられた忘却の術を、ヴァレトリはそう読んだ。
水を飲まない人間はいない。赤子から老人まで、誰一人として水を離れては命を繋げない。
直接的に術をかけるすべばかり考えるから、行き詰まるのだ。
規模はともかく、全員平等とも呼べるほど均等に行き渡らせるのであれば、水を使うのは理にかなっている。
それだけの規模の呪いを維持し、振りまき続けている仮説に対しあり得ないと断じられる人間は、最初からここにいない。もうどうあってもあり得ない、そしてあり得てはならなかった事態は現実としてここにあるのだ。
今更、そんなことはあり得ないと不可能を掲げようがどうしようもない事態だと、誰もが分かっていた。あり得ないけれどあり得ているので、どうやってあり得ているのかを考えなければどうしようもない状況に陥っているのだから当然である。
そしてあり得ない事態が立て続けに起こっているから、猛烈に忙しいのだ。
もしヴァレトリの仮説が正しければ、ずっと手がかり一つなかった皆への忘却に、何か、何か対策が打てるかもしれない。
もしかしたら、打開策が……解決が、見込めるかもしれない、と。
そう思えば訪れる、胸が跳ねるような、軋むような、掻き毟りたいような逃げ出したいような叫び出したいような、感情という名の反射。胸の底がぱかりと開き、だだっ広い空洞が広がっているような飢餓感と、ぎゅうぎゅうに詰まった何かに喘ぎ、吐き気を催す程の限界感がせめぎ合う。
それらに浸る暇がないくらいといえば、どれくらいの忙しさは分かってもらえるはずだ。
あと結婚。
どうしよう、これ。
私に許された反射の域を超えた感情に対する感想が吹っ飛ぶくらい、どうしよう。
私が人の子の生を侵害するなどその可能性を示唆することすら許されていないのに、その人の子自身が常軌を逸した勢いで侵害されに来る。
暗礁を作り上げている周囲一帯を燃やしてほしいけれど、その炎を持つ人が暗礁に旗を立てているのだ。何一つ悪びれもせず、暗礁を領地として宣言している。
大惨事以外の何物でもない。
そして、それすらもとりあえず置いておかなければならないほど、今の神殿は忙しいのである。
アイシング・クッキー、じゃなかった、フェリス・モールが先代聖女派であるかの有無を調査しつつ、聖女選定の儀に潜り込んできた取り調べをしつつ、私修繕作業が可能かどうかの探りを入れつつ、先代聖女の諸々を洗い直しつつ、王城と調整しつつ、山登りしつつ、あれ調査しつつ、これ検討しつつ、それ議論しつつ、あれしつつこれしつつそれしつつ……。
一年間の行事をこの二日でこなさなければならないほど忙しい。
一つ一つが明確に動ける内容だとしても忙しいのに、手探りで進まなければならない案件が多すぎてもうどうしようもない。可能性があるなら全部取りかかるしかないのだ。
そんな中、一番手詰まりだった箇所に満場一致で調査を入れる決定を下せる意見が出た。人員を投入しない理由がない。
「少なくとも僕なら、水に仕込む」
その術を持つのであれば、そうする。性格の悪さは僕と同等と見た。
そう言ったヴァレトリが、この件について請け負った。
神官長が王城へ出向いている間はその護衛についていたが、それ以外の時間は全て、一番隊を連れて霊峰の水脈を根こそぎ洗っていたのだ。
まさか、夜明けと同時に発見の報を持ってくるとは思わなかったが。
そしてその報の中には、もし忘却の元凶が仕込まれているのであれば想定内と言えるが、想定内であってほしくなかった、山頂付近の湖にあるとの情報も含まれていたのである。
ここまで二時間、休憩無しの強行突破だったため、流石にエーレ以外にも疲れが見え始めている。一度休憩を入れるべきだろう。
神官長と相談し、短い時間だが休憩を挟む。
休憩が入った途端、ほぼ全員が地面に座り込んだ。他者に肉体強化の術をかけられる神官を総動員し、全員の身体能力は上がっているが、上がった分全てを強行突破に使っているので、全く楽ではないどころか限界以上の疲労が溜まっていると思われる。
疲れても表に出さないよう心がけている神官長にさえ疲れが見え始めているのだ。皆の疲れは相当だろう。
アデウスの中心、王城と神殿の傍にそびえ立つ霊峰は雄大だ。雄大とは即ち、猛烈に大きい。
これに尽きる。
神殿は今、登山に慣れている者でも片道半日以上を見積もる行程を、できれば往復半日以下で何とかしようとしている。皆にあるのは当然の疲労だ。
無理は承知の上だが、無理をしなければならない状況なのでどうしようもない。
そんな中、神官長はいつも通りまっすぐ立っている。美しい立ち姿を見ると、いつも、ほっとする。
そして私は一人楽してサヴァスに運ばれているので元気だ。文字通りお荷物なので、全く疲れていない。お荷物なので転がすなり引き摺るなりしてくれていいのだが、サヴァスは私を背負いもせず慎重に腕で抱えていた。いくらサヴァスといえど腕の負担が著しいと思うので、非常に申し訳ない。
サヴァスは私を、まるでほんの僅かにでも衝撃を加えたら割れる恐れがあるといわんばかりに、恐る恐る地面に敷かれたクッションの上へと下ろしていく。
私の体重が完全にクッションへ移行した瞬間、突風が吹くほど盛大な息を吐きだし、頽れる。
「ぶっはぁあああああああああああ! 壊しそうでこえぇ……」
「少々壊れても問題ありませんが」
「問題ねぇわけねぇんだよなぁ……ココもいねぇしよぉ……」
サヴァスは崩れ落ちた体勢のまま、泣きべそをかいているかのような声を出す。
ココはフェリス・モール関連で残らざるを得なかった。人手が足りない。ついでに時間も全くない。
私は、何かしらの配慮なのかどうか知らないが、瀕死のエーレの隣に配置された。エーレはとっくに座り込み、木を背もたれに死んでいた。
私が下ろされた途端、隣のエーレはずりずりと倒れてきた。最早木があって尚、身体を支えてはいられないらしい。
とりあえず足を息も絶え絶えなエーレの枕にしつつ、その髪で遊ぶ。編みたいところだけれど、右腕側は全滅なので左手で遊ぶことしかできない。頬をつついてみても目蓋を撫でてみても全く反応がないので、完全に死んでいる。
これはいい機会だ。
「エーレぇ」
「…………………………な、んだ」
エーレが死んでいる隙に言い逃げようと思ったが、返事が戻ってきてしまった。言い逃げはまたの機会に挑戦するとして、これはこれで一応続ける。
「交際解除、じゃなかった、婚姻解散しません?」
横になって少し回復してきたのか、エーレは数度大きな呼吸をした後、急に呼吸を整えてきた。流石、息も絶え絶えな状況で会議に飛び込んだのに、出席者の誰にも今にも倒れそうなほど疲労困憊していると悟らせなかった人である。
「指輪は流石に間に合わなかったから少し待て」
「最早否定すら簡略化されている!」
その上、更に装備を増やそうとしている。既に両手では指が足りなくなっているのに、これ以上増えたらどうしたらいいのだろう。そろそろ足の指につけても指が足りるかどうか分からなくなってきた。
きっちり数え直していないので指輪の正確な数を把握していないのだが、これ、把握しないほうがいいのではなかろうか。
「これ以上装備増えても、つける指ないのですが」
「婚約する度なかったことにしてきた男の指輪なんざ全部売れ」
「過去の自分と争うの止めません?」
エーレの怒りは四方八方留まるところを知らない。是非とも留まってほしい。ついでに止まってほしいし、引き返してほしい。
もしも過去に戻れたら、誓約書に名前を書いてしまう前に戻りたい。だが過去を変える行為は今を生きる命の否定なので、どれだけ自分にとって不都合な過去であっても変えることは許されない。ついでにエーレ達の生の否定は誰であろうと許せないので、現在を進むしかない。
現状を変えたければ、現在のこの時間でもがくしかないのである。
というわけで、もがいてみる。
「エーレ、せっかく美しい魂を持っているのですから勿体ないですよ」
「よかったな。全部お前の物だ」
「えほ」
おかしい。何も口に含んでいないのに咽せることが増えた。呼吸機能も低下し始めたのだろうか。
「俺は全てお前が使えばいい」
「ごほ」
一際大きく噎せ込んだが、おかしなことに私より周りの神官達のほうが激しく噎せ込んでいる。……いや、おかしくはない。確かに冬が近づき始めたこの季節に山登りは、気管に優しくないのである。皆、肺は労ってほしいものだ。
エーレは私のお腹に額をつけて死んでいる。横向きで死にかけていると、死にかけの海老になっていた王子を思い出す。
しかしこの海老、ぴちぴち跳ねる元気すら既にない。喋っているのが、既に奇跡に等しい。
「俺は有益だ。持ってて損はないから好きに使え」
「エーレが有益なのは世の摂理だと思いますが、私は別にエーレが有益だろうと無益だろうと好きだからどっちでもいいんですけど――うっ」
ごすっとエーレの額がお腹に入り呻く。死にかけているわりに元気だ。エーレにはずっと元気でいてもらいたいのでいいことである。
私に攻撃したことで最後の力を使い切ったらしく、再び瀕死に陥ったエーレの上に覆い被さる。私の髪で、私達の顔は誰からも見えないだろう。
自分の顔を見られたくなくて、美しい人まで巻き添えで隠してしまう私の悪辣さは留まるところを知らない。
「……これで上手くいったら、神官長達、思い出してくれますかね」
この件ばかりに構っていられる余裕がないのは嘘じゃない。
先代聖女のことも、かつてアデウスの国土となったこの地に存在していた十二神のことも、色々、沢山、山程。
考えなければならないこと、知らなければならないこと、答えを見つけなければならないこと。方針すら定まっていないことが積み重なっているのに時間も人手も足りないのだから。
だけど。
「水が原因だった場合、常に微量な呪いを摂取し続け、それにより呪いが維持されていた可能性が高い。摂取を取りやめただけなのであれば、効果が出るのは徐々にになるだろう。解呪をかけたのであれば劇的な変化が期待できるが、現状それは望めない」
解呪ができるのであればもうとっくにやっているのだ。それができないから、呪いの根本を探していたのだから。
そもそもこれを呪い扱いして本当にいいのかと今でも思うほど、尋常ではない規模なのだ。
これは最早、神による所業に近しい。まあ、先代聖女が神を喰らったのであれば神の起こした禍といっても過言ではない。
それでも、そう定義してしまうとそれはそれで問題なので、これは人の起こした事件として私達は取り扱う。
私達は先代聖女を神と定義しない。
それは絶対だ。
「だが」
身体を捻ったエーレの手が伸び、私の目元を擦る。
「いつかは思い出す。必ず。だからそれまでは泣くな」
「……泣いてなんていませんよ。だって、泣く理由なんてどこにもないじゃないですか」
この件ばかり考える余裕がないのは嘘じゃない。けれど真実でもない。
だって、他のことで頭をいっぱいにしていないと。
もし、もしどうにもならなかったら。この忘却を解く術がどこにもなかったら。そうでなくても、また一から、何の手がかりもない状態に巻き戻ったら。
そう思うと、思ってしまうと、私は取り返しのつかない損傷をこの身に負う気がするのだ。
感情を抱く命の特権を、私は許されていなかった。
しかし、その中でも他とは比べものにならない罪となる感情がある。
それを抱いてしまいそうで、怖かった。今までだって、僅かな差だったのだ。だから私は、この登山の結果をあえて考えないようにしていたのに。
エーレが温かいから。
生きている人間の肌は温かいのだと、私に教えたのはこの人達だった。その優しい体温がここにある。そうすると私はいつも、どうしようもなくなる。
自分では起き上がる体力がなかったらしいエーレの手に引かれるがまま身体を折り、エーレを潰す形でそのお腹に頭をつける。
「お前にはずっと、泣く理由しかなかったよ」
「何ですかそれ」
ふはっと、思わず笑いが漏れた。
「何ですか、それ……」
泣きそうだなんて全く思っていなかったのに、何だか、どこもかしこも痛くて堪らなかった。
「お前ら、なんか猫の子みてぇだな!」
「うわびっくりした!」
近くで頽れていたサヴァスの声に、思わず跳ね起きる。
視線を向けると、自分こそ犬のように地べたでごろりと寝転がったサヴァスが、特に何の含みもない笑顔でこっちを見ていた。
サヴァスが表に出している感情は、基本的に全て本心なので何時だって彼に含みなどない。含みがあったら驚きでヴァレトリの顎が外れるかもしれないくらいだ。
サヴァスとヴァレトリは、意外だとよく言われているがかなり仲がいいのである。
サヴァスは、ヴァレトリにとって数少ない気の置けない人間枠に鎮座している。だから二人をよく知っている立場であれば、仲がいいのは当然の結果なのだが、遠目に見ている人々からはとても不思議に見えるらしい。
そしてサヴァスは、本人は特に大声とは思っていないけれど、間近で聞くとしばらく耳鳴りが残るほど声が大きい。
今も私は、おぉんおぉんと反響が残る自分の耳を宥めている最中だ。
ちなみに、私が跳ね起きたついでに膝からエーレが転がり落ちている。仰け反ってしまったのがいけなかったらしい。
地面に落ちたエーレがサヴァスを燃やすまで、後半秒あっつ。
短い休憩の間にちょっと色々あったが、私達は無事に登山を再開できた。
私は変わらずサヴァスにより運搬されている。しかしさっきまでとは少し状況が変わった。
落とすわけにはいかないがしっかり握るのも怖いとサヴァスが泣きべそを掻いた結果、私とサヴァスの間にエーレを挟むことになった。サヴァスはエーレを抱え、その上に私が乗っている。
サヴァスは私一人を運ぶよりエーレを挟んだほうが気が楽だし、腕も楽だとにこにこだ。どうやら、私が思っていた以上に私を割るかもしれない心配がサヴァスを苛んでいたらしい。
別に、エーレを潰さない力なら私だって割れないはずなので気にしなくていいし、割れたら割れたで気にしなくていいのだが、駄目だったようだ。
「二人抱えたほうが楽な山登りとか、普通は正気の沙汰じゃないんだわ。ま、お前さんから筋力取ったら善性しか残らんわな」
「おう! 俺は筋肉だけが取り柄だぜ!」
「違うわ。声量ぶっ壊れ声帯も残るわ」
「……すまん」
「お前さんさ、僕と飲むとき声量でグラス割るのいい加減どうにかしない?」
「なぁんで割れるんだろうな?」
「だからお前さんの声だっての。でかすぎるのよ、お前さん」
頭の上からサヴァスとヴァレトリの会話が降ってくる。
「なんででけぇんだろうな?」
「僕に教えてほしいんだけどね。僕は別に、鼓膜鍛えたいわけじゃないんだわ」
「筋肉はどこでも鍛えたほうがいいぜ!」
「鼓膜の鍛え方なんかねぇよ」
「そうなのか? 相変わらずヴァレトリは物知りですげぇな!」
「でけぇつってんだろ」
懐かしい声音が聞こえる。少し前まで、当たり前に聞いていた二人の会話が、今はこんなにも懐かしい。
前より警戒心が顔を覗かせてはいるものの、ヴァレトリのこんな穏やかで気の置けない声音は、本当に限られた相手にしか向けられない。
限られた相手、そして状況が必須条件になる。
今までのように、正体不明の怪しさしかない上に神官長の頭を悩ませる悪辣な聖女候補がいる場では、決して聞くことのできない声音である。
ちなみにサヴァスはいつでも感情のままの声音であり、表情だ。だからこそ、親しさがもろに出る。
サヴァスとヴァレトリの声はいつだって両極端なのに、何故だかいつでも滑らかに聞こえて、心地いい。サヴァスの声は猛烈に大きいが。
しかし、歩かなくてよくなったエーレはただいま熟睡中だ。ヴァレトリの鼓膜を試すかのようなサヴァスの声は、エーレの覚醒を促せていない。
かなり疲れていたし、休息は取れるときに取る。当代聖女の代から追加された神殿の鉄則だ。
サヴァスは気兼ねなく私を抱えられて、エーレは休めて、私は砕けない。誰も不幸にならないので、事態は平和に解決した。
なんか私達の周りにいる神殿の皆が、形容し難い表情を浮かべ、黙々と歩いているだけで。
雰囲気が重苦しいのは、この先にある前代未聞の呪いへの意気込みが深いからだろう。
たぶん。
そう考え、私は深い息を吐く。息を吐いた分、エーレに深く体重が乗った気がする。実際は抱え上げられた時点で、私の負荷はエーレとサヴァスに乗っているのだから早々変わりはしないのに、エーレの体温が深く染み渡った気がした。
目的地までまだ時間がかかる。だから、身体の下にエーレの体温と呼吸を感じながら、私も目蓋を閉ざした。
エーレの体温は心地いい。静かで深い寝息は柔らかい。インク、紙、神殿の香が混ざった香りもなだらかで。温度も音も香りも、相変わらず優しい。
人間とは柔らかく、優しい命なのだと。そうではない人間を圧倒的に多く見てきたというのに、そう思う。それはこの人達のおかげだ。
『あの方のような人間が報われないのなら、それはこの世が間違っているんだ』
そう言ったヴァレトリの声を、思い出す。
ふと視線を感じた気がして、閉ざした目蓋を開く。すると、斜め前を歩いていた神官長がこっちを見ていた。
疲れは見えるが、穏やかな顔だ。だが瞳が案じている。私が神殿に害為す行動を起こさないかを、ではない。私の体調を、ただ案じてくれている。
これは、神官長としての義務ではなく、ただただ彼の為人が表に出てきただけの行動だ。
美しい人達。器用で賢明で真っ当な人達。真っ当であろうと自らを律することのできる、温かで穏やかで優しい人達。それ故に、苛烈で過酷な生しか選べない、不器用な人達。
守りたい。この人達の命は勿論、在り方に至るその生全てを。
その為に私がいる。その為に私が創られた。私の廃棄をもって、この人達の明日は確定する。
けれど、私の廃棄とこの人達の命運が紐付けられてしまった今、それでは駄目なのだ。それしか術がない故に、基本であり最も簡単な過程を描けないのは、それを拒絶できなかった私の呪わしさが招いた結果だ。
そしてその責を、私の崩壊以外で支払わなければならない。
私の崩壊を解としてはならないだなんて、こんなに難解な問題は世界に存在しないだろう。
けれど、やるべきだ。やらなければならない。
それが、エーレの、そして忘却して尚、私を守ろうとしてくれた神官長達の願いなのであれば。
私は再び目蓋を閉ざす。
今日を見せてくれてありがとうございます。
明日を与えてくれてありがとうございます。
夢の見方を教えてくれてありがとうございます。
私という個を認識し、マリヴェルという個を形作ってくれて、ありがとうございます。
その恩に報いきることは決してできないけれど。せめて、せめてあなた達の夢は私が守ろう。それが、私があなた達の恩に少しでも報える唯一だというのなら。
エーレの体温と繋がったまま、深く深く沈んでいく。
私の中には、解がある。神がフガルから引きずり出した記憶。その縁から剥ぎ取った、先代聖女の記録。様々な解は、私の中に収まっている。
忘却が解けた今、私は私の関与が許された情報への接続が可能だ。解放された情報もこれから解放しなければならない情報も、雑多に詰め込まれているだけだけれど。
身の内に世界を持つ存在を、人は神と呼ぶ。神は世界であり、世界は神だ。故に世界は一つではない。
ハデルイ神はその残滓を残すのみとなったが故、あの方の世界は真白い虚無と化した。延々と続く真白い世界。あれはあの方の世界だ。
時の流れも命の理も関与しない神の世。創造神である一神のみを理とする、永遠の世。神であろうが創造神以外の神であれば、創造神の赦しがなければ立ち入れぬ、一神による一神だけの世界。
ハデルイ神の真白い世界の中にある、私が持つ小さな小さな球。あれは私の世界だ。本来は私の赦しがなければ私以外の存在の出入りは赦されないけれど、私はハデルイ神が創った神の器であるが故に、ハデルイ神の一部といえる。だからこそ、あの方は出入りが可能だ。
そもそも私は神ではないので、あの場所でさえハデルイ神の権能を借りているといったほうが正しいのかもしれない。
私は、人が持つ心も、神が持つ世界も、どちらも中途半端にしか持ち得ない。しかし、感情を抱いてしまうことが人に近しい何かに変貌した証左であり、身の内に世界に近しい何かを抱えていることが神より連鎖した創造物である証左だ。
私が神の器である以上、果たさなければならない定めがある。
だが、私が神の器であるが為、できることがあるのもまた事実。
今まではマリヴェルである私という個が揺れすぎていた。だから神の器であるが故に可能となる領域に沈んでしまえば、戻ってこられなかったかもしれない。
けれど今ならきっと、大丈夫だと思うのだ。
だってエーレが温かいし、神官長の背中は真っ直ぐだし、サヴァスとヴァレトリはいつもの会話をしているし、カグマの目はついでに薬草がないか探してるし、ココは取り調べのついでに研究について根こそぎ聞くつもりで張り切っていたし。
だから、大丈夫。だってここにはマリヴェルの全てがあるのだから。
だから、大丈夫。与えられた器に近づいても、私は私を見失わずにいられる。
たぶん。
私は静かに頷いた。やったことがないので確定ではないが、まあ大丈夫だろう。少しずつ、少しずつ。私の中から記録を取りだしていくつもりだ。
私が身動ぎしたことにより、下敷きにしているエーレが呻いた。だが目を覚まさない。当たり前だ。熟睡中である。
私はエーレの寝息と静かな心音を聞きながら、更なる奥へと沈んでいく。
世界の果てであり世界の全てへ沈みながら、けたたましく笑う女の声が、聞こえた気がした。