78聖
「いっ……あー、どんなもんですか?」
右腕から肩を通り、雷が通り抜けたかのよう衝撃が頭まで走り抜ける。
ベッドの上に重ねたクッションを背もたれに、だらりと座っている私の右側にいたココとカグマが同時に視線を上げた。
私は現在、砕け落ちた右腕をココの修復技術とカグマの治療で接続させてもらっている真っ只中だ。
正直、動けば願ってもない僥倖、動かなくてもとりあえず接着剤ででもくっつけてもらえるといいなと思っていたのだがそうもいかないらしく、二人はやけに慎重だ。
声を上げた私から接続部分に視線を戻したココとは違い、カグマはずいっと顔を寄せてきた。私の目蓋をこじ開け、何やら眼球を確かめている。
「痛みは」
「ありません」
伸びてきたカグマの手が私の顎を鷲掴みにした。
「痛覚の有無は非常に重要な判断基準になると、僕はさんざ説明したはずだが」
あ、これまずいやつだ。そう気付いたので、大人しく申告する。
「少々」
「ココ、激しい痛みあり」
「分かった」
どうにも私の自己申告は無視される傾向が高い。エーレの報告でもあったかなと思ったが、どうやらカグマが書きためていた診療録にもしつこいほど書き記されていたようだ。ついでにこの接続作業が始まってからも書き足されていた。
「腕からどこまで痛かった?」
「頭まで痺れが走っただけです」
「激痛が頭まではまずいね……まだ痛い?」
「いいえ」
「まだ痛むのか……指は? 動く?」
「肩から肘にかけてが動いてますかね」
ココからも私の自己申告が完全に無視されている気がするが、真剣な顔で私の腕を修復してくれているココを見るのは楽しい。ココが何かを作っている姿を見ているのが、私は昔から好きなのだ。
「……ごめん、もう一回調整したい」
「今日はもう駄目だ。負担が大きすぎる」
「あ、私は全く平気です」
「分かった。明日までに術式を再調整してくる。指まではいかなくても、手首くらいまでは感覚が繋げられないと、痛みに割り合わない」
どうやら結論が出たようだ。正直私の意見は全く必要ないように思うが、二人がいいならいいと思う。
難しい顔で道具を片付け始めたココとは違い、カグマは再び私の診察に入った。ろくに動かなかった足は、以前ほどの速度は出せずともある程度歩けるようになっている。
見た目も取り繕ってもらっているので、神力を通した検査でも行われない限り周囲に気付かれることはないだろう。
しかし、根こそぎ砕け落ちた右腕がどうにもならない。うまく神経が繋がらないのだ。
そもそも接続部分だけでなく、繋げようとしている腕自体が機能を終えていたのを無理矢理再利用しようとしているのだから、無理もない話である。
「動かなければ、とりあえず骨折とでも伝えて吊っておけば問題ないでしょう。流石にいきなり腕をなくして現れると騒動になるかもしれませんので、見た目だけ誤魔化せればそれで」
何から見た目を誤魔化すか。その答えは簡単だ。
聖女選定の儀の通過者達である。
正直、忘れていた。
次の試練が二日後にあることだけでなく、その存在自体をすっかりだ。そういえばまだ続いていたし、その通過者達が怪しいというのに。
それどころではなかったとも言うのだが、そんなものは言い訳にはならないだろう。
聖女ならば、足が終わって腕がもげて婚約者が登場してついでに存在意義が破壊され存在自体が消滅しようとしていたくらいで、大事なことを忘れてはならないのだ。たぶん。
だが、反省したところで月日は待ってくれない。今は残された時間で進められることを同時進行で片付けていくしかない。
そもそも神殿が私を聖女と認めた以上、この選定の儀に意味はなくなってしまった。
しかしここまで、選定の儀は遮られていない。聖女が不在であればアデウスに怒りを落とすアデウスの神は、この選定の儀を是としているのだ。
その意味はまだ調査中だ。
そして神殿は、十三代聖女就任当時の厳戒態勢及び限界態勢に逆戻りである。
今だって日付の変わる時刻だが、誰も寝る様子はなく、つもりもない。全員仮眠を取れればいいほうで、誰もが徹夜を前提として動いている。私の徹夜は皆いい顔をしなかったけれど、そこは聖女権限で強行突破した。
私が下した聖女としての命に、神官長達は従った。その時、私の中に湧き上がった感情を分類する言葉は存在しないと思っている。
「マリヴェル」
足早に部屋へ戻ってきたエーレから渡された書類を左腕で受け取り、太股の上に乗せて目を通す。
「どうでした?」
「先代聖女の付き人だった女が一人、見つけられそうだ」
「それは何より」
先代聖女がエーレの炎で焼かれた際、攻撃を受けた場所ではない箇所が焼けていた。あれは恐らく、傷跡だ。傷跡であり、今尚残り続ける傷でもあるだろう。
先代聖女は神殺しの女だ。神を殺し、それを喰らっている。
しかしそんな所業を神が黙って受けて入れたとは思えない。神を殺せたとも思えないのだが、実際に起こっているのだからそこは仕様がない。いま注目すべきは、先代聖女に対し、神が残した傷跡だ。
神の怒りは魂に刻まれる。神の攻撃が、怒りが、呪いが、先代聖女の魂に残っていないはずがない。ましてその身を喰らっているのならば、神の怨念は時と共に薄まるどころか魂に馴染むほどに刻まれていく。
そしてエーレは、ハデルイ神の愛が降った命だ。神による愛は加護と同義である。なればこそ、神の残滓を纏う炎を受けた先代聖女は、さぞや痛かったことだろう。
あのとき、神の気配を纏った炎で炙り出された傷跡こそが、神の怨念だろう。あれだけはっきりと表出していた傷跡が肌に残っていないとは到底思えない。
先代聖女は女性の支持がとても強い。それは女性の人生選択肢を増加させたことが主な理由だが、化粧品の研究に貢献した事実も大きいといえる。
彼女は化粧品の開発に多額の援助をしていた。それが傷跡を隠す為なら、大勢には知られておらずとも、極々僅かな側近達は知っていたはずだ。付き人ともなれば尚更である。
先代聖女はあれだけの人気を誇りながらも、付き人は最低限の人数を割るほどにしか置いておらず、尚且つ人員の入れ替えも滅多に行っていない。よって、付き人の発見まではそれほど心配していなかった。
問題は、軒並み高齢となっている事実だ。言ってはなんだが、特に何の魔の手が伸びていなくても寿命で死亡している可能性のほうが高かった。
「こっちは先代聖女が使っていた化粧品録だ。詳しい神官曰く、酷い傷跡を隠すことが十分に可能な種類を揃えているらしい。ただ、断定はできない絶妙な配分だとも」
「分かりました。それにしても、この短時間でよくこれだけ調べられましたね」
化粧品の種類に、それらを仕入れていた店舗情報まで、詳細な情報が敷き詰められている書類の束に感心する。先代聖女関係の書類は、先代聖女派が持ち出したり処分したりと、それはもう好き勝手やっていたのだ。
「王城からの支援物資と思え」
「ああー……」
これは王城が、先代聖女の不正や瑕疵を探していた際のお裾分けといったところだろう。ありがたい。時間や人員が足りない現状、とても助かる。
神官長が極秘裏に王子と対談していたので、その時協力を取り付けたのだろう。
最早神殿は形振り構っていられない。そしてこの件が神殿内だけの揉め事で済むはずがない事実を、王城で王子だけは理解している。第一王子の理解を得られているか否か。それは、大きな違いだ。
極秘裏に王子と対談し、場を整えた。神官長はいま、ヴァレトリを伴って王城にいる。
神力喪失事件を公表する旨を伝える為だ。正確には、公表する旨を伝えることで王城に知らせる為である。
王城は、現状何も手を打てていない神殿をこれ幸いと糾弾するだろう。だがこちらには、神殿だけの単独公表できた事案の共同公表を持ちかけた強みがある。
王城はこちらを非難できるが、こちらとて此度の事案に気づけていなかった王城を非難可能だ。尚且つ、神殿が共同戦線を張るべき事案だと判断したにもかかわらず、王城がそれを断ったとあらば、民の批判は免れないだろう。
と、脅すことも可能ではある。
しかしそれは最終手段だ。王子でもどうしようもないほど王城が頑なに先代聖女との因縁を守るのであれば、最終的には押し通るように指示を出した。
勿論、十三代聖女の名において、である。
だから責任は私が取る。
そもそも神殿と王城の仲が悪くていいことは一つもないので、そろそろ共通の敵を相手取ることをきっかけとしてもいいのではなかろうか。
ちなみに流れで十三代聖女忘却事件も伝達済みだ。
十三代聖女忘却事件の一般公表は、まだ神殿側も判断をつけられていないので保留である。流石に混乱を来たしすぎる上に、神殿側も聖女転生の儀制止が神より入っていない事象に説明をつけられていない。
しかし、必要とあらばこちらも世に出す用意は進めておくつもりだ。
神力喪失事件だけでもそんな馬鹿な案件であるというのに、そこに十三代聖女忘却事件もあるよと並べて提示された王城の人々が、盛大に頭を抱えている姿が目に浮かぶ。皆、誰か夢だと言ってくれと願っているだろう。王子以外。
「王城、乗りますかね」
神殿側は、共同戦線を申し出た。しかし、王城に最後まで意地を張られると面倒だ。正直、今は王城の相手をしている余裕がない。
アデウスという国の未来を、そして民の命を脅かす敵を相手取るのだ。敵は同じだ仲良くしようといきたいところである。
「リシュタークとサロスンが神殿についてなお拒むのであれば、どちらにせよ王城は終わりだ。この家門を蔑ろにするというのであれば、先代聖女が滅ぼす前に内部から瓦解する」
もうこうなった以上、出し惜しみは無しだ。使える存在は全て使い切るつもりだが、いよいよ大事になってきた。元々大事だったのだが、大々的に大事になってきたのである。
「サロスンの弱みは頂いていますが、リシュタークをこんなに早く動かせたのは少し予想外でした。いくらお兄さん達でも、もうちょっとかかるかと」
サロスンは家門が揺らぐほどの弱みを神殿に握られた直後だ。王子もこちら側についているとなると、神殿の主張に乗らないわけにはいかないだろう。突っぱねれば家門が滅びる可能性も皆無ではないのだ。
リシュタークも最終的にはエーレがどうにかしてくれると思っていたが、まさかものの一時間で神殿側につかせてくるとは。
何せ、リシュタークという家門は大きすぎるのだ。
お兄さん達が可愛い末っ子の頼みをあっさり飲んだとしても、他の面子を説得させるには時間を要したはずである。
そう思ったのに、エーレはあっさりしたものだ。
「当主権限を使用した」
「あー……」
リシュタークの家門は少々特殊な形態をしている。
成人していない子どもらだけが残された大きな家門は荒れに荒れ、三兄弟それぞれが勝手に擁立され、擁立した面々が勝手に殺し合い、尚且つ三兄弟をそれぞれが殺しにかかり、末っ子の、神に愛された美しい子に全ての欲が塗りたくられた。
それにぶち切れた長兄と次兄により、リシュタークはアデウスどころか他国でも例を見ない複数当主制を持つ家門となったのだ。
現在エーレも次兄も、長兄を当主としてたて行動しているが、何かあれば二人も当主としての権限を持つ。長兄もまた、二人の主張は当主の主張として扱う。
荒れに荒れていた時代にそれをすれば余計に荒れそうなものだが、この制度、三兄弟が互いを排除しようと全く思っていない状態では最強だった。
何せリシュターク領内では、神殿と同じほどの権力が発動するのだ。つまり、リシュターク領内では凄まじい効力を発する、強権である。
その当時、リシュタークは治外法権と化したのだ。
今は大人しく礼儀正しい長兄と、軽やかに笑みを浮かべる次兄だが、彼らが行った粛正は歴史に残ると断言できる。そして、残らないとも、断言できるのだ。
流石にこの三兄弟の代だけで使用される複数当主制だが、三人の当主権限を使った際、リシュターク家の家臣達は一切の進言を許されない。
長兄は現在、周囲からの意見を取り入れ、賢く穏やかで理想的な当主ではあるが、三兄弟の当主権限が使用されたのであれば話は別だ。
その意見には誰も逆らえない。
逆らった者には粛正が降るだろう。それほどに、家門に対する三兄弟の怒りは根強い。
王城の威光は先代聖女によって崩しに崩され、その先代聖女ですら死んだアデウスは、巨大な家門の不幸に手を差し伸べる余裕がなかった。その結果があの粛正だ。やり過ぎだとの声も出るには出たが、妥当な怒りだという同情の声のほうが多かったほどに。
当時三兄弟に手を出した者達は皆粛正を受けたが、三兄弟を助けなかった者達は残っている。だからこそ、そういう面子は三兄弟の顔色を窺って生きるしかないのだ。何せ逆らえば粛正が降り、誰もそれを咎められない。
この状態で三兄弟が互いを排除しようとすれば、アデウス全土を巻き込んだ大惨事に陥るだろう。兄二人による末っ子への愛の結束は固く、弟からの兄への親愛が深いことが救いだ。それ故に凄まじい粛正が起こったのだが、まあおいておこう。
「エーレが使ったの初めてですよね。お兄さん達があっという間に動いちゃったのも納得しました」
「ああ」
常日頃からエーレにもっと我儘を言ってほしい、生を謳歌してほしいと言って憚らないお兄さん達なので、寧ろ初めて当主権限を使ってでも頼んできたことが嬉しかったのではないだろうか。
「この世界で生きるのが腹立たしいと思っていた俺が、生きる理由にした女の為だと言ったらすぐさま動いてくれたな」
「げほ」
何も口に含んでいないのに、なんか咽せた。そんな私を前に、エーレはしれっとしている。
「空き時間を見つけ次第、兄上達は当代聖女に謁見を申し込むと言っていた」
「………………分かりました。責任を持って、彼らの愛し子たるあなたを誑かした罪の糾弾を受けましょう」
「はっ倒すぞ」
「何でですか!?」
これは普通に、人間の道理で礼儀ではなかろうか。
「大体その理屈を適用するのなら、神の敬虔たる使徒であるお前を誑かしたのは俺だろう」
「えほ」
空気で咽せた。そんな私の肩を、小さな力がつつく。指先で私をつついた人に視線を向ける。
「ちょっといい?」
「はい、何でしょう、」
ココと、呼び掛けた自分を戒める。こうして会話はできていても、以前の形に近くても、誰の記憶も戻っていないのだ。私はそれを勘違いしてはならない。
会話の切れ目としては不自然にならなかったと安堵していると、ココは溜息の代わりに身体の力を抜くように小さく揺らした。
「ココでいいよ。たぶん、不快じゃない。それより、王立研究所と連携は可能かな」
「王立研究所ですか?」
ココは自らの荷物から三冊の本と一部の新聞を取り出した。
「まだ自分の身体のように動かすことはできないけど、神具による義手や義足の開発はアデウスの王立研究所が一番進んでる。私も努力するけど、元々専門外の人間の急拵えだとここまでが限界。そもそもこれ義手じゃなくて本人の腕だから、使う術式変える必要がありそうだし」
喋りながら開かれた頁を流し読んでいく。手が足りない分はエーレが貸してくれた。
「……確かに、この手の一任者はアデウスの王立研究所に集中しているな」
「論文読んだ感じだと、この二人がいいかなと思うんだけど」
エーレとココが額を突きつけているとき、扉から音がした。
今の神殿はあれこれ足らない中で急稼働している状態だ。だからこの部屋に出入りする人間は限られていても、訪問頻度自体は高い。
扉の前にはサヴァスが見張りに立っているのでノックは省略して、がんがん入ってもらっている。現にエーレもそのまま入ってきた。
そんな中でも律儀にノックをしている人が一人いて。
ノック音がすればその人が来てくれたのだと嬉しくなる。これからノック音を聞くだけで嬉しくなる習性がついたらどうしよう。
開いた扉の先にいた神官長に私が嬉しくなっている間に、神官長が後ろから呼び止められた。次いで、我も我もと呼ぶ声七件。
部屋の中を曝さないという優しさにより、律儀に閉められた扉が切ない。もし私が犬ならば、見事にしょげた耳と尻尾が見られることだろう。
再びノック音が聞こえたのは少し経ってからだった。
「待たせてしまってすまない。体調はどうかね」
「全く問題ありません!」
「衰弱及び臓器不全と似た症状が全身に出ています。肉体の宝石化現象は、現段階で進行停止状態である可能性が高いですが、再発の危険も高いです。癒術で治療が可能な箇所もありましたので、後ほど聖融布での治療を試みます。両足の機能は、歩行は可能ですが一人での歩行は推奨しません。視力は診療録と照らし合わせた結果、両目とも落ちています。右目の低下が著しい」
「右腕は、現状では使用可能な状態ではありません。装着時に激痛が走る上に、腕としての機能をほとんど取り戻せていません。指どころか肘も曲げられていないので、現状は痛みを発する以外は接着されているだけと同義です」
それで別にいいのだが、どうやら駄目らしい。そして私の返事の後、流れるように続いたカグマとココの報告に、へぇー、そんな状態なのかと思いながら新聞を手に取る。
私の身体の崩壊具合は私ではどうしようもないことであり、それを遅延させる術も知識も私にはないのでこれまたどうしようもないのでお任せなのだ。
新聞は神具に新具号だった。どうにもこの号と縁があるようである。
「やはり私だけでは難しいかと。現状外部に協力を求めるのは推奨されないと分かっているんですが、今の私では技術も知識も足りなさすぎます。ひとまずこの二人のどちらかを召喚したいです」
「……そうか。我々としては聖女の治療は何より優先すべき事柄だが」
ココから渡された書類にざっと目を通した神官長の視線が私を向く。私は背筋を正した。
「成りません。長い年月をかけて尚、神殿内からでさえ先代聖女派を排除しきれなかったのです。それほどに、先代聖女派の問題は根深い。一歩対処を誤れば致命傷となるでしょう。まして、私に関するあなた方の記憶が抜け落ちているのならば尚更です。王立研究所を神殿が掌握しているのではない限り、私の治療如きで犯していい危険ではありません」
長年先代聖女派とやり合ってきた記憶が全て残っているのであれば、また話は変わってくる。だが、そうではないのだ。
築き上げてきた経験が大規模虫食い状態にされている上に、新たに積み上げていく時間も人手もない。そうなれば天秤にかけるまでもなく、私の身体機能修復は後回しにすべきだ。寧ろ致命傷でない限り優先度はかなり低い。何せ、直接的な戦力にならないのだから。
この場に瀕死の人間がいない以上、優先順位は変わらない。いつだって、何だって、人命が優先だ。
これは私が人形であろうが人間であろうが関係ない。私の身体機能と神官長率いる神官達の人命が天秤ならば、人形としての私が稼働していてもいなくても、結論は何一つとして変わらないのである。
とりあえずこの話は終わりで、次の話題に移ろう。次の議題の書類を手に取り、視線を上げ直し、ぎょっとした。
神官長が、酷く強張った顔をしていたのだ。
「――治しましょうか!?」
弾けたような声と一緒に両手を上げたつもりが、左腕しか動かなかった。そうだった。右腕は損傷していた。確かにこれは少しだけ不便だ。
しかし今も明日も明後日もそんなことどうでもいい。神官長の具合が悪いのだ。神様が人の為、私に備えた聖女の力。いま使わずしていつ使うというのだ。
なんか勝手に出るようになった花が、勢いで何個か現れてしまった。触れたら散るので掃除の手間はかけないはずだ。
私が動く左腕だけをわたわたと動かしている間、何故かカグマが反応していない。神官長が酷く具合の悪そうな顔をしているのに。
「……私は」
「はいっ、どこが痛みますか!?」
私の焦りにより漏れ出した花がまた散る。その花の向こうで、神官長は大きな手をゆっくりと持ち上げ、己の口元を覆った。その手が震えていて、私は心も身体も文字通り飛び上がった。無論、喜びではない。
「私は、家族の間柄になろうとしていた君に、そのような、自身を粗末に扱うを是とするよう教えてきたというのか……?」
「――え?」
「私は、なんという、ことを」
戦慄く大きな掌で覆ってなお分かるほどに、神官長の顔色は酷かった。恐らく私も同じ顔色になっている。
「私はそのように悍ましいことを、君に」
「ちが、ま、え、あっ、エーレぇ!」
悲鳴に近い声で呼んでしまったエーレを見ると、嘲けるように私を見ていた。どう見ても当代聖女陣営の神官が、助けを求めた聖女へ向ける表情ではない。
「いい気味だ」
聖女へ向ける言葉でもない。
しかし頼れる人はエーレしかいない。応援要請の視線を必死に向けていると、エーレはいつもへと戻した表情を神官長へ向けた。
「神官長、あなたはいつだってマリヴェルを人として扱っていました。マリヴェルが頑なにその認識を受け付けなかっただけで。マリヴェルが自身を人として位置づける。それは我々の初心であり悲願でもありました」
流石、特級神官未遂。やはりエーレは頼れる神官だ。
心なしか機嫌もいい。守りたい、この機嫌。
「それをこの馬鹿が頑なに、仕様のない面があったとしてもそれはもう頑なに神の意思を遵守しようとした上に、どこまでも抵抗なく物である自分を受け入れようとし続け……無性に腹が立ってきました」
守れなかった、この機嫌。五日食べていないとき拾った黴の生えたパンの破片のような儚さだった……。
エーレの怒りの炎は、火がつきやすいどころかわりとずっと燃えっぱなしなので仕様がないといえば仕様がない。物凄く燃えているか穏やかに燃えているかの違いでしかないのである。
しかし、気のせいだろうか。その炎、大体が私を燃やしにかかってくる気がするのだが。まあ気のせいだろう。
そういうことにしておこうと、淡々とそして延々と始まった私への不平不満を聞きながら思う。……不平不満であっているのだろうか、これ。罵詈雑言じゃなくて。
だが、神官長の表情が先程までの酷い絶望から凄まじい困惑に変わっているので、私の精神も安定してきた。
今日もエーレが元気で何よりだと、出るわ出るわのエーレ怒りの大発表会を聞きながら頷いていると、肩をとんとんとつつかれた。視線を向ければ、ココが人差し指で私の肩をつついている。
「私、あなた達の私服作ってるとき揃いにしてたこと多いみたいだから、付き合ってたのが本当なのは分かるんだけど……付き合ってる人の言動じゃなくない?」
「はあ。付き合っている人の言動がどういうものか、正解が分からないので何とも言えませんが」
ココがそう言うならそうなのだろう。
「エーレ、交際している人の言動ではないそうです」
「そうでもない」
エーレがそう言うならそうなのだろう。
……結局はどういうことなのだ?
よく分からなくなり、神官長を見る。神官長は少し困った顔で考えた末、慎重に口を開いた。
「全てが同じ人間は存在しないのだから、二人の人間で築く関係が万人に共通の結果になるはずもない。だから、君達なりの関係を築きなさい。その上で迷いや戸惑いが浮かんだのであれば、いつでも相談に来なさい」
神官長の言を締めとして、私達は仕事へ戻ることにした。
ベッドの私を取り囲むように、神官長達が座り直す。この部屋には常に椅子が五脚ある。足りなくなったらベッドに座ってもらう予定だ。なんなら私が立つか床に座る予定だ。
「燃やすぞ」
流石エーレ。何時如何なる時も私の思考を読んでくる。
手短に私を燃やしたエーレの用事が終わり次第、話を戻す。ついでに姿勢も正す。
「王城の結論は如何でしたか」
「王は神力喪失事件を、神殿及び王城の共同公表に同意致しました」
それは重畳。正直この短時間では難しいかと思っていたけれど、流石は神官長だ。
「ありがとうございます。十三代聖女忘却事件の公表があれば神殿代表としては私が出ますが、ちょっと今回は難しそうですね。神官長にお願いします」
「御意」
美しい礼を受けながら、小さく息を吐く。
国民の動揺と批判を表立って受けてもらうのは気が引ける。気が引けるどころか猛烈に嫌なのだが、今回は私が矢面に立てないのでどうしようもない。聖女の次に神殿を代表する人は神官長なのだ。
「じゃあ日程などはまた詰めるとして、他の件の進展なども含めて何かありますか?」
若干姿勢を崩し、背をクッションに戻す。神官長の姿勢は変わらないが、カグマは診療録に向き直り、ココも自身の手帳へ書き込む作業に戻った。
エーレと神官長達だけが体勢を変えず、姿勢も変えない。真面目代表と呼ばれる神官長と、頑固代表と呼ばれるエーレは流石だ。
この二人、結構似てるなと度々思う。
「……一つ、質問があるのだが」
神官長が言い淀んだ。そんなに言いにくい質問なのだろうかと思ったが、その表情を見て違うと気付く。言い淀んだ理由は、思考をしながら紡がれた言葉だったからなのだろう。
神官長の視線は私がさっきまで読んでいた新聞へと向いていた。
「対象の研究員を、神殿内で外部から完全に隔離し、他者との接触を全て監視できる環境下に置けるのならば、君は治療を容認するかね?」
「はあ、まあそれならば、先代聖女派かどうかの確認作業が当人だけで済みますし」
「聖女の御心のままに」
神官長は美しい礼を私へ向ける。それは聖女の為にある神殿を収める長として、そして道理を慮る人として、真っ当な姿であろう。
「では、手配しよう」
真っ当な姿ではないだろう。
「――あれ?」
「他に懸念事項はあるかね?」
その件に関しての懸念事項はないが、それ以外の懸念事項がございます。懸念事項というか、怪訝事項というか。
「ココ、フェリス・モール研究員で構わないかね?」
「はい。むしろそっちが本命です」
「ならばそうしよう」
呆然としながらエーレとココを見るが、二人とも話を詰め始めただけだ。勤勉な姿はいつも通りである。カグマが舌打ちしながら筆を走らせているのも、いつもの光景そのままで。
神官長もいつも通りきちりとした格好で、この忙しさの中乱れ一つない状態を保っている。
「……神官長は、法から外れた行いを厭う方だと思っていましたが」
「アデウスの法は聖女に適用されず、神殿もまた聖女の権限が優先される治外法権。ましてや国難どころか国家存続に関わる事態であるならば、王城の権限であっても法の適用外となる。よって私は、人の道から外れた行いを選択したと思ってはいない」
「そ、れは、そうです、が」
確かに神官長は必要とあらば非情と呼ばれる対応を決断できる人だ。それは分かっている。真面目で優しい性分であろうが、それだけでやっていけるほど神官長という立場は甘くない。
まして、歴史上最も荒れた十三代聖女の代に神官長を務めているのだ。時と場合を選び、苦渋の末であろうが決断し、その責任を取る覚悟がある人でなければ、到底やってこられなかっただろう。
それは分かっているが、そういった選択は、最後の最後の手段として登場していたはずだ。それが、ようは対象者を神殿で監禁するという選択を迷わず取るとは思わなかった。
戸惑いが隠せない私をいつも通り生真面目な表情で見ていた神官長の目尻が小さく、柔らかな動きを見せた。
「私が君と家族になろうとしていたのだと、少し実感が湧いた」
「っぇ!?」
呼吸が裏返った拍子に、ひっくり返った上に飛び跳ねた声が出た。
今の流れのどこにそんな要素があったのか、皆目見当もつかない。しかし疑問よりひたすら驚愕が強くて、どうしてですかと聞く余裕すらない私に、神官長は苦笑した。
「礼儀を正し、自らを律し、倫理を尊び、道理を守る。子どもらの手本となり民の規範となる。大人として、そして神官として当たり前の在り方だ」
まるで呼吸するかのように簡単に言っているが、それを理想としながら、当たり前にできない人間は沢山いる。自らが実行できないことを世界が理想と掲げることすら許せぬ狭量さを持つ人間も、山ほど。
歪みの存在を認識しても何も思わないのに、正しさの定義を責め立てる。区別対象である特例ばかりを声高々に掲げ、正解なんてないのだと胸を張る。
正しさの定義は彼らの否定ではないというのに、まるで自らを守るように正しさを攻撃する人間の多さを知っている。歪んだ愛は高尚な文学となり、正しい愛はその文字だけで議論のみならず批判の対象となることこそが、正しさの証明となることも。
人が獣と己の線引きとして作り出した倫理道徳を正しさと定義する以上、それらは人が守るに難しい事柄なのだろう。
当たり前とすべきことが当たり前に存在するのならば、誰もそれを正しさとは定義しない。人は当たり前を認識しづらい生き物だ。理想は叶わないからこそ美しく、焦がれるのだ。
それなのに、神官長はそれを当たり前とできる希有な人間だ。正しさを恥とせず、己の不徳さを正しさの責とせず、自らを律し、高めていける人なのだ。
どこまでも正しくあろうとする努力を惜しまない人だと知っているからこそ、今回の決断の早さに驚いた。
そんな私に、神官長は静かに続ける。
「しかしこの状況下に陥って尚、君が私を神殿が持つ強権を躊躇う人間だと思っていたのであれば、私はどうやら君の手本になりたかったようだ」
穏やかな声は、昔絵本を読み聞かせてくれた音に似ていた。
あの頃も、今も、私が抱いた感情を飲み込めないまま呆然としている状態まで同じだった。
「しかし神官長、現段階で王立研究所を強行突破するとなると完全に武力行使となりますが」
「いや、その必要はない。既に対象は神殿内だ」
怪訝な顔をするエーレとココの表情に、疑惑の色は見られない。神官長がそういうのならば見栄や虚言ではないと分かっているからだ。分かっているからこそ、現状と乖離して思える状態に困惑しているのである。
それは私も同じだ。それどころじゃない感情が胸の内に渦巻いているけれど、それだけに飲まれてしまえる余裕は、今の私達にはなかった。
「反省すべき事柄だと自覚しているが、私はここ最近忙しさを言い訳に新聞は一通り目を通す程度で、深く読み込んではいなかった。よって気付かなかったのだが……」
黙々と書き続けているカグマ以外の全員から視線を受けた神官長は、いつもと同じ真面目な顔で、私がさっきまで読んでいた新聞に掌を添えた。そこには様々な年代の研究員達が並んでいる。
王立研究所は神殿と同じく実力重視だ。その実力があれば老人から幼子まで千差万別である。
その中で、一際小さな背の少年を神官長の指が示す。
「この記事に載っている写し絵の王立研究員は、アーシン・グクッキーではないかね?」
「――――――――――あ」
私達の声は、見事に重なった。