76聖
「でたほうがいいよ」
「うるさい」
「ここにはなにもないよ」
「うるさい」
「あなたがいるばしょにいる人たちも、まいにちあなたにあいにきてる人たちも、やさしいよ」
「……うるさい」
「ところで、おなかがすいたから土をたべたらりょうりちょうがないたの、どうしてだとおもう」
「お前が馬鹿だからだ」
私の世界で時は進まず、生命維持活動を必要としないとはいえ、ここ以外での時間は刻まれて続けているのだ。この命は早くここから出たほうがいい。
いつ入ったかは分からないけれど、神官長達が話している内容を聞くに、昨日今日という話ではないのだろう。
だって神官長は、私を拾った日すでに、彼がこの状態であると言っていたのだから。
この命は奇妙だ。いつ私の中に入れたか分からないのに確かにここにいるのもそうだし、魂も奇妙である。
凄まじい量の神力に混ざって、私と近しいものが存在しているのだ。
神様の気配が混ざっているのは何故なのだろう。瞳を凝らして魂を見つめてもよく見えず、何故だか途中で気が逸れてしまうので確かめられない。
エーレというこの命は、ずっとこの状態だ。
私は、神官長が遊んでおいでと言ってくれた時間も睡眠のためにと与えてもらった時間全部を使ってここに来ているけれど、ずっとだ。
エーレは、もうずっと時を進めていない。ここから出るよう言っても、うるさいしか返ってこない。
ここは私の世界なので、強制的に弾き出すことは可能だ。だが、彼が己の魂を焼く行為をやめない限り、外に出せば燃え尽きてしまう。
彼からは何の話も聞けていないが、外にいる大人達から流れ出る話から察するに、どうやら彼は、この人間とは思えない神力と、両親が他界していることと、優秀な兄二人と、莫大な資産と、強大な家名と、尋常ではないほど整った顔が原因で、ほとほと世の中が嫌になったらしい。
頭脳が優秀すぎたことが、そこに拍車をかけたのだろう。幼子ではまだ理解には至らず感覚でしか捉えられなかったはずの人の欲を、よくよく理解してしまえる頭脳を持ってしまっているばかりに、自身に向けられる人の欲がくっきりと見えてしまったのだ。
その結果彼は世界も己も燃やす勢いで怒り続け、取り付く島もない。だが、話しかければ必ず応答しているので、話は聞いているし、真面目な気質だとは分かった。錯乱しているわけでも、意識が消失しているわけでもない。彼が彼の意志で怒り続け、世界と自らを焼こうとしているのも分かったが。
むしろ、正気のままここで燃え続けているのだから凄いといえよう。命として誕生して日が浅いというのに、驚嘆すべき精神力である。
「りょうりちょうが、なくほどあの土をたいせつにしているだなんてしらなかった。どうしたらゆるしてくれるか、あなたはわかる? 私のなにをうってきたらおかねになるかもついでにかんがえてもらえるとたすかる」
「俺に分かるのは、お前は何もしないほうがいいということだけだ」
「それだと、しんかんちょうたちはふようひんのいじにおかねをかける人になる。私はあのやさしい人たちの生に、きずもそんしつもおわせたくない」
「神官長達は信の置ける希有な大人だ。あの人ほど他人に誠実な人を、俺は知らない」
彼が纏っている炎は、初めて見たときより鳴りを潜めていた。彼の怒りが持続していないわけではない。ただ、彼が私という存在を認識し、私の周囲から炎を取り除いたからだ。
この状態で私という他者を慮った行動を取れる精神力もまた、彼の人間性を示している。
人の子ならばまだ幼子と判定される年齢であろうに、なんとも高潔な魂を持って生まれてしまったものだと思う。神が好みそうだとも。
ここは私の世界なので、彼の炎が私に届くことは決してない。それも伝えたけれど、彼の対処は変わらなかった。
真っ白い世界の中、私の視界で色を持つのは彼と、彼が自分だけを燃やそうと発している炎だけだ。
私は彼を説得し、世界に帰さねばならない。だが、神官長と出会ってよく分からないことだらけになった私ではどうにもならないとも思えた。
人が何に満足し、何を恐怖し、何を崇め、何を嫌悪し、何に幸福を感じる生き物か。私は神官長と出会ってからよく分からなくなる。
この世界にできたばかりの頃のほうが、分かっていたように思う。どうしてだか、人の世で過ごせば過ごすほど、私はがらくたになっていく気がするのだ。
「それは私もおもう。だからこそ、私があの人たちのそんしつになるわけにはいかない。人が私をつかうこういはつみではないけれど、わたしが人をつかうことはゆるされない」
「お前の思考は人としておかしい」
「だってわたしは人ではないのだから」
「……………………」
「ところでここからでたほうがいいよ」
「うるさい」
どうせここでの記憶は命が生きる世には持ち越されない。持って帰らせる訳にはいかない知識だ。
だからエーレには全部話した。だって、こちらの事情を認識していなければ、相談しても答えようがないだろう。自分の魂を焼こうとしているのにこっちの相談を受けてくれるとも思えなかったが、結果はこれだ。
なんとも律儀な人の子である。
彼は彼が持つ人間性をずっと忘れず失わず持っていってほしいと思う。だがそうすると、彼が生まれた環境下では彼の持つ特異性は苦行でしかないだろうとも、思うのだ。
なんとも、人の生とはままならない。
「あ、そうだ」
その炎を見ていて、思い出した。
「あなたのからだは、生たん七さいをこえているそうです。生がつながるじじつはいわいごとです。おたんじょうび、おめでとうございます」
睨まれた。そして鼻で笑われた。
「兄上達を損なう理由にされるこの命が、誰かの欲のためだけに利用され続けるこの生が、祝い事のわけあるか」
「命が生まれた。そのじじつはせかいにとってしゅくふくでしかありえない。ただでさえさいわいなのに、それがあなたであったのだから、人にとってこれほどよろこばしいことはない」
「俺が生まれてから、リシュターク家には不幸しか訪れていない。……兄上達は馬鹿だから、俺が死ぬまで俺の誕生を祝う気なんだ」
「命からのしゅくふくはうけとりがたい? でもだいじょうぶ。私は生まれていないのだから、命じゃない。私がこわれたらあとにはなにものこらないので、ふかいだったのであれば私をこわせばいい」
「……………………」
「おめでとうございます、エーレ。すえながくつむがれるその生に、さいわいがあふれますように」
「………………」
ここは私の世界だからなんだって可能だ。外にいれば思い出せないこともあるけれど、ここに入れば私は私のことを全て思い出せる。だってここは私の世界だ。
神の器として廃棄されるべき人形に許された、期間限定の世界。
ここに戻ってもこの事実を思い出せないなどあってはならない。だってそれは、人形として深刻な不具合が起こっている証左だ。
つまりそこさえ無事ならば、私はどうでもいいのである。
損壊、故障、破損、全壊。そのどれも、器を覆う私という肉になら、人はどれだけ与えても罪にはならない。人の身に降りかかるそれらの不幸の盾になること。神は私という肉にそう命じた。私という個が塵芥となり失せてなお、無傷でならない器だけが残ればいいのだ。
律儀に返答を続けてくれるエーレだが、偶にこうして黙り込む場合がある。何故かは分からない。
心なしか炎まで揺らいでみせる存在に、私は視線を向け続けた。
この命の身体は、こんこんと眠り続けている。言葉を交わせず、反応も返せない身体のために、毎日通う存在を私は知っている。
彼の兄二人は、毎日、毎日、毎日。連れだって訪れることもあれば別々に現れることもあるが、ただそれだけの違いで二人とも毎日彼に会いに来る。
彼はまだ受け取っていないのだからと、毎日毎日誕生日の贈り物を携えて。
神官長も、毎日彼の幸いを願っている。料理長も毎日いっぱい食べさせたいと手ぐすね引いて献立を考えている。私が知らないだけで、きっと他にもいるのだろう。
この命は愛される命だ。愛される命は愛されるべきだ。
「エーレ、あなたはあなたをあいする命がふかい?」
「…………兄上達は愚かだ」
不快ではないらしい。
「では、あいしてる?」
エーレは答えない。けれどこれまでの受け答えから、この沈黙は肯定と見做してよいと判断する。
この命を愛する命が存在して、この命もその命を愛している。
それならば。
「エーレ、生まれてよかったね」
それを表現する呼称は、幸い以外存在しないと思うのだ。
彼が纏う炎が、ほんの少し揺らいで見えた。私は説得に適した構造をしていないのだろうが、ここが攻め時だということは分かる。
「それに、あなたがあちらにかえったあかつきには、あなたにふりかかるわざわいにたいし、あなたのかわりに私がくだける。べんりだよ、私。私は、人がつかいやすいようにつくられているから。すきにつかって。そういうわけで、ここからでようよ」
今の流れなら、エーレも勢いでうんと言うだろう。
「馬鹿野郎」
駄目だろう。
兄達を愛しているらしい。両親を失った事実が悲しいらしい。兄達を排除しようとする周囲が憎いらしい。自分を排除しようとする周囲が疎ましいらしい。種類の違う数多の欲が穢らわしいらしい。続く未来にうんざりするらしい。それらを弾けない自分が何より。
だから明日は要らないらしい。世界も要らないらしい。けれど兄達を損ねたいわけではないらしい。けれど火種となる自分が嫌いらしい。自分にそう思わせる世界が嫌いらしい。そんな世界をどうにもできない己が嫌いらしい。
結局、全てひっくるめると腹立たしいらしい。
人はあまりに不幸が続くと落胆し、あまりに望まぬ事態が続くと失望し、明日へ進む気力を失うらしいのだが、彼の場合は落胆も失望も全てが怒りへと帰結するようだ。
以前より出力が落ちたとはいえ、未だ炎を纏い続けている彼の怒りは根深い。
何せ物心ついた頃よりずっと、自分という存在が周囲に与えてきた影響を見せつけられ続けてきた命だ。それらによって齎された感情全てが怒りに帰結した為、彼は延々と怒り続ける事態となった。
これが悲嘆や絶望であったのなら、ここには延々と涙を流す彼か、物言わぬ人形のような彼がいただろう。
だが現実は燃えている。何せ怒っている。魂が苛烈なこの命は、それだけの怒りを抱いてなお正気を失わない強靱な精神力を兼ね備えている。
それが幸か不幸かは、彼だけが判断するだろう。だが多くの命は、きっと壊れたほうが楽だったと判定するであろうほど、彼の魂に根付いた怒りは凄まじいものだった。
「エーレ、エーレ」
「……何だ」
「ここから出ない?」
「うるさい」
「エーレ、エーレ」
「何だ」
「私、しんかんちょうのやくにたちたい」
「笑っていればいいだろう」
「わらうのはいのちのとっけんだもの」
「………………」
「ついでに、命のとっけんとしてじかんの中で生きてみない?」
「うるさい」
「エーレ、エーレ」
「何だ」
「ほんじつのおにいさんじょうほうなんだけど、さいしょのおにいさんがあなたをりようしようとしたいっぱをぜんいんとらえていたのを、つぎのおにいさんがみなごろしにしたはなしと、そのけんをきいたときより神官長があたまをかかえていたおにいさんたちのはなし、どっちがいい?」
「……………………どっちも要らない」
「エーレ、エーレ」
「何だ」
「神官長が私をつかってくれません」
「当たり前だ」
「どうしてですか? 私はそんなにやくたたずでしょうか。私をひとばんかしだせばゆうずうをきかせるといってくる人にわたせばいいとおもうんですが」
「神殿の威光が地に落ちきる前にあの方が長の座に就いたのは、神の差配かと思ってしまう」
「神のさはいのけっかは私ですが?」
「………………元より失せかけていた神への信心が消え失せそうだ。慈悲も何もあったものじゃない」
「神のあいはいのちにのみあたえられるものですから」
「だったら、お前にも与えられるべきだろう」
「私はものです。いのちとはほどとおい。私のしゅうえんははいきです」
「俺は道具と会話する趣味はない」
「エーレ、きょうなぜかとつぜんはなをくれた人のかおがまっかだったんですけど、サヴァスいわくせいじょうらしいんです。どうしてですか?」
「血迷ったんだろう」
「ちまようってせいじょうなんですか? ちなみに、もらったはなをたべたらまっさおになったのどうしてだとおもいます?」
「真っ当だったからだ」
「マリヴェル、今日は何をしたんだ」
「はあ、だんろのなかにねこのこがとびこみかけたので、それをかかえました」
「被害状況は」
「ありません。ねこのこはぶじです」
「俺の前に包帯以外何も見えない存在がいるのは気のせいか」
「私がはんぶんやけただけです」
「神官長、嘆いただろう」
「なぜかかなしそうでした……」
「だろうな。二度とするな」
「マリヴェル、今日は何をしたんだ」
「きのうのあらしでおれたえだがふるましたに神官がいたので、つきとばしました」
「被害状況は」
「ひざをすりむいたうえに、てくびをくじいていました……もうしわけなかったとおもいます」
「お前の被害状況だ」
「とりにはやにえされるかえるやむしって、あんなきもちになるんですね」
「蛙や虫の気持ちは知らないが、神官長のお気持ちは察してあまりあるな」
「かなしそうでした……」
「だろうな。燃やすぞ」
「マリヴェル」
「なんです?」
「今日、機嫌いいな」
「神官長が、私をみてうれしそうにしてくれたんです。どうしてだかは、わからないんですが」
「よかったな」
「はい」
「マリヴェル、お前を見つけたのが神官長だった事実だけは、神に感謝しそうだ」
「私もそうおもいます。ただ、神官長にとってはありえべからざるふこうであり、かれのじかんを私についやすこういは人にとってもおおいなるそんしつです。エーレもそうですが、エーレのきおくはここからでるさい私がけすので、あなたの生にえいきょうはおよぼしません。ごあんしんくださあっつ」
「燃やすぞ」
「それもやしたあとにいうのであってます?」
毎日毎日不思議なことばかり。毎日毎日不思議なことを持ち帰り、エーレに添削をしてもらってかろうじて理解したような、もっと分からなくなったような。
人のことも命のことも、月日が経てば経つほど分からなくなっていって。分かっていたはずのことが分からなくなって、私があるべき姿は欠片も変わらないのに、意識に上る前にぼやけていって。
私の中にある機能に不具合はないようなのに、私という外皮が壊れていくような、調整されていくような不思議な感覚がずっと纏わり付いている。
今日もここは真っ白な世界だ。色があるのはエーレと、エーレが纏っている炎だけ。
ずっとこれだけ。ここには何もない。だって神は最早残滓と成り果て、私は何も持ってはいけないのだから。
それなのに、空っぽでいなければならない私の世界にはずっとエーレがいる。私が、ずっと分からない不思議なことを語り続けたエーレがいる。とても記憶力のいいエーレがいる。
私が物ではない扱いを受けてからの日々を、その身に詰め込み続けているエーレがいる。
私が包帯を巻いたり、骨の周りを肉が覆いその形が肌の上から見えなくなったり、髪が伸びたりしている間、ずっと変わらないエーレが。
「エーレ」
「何だ」
最近ずっと、私は途方に暮れている。だって、なんだかずっと、不具合が酷いのだ。
「私はさいしゅうてきにこわれ、はいきされるためにあります。そのためにつくられました。それが私のやくめです。そのために私はあります。それなのに、どうしてでしょう」
日が経つにつれ。まるで人のように扱われるにつれ。
私の廃棄がこの人達の未来になるのだと。そう思うと、胸の中がなんだかおかしくなるのだ。
温かいような、熱いような。全力で走った後のような、大声を上げたくなるような。神官長の大きな手で頭を撫でてもらっているときのような、神官長の高い位置に抱き上げてもらっているような、神官長の温かな身体で抱きしめてもらっているような。
「このかんかくは、人がほこらしいとよぶものでしょうか。うれしいと、かんきの声を上げるものでしょうか。私はたぶん、そうだとおもうんです」
それは確かだと思う。だって、本当に、温かくて。身体も胸も弾むのだ。
それなのに、おかしいのだ。
「私は私のはいきがほこらしいのに、あなたたちとすごすじかんがそこでおわるじじつはうれしくないんです。それらはまったくおなじことなのに、私がいだくかんかくがおなじでないのはどうしてでしょう」
エーレは答えてくれない。いつも即座に言葉を返してくれるのに、エーレは時々こうして黙りこくってしまう。今回もそうかと思ったが、いつもとは少し違う。
「……エーレ?」
エーレの炎が、揺らいだのだ。炎が揺れる。その瞳までもが揺れ、熱を落としてしまう。
「どうしてなくんですか?」
「…………泣いていない」
そう言うのに、エーレの瞳から零れ落ちる光は止まらない。
困った。私は人を救うためにあるのに。人を守るためにあるのに、人のためにあるのに。
「だいじょうぶ、だいじょうぶですよ、エーレ」
何も分からず何もできない私という存在は、けれど神が人の為に在れと定めた。
だから、人のための機能がある。そこはちゃんと稼働している。おかしいのは私の認識で在り自意識だけだ。神様が作った道具としての機能は正常だ。
「エーレは私がまもりますから」
だから、何も怖いことはないんですよ。
「私、どうしてだか、ここにもどらないと私のそんざいりゆうをにんしきできなくなってきました。でもだいじょうぶです。私のはいきぶつとしてのにんしきがどれだけゆらいでも、私のほんしつはかわりません。私のほんしつは私のじにんなどひつようとしていませんので、私はずっとはいきぶつです。そして私がはいきぶつであるいじょう、あなたたちのみらいはほしょうされています。あなたたちの生がかくていしているのであれば、私のかんかくはうれしいとおもいます」
「……それは、感覚じゃない。感情と呼ぶんだ」
「かんじょうは人のとっけんです」
エーレの炎が揺らぐ。揺らぎ続けている。それでも決して消えないそれは、彼の怒りの証明だったはずなのに。
その炎を纏ったエーレの姿は、ちっとも怒っているようには見えないのだ。炎の中で雨を降らせ、俯くので、柔らかな春の色が見えない。
エーレがずっと纏い続けてきた炎は、やがてゆっくりとその輪を広げた。私を通過し、この小さな円の中を覆い尽くすのに熱くない。ただただ温かいだけで、まるで春の陽光のような温度だ。
私に許された小さな小さな世界を炎が満たした速度と同じほど、ゆっくりと、エーレが顔を上げた。その瞳はもう、雨を降らせてはいなかった。
そして、彼がずっと宿していなかった生の光が、そこにはあった。
それが、何故だかとても美しく見えた。十日間水だけしか口にしていない時、黴の生えていないパンを見つけても、こっちを見てしまいそうなほどに。
「あなたがすごしたかんきょうにたいし、あなたがいだくいかりはせいとうです。けれどそのいかりがあなたをやくのなら、あなたのほのおは私にむけてください。私をもやせばいいんですよ。だって私は、あなたたちのきずやふこうをひきうけるためにあるんですから」
私は人の為にある。神の愛が人の子の為に私を創った。人の為に壊れてこそ意味がある。
それはこれから先も変わらない。けれど私は、神官長とか、エーレとか。この人達のために壊れたい。
彼らは人だから、彼らのために壊れることは私の存在意義と重なる。人の為に壊れなければならないので、エーレ達の為に壊れたい。
同じことだ。
けれどなんとなく違うようにも思える。
それなのに、そんな自分を修正しなければとは思えない。
なんだか私が軋んでいるのに、なんだか私が歪んでぶれて滲んで揺れて、けれどどこか満たされるような気もして。
よく分からない。ずっとずっと分からない。色々なことを教えてもらってきたのに、その分もっともっと分からなくなっていく。
分からないことはエーレに聞いてきた。私がその日感じた不思議なことは全て、私とエーレの中に詰まっている。
だからエーレに聞いた。そうしたら、エーレはそれが感情だと言うのだ。
「私がかんじょうをいだくことをゆるされているのでしょうか」
「感情は反射で発生する。瞬きを禁じられたところで、誰も守れやしない。そんなものを禁じてみろ。たとえ神であろうと笑いぐさだぞ」
成程、そうなのか。なんだか少し違う気もするけれど、感情を抱くという現象が、行為ではなく行為による反射反応なのだとすればエーレの言は頷けた。
「それなら、私がいつかこわれるならあなたたちのやくにたってこわれたいとおもうこのかんかくは、ねがいとよんでいいのでしょうか」
願いを抱くくらいならば、私でも許されるのかもしれない。
私の想いが、行動が。
私の破片が、私の塵が。
私の廃棄が、いつかあなた達を守るのだ。
そう思えば、この人達の未来から私が消え失せる必然がもっともっと誇らしい。
こんなにも、胸が内側から張り裂けて砕け散ってしまいそうなほど誇らしいのだから、そのうちきっと嬉しくなる日も来るだろう。嬉しくなったら、私が消え失せる未来が待ち遠しくなるはずだ。
「マリヴェル」
「はい」
「お前は神殿にいろ。神官長が、あの人が率い続けてくれるなら、あそこはどこにもいけなくなったとき、どこにもいかなくていいと自分に許せる場所になる」
エーレの言葉は、私からの質問には何も答えてくれていなかった。そのはずなのに、何か、とても大切なことを告げられている気持ちになる。神官長に関することだからだろうか。
言葉の意図するところが分からず、返答に詰まった。私がいる場所を私が選ぶのではないので尚更だ。私がいる場所は私を所有している人間が決める。けれど神官長は私を所有してはくれないので、明日の私はどこにいるかも分からない。
そう言おうと思ったけれど、エーレは私の返答を待ってはいなかった。
「マリヴェル」
「はい」
真っ白だった世界はもう見えない。私の世界を満たしたエーレの炎と、その炎を宿した瞳が私の瞳にも映っているだろう。
「俺はここから出る」
突然の宣言だったけれど、ずっとそうしてほしかったので喜ばしい言葉だ。
これで私の世界は真っ白で空っぽな世界に戻る。私の世界には何もない。だって私は道具なのだから。人が私を所有するのであって、私が何かを所有することは有り得ない。私はずっと空っぽのまま過ごし、壊れるのだ。
エーレからの喜ばしい言葉で私の中が動いていたので、これもきっと嬉しいと呼ばれる感情なのだろう。
「なんだか私もここでのことをおもいだしにくくなっていますし、エーレのきおくにものこらないので、はなしをするのはこれでさいごかもしれませんけれど、げんきで生きてください。私はずっとあなたのさいわいをいのります」
「必要ない」
「たしかに。私のようなごみは、あなたにひつようありませんね」
私などの祈りがなくても、この人達は幸いに生きられるだろう。それでも、祈りたいと思ったのだ。神の祝福があればいいと、この人達の生が幸いに彩られ、穏やかな鮮やかさに覆われたものであればいいと。
そう思ってしまったのは、私が持ってはならないまるで人のような欲だとしても。
その時、私は妙な顔をしたのかもしれない。だって、私を見るエーレが見たこともない顔で笑ったのだ。
いや、見たことは、あった。
エーレがこの顔をしたのは初めてだったけれど、エーレ以外の人間がこの顔をしたことはある。
神官長が、するのだ。
私が石を食べたとき、土を食べたとき、肉体を損傷したとき、私の使い方を提案したとき。
こんな顔を。
どうしてこんな顔をするのだろう。私は人ではないのだから、人の感情を理解することは不可能かもしれない。けれど、神官長にもエーレにも、してほしくはない顔だと思うのだ。
だから、私にはどうしようもないことかもしれなくても、理解しようとする努力を怠ってはならないとも。
「エーレ」
聞こうとした。分からないことは、みんなエーレに聞いてきた。けれどエーレは、私の問いを待ってはくれなかった。
これまで、根付いているのではないかと不思議に思うほど決して動こうとしなかったエーレが腰を上げ、私を抱えたのだ。
神官長に比べると、ずっとずっと小さな身体だった。腕も細ければ掌も小さい、薄い身体。それでも、神官長と同じくらい温かい。
柔らかな抱き方は、彼が家族にしてもらった行為をなぞっているのだろうか。
「お前の祈りなどなくても、俺は勝手に幸せになる。俺には願いを現実にできる力がある。そうできる子どもだと、父上は仰った。俺には、他の人間が努力をしても手に入れられない環境と神力が生まれたときから備わっている」
「すばらしいことです。ではそのぶんをよかとして、生をじゅうじつさせるじかんにつかってください。あなたの生がみたされたものになることは、よろこばしいことです」
素晴らしいことだ。努力と苦労が悪いわけではないけれど、それをせずとも手に入られているものが多ければ多いほど、それらのために使う労力と時間が減る。
その分を他に使うという選択肢ができる。そうすればするほど、手に入れられる存在は増えていく。
エーレも神官長も、彼らのような人間は報われなければならない存在だ。彼らのような人間が報われない世の中は、世の仕組みが間違っている。
人は善悪を定めた。人だけが定めた。なればこそ、善と定めた行いで満たされた魂を持つ人間は報われるべきなのだ。
「俺は人より恵まれた」
そう言ったエーレの言葉に、少し、驚く。世界の悉くに怒っていた人が、自らの生を恵まれたと言ったのだ。
どういう心境の変化があったかは分からないけれど、これは喜ばしいことだ。世界にとっては勿論、エーレ自身にとって。
「だから、他の人間が努力している時間分全てを、お前にやる」
エーレが何を言ったのか分からなかった。言語は理解している。聴覚も正常に作動している。私の機能は正常のはずだ。それなのに、エーレの言葉を意味として理解できなかった。
「お前の為に死んでやるし、お前の所為で生きてやる」
エーレが私を抱えてしまったから、私の視界からはエーレが消えている。だがエーレの炎が私の世界を満たしているから、白の世界も見えなくて。
なんだか、頭にも胸にも靄がかかっているような気分だ。それでも、エーレがここから出た後も私のことを覚えていることを前提とした話をしているようだとは、なんとなく気づけた。
「えぇと……エーレは、ここでのことをわすれますよ?」
「そうかもしれないな。俺は、失われる記憶への対処法を学んでいない」
「だったら」
「だが、お前は神殿にいるんだろう」
神官長が私を処分したり譲渡したり売買しない限りはそのはずだ。そうであったらいいなと、思う。
明日も神官長に処分されないといいなと思いながら、毎晩意識が落ちている。処分されるなら、せめて意識があるときがいいなと思っているから、最後まであの人を見ていたいなと思っているから、最後まで意識を閉ざす行為を躊躇ってしまう。
そんな話を前にエーレとした。エーレはちょっとしたことでも驚くほど全て覚えているのに、不思議なことを言うものだと首を傾げる。
「私のはいちをきめるのは私ではありませんので、あしたどこにせっちされているかは私にもわかりません」
「お前はずっと神殿にいる。神官長がお前を見つけたのならば、お前が望まない限りお前は孤独に生きられない。そして俺は、お前と出会えさえすれば、お前の為に俺を使おうと思うだろう。だから忘れても問題ない」
分からない。よく分からない。全部分からない。エーレが突然知らない言語を喋り始めたかのようだった。
分からない。分かってはいけない。分かるはずのない、私という存在が対象となってはいけない命の言語。
ああ、そうか。
そこで初めて気付いた。全部全部全部、神官長が私に向ける言葉はその一片も取りこぼさないよう聞きたいのに、私の中に持ち込めない言葉が幾つもあった。あれも、そういうものだったのだ。
命が感情を持って命へ向ける言語。
それをエーレがいま、私に向けている。
「――エーレ、あなたのことばは、人がいのちへむけることばです。私には、それをうけとるきのうがありません」
「無ければ作る。人はそうして生きてきた。お前は俺達を人だと言い続けた。だから俺は人らしく、人としての俺でお前を生かす」
分からない。分からないのだ。分からないのに、許されないということだけは分かる。
「……俺は、この世界が許せなかった。両親が死んだ世界も、兄上達を苦しめる世界も。俺達を自分達が得する為の素材としてしか見ない人間達も、そいつらを排除できない自分も、全てが」
人間が一生のうち平均的に見る人の欲を、この世に生を受けた数年間で見尽くしたエーレの気持ちを私が理解することは不可能だ。けれど、大変だっただろうとは思う。この世に存在した年数にそぐわないほどに人として完成できてしまう魂を持って生まれてしまったこの人の生は、これからもきっと過酷なものとなる。
その為に、彼は人とは思えないほどの神力と魂を携えているはずなのだ。
「だが、お前がそんなものの為に生み出され、消費されると言うのなら、これほど腹立たしいことはない。俺を自分の欲の為に消費しようとしてきた人間達以上に、許し難いんだ」
人の体温は温かい。
「だから、俺の怒りはお前にやる」
人の力は柔らかい。
「……大丈夫だ、マリヴェル。神官長と俺達が、お前を人にする」
人の言葉は美しい。
しかしどれも、私へ向けられてはならないもので。
「エーレ、私が神によりさだめられたつとめをほうきすることも、あなたというそんざいが私というはいきぶつについやされることも、人にとっておおいなるそんしつです」
エーレの身体が離れていく。温もりが離れたのは視線を合わせるため。そう分かるほど、エーレはまっすぐに私を見ていた。
「約束する。……神がお前を廃棄するというのなら神には誓わない。だからお前に誓う。お前が人の為に作られたというのなら、人である俺がお前を消費しないと誓う。そして、お前を誰にも使わせたりしない」
「それは……おかしいですよ。だって私は、人につかわれるためにここにいるんですから」
「分かってる。お前がお前の為に怒れないことは、これまでの間で腹立たしいほどに。だから俺が怒る。お前を使おうとする奴ら全員燃やしてやる。お前を消費することで生き延びる国など滅びてしまえばいいんだ。それは相手が世界だろうと同様だ」
人の世を存続させるため、その命を守るため。人の世に神が放り込んだ私という人形が、世界を壊す理由になるらしい。そんな道理が罷り通るわけがない。それなのに、まるで当たり前のようにエーレが言うものだから。
私は否定も疑問も、言葉として構築することができない。意識がどこかぼんやりしていく。けれど、エーレの言葉がまるで彼の炎のようで、意識が散りきれない。熱いはずなのに、温かいとしか思えないのだ。
「マリヴェル。明日を見限った俺は、もう終わるはずだったんだ。俺に時間を与えてくれたこと、感謝する。お前が時間をくれたから、俺は自分の使い所が定まった。恩は返す。それが人としての道理だ」
「だ、めですよ、エーレ。だって私は人のためにつくられたのに、人からあなたをそこなわせるのは人にとってじゅうだいなそんしつです」
「俺が俺の使い所を定めた。ただそれだけのことだ。そこにお前が介入する余地はない」
それは、そうだ。けれど、駄目だ。駄目なのだ。許されないのだ。許されてはならないのだ。
だってそれは修羅の道だ。この人にとっても世界にとっても、だ。
命として最高峰の魂を持つこの人が、この人という存在を抱けたこの時代の命が得たはずの恩恵が、幸いが、発展が、夢が、砕けてしまう。時代さえも制覇できてしまうほどの魂を持ったこの存在が、命に向けられない。そんな損失を命が被っていい道理がない。
この人を蔑ろにした人間に恩恵が与えられないのは当然だ。だが、この人を愛する人々が、善良な、幸いを愛する人々に与えられないのは惨い話だ。
彼が人として当たり前に生きているだけで世界に与えられた恩恵が、損なわれる。その要因に私がなる。こんな馬鹿な話、あっていいはずがない。
「…………だめですよ」
「ははっ、お前のそんな途方に暮れた顔は初めて見た」
私は弱り切っているというのに、エーレは声を上げて笑う。私だって、エーレが笑う顔は初めて見た。それなのに、エーレはますます笑い、私はますます途方に暮れるのだから奇妙な状況だ。
尊い命と廃棄が決まっている人形とでは差があるのは当たり前で、それは差別ではなく区別なのだが、不公平だとちょっと思ってしまうくらいには差がありすぎる。
「……エーレは、私をしってしまったうんめいをなげくべきです」
「お前は俺に見つかってしまった運命を恨め。俺は兄上達曰く、異様に頑固で意固地で融通が利かない暴君だそうだ」
年相応といわれるであろう顔で笑っていたエーレは、やがて静かにその笑いを収めた。
「マリヴェル」
私の手を取り、まっすぐに私を見る人は、初めて見たときの光ない瞳をもう思い出せないほど。
光そのものだった。
「俺の生を続けさせてしまった事実を後悔しても、もう遅いぞ」
その言葉に驚く。私と温度を重ねている手を、思わず強く握り返す。
「こうかいなんてするはずがありません。エーレ、あなたというそんざいはせかいにとってのえいこうであり、あなたをあいする人びとにとってのさいわいです」
「お前はいちいち大袈裟だ」
「私にとってあなたとのであいは、神官長とおなじほどにありえべからざるこううんでした」
今度驚いた顔をしたのはエーレのほうだった。
「…………あの方と同列にされているとは、思わなかった」
そう言って、私と繋いだ手をそのままにくしゃりと笑うから。私などと繋がったまま、笑うから。
私は、この人と過ごした時間がほんの僅かにでも私の中から欠けたら嫌だなと。
思ってしまったのだ。