75聖
不思議な温度を持つ人に抱かれて住み着いた神殿は、鮮やかな場所だった。
飲んでもお腹が痛くならない水がそこかしこに溢れ、根まで囓り尽くされ枯れ果てた木が一本もなく。木々は青々と葉を茂らせ、枝をしならせる。緑色をした物は見つけた時点で根こそぎ食べられていたスラムとは違い、花咲き、実った植物達。
のっぺりとした冷たさか、衝撃と痛みを齎すだけだった人の温度。
生ある人間の温度は温かいのだと、私に教え、柔らかな温度を私に与える不思議な人と過ごす日々は、とても奇妙な時間だった。
神官長と呼ばれるその人は、いつまで経っても私を使おうとはしない。
使わないのに、飲んでもお腹が痛くならない水がそこかしこに溢れているのに、そこからではない数多の生ある人間が飲んでいる水をわざわざ容れ物に入れて与え、ゴミ箱に入っていないどころか調理という人間の文化を施した食料を与え、風も雨も入ってこない虫もゴミも存在しない部屋で、死臭のしない真っ白なシーツに覆われたぐちゃぐちゃでもごつごつでもどろどろでもぐさぐさでもない、掘り起こして積んだばかりの土のようにふわふわした寝床を提供する。
不思議なことをする不思議な人は、私をいつ使うのかと尋ねても、「そんな日は一生来ない」と不思議なことを言う。
まだその時期じゃないのかと思っていたのに、使わないと言うのだ。それならば無駄な時間と手間とお金をかけて私を整備し維持する必要はないのに、食料を与え寝床を与え続ける無駄な行為は一刻も早くやめるべきだ。
だってこの人の生の損害になる。無意味な消費は、大多数の人間にとって無駄遣いと呼ばれる悪しき習慣のはずだ。
それなのに、言葉でも行動でも己を律し、美しい魂がそのまま現れたかのような無駄も穢れもなく生きている人は、私を使用する予定もないのに私を整備し続けるという無駄な行為を続けている。
それをいつも不思議に思っていた。私の使用方法が分からないからかなとも思ったので、私が知っている限りの提案をしてみた。すべて却下された。
しかし私がお金を盗んだ行為を断罪しないばかりか、整備までしてくれている人に何も返せないなどあってはならない。
人は私をどう使っても構わないが、私が人に損害を与えてはならないのだ。だから新しい知識を得るとすぐ提案しにいった。
「神官長」
「どうしたんだね、マリヴェル」
私に衣食住だけではなく、「おい」でも「お前」でも「ゴミ」でも「くず」でも「虫」でも「死ね」でもない、名前という個体名を与えてくれた人の役に立ちたかった。
私という個を認識しても嫌悪せず、呼び掛けても汚れと判定せず、立ち止まったばかりか膝を折り目線を合わせるこの人の役に立ちたかった。この人の前に立ちはだかる全ての不運の身代わりになりたかった。全ての不幸の盾になりたかった。
私が人の為に砕けるのは当たり前の事実でありいつかそうなることは必然で、そうあるべきなのだが、私がもしそう作られたわけでなくてもそうしたかった。
「このごろずっとむずかしいかおをしているこまりごと、私をひとばんかしだせばそのけんのかいけつに手をかすと言ったので、私をかしだしませんか? ひとばんではなくても、神官長がひつようとする分だけ」
私でも神官長に貢献できる術を得たのですぐに報告した。現状無駄遣いでしかない役立たずの整備が役に立つのだ。きっと神官長は喜んでくれると思った。
この人が喜んでくれると、胸が春みたいになる。だがいつも奇妙な拍子に笑うので、きっかけは未だ分からない。
それでも、最近ずっと頭を悩ませている案件がこれで解決するかもしれないのだ。
きっと神官長は喜んでくれるはずだと思ったのに、神官長は眉間の間に雨に当たり続けてしなび、ぼこぼこになった指のような皺を作った。
「……君にそう言った人間の顔と名前は、分かるかね」
「なん人ぶんひつよう? たしょうのさいはあれ、げんざい私にそのていあんをしてきたのはろく人で、なん人ぶんひつよう?」
質問したが、神官長から答えは返らなかった。何故か大きく息を吸い、深く細く長い息を吐き出していく。そこから吐き出されているのは空気だったのに、どうしてだか神官長が怒っているような気がした。
「ふかいなかんじょうをいだかせてごめんなさい。なにをふかいにかんじたかおしえて。じかいにいかすから。じかいがもうないのであれば、私はいつここを出ていけばいいのかおしえて。そのすんぜんまではいたいので」
分からない。何も分からない。ずっと、ここに来てからずっと分からなくて。
倫理、道徳、道理。人間が自身を獣とは違うという自負を持つ理と呼ばれるそれらは、ずっと、感覚のようにこの中にある。それらから外れた生きたかをする人間であっても、理解はできた。
だが、ずっと分からないのだ。
人として尊ばれるべき人間であるとはっきり分かるこの人のことも、この人が私に齎す環境も感情も何もかもが。
私の言動に対し不快な感情を抱いた瞬間、殴りつけるなり蹴り飛ばすなりしてくれたほうが分かりやすい。それなのにこの人の大きな掌は私の頭を撫で抱き上げるだけで、この人の長い足は私の何歩分にもなる距離を一歩で進みながら、見たこともない高い景色を見せるだけだ。
神官長は、私の問いに不思議な表情をした。ほんの瞬き一つの間だけ浮かべられた、裸足で釘を踏み抜いたときのような顔はすぐに消え、ここに来て初めて食べた、持つとすぐへこんでしまう焼いたばかりのパンのような笑みに変わる。
「君はもうどこにも行かなくていい。勿論、君が行きたい場所があるのなら協力しよう。だが、君がここにいたいと思ってくれるのなら、いつまでいても構わない」
「どうして?」
すべてがすべて理解の範疇外にあるこの人のことがずっと分からない私は、ずっと問うてばかりだ。
疎ましいだろうに、この人が私の問いに不快感を浮かべたことは一度もなく、それもまた不思議だった。
そして、今度の問いの答えは早かった。
「君が私と出会ってくれたからだ」
意味は全く分からなかったが、神官長が穏やかに笑っていたのであまり気にならなかった。
神官長は大きな手をゆっくりと伸ばし、私を抱き上げた。ぐんと視界が高くなり、さっきまで目の前にあったものが小さく見える。空気まで澄んで感じるのだから不思議だ。
「子どもを守るべき大人が、子どもである君に告げてはならない言葉を吐き、君に聞かせてははならない言葉を聞かせてしまった事実は私の不徳だ。すまなかった」
最初はそれが私に向けられた謝罪とは気付かなかった。だから、どうして謝るのか聞けなかった。
「私はまだまだ精進する必要があると、最近身につまされることばかりだ」
既に価値ある人間として完成されていると思う人は、しみじみそう言った。まだ尊くなるらしい。あまり尊さが増すと、神様が気に入って連れていってしまうかもしれないので気をつけてほしい。
現在この地には、器を持たない神しかいないけれど。
ぶつりと思考が途切れたのは一瞬で、そんな事実はあっという間に忘れてしまった。
一歩一歩が大きいため、何度も踏み出す必要がなく揺れが少ない歩みの恩恵を受けていると、神官長はとある建物へふと視線を向けた。
神殿の施設はあちこち案内してもらったし、説明もしてもらった。けれどそこは、眠っている人がいるからと中に入ってはいなかった。
「本当は私などより、同年代の子どもと過ごしたほうが君のためになる。だが、すまないね。現在の神殿には、君と遊べる子どもがいなくてね」
「あそぶのはいのちのとっけんだもの」
命だけが自由意志で遊戯に興じることができる。そもそも遊びとは、意思があって初めて成立する行動だ。
神官長は少し困った顔をした。最近、これが困った顔ではなく悲しい顔なのかもしれないと思い始めてきた。けれど何故そんな感情を抱くのかは全く分からない。
「君と出会った日、君と気が合うだろう子がいると言ったことを覚えているかね?」
「はい」
「その子は、あの建物で眠っているんだ」
神官長の視線が向いた先を私も見る。他とは少し違った建物だ。
建築様式などは詳しくない。だけど、それらは他とは変わらないとは分かる。他と同じような外観の建物だ。
違っているのはそこに漂う神力だった。
他の建物と屋根のある通路で繋がっている建物全体を覆うように、神力が張り巡らされている。様々な神力が重なり合っているから、大勢の神官がこの結界を維持しているのだと分かった。
一番多い神力は神官長のものだ。神官長の声と同じで、一番優しい気配をしている。
だが、その場にある一番大きな神力は神官長のものではない。建物を覆うように張り巡らせている神官長達の神力の内、建物内から発せられている神力が、一番大きい。
神官長達の神力はその神力を静めるように張り巡らされている。
その理由はすぐに分かった。一番大きな神力は酷く攻撃的で、神官長達の神力が抑えていなければ周囲の建物はおろか、神殿も王城も、アデウス全土すら燃やし尽くしてしまうのではないかと思ってしまうほどの怒りに満ちていた。
「あの子はどうしてあんなにおこっているの?」
「……怒っている?」
「はい。もうぜんぶぜんぶなにもかもしるかって。サヴァスのようにいうなら、げきおこ」
怒ってるなぁと思いながら答えたら、神官長から息が漏れた。いつも聞く溜息より短いのに強い不思議な息だ。
どういう感情で紡がれた息なのか覚えようと視線を向けると、神官長はおかしくて堪らないと言わんばかりに笑っていた。
「そうか。私はてっきり、もう目覚めたくないと思うほどにこの世に絶望しているか、恐怖しているものだと思っていたが……そうか、怒っていたのか。確かに、エーレ、君はそういう子だ。……本当に、強い子だ」
よく分からないが、神官長が嬉しそうなので問題ないと思う。
問題ないと思うのに、何かが引っかかる。
神官長が嬉しそうな顔をもっと見たいのに、何かが引っかかってもう一度建物に視線を戻してしまう。
何だろう。何かを忘れているような。
何かを――私の中に、何かいる?
「――あれ?」
「どうかしたのかね?」
「いいえ」
神官長に嘘をつきたくはなかったけれど、こればっかりはどうしようもない。
神官長が人である以上、教えることは出来なかったので私は一つ罪を犯した。神官長に嘘をついた罪は、何らかの形で罰してほしいと思う。
見渡す限り続く真っ白な空間。天も地もない、音も命もない。
ここは神の世界だ。神は世界の中にいるけれど、巨大で強大な神は身の内にも世界を持つ。命はいないけれど、命に似たものならば幾らでも創り出せる。山も海も空も星もなんだって、神の思うがままに。
神の世界は神の原初だ。
遙か遠くまで、果てのない世界は私を創ったハデルイ神のものだ。かつてはここにハデルイ神の世界があった。命に似たものが溢れた、鮮やかな世界だった。その残像はまだ、この真白い世界に残っている。私の目ならば見えるのだ。
ハデルイ神は命が好きだから。命に似たものは他の神様より沢山沢山いた。
神様は何でも創れるけれど、命は創らない。だって神様が物以外を創ったら神に近しいものになってしまう。だから物でなければならない。だから私は物なのだ。
物でなければならないから物として創られ物として起動し物として廃棄される。
私はその為だけに世界に在るのだ。
かつて鮮やかな世界が広がっていた世界。けれどハデルイ神が死んでしまったので、今は真っ白だ。他の神様の世界もそうだ。世界は沢山沢山砕けてしまった。
本来ここはハデルイ神の許可がなければ入れない場所だ。命は到達できぬ場所。命の延長線上には決して存在しない場所。
神であろうと、世界の主である神の許可がなければ入れない不可侵の世界。
私はハデルイ神により創られた神の器だから、ここに少しだけ自分の世界がある。
そうはいっても、本来であれば不可侵の領域であるここはハデルイ神は勿論他の神々であれば強制的に入れるだろう。
だって私は神ではないのだから。
「やっぱりいた」
真っ白の世界。私が立てば手が届くほどの範囲しかない丸の中に、その子どもはいた。
一年の中で一番食べやすい若葉の色の髪に、死体になってからスラムに捨てられたいた貴族が首からあっという間に引き千切られ、それを取り合ってスラムの物が七個死んだ騒動の中心になっていた宝石のような瞳。
光のない、だが、怒りだけを滾らせた瞳。
器用なことをするなと思う。光を持たない瞳も、怒りを滾らせた瞳も、スラムでは決して珍しいものではなかった。だが、そのどちらも宿した瞳は初めてだ。
怒りは気力がなければ湧かないのだ。
それなのに、全てに絶望し、失望したかのような瞳をしているのに怒りだけは延々と湧き出しているのだから器用この上ない。
私の世界に入ったら猛烈な熱を感じ、熱を消した。
ここは曲がりなりにも私の世界なので、神々が相手でなければ基本的に全て私の思うがままとなる。
「エーレ?」
神官長から聞いた名を呼べば、小さな小さな私の世界を真っ赤に染めていたその子は、ゆっくりと私を見た。
「ごめん。いれたのわすれてた」
いつからここにいるのだろう。私の世界にこんな命を入れた覚えはないのに。
ここは私の世界だから、私が取り出そうとしなければこの命はここに入ったままになる。老いもせず、死にもせず、完全に止まった時の中に取り残されてしまう。
うっかりしていた。まったく覚えてないけれど、忘れているということはうっかりしたのだろう。
私は反省した。
しかし、せめてこの命がここから出ようという意思があれば、思い出せないまでも私の中にこの命がいると気づけたのに。
この命はここで延々と燃えているだけで出ようとしていない。まったく、ちっとも、これっぽっちも。ずっと私の中で怒っている。
この命が発生させている炎は、尋常ではない威力を持っている。怒りが世界だけでなく自分にも向けられているらしい。ここでなければ魂が炭化し、二度と巡れなくなるだろう。
何せ炎の燃料が魂なのだ。魂を燃やして怒りを滾らせている。
時が止まったと同義であるこの世界でなければ、あっという間にこの命は燃え尽きていただろう。
だから咄嗟に私の中に入れたのかもしれない。そんな熱に触れた覚えは一切ないし、私の中に入れた覚えも全くないけれど。
「ねえ」
「うるさい」
「ここをでるためにはそれおさめないとだめ」
「うるさい」
「いきているならいきないとだめ」
「うるさい」
「だっていのちなんだから」
「うるさい」
取り付く島もない。
それが二度目の初めましてであり、私とエーレが交わした最初の会話だった。