74聖
真白い世界があった。
音もなく、風もなく、臭いもなく。天もなければ地もない。命もなければ死もない。
そんな世界があった。
私はいた。そこにいた。いまその時より、いるようになった。
私の前にもいた。何かがいた。ずっと前からそこにいた。
いる前からそこにいた。
私を見下ろし、妥協するようにこれでいいかと告げるその存在を、私は知るより前に理解していた。
「人形、器としての機能さえ残せば少々砕けたところで構わん。人の子らに尽くせ。人の子らの幸いのため稼働せよ」
そう言った。言っていた。言っていたけれど私が聞く必要はなかった。
聞かずとも、知らずとも、それは私にとって絶対で、理解せずとも必ず訪れなければならない事実だと知っていた。
「故に、廃棄となるまで、聖女として務めろ」
その為の私で、そういうものだと始まりから理解していたので、思うところは何もなかった。
私は,なかったのだけれど。
「うるさい」
命の声がした。
人の子が発した声は、人が苛立たしさを表明するときに使用される場合が多い言葉だったけれど、その声には一切の感情が乗っていない。
まるで物のような、まるで私のような声だった。
沢山のゴミがあった。人が生み出したゴミがあった。人が不要と判断したから、人が嫌悪したから、人が汚れと判断したからゴミとなった廃棄物が山を成し、砕け、曲がり、腐り、更なる汚物へ変貌していく。
そんな場所に、一つの命がいた。
小さな小さな命だ。
髪と瞳は艶を纏い、美しく光を流している。だが瞳に光が宿っていない。光は表面を滑り落ちていくだけで、その内から発せられてはいない。
「これはまた……珍しい魂の形をした人の子よ」
この場所には、一つの神がいる。
大きな大きな神だ。
大きな角を持つ四つ足の獣と同じ形をしている。だが本来肉を纏っているはずのその身には宙を纏っていた。深い星空のような身はところどころ欠け、骨が見えている。欠けた身体は神の身が損なわれている証左だ。
それでもこの地上にあるどの命よりも強く大きい神だった。
小さな命がゆらりと揺れた。その命の周りには、かつて命だった肉が転がっている。その数八つ。全て黒炭と化しているゆえ、疫病を生み出しはしない安全な肉塊だ。
小さな命はゆっくりと近づいてくる。歩を進めているのか、傾いた自重により前へと進んでいるのかは判断がつかなかった。
この世に発生してまだ十年も経過していないだろう命は、既に生を燃やしきり疲れ切った命に見えた。
それなのに、その命は私の前に到達した。
ここには、一つの物がある。
無価値で無意味な稼働物だ。
新たな神がこの地上に存在した概念を得るための事実として形成された物だ。神の命を果たすまで保てばいい間に合わせの私は、最初から廃棄を前提として創作された。長期の稼働が可能となるほど繊細で強固な作成はされていない。
命の瞳を彩る光は、およそ幼子が浮かべていいものではなかった。
最早光と呼ぶことすらできないそこには、かつて光のあった名残が確かにあるというのに、その瞳に残るのは他者の欲望によって無残に食い散らかされた残骸だった。
いっそ空虚だったほうがどれだけ楽だろうかと思える残骸を瞳にたたえた子どもは、黒炭と化したかつての命を無感情に踏み、歩みを進める。
「希有な魂を持った人の子よ。そのような魂を持っていては、人の世ではさぞや生きづらかったろうに」
神の興味はすでに私にはない。目の前に現れた愛おしい小さな命に釘付けだ。
当たり前だ。誰だって、どんな存在だって、美しい存在に興味を引かれる。いずれ廃棄されるゴミに興味を向けるほうがおかしい。
当然の摂理に思うところは特にない。あるとすれば、尊ばれるべき命が、たった数年しか生きていないというのに、これほどに生に疲れ切った瞳をしている理由だ。
命を守らなければ。命は尊ばれなければならない。命を守るために私はあるのだ。
小さな命は、この世のどんな命とも違う形態をしている神の姿を見ても何の反応も示さない。驚愕も恐怖も崇敬の念も見せず、ただ歩を進め、私の前に立った。
小さく薄い背中が見える。その肩越しに、命と向かい合った神が見える。
神は命に言の葉を紡いだ。
「うるさい」
幼い命はそう言った。
神は命に言の葉を紡いだ。
「うるさい」
幼い命はそう言った。
神は命の言葉にさしたる反応を見せない。神は神が告げるべきと思った言の葉を、また告げたいと思った言の葉を告げていくのみであり、幼い命は半ば譫言のように同じ単語を音にする。
神の言祝ぎ
いずれ神の器である私は、時が来れば滑り落ちて廃棄される表皮とはいえ、多少なりと神の機能が備わっている。
故にこの瞳は、少しだけ命の奥まで見通せる。
幼い命はどこは虚ろだ。身体だけではなく、魂に酷い疲労を負っていた。
命が疲れ切っている。幼い命が生に疲れ果て、死を望む気力すら失い、光を見失っていた。
そう、私でさえ分かるのに。
その命は廃棄物となる私の横に並び、人の子からすれば異形と判断するであろう神の前に立ったのだ。
神の優しさが降る。
神の守護が降る。
神の愛が降る。
人に、命に与えられた神の愛は、幸いへの約束だ。
「うるさい……うるさいうるさいうるさい」
それなのに、目の前の命が虚ろだった瞳に滾らせたものは渦巻くような怒りだった。
「お前達はそうやって好き勝手のたまうくせに、俺達に在り方を強要するなっ!」
小さな身体から凄まじい熱が噴き上がり、世界を染めた。
後にアデウス全土から視認できたと言われたほどの炎の柱を導に集った人々により、焼け野原から救い出された命を私が見送ることはなかった。
早速降った神の愛により、私の記憶にも彼の記憶にも一瞬の邂逅は残されなかったのだ。
だから私は、彼との初対面を三度繰り返した。
一度目は私が生まれた日。
三度目は長い昏睡から目覚めた彼に神官長が紹介してくれた日。
そして二度目は、昏睡状態だった彼と白い空間で過ごすことになる最初の日だった。