73聖
金、権力、性。幼い子どもらを残し当主が死んだ巨大な家門が、数多の欲で煮詰められた荒波に曝された時代があったのは別段珍しい話ではない。浚われた末の子があまりに美しかったものだから、浚った輩が欲を出し、儲けを重ねようと殺さずゴミ山に持ち帰った。これも特段珍しい話ではない。
ただ、浚われた末の子が宿す神力が、神殿を治める長でもない限り止めようがないほどの威力を持ち、尚且つ賊を焼くことに躊躇いを持てぬほどに精神が擦り切れてしまっていたことだけは、少しだけ珍しかったのかもしれない。
そしてそのゴミ山で、神が器を作り堕としたのもまた、ほんの少しだけ珍しかった。
ほんの少し珍しい事態が重なっただけ。ただそれだけ。それだけだったのだけど。
人の子らは、それを運命と呼ぶらしい。
『……これを作った今この時に、人の枠組みから外れかけるほどの力を持った子どもが一人、か。これは人の子らが持つ定めであろうなぁ。なんとも厄介なことよ。これに関しては我らも確定的な干渉はできぬ故に困りものよ。時に人の祈りは、神の手間を凌駕する』
雨が降る。
『やれ、仕様がない。お前とこれに忘却をかけよう。万が一お前とこれの定めが対の誓いであった場合、これが崩壊を免れようと願ってしまうやもしれぬ。それではあやつに感づかれる。それに、人形が人でありたいと願うは哀れよ。それは情を通わせた人の子らへの嘆きを生む。人は悲劇を回避したいものであろう? 人の子よ、お前達の嘆きを我は望まぬ。ゆえにこれの廃棄時期が確定するまで、安心して忘却し続けるがよい』
神の慈しみが降る。
『これは将来、器として砕ける為にある。これは人の子らに奉仕し、人の子らを癒すための人形だ。人の子は器用に道具を扱い、欲を満たす生き物よ。これもうまく利用するであろう? 器としての核さえ残っておれば後はどう扱っても構わぬ。使い捨ての玩具とするがよい。なに、退屈しのぎにはなろう』
神の優しさが降る。
『お前達が対の誓いを交わせば、互いへの情を忘却する呪いを与えよう。この忘却は、これの廃棄時期が確定となるまで重ねて作動する。ゆえに安心するがよい、人の子よ。これは必ず廃棄となり、お前達の幸いは守られる』
神の守護が降る。
『本来ならばお前の魂を摘めば事足りはするが、人形如きのために人の子の嘆きをうむは我の本意ではない。あれが嗅ぎつける事態は避けねばならぬゆえこの記憶も残せぬが、人の子よ、安寧に過ごすがよい。これの廃棄がある限りお前達は必ず守られる。人の子よ、安堵し、幸いであれ』
神の愛が降る。
人に、命に、与えられた神の愛は、彼らの幸いへの約束だ。
それだけでよかったはずなのに。
「見合いの感想は」
「え?」
「……え?」
「お見合い? あ、エーレのですか? そろそろお見合いご破算作戦乱発時期に入りましたかったぁ!? え!? 何ですか!?」
「お前のだ」
「頭割れた……あ、割れた所為でお見合いの日程を思い出せなくなっちゃいました。いやぁ、仕方ないですね! ……十日後くらいですかね?」
「お前が今の今まで見合いと気付いていなかった、昨日終えた見合いだ!」
「いったぁああ!」
忘却
「おかえりなさい! 出張お疲れ様ですエーレ! 食事にしますか! お風呂にしますか! それとも書類にしますか!?」
「……どれくらい溜めたんだ」
「朝日が昇る寸前には終わる手筈です」
「一人で?」
「二人でですねいだだだだだだだだ! いやこれ弁明させてください! 書類が止まってたのサヴァスのとこだったんですよ!」
「全部か?」
「七割は自前ですいだだだだだだだだだだだ」
忘却
「……どうしましょう、エーレ」
「今度は何だ」
「私、あなたが好きみたいです!」
「うわやめろ」
「……最近王城に顔を出さないのは、俺の、所為か」
「何がですか?」
「おまっ……!」
「あー! 忘れて……いやいやいや、もちろん覚えていますよ! あ、失恋の痛みが……」
「お前はもう少し俺に興味を持て! 仮にも告白した相手に興味零ってどうなんだ!」
忘却
「そういう所は好ましく思っている。そして、お前を好いた時点で最悪だとは思っている」
「どっちでもいいんですが、とりあえず今度神官長への贈り物買いに行きたいんで、王子と神殿抜け出していいですか?」
「ありとあらゆる意味でどうしていいと思ったんだ?」
忘却
「お前が俺との交際を許諾して今日で三日になるんだが、いくつか確認しておきたいことがある」
「……はい」
「……珍しくしおらしいな」
「今日までの書類二山溜めててすみませんでしたっ」
「……初耳だ」
「気を取り直して聞くが……王子とは、本当に何もないのか」
「特には」
「成程。一緒の寝台を使ったとの報告が上がってきていたが勘違いなんだな?」
「あー……」
「詳細」
「一緒に昼寝しました」
「成程、重罪」
「えぇー、その程度、交際前のエーレともしてたじゃないですか」
「外に抜け出した二人が風呂上がりの姿で帰ってきたとの報告は」
「あー……」
「重罪」
「まだ何も言ってないじゃないですか! 温泉が湧いてたんですよ!? 普通入りません!?」
「混浴。極刑」
「……お湯が白く濁ってても?」
「どうして大丈夫と思ったんだ?」
「猿と猪と熊も一緒だったんですよ?」
「どうして大丈夫だったんだ?」
忘却
「今度は何に盛られたんですか?」
「………………あめ、だ」
「飴? 迂闊すぎません?」
「天気の、雨、だ」
「豪快すぎません?」
「それで治療なんですけど、張り手と血と口づけ、どれがいいんですか?」
「……お前が恋人として相応しいと思う治療法を勝手に選べ」
「じゃあ張り手で! いっせぇーのーむ――!?」
忘却
「ところで、交際したら普段と何が変わるんですか?」
「当代聖女への交際申し込みを阻む際、神殿の公務以外の個人的な理由が挟まる」
「エーレとの交際を公表したら申し込み自体が止まるのでは?」
「その程度で、当代聖女に交際を申し込むような頭の螺旋が外れた奴らが止まるわけないだろう」
「まさに当代聖女の交際相手である今のお気持ちをどうぞ」
「悲しい」
「悲しい」
忘却
「マリヴェル」
「何ですか。うわ、王妃が騎士達をぶった切ってくる……じゃあ王は退散しますねー」
「王が殿を務めるな。とりあえず、どっちから告白するか星落としで決めるのは止めないか?」
「十勝十敗十引き分けですもんね。じゃあ私が言いますので、代わりに王の首ください」
「断る」
「えぇー……」
「勝負は勝負だ」
「確かに。じゃあ首洗って待っててください」
「王手」
「ぎゃ……いやこれ引き分けに出来ますね」
「また宵越しの星落としになるのか……それはいいが、お前自分の部屋に帰って寝ろよ」
「全力で頭使った試合後、即眠るのが気持ちいいんじゃないですか」
「俺の寝台で寝るな」
「いつも半分空けてますよ?」
「いつも、血縁ではない、及び交際していない男女は同じ寝台を使わないと言っているはずだがな」
「エーレ、私今日ここで寝たいんで私と交際しましょう」
「理由が気にくわない。却下」
「えぇー……王手」
「……意地でも引き分けにしてやる」
「ここからいけますか? あ、王逃げた。じゃあこれで」
「王手」
「……王を囮にする人、私以外で初めて見ました」
「どこかの誰かが見本を見せすぎた所為だな」
「これは新しい定石を生み出してしまいましたね」
「定石に謝れ」
忘却
「ところで、婚姻関係って普段と何が変わるんですか?」
「許可が必要なことが少し減り、情報共有が必須なことが増えるらしい」
「へぇー」
「あと、指輪をつける」
「装備が増えるんですね。強そう」
「お前が指輪を装備と捉えていることはよく分かった。なら高いのを買いにいくぞ」
「棘ついてるのありますかね」
「装飾品という認識に変えきれなかった神殿の責任は、俺が取る」
忘却
「見合い話が嫌なら、俺と結婚すればいいだろう」
「あー、成程ぉ……え? 本気ですか?」
「俺はこの手の冗談は言わない」
「確かにそうですね……え? エーレって私のこと好きだったんですか? 交際すっ飛ばして結婚で大丈夫なくらい?」
「冗談みたいな事実で死にたくなってきた」
「求婚されて死にたくなられた私は愉快になってきました。あと、私も好きです」
「最悪だ……」
「えぇー……」
忘却
「エーレ、ただでさえ見てるだけで疲れてくる量の仕事を真面目にしているのに、さらに忙しくなりそうな特級神官になりたいんですか? 趣味は人それぞれだと思いますが、寝る時間は確保できる程度にしておいたほうがいいと思いますが」
「特級くらいにはならないと、神官長の次にお前の安否についての連絡が確実に入らない。それにそこは恋人に会う時間は残せと言うべきだろう」
「そんな規則ありましたっけ? それに、私に会う時間で体力削るくらいなら寝たほうがいいと思うんで、私はいつも通り勝手に寝顔眺めてさっさと帰りますね」
「…………恋人の寝室に屋根裏から忍び込むな。そしてそれだと俺は会えていないままだろうが」
「会うなら着替えないとエーレ怒るしなぁ……」
「どんな格好で忍び込んでるんだお前は……」
忘却
「エーレ、逢い引きしませんか?」
「誘う相手合ってるか?」
「名産紫毛アデウス牛の美味しい串焼き屋台ができたらしいんですよ!」
「成程。誘う言葉合ってるか?」
「あ、逢い引きは交際しているかそれに近しい関係の男女が隠れて会うことに使う、でしたっけ。じゃあ私と交際しませんか」
「分かった。いくぞ」
「やったー! 今日のおやつは名産紫毛アデウス牛ー!」
「指輪買いにいくぞ」
「いく店合ってますか?」
忘却
「エーレ! 交際初日な上に私事で大変申し訳ないのですが、諸事情が折り重なった結果、私と結婚して婿入りしてください!」
「神官長をお父さんと呼んでから申し込みに来たら受けてやる」
「えぇー……お父さんって呼ぶ気合いのついでに申し込んだのに」
「俺への求婚をついでにするな」
忘却
「エーレ、私、あなたが好きみたいです」
「そうか。なら、一緒に生きるか」
「そういうものなんですか?」
「今更他の誰かと生きられても一人で生きられても耐え難い……はぁ――……リシュタークの家系に珍妙な生き物が刻まれてしまう……」
「やーいやーい」
「そういえば新技が完成したんだが、名付けて頂けますか当代聖女」
「大変申し訳ございませんでした」
忘却
忘却
忘却
「エーレ」
「マリヴェル」
忘却
忘却
忘却
忘却
忘却
忘却
忘却
忘却
「―――」
「―――――」
忘 却
忘 却
雨が降る。叩きつけるような雨は、たとえ大きさ自体は小さな水の粒でも痛みを齎す。けれど、そんなものよりよっぽど胸が痛かった。
しがみつく人の視線は、今なお雨を落とす宙を見つめている。いや、上を向いているだけでその視線には何も映ってはいない。虚空を見つめ、虚無と化した瞳には、先程まで私が映っていたのに。
「……エーレ、ごめんなさい」
その姿を見るまで思い出せなかった事実が、今は私の中にある。私達は何度こうやって、忘却し続けてきたのだろう。
「神様……」
嗚呼、嗚呼、神様。
私はあなた方の為に創られた人形です。だから、どう扱われようがそれは仕様のないことでしょう。
ですが、嗚呼、神様。あんまりです。
どうしてそこにエーレを巻き込んだのですか。
「エーレっ……」
エーレは私を見ない。世界を見ない。忘却は意識の消失を生み、これまでの時間の矛盾を洗い出す。辻褄合わせが行われている彼を、私は泣きながら見つめることしか出来ない。
全てを忘れていく。私にもすぐに忘却の渦は訪れる。
それでも、その最中にあるはずの人の腕が、未だ私を抱いたままなのが何より悲しかった。
「……次はもう、私なんかを好きになっちゃ駄目ですよ」
雨なのかそれ以外なのか。熱い滴で霞む視界で歪むエーレを、せめて最後まで見ていたくて。合わない視線を追いかけ。
ぶつりと。
こんな馬鹿げた話があるだろうか。私は物だ。人を守るために神が作った人形だ。そうあることで彼らの幸せを作り出せる、使い道も廃棄方法も決まっている人形なのに。廃棄されるために作られた、廃棄されることで意味を為す道具が、何を。
「お前の部屋にあった指輪の数を数えれば、俺達が忘れてきた回数が分かるんだろうな……いや、指輪を渡す前に消された記憶もあるから、あまり当てにはならなさそうだ」
私を抱えるエーレは温かい。残酷な温かさがあるだなんて誰も教えてくれなかった。その皆は、呆然と私達を見ている。事態を飲み込めていないのだろう。
彼らは、誰の忘却も解けていない。だって彼らに忘却を与えたのはエイネ・ロイアーが私に絶望を与えたいがゆえで。私達の忘却はハデルイ神の優しさによるもので。
私達がエイネの忘却から弾かれていた理由が、やっと分かった。私達は既に忘却にかかっていたからだ。最早どう足掻いても廃棄以外の道がない時期になり、ハデルイ神は私達にかけていた忘却を解いた。その際、エイネがかけた忘却も一緒に解かれたのだろう。そうして、重なり続けた忘却は緩やかに解け続け、今日、いま、解けきってしまった。
私達だけ、ずっと、忘れ続けていたがゆえに覚えていた事実を喜劇として笑えたらどれだけよかっただろう。
世界に置き去りにされたエーレの不運に、どう贖えばいいのかもう分からない。
だって声が出ないのだ。神官長が用意してくれた枠組みに加えてもらうだけじゃない未来の約束を、自分達で作り進む創造の約束を、私はしてしまっていた。そんなことができるまでになってしまっていた。
そんな事実、忘れていなければならなかったのだ。新たな枠組みを生み出す創造の未来を許される道具などいない。選択しようとすることさえ思いつかないだろう。
それなのに、私は一体いつから。
道具ではない自分に違和感を持たなくなっていたのだろう。
明日が続くと思った日から? あなた達が与えてくれる温度が、愛と呼ばれるものだと思えた日から? 夢の見方を知った日から?
分からない。だって息もできないのだ。鼻の奥も胸も痛くて、地上で溺れてしまう。
そもそも、気付くべきだったのだ。神官長が私を家族に迎えたいと言ってくれたとき、私は嬉しかったのだ。道具は人の枠組みには入れないのだから、不思議なことを考える人だなぁと感じるべきだったはずの私の心は確かに歓喜し、気恥ずかしささえも感じた。
どう考えても異常だ。それなのに私は、そんなことすら気づけないほどに。
まるで人のような感覚で稼働してきてしまっていたのだ。
道具であることを忘れていたとしても、私は人ではないのだから、前提条件は何一つとして変わらない。私は人と未来を紡ぐために生まれたわけじゃない。明日に繋がるために望まれたわけじゃない。明日を繋ぐために作られた人形で、そうと覚えておらずとも分かっていた。
何も知らず覚えていない小さな物体だった頃のほうが、余程道理を分かっていた。
こんなの全然、笑えない。頑張って笑い流そうとするのに、それが人形の正しい在り方だというのに。次から次へと人のような熱を纏った水が溢れて止まらない。
言葉を発する度に道具に戻れなくなるような恐ろしさがあって、片手で自分の口を押さえたまま青ざめる。全身から血の気が引いているのか、指先に血が通わず手足が冷え切っていく。それなのに熱い水は止まらないのだから、自分の熱で自分が溶けてしまいそうだ。
私はいま、きっと酷い顔をしている。
「はは……」
それなのに、そんな私を見てエーレは笑うのだ。苦々しく、けれど達成感さえ感じられる妙な顔で笑い、くしゃりと自身の髪を握り潰した。
「何だ……俺達が叩きつけてきた願いは、きちんと形になっていたんじゃないか。……ざまあみろ、ざまあみろマリヴェル。非力な赤子のような扱いを受けてきた俺達の願いが、神の定めた定義をねじ曲げた」
そう言って涙を零し続けるエーレに、私は返す言葉を持たない。何を言っても人になる。道具としてあるべき姿であれる自信がない。
小さな物体だったあの頃、道理をきちんと弁えていたあの頃。それ以外の何もなかった私が失われてしまっていると忘却により気づけず、忘却が解除されたことにより知ってしまった。
「……これを祝える人間が俺しかいないのは、屈辱だがな」
歓喜に震え、苦痛を堪え、怒りに笑いながら泣くエーレにとって、忘却こそが救いだったはずだ。神の判断は正しかった。私に対しても、正しすぎた。
だって、人に近づいてしまっていた自分を思い出しただけで、私はこんなにも役立たずのがらくたに成り果てる。
「やだ、嫌だ! 人形に戻してください!」
そうでなければ痛すぎる。痛くて痛くて、吐きそうになるほど苦しい。胸の底が抜け、底なしの絶望へ落ちていくような恐怖が湧き出してくる。
それなのに、この人達の手にぶら下がって奈落への落下を防いでいるような安堵感もあった。私は自分の腕を切り落としてでもその手を離さなければならないのに、躊躇いなく出来るか分からなくなってしまった。
自覚のなかった人形と、人に近づいてしまった大罪を犯したがらくたではこんなにも違う。こんなにも醜く役立たずのゴミ屑は、早々に役目を果たして廃棄されるべきだ。
それなのに、その醜さをエーレが笑い飛ばすのだから堪らない。
「私と友達かもしれない事実ですら絶望するって言ったじゃないですかっ」
「どうせ愛してしまうんだから、始まりくらいは自分で決めたいだろう」
動揺一つない、木漏れ日のように凪いだ声音に愕然とする。
こんなことを言う人ではなかったはずなのに。一体いつから変わってしまっていたのだろう。いつ変わって。何度、変わって。
エーレとの記憶は、閉ざされればそれだけで完結する問題ではなかった。
この世の不幸すべてが、あなた達に辿り着きませんようにと祈る気持ちを、私は愛と呼んだ。
誰かとではなく私と幸せになってほしいと願う気持ちを、私は恋と呼んだ。
一般的に恋と呼ばれる感情は、私にとって、愛し愛される、それらの感情を理解し受け入れられた延長に派生した。恋の忘却とは、私にとって愛の理解に至らない人形への巻き戻りを意味する。
この人達を愛した記憶、愛された記憶、それらを人に近しくなってしまった私が疑問を抱かず受け入れた先に派生した感情を忘れ、それらを抱いたまま人形に戻った歪な状態。それが解除されればどうなるか。
忘却によって歪に押し込められていた感情が噴出する。受け止める器官が、正常に機能を始めてしまった。与えられた愛を正しく認識した瞬間、それらは鮮明に、嵐のように押し寄せてくるのだ。
長い年月をかけて渡してもらっていたときでさえ豪雨のようだったと認識していたのに、それら全てが一斉に噴き出すのだから、私など一溜まりもない。
こんなものが鮮明に戻ってしまえば、最早取り返しがつかない。
愛が、恋が、この身体に癒着した。
引き剥がそうとすれば、皮膚が剥がれ、肉が千切れ、血が溢れ出す。
「何一つ諦められなくなったらどうするんですかぁっ……!」
「俺は最初から今に至るまで、何一つとして諦めるつもりはない。お前はその最たるものだ」
その手が再び伸びてきて、びくりと身体を引いてしまう。私の反応を気にせず進んできたエーレの手は、少し袖を引っ張り自身の手を隠したかと思うとそのまま私の鼻に押し当てられた。
「愛だの恋だのが今のお前にとって劇薬なのは理解しているが、諦めたほうが手っ取り早いぞ。この神殿に来た時点で、人形としてのお前の崩壊は決まっていたと、今ならはっきり言える。……ようやく言えるんだ。神殿の悲願は果たされた。その歓喜を神殿に思い出させることが、俺の役目だ」
その袖があっという間に赤へ染まる様を見て、血が出ていることが分かった。同時に、ぐるりと意識が回る。
耐久限度を超えたと、強制的に世界を遮断する反射を取った精神と肉体に抗えなかった私が最後に見た景色は、困惑した様子の神官長達と、安堵とも決意ともつかぬ息を吐いたまま倒れ込んだエーレだった。