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72聖




 とぷんと、水に浸かるような音がして妙な膜を抜ける。その先は静まりかえっていた。

 ただ音がしていない空間というわけではない。深々と雪降る夜のように音が消えているのだ。ここには音を吸い取る雪などありはしないのに、私達が動く衣擦れの音さえ耳まで届かない。

 空気すら無いのではないかと思えてしまうほど、ここに地上の気配は何もなかった。太陽もなければ灯りもない。それなのに、何故私達は周囲を見ることが可能なのか。私がエーレを視界に捉えられている理由すら把握できない。

 何一つとして理解できない場所に、私達は立っていた。

 もうとうの昔に上下がどちらかなど分からなくなっているけれど、少なくともここではそんなものはどうでもよかった。ここがどこであろうと、天地がどうなっていようと関係ない。周囲を見回す必要さえなかった。

 私達の視線も意識も、少し離れた場所に立つ一人の女へ向かっている。女もまた、私達を見ていた。

 何もない空間にぽつんと佇む女は、所在なげに見えるだろう。そうあるべきだったのだと私の中の何かが訴えているのだが、女は心細さも儚さも持たずそこにいた。

 どうして視界を得られているのか分からない空間に立っているにもかかわらず、その女は輝いて見えた。まるで光の輪を背負っているかのようだ。

 長い金の髪を揺らしながら、女はそこにいた。

 小さな溜息が、私の耳元で紡がれる。私も溜息をつきたい気分だ。私もこの期に及んでまだ、ここに立つのが彼女でなければいいと考えていたのだから。

 先代聖女の死、つまりは彼女の死で生まれたといっても過言ではない、当代聖女という存在が会うはずのなかった存在。

 エイネ・ロイアーが、そこにいる。

 とても、残念だ。




 彼女は最初、掌ほどの大きさに見えた。それだけ彼女は私達から離れていたのだ。だが、気がつけば髪の細かな束まで確認できる位置にいた。彼女は歩いてなどいなかったというのに、奇妙な話だ。

 それでも奇妙な状況など今更だ。私は別に、世界の理不尽も奇妙さも、命の中でも一際奇抜な彼女という存在の在り方も、解明したいとは思っていない。欲しい情報は必要な分だけなのだが、それが難しいのが世の常である。


「――嗚呼、ようやく会えましたね」


 ぬるま湯が身体を覆うような音が、目の前の女から漏れ出した。

 悍ましいほど神々しい光を纏った美しい女は、髪の一筋、衣の一揺れさえも淀みなく流し、ゆっくりとその両手を持ち上げていく。


「哀れな子」


 いつの間にか目の前にいたエイネは、伸ばした両手で私の頬に触れた。背後から私に張りついているエーレの身体がぴくりと揺れた。背中が熱い。発火一歩手前である。

 エーレは自分の精神を是非とも宥めていただきたい。エーレの自制心は神官長に次ぐと言われているのだから、未熟な人間のようにぼろぼろ神力を溢れさせては神官長の威信に関わるのである。


「嗚呼、嗚呼、やはりお前はハデルイ神が定めた聖女なのですね」


 哀れな子。不遇な子。なんと哀れな。

 エイネは眉を穏やかに下げ、何度も繰り返す。まるで幼子を慈しむように私の頬を柔らかく撫で、幾度も温かな声音で紡ぐ。


「今ならばはっきりと分かる。お前からはハデルイ神の気配がします。まさか、とうの昔に世界より退去した神の残滓がまだ残っていただなんて」


 その笑みは柔らかい。


「まぎれもない、わたくしの不手際です。嗚呼……お前には苦労をかけてしまいましたね。可哀想に……さぞや、つらかったことでしょう」


 エイネの言葉は、まるで慈しみのようだった。向けられる眼差しは、まるで慈愛のような温度を保っている。


「あの神は何より人に近づくというのに、何より人から遠い。人の感性を持ち得ない神が、自身の都合でお前を贄にしたのですね。さぞや過酷な生だったでしょう。可哀想に……さあ、おいでなさい」


 エイネの両手が緩やかに開かれる。その胸に抱こうとするエイネの腕を、一歩下がることで避ける。エイネはゆらりと首を傾けた。その拍子に、美しい金髪の上を光が流れていく。


「何も恐れる必要はありませんよ。わたくしがお前の願いを叶えてあげましょう。神に利用された哀れなお前に、ご褒美をあげましょうね」


 ともすればこれが愛なのではと思えてしまいそうなほどに、優しい声と眼差しだ。

 だが。

 音もたてず、エーレの腕が私のお腹へと回る。温かな生が、その熱を私に分け与える。

 目の前で柔らかに両手を広げたエイネを見ながら、その熱を受ける。エーレをこの胸に抱かせるわけにはいかない。絶対に触れさせてはならない。命はこれに触れるべきではないと私の中に確固たる確信があった。


「これからは何も恐ろしいことはありません。お前を神から解放しましょう。神がお前に押し付けた酷い責から、定めから、わたくしが守ってあげましょう。お前に、自由をあげましょう」


 哀れな子。

 哀れな子。

 可哀想で哀れな。

 ――な子。


「嗚呼、エイネ・ロイアー……偉大なる十二代聖女」


 始まりから今まで、何一つ変わらぬ瞳で私を見つめ続ける美しい人に、私が返せる言葉などこれしかない。


「惨めな子と言われているようにしか聞こえませんよ」


 柔らかな笑みで、柔らかな温度で、柔らかな声音で紡がれる言葉が必ずしも愛によるものではないことも。慈しみや愛と呼ばれる希少で尊ばれる奇跡が、こんな蔑みの色で淀んだ瞳から放たれるものではないことも。

 私はもう、知っているのだ。



 与えられる慈しみというものは、こんなに穏やかなものではない。神官長達が私に与えてくれた慈愛は、もっと殴りつける嵐のようだった。

 次から次へと塗りたくられるように渡される愛は私を塗り潰さんばかりだった。神より与えられたこの器にはそもそも受け取る器官は備わっていなかったはずなのに、それでもこの身に残ってしまうほど強烈で、鮮明な、焼けつくような光だったのだ。

 あの愛に比べれば、目の前で紡がれる愛の虚像がどれだけ空っぽなのか。赤子だって分かるだろう。


 エイネは柔らかく微笑んだままだったが、とうとうと流れ続けていた言葉は止まっていた。


「残念です、エイネ・ロイアー。あなたの姿を模った何者かであればいいと願っていましたが、どうやらその願いは叶わないようです」


 私が一歩下がると同時に、エイネもゆらりと身を引いた。その後に残る、粘つくような聖女の力。これが偽物であるはずがない。これは紛れもなく聖女の力だ。思っていたよりだいぶ、禍々しいが。


「エイネ・ロイアー。先代聖女。あなたが何故このような事態を引き起こしたかは分かりませんが、あなたに欠片でも聖女としての自負が残っているのなら投降願います。私はあなたが聖女として為した行動全てを美しいものと讃えることはできません。ですが、あなたが晩節まで美しい存在だったと信ずる人々の為にも、あなた自らの意思で投降していただけませんか」


 投降要請は彼女のための温情でもなければ、神殿の負担軽減のためでもない。

 それが、彼女を愛したアデウスの民達への救いとなるからだ。

 彼女を信じ、愛し、支えとした人々の心は散々踏みにじられた。それでも彼女自らの投降は、人々への一縷の救いとなる最後の機会だ。

 エイネは美しく微笑みながら、唇を開く。


「いくら人の真似事が上手でも、人形が人に意見するものではありませんよ」


 まあ、こんな言葉で今までの行動全てを不意にするような人間が、あれだけ悍ましい無情をやってのけるはずがないと分かってはいるが。


「残念です、エイネ・ロイアー」


 人々は失望絶望痛み、そして切実な悲嘆を受ける未来が確定した。しかし私から彼女へ向ける感情は最初から最後までそれしかなさそうだ。

 人々を、神が愛し、我々聖女が守るべき命を嘆かせる罪を、彼らから愛されたあなたが犯す。

 本当に、残念だ。




 しかし、どうやらそれだけではなさそうだと、私ははたと気がついた。人々はそこに怒りも浮かべるかもしれない。背中の熱さを受けてそう思う。

 混ぜ込んではあるが、所詮は私の気配と血だ。エーレが制御なく放った熱を押さえ込めるはずもないので、エーレは直ちに怒りを静めてほしい。普通に私本体も焦げそうだ。


「人形の自覚があったのならば、わざわざお前を模した贋作を何体も作る必要はありませんでしたね」

「――ああ、そういう意図でしたか」


 私が人形である自分を思い出せば絶望するとでも思っていたのか。


「そんなくだらない理由のために、彼女達を死後も貶めたのですか。思っていたより百倍くだらない。偉大と呼ばれていた先代聖女がそんな浅はかな考え方しかできない人間だったとは。重ねて残念です、エイネ・ロイアー」

「ハデルイ神は鳥の人形でも作ったのでしょうか。囀るのが上手ですね、自鳴琴」

「お褒めに与り光栄です、先代聖女。ハデルイ神もきっとお喜びになるでしょう」


 神へ向けるより浅く、されど美しい礼を、エイネへと向ける。姿勢を正す際も同様に。命としては紛い物であろうと、私はアデウスの十三代聖女だ。聖女として立っているならば、常に姿勢は正しておかなければならない。いつだって美しい姿をしていた神官長に育ててもらった物としても、絶対にだ。


「建設的な話をしましょう、エイネ・ロイアー。あなたの目的は何ですか。何を望んだ結果、今の形となったのです」


 この国に混乱を齎した元凶が、歴代で誰よりも愛された十二代聖女であった事実は、残念ながら確定してしまった。ここまでは、恐らくそうではないか、だがそうあってほしくはないなという、完全なる確信には至れない予想と証拠しか手に入れられなかったが、これで確定した。

 だが、彼女の目的だけはさっぱり分からない。彼女が元凶である確定に至れなかったのは、その理由も大きかった。だって本当に分からないのだ。

 国を好き勝手にする力が欲しかった?

 正直、王城の威信をこれでもかと揺るがせた歴代一愛された聖女だ。国王よりも国を動かす力は、あった。

 何が不満だった。何を欲していた。何を望み、願い、焦がれ、彼女を愛した人々を傷つけてまで、苦楽を共にしたフガルまでをも利用して、こんなことをしでかしたのだ。

 エイネは笑っている。ずっと、ずっと、嫋やかに、まるで慈しむように温かな微笑みをたたえ、私を見ている。

 ……私が言っていいのか分からないけれど、まるで人形のようだ。


「お前に、返してもらわねばなりませんから」

「人形である私には、あなたから奪えるものなどありません」


 どこからか風が吹いた。何もないはずの空間なのに、まるで霊峰から流れ出るような冷たく、水の匂いがする風が、エイネの長い金髪を揺らす。


「――本当に、誤算でした」


 長い金の髪がエイネの表情を隠して尚、そこには同じ笑みがあり続けているのだろうと分かった。


「とうの昔に消滅したはずの神が、よもやいまだ残滓を漂わせていただなんて」


 私の髪も舞い上がるほどの風が吹き、視界が酷く狭まる。それなのに、私の髪と金髪の隙間から見えた彼女の口元が異様なまでに吊り上がって見えた。

 ほんの瞬き一つの間にその笑みは元の嫋やかなものへと変わっていた。


「わたくしからも、お前に問いましょう。お前は何のために作られた人形なのでしょう。命の真似事に馴染んでいるゆえに、お前が人形であると気付くのに少し時間がかかってしまいました。お前自身、忘れていたのでしょう? だからこそ、自身が人形であると思い出せば命の真似事を投げ出すと思っていたのですが……どうにも、お前のことだけはうまくできませんね。わたくしもまだまだ未熟ということなのでしょう」


 収まった風の中、困ったように笑うその様子は朗らかだ。苦笑でさえ、心配事があれば思わず相談してしまいそうなほど温かい。

 世界に紡ぎ出している言葉は、私に人形であることを思い出させ絶望させたかったという温かさとは無縁の内容だというのに。


「だからこそ、あの神がまだ残滓として残っていたと気づけなかったのですね……。本当に、酷い失態を犯しました。ですがそれ以上の力はもうないはずです。ならば何故お前を作ったのです。お前は一体、何の為の創作物なのですか」

「私の質問には一切答えていないのに、私からだけ解を取り出そうとするのは些か礼を逸しているのでは?」


 まあ、人が定めた礼儀は人を相手にとしてこそ成り立つものだ。物を相手に礼儀を尽くす必要はないので、別にエイネは間違ったことはしていない。それでも神の人形である私だからこそ、彼女を野放しにはしておけないのだ。

 そのためには解がいる。

 ここに至るまで、彼女が元凶である確証すら得られなかったのだ。彼女の目的など皆目見当もつかない。

 私が頭の中で首を傾げていると、初めてエイネが動いた。腕を組み、顎に手を当てただけだったけれど、それだけで周りの空気が蠢く。爛れた聖女の力が漏れ出している。

 私と引っ付いているエーレの身体が強張った。さっきまでは噴き出しそうになる熱を抑えていたようだが、今は別の意味で放出しようとしている炎を必死に堪えている。確かにあれだけ悍ましい蠢きが神々しい聖女の力を纏っていたら焼き払いたくなるだろう。

 そもそも蠢く光ってなんだろう。神々しいのか禍々しいのかどちらかにしてほしい。

 清々しい矛盾を垂れ流しにしているエイネは、聖女の力と温かな表情がなければ十二代聖女だと思えない。……そこまで揃っていればもうどこからどう見ても聖女なのに、蠢きが禍々しいばっかりに!


「本当に、何故今になって邪魔をするのでしょう……ハデルイ神、あの神は本当に邪魔だったけれど、その神が用意したお前も、どこまでもわたくしの邪魔をするのですね」

「あなたの目的が分からないのでは、邪魔をしないよう心がけることもできませんので」


 気がつけば、再び目の前にエイネがいた。眼前に金の海が広がる。いつの間にと思う暇もなく、大波のように長い金髪が視界いっぱいで波打っていた。

 私が呆けている間に、エーレの身体が先に強張った。防衛による反射なのか攻撃の意思によるものか、膨れ上がった熱を感じ、その手を掴み制止する。金の海へ反応するより余程早く反応できた。

 エイネの瞳は私の手の動きに反応しなかった。じっと、固定されているかのように私の顔を見ている。凝視と表現していいはずの強固な注視であったのに、表情も目元も柔らかく微笑んでいる様子が異質としか言い様がない。

 この距離では、彼女が垂れ流す力を浴びるように受ける。

 悍ましい、神々しい、闇のような光。

 肌を直接撫でられているかのような濃度を受け、私の身体は強張った。しかしそれより余程、精神が戦慄いた。

 これは、なんだ。なんなのだ。

 唇が戦慄く。エーレが私を支えていなければ、膝から崩れ落ちていたかもしれない。

 だって、おかしい。

 どうして。


「……神様?」


 どうして、ハデルイ神の気配がエイネから漏れ出しているのだ。







 駄目だ、と、思ったのだと、思う。思うのだけれど、自分が何を考えているのか自覚も把握もできない。

 だって、あり得ない。あり得てはならない。


「人の真似事しかできない木偶人形の身でありながらここまで来たお前に免じ、わたくしの目指す未来をお前に教えてあげましょう」


 エイネの美しい微笑みが深くなる。深く深く、まるで底などないかのように永久の闇が、そこにあった。


「人は既存の神より脱却し、新たな神による統治の元生きるべきなのです」


 異国の言葉を聞いているようだった。意味を理解できない、ただ耳を通り抜けるだけの音のように聞こえるのに、私が感じたものは悍ましいほどの恐怖だった。

 膝が震える。力が抜け落ちる。唇も呼吸も戦慄いて、怖気が悍ましさが嫌悪が恐怖が怒りが絶望が吐き気がありとあらゆる負と恐慌が、私の中から噴出する。


「あなた……ハデルイ神に何を……ハデルイ神だけじゃない。十二神に、一体何を」


 神々が姿を消したのは。

 ハデルイ神が、あれだけの力を持っていた神が自らを残滓と語る理由は。

 エイネは私の問いには答えず、笑みを深くする。いつの間にかそれは笑みと呼んでいいものではなくなっていたのに、笑みとしか、表現ができない。


「返しなさい、人形。お前が十三代聖女として座ったその場所には、わたくしが長い時間を懸け用意した舞台の開幕に必要な物が仕舞ってあるのですから」


 世界が黒に塗り潰された。世界から光が失われた。音が失われ、音が満ち。何も見えない。聞こえない。波紋が広がるように、この世の全てが入れ替わる。

 そんな中、誰かの絶叫だけが聞こえていた。かつて、同じ場所で悲鳴を聞いた。男達の、そして誰より聞きたくなかった温かな人の絶叫だった。

 だがいま響く恐慌の声は、私の喉から発せられていた。

 エイネが私を見ている。微笑みながら、僅かにも視線を逸らさず私だけを凝視している。光などない場所で、エイネの瞳が見える。エイネの笑みが見える。何も見えないはずの場所で、ただそれだけが。


「マリヴェル!」


 引き攣った絶叫で私を呼ぶ声がなければ、砕けていたかもしれない。


 ああ、駄目なのに。あまり大きな声で叫んでは、その存在を明確に示してしまえばエイネに気付かれてしまうかもしれないのに。それでもこの声がなければ正気を保てなかったのもまた、事実で。

 私の中に仕舞われていた情報が、割れた隙間から漏れ出してくる。そうだ。知っている。知っていた。

 ハデルイ神が自らを残滓と呼ぶ理由を。神々がこの地にいない理由を。

 私は、知っていたのだ。


「エイネ・ロイアー!」


 エーレに抱え込まれた腕の中、髪を掻き乱しながら叫ぶ先を定められない。彼女の瞳はどこまでも私を、神が作り上げた私の中を凝視しているのに、その本体を見つけられない。見つけられたところで、自分でも制御できない恐慌に犯されたこの身では掴みかかることなど不可能だった。


「貴様、神を殺したなっ!」


 声は聞こえなかったはずなのに、エイネの笑い声が聞こえた気がした。

 飲んだ息の音は、私を抱える温度から放たれた。




 人の正気が保たれるはずがない。

 ここは墓場だ。神々の、エイネ・ロイアーに殺された十二神の墓地。

 ここは、この世のどこでもあってはならない地。人はこの地の認識すら持ってはならない。触れてはならない。触れるべきではない。存在自体が禁忌に犯された、神々の墓場。


 いつの間にかエイネの全景が見えていた。神々しい闇が女を彩っている。

 目の前の女から漏れ出すハデルイ神の、否、多数の神気。爛れた、神気。

 それらが意味することは、一つで。


「……貴様まさか……神を殺して、食べたのですか」


 世界を呪い堕とすか如くの憤怒が、そこにはあった。

 一人の女からそれらが噴き出す様は、ある種神秘的とも幻想的とも表現できたのかもしれない。その異様な穢れは、そうとでも表現しなければ世界が耐えられなかった。それに明確な名をつけてしまえば、音を発するだけでその存在は呪われてしまったかもしれないほどの、呪怨だ。


「エイネ・ロイアー!」


 慟哭にも非難にもなり損なった私の叫びに、軽やかな声が返される。


「神は最早万能の絶対的支配者ではありません。人の手で堕とされた概念を付与された神など、一種族としての価値しか存在しないでしょう。一度人の手が届けば最早それは、絶対的とは呼べません。ただの強者となる。人と同じ土台に引き摺り降ろされたのであれば、弱者でも屠れるのですよ」


 ――人には、人を理解し得ない神など必要ない。

 闇と同じ温度をまとった声と共に、私に罅が入る。私の内部が、砕ける。


「お前から情報を抜き出せばハデルイ神の目的も分かりましょう。そして、ハデルイ神に不都合あればお前は切り離される。そうなればわたくしがお前を使い、お前の意思としてお前を壊しましょう。そうすれば全て元通り。十三代聖女は消え失せ、後にはその座だけが残る。お前は何も心配しなくてもいいのですよ。安心して処分を受けなさい」


 神を殺す。

 そんな概念が存在していいはずがない。神殺しを、聖女が大罪と見做していない。

 聖女が、神を喰らう。

 そんな言葉の綴りが、概念が、許されていいはずがない。そんなことがあり得ていいはずがない。

 いいはずがない、のに。

 どちらも既にここにある。既に起こった事柄は最早覆されない。どれだけ許されない事実であろうが、事実である限り最早取り返しはつかないのだ。

 過去は変えられない。変えてはならない。変えてしまえば未来が破損する。なればこそ命は、過去を変えたくなってしまうほどの事象が発生しないよう心を配らなければならないのだ。

 罪には罰を。裁きを。

 しかし、罰を与える行為もまた誰かが罪の意識を背負う。だからこそ、人は神に祈ったのだ。願いは祈りで、祈りは明日を生きるための願いで。

 その神を、この女は喰らったというのか。

 何故? ……いや、今はそんなこと些末事だ。大切なのは、どうすればそんなあり得ない事態があり得てしまったか。その事実だけだ。

 分かっているのに思考がうまく働かない。感情でさえも凍り付き、叫び出したくなる。叫んでいるのかもしれなかったが、自分でもよく分からない。恐ろしいのか悍ましいのか許し難い怒りでこの身が焼けているのか、泣き叫びたいのか。

 神様。神様。

 ああ、神様。

 彼女は本当に人なのでしょうかと神に問いたいのに、私の心は既に解を得てしまっている。

 彼女は人だ。だって神を喰らうなどと口に出すも悍ましき大罪を犯せる命は、人以外にあり得ない。悍ましければ悍ましいほど、浅ましければ浅ましいほど、許されざりし罪であればあるほど。それらは人だけが犯すものとなっていく。


 人とは思えない力を使うのは当たり前だったのだ。十二もの神を喰らって尚、人の意識と形を保てていることのほうがおかしいくらいだ。お父さん達から私を忘れさせたのも、国中から私を消し去ったのも、できて当然だ。何もおかしなことはない。

 エイネが私を見ている。私の構造を知り、私を作った神の意図を知ろうと、私を分解しようとしている。

 声が、聞こえない。エイネの視線が私の中に入る度、私を抱える人の温度が遠ざかる。その腕は放されていないはずなのに、外部からの温度を受け取る器官が壊れかけているのかもしれない。

 けれど。守らなければ。その意思だけが今の私を繋いでいる。守らなければならない。この命を、何が何でも。


 だって約束したのだ。


 それはいつ?


 エーレと約束したのだ。


 何を?


 エーレと。


『マリヴェル』


 かつての日。


『なら、一緒に生きるか』


 まるで、命のような約束を。














 私を解体していたエイネの動きが止まった。


「この術は、何なのです」


 常に木漏れ日のように凪いでいた声音が揺れる。


「この忘却は……あの神がかけたのですか? これほど幾度も重ねて何を……待て、お前誰を連れている!?」


 突如、エイネの胸から灯りが噴出した。灯りと呼べるような生易しいものではなかったけれど、闇に灯った存在は須く光と表現されるべきだ。

 そして、薪を焼べすぎた竈など比べようもない勢いで噴き出す炎の熱を私は知っていた。

 それはまさしく命の象徴と呼べる光のような人が放つものだった。


 周囲が急速に明るくなっていく。溶岩ですら生温いと思える熱が、神々の死と憤怒に満たされていた怨嗟の闇が押しのけていく。そんな炎を胸から噴出させたエイネが絶叫する。

 私は呆けたまま、その様子を見つめていた。

 奇妙だった。神をも屠ったその身に人の身が放った炎が届いたことではない。奇妙だったのは、戦慄くエイネの両腕が、炎が噴き出す胸ではなく自らの顔を覆ったことだ。

 美しいエイネの肌が焼け爛れていくが、仰け反り絶叫している体勢のためか、勢いが強すぎるためか、顔にまで炎は届いていない。そのはずなのに、エイネの顔が爛れていく。左の顔面は皮膚が爛れ、くっきりと色が変わっている。とてもではないが、いまできた傷には見えない。

 いま焼け爛れていく胸元より、古傷にしか見えない傷のほうが痛むのか、エイネは顔を押さえたまま後退る。


「あの神にわたくしを焼けるような力はもうないはずなのに、何故!」


 よろめなきながら後退りしていくエイネの身体は、私達から距離を取れば取るほど最早遠慮はいらないと言わんばかりに火力を増した炎に包まれる。

 逃げられる。そう思うのに、追いかける余裕がない。思考すら割けなかった。

 エイネが離れていくにつれ、私を探っていた気配も剥がれていった。私の中を満たそうとしていた粘ついた力が離れるにつれ、それらに引きずり出された情報が私の中に取り残され、放逐される。



 雨が降っていた。

 ざあざあと、細く激しい雨が世界を遮断するような夜だった。そんな夜に私は発生した。雨と不要物と腐敗物の中に作り出された。

 私が世界に発生して初めて見た世界は、人が不要とした物に降り注ぐ雨だった。

 そして、私が世界に派生して初めて見た人間は、何も映さない瞳で立っていた美しい子どもだった。






 ぐんっと視界が変わる。首根っこを掴んで引っ張り上げられるような衝撃の意味を理解する時間もなく、私とエーレの身体は闇の中から引きずり出された。

 同じ闇でもまったく違う、太陽が鎮まったゆえの藍色に染まった世界の風を感じた。掘り起こされて湿った土は柔らかく、濃厚な大地の香りが漂っている。山から下ってくる夜風と、流れる水の匂いが混ざり合って尚、澄んだ色を失わない風の中、私は呆然と夜空を見上げていた。

 その間も手は勝手に動き、どうやってか私達をあの空間から引き摺りあげた神官長の腕を癒していた。人が認識することさえ許されない空間に干渉した神官長の手は、腐り落ちる寸前だった。

 のろのろと、けれど寸分の狂いなく癒していく。のろのろとしているのは、頭が、まったく、追いつかないからだ。

 だって。


「何なんだ……」


 だって。


「ふざけるなっ!」


 だって。

 だって。

 だって。


 神官長の腕を癒し終わると、呆然と、私を抱えたままのエーレを向き直る。エーレは悪態をつきながら、握りしめた拳を地面に叩きつけた。


「仮説を検証する時間くらい寄越せ!」


 突然の激昂に、息を呑んでカグマを動員していた周囲の人々が安堵の息を吐いた。とりあえず活きがいいエーレを見て安心したのだろう。ヴァレトリがひょいっとエーレの顔を覗き込む。


「お前さん元気ね。何に怒ってんの?」


 いつもなら、本当ですねと言っていた。でも今はいつもではないし、いつもではないいつもとも違っていて。

 エーレが私を見た。思わず後退ろうとした。けれど割れた身体はうまく動かず、ほとんど位置を変えることはできなかった。

 エーレが私を抱えていた腕を外し、顔に向け手を伸ばしてくる。

 反射的に下がる。

 だって。

 おかしいじゃないか。

 狼狽える私の様子を見て、神官長がエーレを制止すべきか悩んでいる。

 神官長を困らせたくない。この人に、何一つとして重荷を背負わせたくない。けれどもう頭が回らない。泣き叫びたい。喚きたい。絶望で胸が満たされ、熱に戦慄く。

 世界が裏返る。裏返って、塗り変わって。朝を迎えるように。死を迎えるように。

 私達の忘却が、解けてしまった。


「エーレ、やめて」

「うるさい」


 神は最早無意味だと言った。故に忘却が継続されなかった。忘却があろうがなかろうが意味がないのは、私の終焉が決まっているからだ。

 それなのに、私の構成が変わるほどの忘却が今更解けるなんて。

 絶叫をあげてきた喉が痛みを発する。だが、いま自分から漏れ出た声のほうがよほど脅えた、悲鳴だった。

 どうして今更。


「エーレ!」


 砕け方が、分からなくなる。


「あなた達が人の未来を祈ってくれるなら、私はどんな崩壊も穏やかに迎えられるのに!」


 そのはずだったのに。


「うるさい」


 私はいつから。


「こんなの、まるで人間みたいじゃないですかっ!」

「そこまで追い詰めた俺達の願いを思い知れ!」


 まるで人のような約束を当たり前に交わせるようになってしまっていたのだろう。

 逃げ切れなかった熱の交換は、血を分け合ったときよりも余程痛かった。









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