71聖
花が散る。この世の物ではない花が世界に咲き、咲いた傍から散っていく。
神の力が結晶となり花開き、世界に舞い散る。
光が、花が、はっきり見えた。それは、この場の空気が浄化されていると同義だ。
大きな掌がゆっくりと持ち上がる。視界の端に映るその動きを、無意識に追う。
昔は大人の手が持ち上がることは警戒すべき事柄だった。その拳はゴミを撒き散らしながら振り下ろされるもので、開かれた指は首や腕を掴み引きずり回すためのもので。
それがいつからか、私を撫でるものとなった。私を抱き上げるものとなった。私に温度を分け与えるものとなった。
私を命の中にすくいあげてきたその腕が、空に舞う花へ惑わず伸ばされた様子に安堵する。
できる確信はあった。しかし、確信はあれど彼らから痛みと傷が取り除かれた現実は深い安堵を齎すには充分すぎる喜びだ。
視界を得た神官長の指は、まっすぐ花へと伸ばされ、触れた。
人の肌が触れた瞬間、花は散る。あちらこちらで花が散っている。だが、触れた瞬間皆の傷は消えていく。その身体に触れ、彼らを癒した花自体を彼らが見ることは叶わないが、同じ花はそこら中に漂っているので問題はないだろう。
「……君は、美しい力を使うのだな」
思わず零れ落ちたのだろう声音で紡がれた言葉の後、そこに呆れも混ざった声音が重なる。
「こんな演出込みの癒術と浄化持ちが本当に十三代聖女なら、相当な支持力を得られたはずだぞ。それこそ、十二代聖女の次代であったとしてもだ」
私はヴァレトリを見て静かに微笑み、ゆっくりと口を開く。
「いやぁ……花とか初めて出ました」
何だろう、これ……。
「は?」
神官長とヴァレトリで既に重なった言葉であったが、あちこちからも同様の声が重なったおかげで、結構な声量で響き渡った。寸分違わず重なった「は」の大合唱がすべて私を向いているので困ったものだ。
「うわ、こわ。え? どうしましょう、これ。エーレ、これどうすべきだと思います?」
「………………俺に聞くな」
確かに。
だが、これは少々困る。自分が把握していない機能だ。おそらく、人としての機能のどこかが停止した分、器としての機能が強く出ているのだろう。
私の取り扱い説明書がほしいところだが、今はそれどころではないので後にしたほうがよさそうだ。そもそも、説明書自体がついていなさそうなので諦めたほうがいいかもしれない。
神様はそんな親切設計で私を作っていないはずだ。使用方法を記す手間がかけられるような作品とも思えない。そもそも、私を含め誰かが使用するようにも作られていない可能性すらある。
説明書はそうそうに諦め、周囲に視線を戻す。
地面に倒れ、膝をついていた人々は皆顔を上げ、身体を起こしている。カグマ達が忙しなく症状を確認しているが、ざっと見た様子だと怪我を残した人はいないようで一安心だ。
周囲に漂っていた穢れも一掃され、跡形もない。風で吹き飛ばすだけでは飛ばした先に被害を変えるだけなので誰もできずにいたのだろう。こうやって跡形もなく消えたのであれば問題ない。
どうにも寄せ集めの感が否めない不良品の私詰め合わせは健在だが、神官長の結界がしっかり機能しているのでそこから出ることはできていないので、こちらも問題ない。
そうして、久しぶりに背中に当たる感触と頭の重さに改めて思考を移す。意識が戻ってからそれどころではなかった。
年月を経ず髪が伸びる。これも問題としては特にない。もう一回収穫して、今度はエーレの手で売ってもらえばそれなりの収入になるかもしれないのでむしろ得した気分だ。これからも何かしらの術を使う度に伸びてくるのであれば、その都度収穫していきたい所存だ。
かなりいい案に思えたが、それを口に出すとエーレが怒りそう気がしないでもないので今は黙っておこう。
私は、今の問題へと思考を戻した。視線も、戻す。
「少々意図していない機能もありましたが、多少の信頼は得られる働きはできたかと。これは状況説明を要求する権利程度にはなりましたか?」
身体はエーレに支えられているから自分では鈍くしか向きを変えられない。ひとまず首と視線だけを向ける。いつもなら私の意図を察したエーレが自分の身体ごと向きを変えてくれただろうが、今は私詰め合わせを警戒しているのだろう。身体はそっちに向けたままだ。
神官長も、本来ならば会話相手と向き合う礼儀を忘れない人だが、今は視線も私に向けていない。
それが正しい反応だ。敵、もしくは正体の分からない奇妙な異物が蠢く方向を気にする。当然だ。そうでなければ危機感を疑う。
だから、寂しいと、そう感じる私の感性がおかしいだけだ。さすが人間じゃないだけある。見た目も機能も思考も、すべてが人間失格だ。神官長が丁寧に人間を教えてくれたのに、私はどう足掻いても物でしかないらしい。分かっていた事実だ。
小さな溜息をつきたかったけれど、つかれた溜息は私のものではなかった。否、それは溜息ではなかったのかもしれない。ただ息を吐いただけだったのだろう。
神官長は視線を外さないまま、口を開いた。
「何故、君の傷は癒えていないのかね」
返ってきた言葉は予想だにしていない言葉だったが、考えてみれば何よりこの人らしかった。
状況を考えればそんな些末事どうでもいいと流すべきなのだが、何せ私は人間として惨めなほどに正常な感性を持ち合わせていないので、この人と言葉を交わせる機会に縋りつくことくらいは許されていいのではないかと思った。
だから素直に答える。
「私の癒術は人の為に神が設定したものです。故に、聖女の力は私を対象者と数えない。当然のことです」
詳細は面倒なのでエーレから聞いてほしい。そのほうがみんな信用できるだろうし安心できるだろう。
信頼している相手から聞いたほうが、余計なことに神経を巡らせる必要がなく情報を吸収しやすい。自明の理だ。
そんなことより説明を求めます。
そう続ければ、今度こそ吐かれた息は溜息だった。同時に、神官長から神力が溢れた。
既に発動されている結界とは違う神力は、発動と同時にそこかしこで気配を浮かばせる。一番近場でいえば、神官長、ヴァレトリ、エーレの右腕からだ。
聖印の条件が一部変更されたのだろう。聖印は発動者に権限がある。その権限で、神官長は私への情報提供を可能にしてくれた。
だが、何かが引っかかる。何が引っかかるのか思い出せなかった私の視線は、自然とエーレを向いた。
エーレに答えを求めたわけではなかったのに、無意識に視線を向けた先のエーレは私を見ていない。まっすぐに私詰め合わせを見ている。私詰め合わせは、重なった中で更に破損を増やしていた。
結局私は、何が引っかかっているのか気づけずにいる。思考と感情が忙しすぎて、この疑問を追いかける暇がないともいう。
引っかかりは後で考えようと、神官長へ視線と意識を戻す。私詰め合わせはエーレ達が見ていてくれるので、私は神官長を見ていよう。これが役得である。
「……リシュターク一級神官の報告を受け、プラキ山及びその周囲三つの山にある滝壺を調査した。結果、複数の人骨が発見された。発見された人骨は一旦神殿預かりとし神殿での安置を決めたが、神殿へ運び入れると同時にサロスン家より回収した呪具が再活性化し、結界を破り溢れ出したのだ」
成程。大体分かった。
私は一つ頷き、視線を私詰め合わせへと向けた。
「私を模しているあれを形作っているのは、滝壺に沈んでいた人骨ですね」
「その通りだ」
「成程成程ぉ」
私は何度も頷き、視線を彼女達へと固定した。
死者を愚弄するにも程がある。
それはここにいる人々全ての感情でもあるだろう。何せ、肌を爛れさせていたときでさえ、人々の目に移る感情は焦りや恐怖より怒りが強かったのだから。
視線を向けている先で、それらは笑う。その様子を見て、誰かが息を呑んだ。
骨が蠢く。死者が悶える。
理不尽に命を絶たれた後、弔われもせずうち捨てられ、その挙げ句眠りにつくことも許されず、どこまでも利用され尽くされる。どこの誰とも知られぬどころか、生死すら誰にも知られぬまま。
こんなものは命への扱いではない。物だってこれよりまだ丁寧に扱われる。
呪詛によって肉付けされ、私という形を纏わされた彼女達は笑っている。崩れながら、潰れながら、醜悪な嘲笑にその表情を染めている。
骨が鳴く。死者が嘆く。
その瞳から音なき悲鳴を流しながら、纏わされた肉の内から。
骨が、泣く。
「エーレ、前へ」
「御意」
すんなり指示を受け入れてくれたエーレに支えられ、というより、引き摺られるように数歩前に進み出る。
「待ちなさい。君は怪我人だ」
「いいえ、神官長。私は怪我人ではありません。修繕が必要な道具ではありますが治療は必要ありません。そして、役目を果たさない道具に修繕の手間をかけるのは効率的ではありません。まだ廃棄されては困るので、役目を果たしてきます。だから、私を見ていてください。そうして決めてください。私を聖女と認められずとも、この脅威へ共に立ち向かうに値する程度の力を持ち得た存在か。私の言を判断基準の一つとして取り入れ、敵と定めた相手へ異様なほどの警戒を向けてもいいか……あなたの信を多少なりとも与えてよい存在か」
情は交わされずとも言葉を交わす権利だけは、視線は合わずとも気配を感じられる距離だけは。もう一度、もう少しだけ。壊れかけの人形が廃棄の狭間で見た夢を、その贅沢な奇跡を味わってもいいかどうか。
「あなたが、決めてください」
お父さん。
お父さん。
私はもう、あなたと同じ姓を持ち、あなたの人生の枠組みに組み込んでもらえる甘やかな奇跡を、くすぐったい思いで、泣き叫びたいほどの想いで待つことは許されないけれど。
「だから、私を見ていてください」
最期までとはもう言えない。最後までだなんて贅沢も言える立場ではない。そんなことは望んでいない。
あなたの傷にならない範囲でいい。そのうち忘れてしまう記憶でいい。けれど私が私として形作られている内は、少しでも長くあなたの気配を感じていたい。
その我儘は、あなたの意識を割いてもらうに相応しい働きをしなければ許されないのだ。
エーレは進む。同時に私の身体も前へと進む。人の群れから進み出て、異形と化した死者の群れへ近づいていく。私には相応しい立ち位置だが、それに付き合わせているエーレには申し訳ない。
最近私を抱える頻度が格段に増えているエーレは、回復する暇もなくまた私を抱えて進まなくてはならないのでそこも申し訳ない。今度ココに台車でも作ってもらうべきだろうか。
だが、今はエーレに付き合ってもらうより他ない。
どんな遅々とした歩みであろうが、歩き続ければ目標地点へ到達する。私は、神官長が作り上げた結界にひたりと掌を当てた。
途端、弾かれたように彼女達の身体が結界にぶつかってくる。砂鉄に磁石を引っ付けたような勢いで飛びついた彼女達の身体は結界に阻まれるも、そんなことには気付いていないかのようだ。
先程まで笑っていた表情は見る影もなく、凄まじい音を立て、まるで獣のように結界に齧り付く。そんな勢いで私に襲いかからずとも、私は逃げも隠れもしない。どこにもいけず、どこにもいかない。
私はまだここにいて、私はアデウスの聖女で。
ならば、命の救済も浄化も、私の仕事だ。
私が結界に触れている掌に殺到する彼女達の形相はどこまでも凄まじい。飢えた獣のようなのに、縋りつくような悲痛さがある。
未だ惑う命の残滓が、私に与えられた神の力に救いを見たのか。切断された生の中から、真っ当な終焉を懇願している嘆きは、今ようやく光を浴びたのだ。
「帰りましょう。命は命に帰らなければ。大丈夫、それが命の権利なのですから。大丈夫、大丈夫ですよ。――大丈夫、あなた達は、ずっと命のままですよ」
骨が泣く。死者が泣く。
嘲りを無理矢理形作られた表情のまま、既に失われたはずの意思が泣くのだ。
こんなに惨い話があるだろうか。
身の内から力を溢れ出させる。私という器を通して世界に溢れ出た神の好意は、人の子らの為にある。神が人の子らを好ましいと思った。それはきっと、人にとっての救いとなるだろう。
少なくとも今は、確実な救いを彼女達に渡すことができる。
柔らかな光と風は、神官長の結界を素通りし、泣き叫ぶ彼女達の元へと届く。
ほろりと涙がこぼれ落ちるように、彼女達に纏わり付いていた肉が崩れ落ちる。私という形を背負わされていた女達の命が、解けていく。
暗く凍える水底で、誰にも知られることなく沈められていた命が、命としての終わりを迎えられる。
死は誰にでも訪れる。善人にも悪人にも。正当にも理不尽にも。毎日毎秒、誰かが死ぬ。どこかで死ぬ。それは当たり前だ。だが、生が終わった後も命としての終焉を奪われることがどれだけ惨いことなのか。命が物として扱われることがどれだけ悍ましいことなのか。
解放を得た彼女達の安堵が物語っていた。
生が蘇るわけではない。彼女達に明日が返されるわけでもない。ただ終わるだけ。命が最も恐れるべきである死が与えられるだけ。
からからと崩れ落ちる骨が最後に残した感情が、歓喜でも、自分達をこんな目に遭わせた対象への憎悪ですらなく、ただただ直向きな安堵であった。
その事実は残された人間達にも、悲しいほどの安堵と痛みを齎すだろう。
再び現れた光の花が、軽い音を立てて次から次へと積み重なっていく骨に触れ、散る。この花が彼女達に捧げられる最初の花だ。こんなものが慰めになるとは思わない。だが、少しでも心が解ければいい。死がこれ以上恐ろしいものでなくなればいいと、願う。
私が力を使い続けている間、花は舞い散り続ける。私が使う力が結界を素通りしていく現象は、私の力が神の力であり神官長達が扱う力が神力と呼ばれる類いであるからだ。
私達の前には、安堵の末、本来の姿に戻った骨だけが積み重なっている。もう骨は泣かない。嘆かない。かしゃりと崩れ落ちる無機質な音が聞こえるだけだ。
ひとまず、何よりも優先されなければならない命の解放は達成した。まだやるべきことは山積みだが、一息吐くくらいは許されるだろう。
そう思った。だが、ここまででも分かっていたことだが物事とはそううまくは進まないらしい。
最早動かないはずの骨が轟音と共に弾け飛んだ。エーレの手が私の前面で広げられ、炎により破片と衝撃を遮る。
「おっと、来た」
なんとも派手なご登場で。
視界が白い骨に埋め尽くされる。どこまでも死者を冒涜するらしい。もうここまで来れば怒りよりも呆れが勝る。飛び散った骨を誰かの優しい風が集めている様子を視界の端で確認したので、私は意識を前だけに向けた。
そんな私の身体が、がくんと傾いた。
「マリヴェル!」
「エーレ、ちょっと行ってくるんで離してください」
相手の望みは私だけだ。
私の首に巻きついた何かが、先程まで骨が重なっていた場所から生えている。それは光のようで、霞のようで、悍ましい呪いのようにも見えた。
それは一度大きくしなった。その勢いのまま私を引きずり込む気なのだろう。こっちもとうの昔に痺れを切らしている。対面できるのなら願ったり叶ったりだ。
だが私の首に巻きついたものの根っこに当たる部分から漏れ出している空気は、まずい。あれは地上に持ち込んではならないものだ。かつてエーレを壊そうとしたあの場所ではないだろうが、近しい空気がある。
だからエーレを置いていこう。いかねばならない。あれは命が触れていい場所ではない。
私は命を守るために作り出された。エーレは命だ。この地を生きる命は、あの空気に触れることすら許されない。あの空気を知覚することでさえ、ハデルイ神は望まない。
ふと、私がぶれた。こんな状況だというのにぶれてしまった。
ぐんっと凄まじい勢いで私の身体が跳ね飛んだ。まるで巨大な幹がしなったような勢いで宙に放り出された私の身体は、蛸がその身を隠すような速度で地面へと引きずり込まれる。
「あ、だめ」
空が消える瞬間、自分のものとは思えない細く掠れた声が私の喉から漏れ出た。そんなものが構われるはずなく、私の身体は地上から消えた。
当然のように私を離す気配が欠片もなかった、エーレと共に。
私がぶれさえしなければ、エーレは私を離さないと分かっていたので置いてこられたはずなのに。ぶれた私はどうにも人の形をした私の意識を置き去りする。
おかげで器としての役目は果たされるのだろうが、人の形をした私の願いは完全に出遅れてしまうのだ。
世界が回る。上もしたもみぎも左も分からない。白と黒が混在し、所々流れていくのは虹彩のようにもただ黒白の点滅にも見える。上下は分からないが、私を引き摺り降ろす力の先に元凶がいるのだけは、その禍々しさで分かった。こんな醜悪な神々しさ、そうそうあって堪るものか。
妙な、夜空とも水中ともそのどれでもない場所にも思える空間をひたすら引き摺り降ろされながら、私は渾身の力で身体の向きを変えた。
光があるのか真っ暗闇なのかすら判断をつけられない空間の中でも、不思議と命はよく映えて。とても、見やすい。
慌てた私の視線を受けたエーレは、冷ややかに鼻を鳴らした。
「誰が離すか」
こんな空間で、こんな状況なのだ。もう少し焦ってくれないと困る。だって彼は命なのだ。命は私が守るべき存在で、象徴で、光だ。
――ああ、成程。つまり私が焦っている場合ではないということで。
「エーレ」
「お前はいい加減俺という存在を引き連れ続ける事実を諦め」
「口、開けてください」
ろ、と、最後の言葉が疑問の音に跳ね上がると同時に、私は歯を当て血が滲む自分の舌が見えるほど大きく口を開けた。
「おまっ――!」
さっきからエーレの言葉を遮ってばかりいるなと思うが、緊急事態なので許してほしい。許されなかったら甘んじて砕けよう。
血を流し込んでいる間、エーレの手が私の後頭部を鷲掴みにしている。今すぐ引っぺがしたいのだろう。しかし意図は理解しているのか、無理矢理引き剥がされはしなかった。
お互い息が切れる寸前に、ひとまず離れる。エーレはともかく、私まで呼吸が必要なのはどう考えても無駄な機能だと思うのだ。
大きく息を吸いながら、動く手でエーレの身体を確かめていく。その間、エーレは動かない。なんだかだんだん殺気だってきているように思えるが、気のせいということにしておこう。
「とりあえず馴染ませて、と」
「お前……」
「後は均して均して、あ、ちょっと捏ねとこ」
「……後で覚えてろよ」
「整えて――、よしできた! これでエーレは私の気配満載で完璧ですね!」
元々神力が滲んでいる私の血に、意図して私の気配を混ぜ込んだ物がエーレの中を巡っている。纏うだけでなく完全に私の気配を身の内に宿しているエーレの存在は、私と肌を重ねている内はそうそう見つけられないだろう。
ただ、一歩離れると駄目になりそうなのが問題だ。縛り付けておく紐があればいいのだが……せっかく伸びた髪でいいのでは?
そう思い、強度を試すため束で掴みびんっと張った髪をエーレに奪われた。何やら怒っているので、髪を取り返すのは一旦保留にする。
「何か怒ってますか?」
「どうして怒っていないと思ったんだ」
「いやぁ、ハデルイ神のおかげでできることが増えてよかったです! あ、この行為は犬にでも噛まれたと思って……犬に噛まれるって痛いんですよねぇ。噛みついたまま全身使ってぶんぶん頭振るから、傷口が深いまま広がるし。ああいうときって、引くより逆に口の奥へ押しこんだほうが傷が少なくて済むんですよね」
そして、自分を犬に例えるなど犬に失礼だなと思い直す。犬は獣である。つまりは命だ。私を命に例えるなど烏滸がましい行いである。
「えーと、看板に頭ぶつけたとでも思ってください」
「はっ倒すぞ」
「じゃあ石に躓いたでお願いします」
「でかい石だな」
「そうですか? 砂利粒みたいなものでは?」
精々靴の裏に挟まってちょっとした不快感を与える程度だと思うのだが、どうだろう。通行の邪魔だったら跨ぐか、爪先で蹴飛ばしてどけてしまえばいいのに、どうやらエーレは多大に不満のようだ。今がこんな状況でなければ脳天をかち割られていただろうが、流石にエーレの手が私の頭に振り下ろされることは無かった。
足場がなく、どこにも支えのない私達の身体は、けれど落ちてはいなかった。落下しているでもなければ上昇しているわけでもない。されど漂っているわけでもなさそうで、明確な意思の元どこかへ移動している。
まるで手繰り寄せるように流れていく根元に、その気配はあった。悍ましくも神々しい、歪な命の成れの果て。そんな奇妙な気配が、もうすぐそこまで近づいている。
「エーレ、絶対私を引っ付けておいてくださいね。あなたの存在を決して悟らせることのないように、その視線すら気付かせることのないよう絶対に」
ひとまず、私を支えているエーレの手に軽く触れ、念を押す。
もうつれてきてしまったからには仕様がない。隠して隠して隠すしかない。私の気配などで申し訳ないが、エーレは私の中に隠し、絶対に相手に悟らせはしない。
この件についてはたとえエーレが拒絶しようが命令を下すつもりだ。エーレもそれを分かっているのだろう。さほどの間を空けず、頷いた。
互いの距離が万が一でも離れないよう私は体重をエーレに預けた。元々さほど動けなかったので、支えてもらう行為を続行しただけともいう。エーレに髪を巻き付けようとしたが、自分の髪を掴もうとした私の手をべしりとはたき落とされたので諦めた。
私の手をはたき落としたエーレは、その手を見ながら少し思案した。そして、妙な躊躇いと共に私の顎を掴んだ。そのまま私の顔を覗き込み、思案を続けている。
「どうしましたか? 割れが深くなって頬が落ちましたか?」
落ちた破片は回収しておいたほうがいいのだろうか。しかしこの空間で部品を紛失した場合、回収は不可能な気がするのだが、どうだろう。
回収不可なら不可でまあいいかと思っていると、エーレの機嫌が地に落ちた。ここに地面ないけど。
「そんな事態に陥った場合、リシュターク全権力を用いてでもさっきの件の慰謝料を神官長に請求する」
「どうしてそんなことに!?」
「未成年の子どもの不始末は、親が責任を取るものだからだ」
「そ、ういう、もの……なんですか?」
エーレは頷いた。それは困る。困るのにどこか嬉しさが湧こうとするからもっと困る。
「でも、私は養子になれなかったので、神官長はその責を負う必要はないはずです」
「あの方は一度そうすると決めたのであれば、たとえお前の了承によって完結する書面上の権利が発生せずともお前の責を負うだろう。そういう方だと、お前だって分かっているだろう」
「そうです、けど……相手が私なのに、その権利が発生していいのかいまいち分からないんですよ」
それに、自分の不始末は自分で始末をつけるものだ。確かに子どもは大人の手を必要とするが、私は乳飲み子でないし、そもそも命の手を借りる権利を持たない存在だ。
「まあ、親が責任を取ると言っても、基本的に成人はその限りではなく本人のみの責任とする」
「あ、私の年齢はあってないようなものなので、成人という扱いでよろしくお願いします」
「お前の情緒は乳飲み子だ」
「大惨事すぎません?」
「確かに。乳飲み子に失礼だった」
しみじみ頷いたエーレの言い方からするに、物と命を同一の存在として扱った失礼ではなさそうだ。だがよく分からないし、なんだか長くなりそうなので話を戻そう。
「それで、私の顔がどうかしましたか?」
とりあえず同じよく分からないでもこっちのほうが比較的安全そうだと思い、問いを戻してみた。エーレが死んだ。何故?
私が問うと同時に、本題を思い出したのかエーレが死んでしまった。この空間に来てしまったときは平然としていたのに、何故いま死ぬのか。エーレが死ぬ条件がいまいち分からない。
エーレはどこか愕然としたまま、ぽつりと言葉が落ちる。
「………………この情緒にこの仮説は絶望だろう」
「今更ですか?」
あまりに不思議で、思わずきょとんとした声が出た。
「エーレはもっと早く絶望すべきだと思いますが」
それこそ、価値ある人々と連なる忘却から弾かれ、私などと揃いになってしまった辺りから。
私がそう思っている間も、エーレは一人で呆然としている。
「そもそも、この距離で違和感がないことにもっと早く絶望すべきだった……」
「もっと早く絶望すべきは同意ですが、結局エーレは何に絶望してるんですか?」
「……戻ったらやるべきことが増えた。いや、やれることのとっかかりが出来たと言うべきか……」
うむ。私と会話の意思がない。私はしみじみ頷いた。
「まあ私と話しているより自問自答しているほうが有意義ですよね。だってどちらにせよ独り言になりますし。何せ物ですから!」
しかも壊れかけ。つまり私と話しているエーレは、常に独り言状態だ。エーレの情緒が心配だ。
堂々と胸を張り、世の真理を宣言したら、エーレが息を吹き返した。相変わらず死亡が早いが蘇生も早い。
そして、エーレの雰囲気が変わった。感情が、穏やかとは違う静けさに凪いだ。
「マリヴェル、思考回路がハデルイ神に都合のいいほうへ傾いてる。修正しろ」
「そう、ですか?」
「ああ」
怒りも嘆きもしていない静かな声音で、エーレは感情の切り替えも早いことが分かる。こういうときのエーレは、絶対に手を出してはこないし、怒鳴りもしない。表情も無表情ではなく、むしろ幼さと優しさをない交ぜにしたような、穏やかと表現しても過言ではない顔になる。
まるで、私を諭す神官長のような顔になるから、私も迂闊に言葉を紡げなくなるのだ。
「お前が修正の方向性を定められないというのなら、その都度俺が修正する」
「……分かりました」
よく、分からないのだ。
自分の感情さえふと曖昧になるのだから、思考なんてもっとあやふやだ。けれどエーレが正してくれるというのなら、人の形を保てる時間は延びるだろう。
だってエーレは温かいのだ。今も昔も、きっと明日も。人は温かければそれでいいと思うのだ。
だからこの温かさを失わせようとする存在は、何があろうと排除しなければならない。
やっとお目見えとなればいいのだがと若干の懸念が残る元凶との対面より、今はそればかりが気にかかる。
水面を緩慢に潜るような感覚を残す膜を通りながら、エーレを私の気配に抱え込む。この人は必ず、人として世界に返さなくてはならない。
それが、私という存在に巻き込まれてしまった彼への敬意であり、人という命が生きる世界への礼節なのだから。