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70聖




 ここで私を知るサヴァスと追いかけっこをした日は遙か遠く思えるが、私を知らないサヴァスと追いかけっこをした日さえも遠く感じる日が来るとは思わなかった。

 そんなことを思いながら、最早懐古の念すら浮かべていいのか分からない景色を見つめる。

 私とエーレの目の前で、聖女候補達が種を咲かそうと集まった美しい庭は、その原型すら失おうとしていた。



 季節ごとに鮮やかさを重ね、決して殺風景にならぬよう端正に順序立てて育てられていた植物達は、枯れ果てるだなどという言葉では収まらない滅びを迎えている。

 枯れ溶け、異様な成長でねじ曲がり、穢れを撒き散らす。欠けの一つも放置せず敷き詰められていた石畳も砕け散り、土は抉れ、波打ち、まるで山津波が起こった後だ。

 そんな庭園を囲むように、見慣れた顔ぶれが揃っている。高位の神官ばかりなのは、機密保持の為か、それとも最早数の優位などという状態ではないからか。恐らくどちらもなのだろう。

 現場にいる神官達の多くが膝をついている。誰もが、露出している肌の多くに酷い怪我を負っていた。服の下までは把握できないが、恐らくどこも似たようなものだろう。

 その肌は、爛れていた。火傷に似ているが、色がおかしい。緑にも紫にも黒にも似た、腐敗の色をしている。それは、この周囲一帯を取り囲む呪いの色と酷似していた。

 ヴァレトリ率いる一番隊ですら無傷の人がいない。これは相当な異常事態だ。だがこれは仕様がないだろう。何せ、この場の空気が穢れているのだ。息を吸わず生きられる命が存在しない以上、空気を毒と変えられては手の出しようがない。

 横たわる神官達の傍につきっきりのカグマ達医術者達も、その肌を爛れさせている。


 全員、今は結界を得意とする神官長率いる面々が張った結界の中にいるのでひとまずこれ以上の負傷は免れているが、それでも大元を何とかしない以上事態は収拾しない。その上、どんな爆撃にも耐えられ、どんな醜悪な呪いの中でも清浄な空気を作り出せるはずの神官長の結果がじわじわと蝕まれている。

 到底人が作り出したとは思えない呪いだ。ここまで人死にが出ていないのは奇跡に近しい。

 だが、私だけは奇跡と呼んではいけないのだ。これは、死者が出ていないこの状況は、神官長達が築き上げてきた努力で作り上げた必然なのだから。



 周囲の様子を見回し、最後に神官長を見る。誰よりも先頭でまっすぐに立っている大きな背中を、見る。


「……神官長、エーレが連れて来ました」


 その横に立ち、爛れた頬を鬱陶しそうに擦ったヴァレトリが神官長に耳打ちをしていた。その様子に違和感を覚えることはなかった。決してそうであれと願ったわけではなかったが、そうだとは、思っていたのだ。

 もう一度周囲を見回す。その多くが目をやられている。当たり前だ。剥き出しの粘膜が、肌さえ爛れさせる呪いに耐えられるわけがない。

 誰より先頭で結界を張り続けている神官長が、何の被害も負わないはずがない。また、そんな自分をよしとできる人でもないと、知っているのだ。

 余裕などなかったであろうに、最後まで私とエーレが眠っていたベッド周りに結界を張り続けてくれていたことも、分かっている。

 小さく息を吐き、吸う。

 そして最後に、皆が視線を向けている場所を見た。




 私がいた。

 私の身体をした物が、私の顔をした物が、私の形をした物が、いるのだ。

 庭園の中心、神官達を守る結界とは違う、もう一つの結界内。守護のために張られたものではない。害を外に出さぬ為の、檻。

 神官長達の結界が何重にもかけられたその中心には、大量の私がいた。

 下の方にいた私はねじ曲がり押し潰され、最早人の形をしていなかったけれど、上の方に積み重なっている物はまだ原型があったので確認できる。

 私が蠢いている。笑って、嗤って、嘲笑って。

 大きめの石をひっくり返したら出てくるダンゴムシみたいだ。しかしそれより余程悍ましい。「これは許されない存在なのでは?」と首を捻りたくなるほどである。


 姿も形も私だなぁと思う。言葉を発していないので声まで把握できないが、そこはどうなのか分からないが、まあ些末事だろう。

 この謎の私達も問題だが、この周囲を漂う淀みも穢れも大問題だ。以前の私なら、これが見えていなかったかもしれない。けれど今の私は、目覚めの前とは少し違うのだ。

 だからみんな安心してほしい。私はちゃんと、聖女としての任を果たせる。


「エーレ、進んでください」

「勝算は」


 私を支えてくれているエーレに視線を向ける。


「私としてはありがたい話なのですが、エーレは怒りそうだなと」


 エーレが何か言う前に私は続けた。だってこれはもう、確定事項だ。


「神様のおかげで閉ざされた機能を解放できそうなので、それを使います。ただし、器に少し負荷がかかりそうです」

「マリヴェル」


 この期に及んで咎めの声を上げるエーレの頑固さは本当に凄い。最早私を保とうとする意味はどこにもないというのに、私の形を惜しんでくれる。私という器を惜しめば惜しむだけ道は狭まり、ただでさえ八方塞がりな現状に更なる困難を呼び込むというのに。

 そんなものさえ捨てきれないと惜しむこの人は、本当に大貴族の末っ子なのだろうか。あまりに強欲が過ぎる。

 何でもかんでも抱え込む上に捨てられない。もっと豪快にぽいぽい捨てていけたなら、彼の人生の痛みはとても少なかっただろうに。


「では命じます」

「……御意」


 エーレの意思を踏みにじり歩を進め、神官長の横に並ぶ。ヴァレトリが知らせたのか気配を感じたのか、神官長が口を開く。


「下がっていなさい」

「いいえ。いいえ、神官長。これは私の仕事です。故に、下がるのは貴方のほうです」


 私は視線を向けたけれど、神官長は私を見ない。そんな余裕がないことは分かっている。

 神官長の両目は、もう何も見えていない。診なくても分かるほどに、その傷は顕著だ。酷く爛れ、目としての機能どころかその部位すら潰れているように見える。

 痛いだろうに、そんなことはおくびにも出さない。痛いと、恐ろしいと、逃げてくれる人ならどれだけよかったかと思う。ここにいる人達みんなそうであってくれたなら、この人達はどれだけ痛みの少ない生を送れただろう。

 けれどそんな人達ではないからこそ、私と出会ってくれたのだ。

 だからこそ、私は彼らとの出会いに報う義務がある。


「大した自信だけどな、エーレに支えられなきゃ一人で立てもしない小娘に用はないぜ?」


 飄々とした口調で嫌みったらしく口角を吊り上げたヴァレトリは、神官長の半歩前に陣取っていた。本来ならば何があっても神官長を立てる人だが、今は万が一は確実に盾になれる場所を譲らない。

 さて、万が一があった場合、彼は本懐を遂げられるのだろうか。だって私達の神官長は何があっても私達を盾にしない人だし、そんな神官長だからこそヴァレトリは彼を守りたいのに。

 そして、そんなヴァレトリごと怪我をさせてはいけないのが私の務めだったのに。


「全くですね」


 私は小さく溜息を吐いた。


「本来ならば私が最前線に立たねばならぬこと。故に謝罪します。そして、遅れた責任は取りましょう」


 エーレに支えられていない左手を持ち上げ、神官長の目元に触れる。いつでも私の腕をへし折れる位置に自らの腕を上げたヴァレトリを見ながら、笑う。


「信じられないことに、これでも私、アデウス十三代聖女の力は癒やしと浄化なんですよ」


 ゆっくり目蓋を降ろし、閉ざされて久しい力を紡ぎ出す。

 身の内にある私の力。敵により、あの日閉ざされた神の力。この人に触れようとして閉ざされた、私の願い。

 それらを、強引にこじ開ける。

 器としての自覚と記憶が蘇り、一度神の手が入り直したこの身体。

 一度、人としての機能が壊れた、この器。

 だからこそ、できる。使える。

 この身は神が神の為に用意した器。

 だが、表皮に与えられた力は人の子の為。

 優しい神が、可愛い人の子らの為に用意した力。


 その為に神が用意した力なれば。

 人を癒すため使ってこそ、意味を為す。




 髪が不自然に波打ったのが分かる。ここしばらく感じなかった感覚だ。髪の長さもだが、何より癒術発動の感覚だ。

 欠片も惜しまず売ったはずの髪が重い。形だけは神様により整えられたから、初期段階に形が戻っている。その髪の中を光が脈動する様が、閉じた目蓋越しでも分かった。

 きしりと軋む。ぴしりと割れる。

 終わるはずだった器が神の力に耐えられない。罅が増える。深くなる。

 彼らの痛みを取り除けれるのであればこのまま砕け散っても惜しくはないけれど、私を切り離さないエーレを置いてはいけないから少しだけ気をつけなければ。

 聖女として命じたエーレは、もう咎めの視線を向けてはこない。そして力を籠めれば砕けると思っているのか、私を支える腕の力も変わらない。

 ただ、大きく開いた掌が私に触れている。

 一見、肌の接地面を増やしただけだ。それが、応援もできなければ咎めもできない彼が起こせた唯一の行動だったと分かっている。

 これこそが彼の優しさの形だというのなら、本来人間に向けられるべきである柔らかな恩恵を与えられた私はきっと、世界で一番恵まれた消耗品だ。

 ならばせめて、その役目を果たすべきである。


 私は聖女。アデウスの十三代聖女。

 神が選んだ女。その形として作られた物。

 神がこれを使おうと選んだ道具。

 目的に適した能力を与えられた消耗品。

 目的を果たす力を持つと、神の保証がついているのだから。


 私は、閉じた時同様の速度で、ゆっくりと世界を瞳に映した。






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