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7聖






 しかし、何やら人の動きがおかしい。何かを避けるように動く。さきほど避けられた身だからよく分かる。次にもの悲しいことになったのは誰なのだろう。ほんの少しの同情心と好奇心と仲間意識と暇潰しをこね合わせた気持ちで、視線を巡らせる。進行方向右手側が発生源のようだ。


 そこには、昨日私が泊まった宿とは雲泥の差の宿があった。貴族は訳ありしか利用せず、庶民は利用しやすい。そんな宿だ。今日はここでもいいなぁと思う。割り札を見せれば高い宿でも泊まれるが、後ろ盾がない状態で貴族の中に飛び込むのは危険だ。さっき避けたごろつきが金と地位を持っている、そんな貴族もいるからだ。ごろつきは力尽くで欲を叶えるのに対し、貴族は金と権力尽くでくる。それだけの違いだ。




「だから! きょうだけ! こいつのねつさがったら、すぐでてくから!」


 子どもの金切り声に、忙しなく行き交う人々は奇妙なほど進路を曲げて歩いていく。暗くなり始めた夜の闇を吸い取り、空いた部分へ昼をはめ込んだかのようにガラス張りの玄関は明るい。周りが暗くなればなるほど光は目立つ。そんな宿の正門に、その子どもはいた。

 ぼろぼろの服を着た少女がいた。身体は汚れ、ひどく痩せている。年齢が分かりにくいが、両手の指数に足りているとは到底思えない。そして、少女は己よりもさらに小さな子どもを抱いていた。こちらは乳幼児から幼児に到達したばかりに見える。

 子どもは少女と同じ状態だが、一つだけ違うのは顔を真っ赤にして荒い息をしていることだ。

 少女は必死に言い募る。今日だけ、今日だけでいいからと。言葉を受け取っている男は、服装からしてこの宿の支配人だろう。


「だからねぇ、困るんですよねぇ」

「たのむから! こんななってるのに、そとでねかせたらこいつしんじゃう!」

「ですがねぇ、貴方はお客様ではございませんので、わたくし共にはどうにもできません。割り札の効力はもうございませんので。残念なことですねぇ」


 うむ凄い。最後にとってつけたように告げられた残念な気持ちが欠片も伝わってこない。言い聞かせるように、ことさらゆっくりと告げられた残念な気持ちで、大体の事情は察せられた。

 この少女は、私と同じく昨日第一の試練を受けたのだ。そして、通過できなかった。


「たのむから!」

「はぁ……これ以上は営業妨害で警邏を呼びますよ。具合の悪い弟を牢屋に入れたくはないだろう?」


 何かを言い募ろうとした少女は、ぐっと唇を噛みしめた。そして、ぐるりと周囲を見回す。同情の色があった。恥じる色があった。無の空気があった。それらが混じる世界で大人達は目を逸らし、足早に立ち去っていく。

 少女の目には、最初から期待などなかった。何かを確かめた。確かめて、確信した。彼女が何を思ったのか、分かったのは私だけだった。

 人混みを掻き分けて飛び出した私は、さっと懐に手を入れた少女の腕を掴み、反対の腕を高らかに掲げた。



「はいはいはーい! 私、聖女選定の儀第一の試練通過者でございます!」


 通過時に注がれた神力により、透明な割り札にはぽんっと一つの花が咲いている。この割り札、通過できなければその日に消えてしまう。神力で作られた物だからこそ、該当神力による強化がなければ実態を保てないのだ。


「本物?」

「本物だ……」


 ひそひそ囁かれる声に、ふふんと胸を張る。当然ですよ! 何せ当代聖女ですからね!


「今年の参加者は五万人だったか?」


 そんなにいたの!? まずい、宿が空いていない可能性が出てきた!


「いま通過が分かってるのは三十人くらいだったかしら」


 それしかいないの!? まずい、宿がら空きじゃない!?



 胸を張っていた私は、とんでもない数を聞いて飛びあがった。そして、いまなお走りまわっているであろう神官達を思った。

 今晩は、あなた達の疲労回復を神様に祈りますね。加老による回復遅延は対象外なので自力で頑張ってください。

 神官長様は如何お過ごしでしょう。

 最近上がらないと悲しそうに言っていた肩の具合は如何でしょうか。高いところに登った私の首根っこを摘まんで引き摺り下ろしていた頃のように、健やかな肩の上下運動を心よりお祈り申し上げます。


 素早く祈りを捧げた後、一つ咳払いをしていそいそ割り札を胸にしまう。このシャツ、内側にポケットがあって便利だ。聖女の服もあちこちにポケットを作ってもらいたいのに、一個もないのだ。おかげで木の実とかダンゴムシとか入れる場所がなくて苦労した。神官長が近くにいたら彼のポケットに詰め込んだものだ。

 しばらくの間、いつも厳格な顔をした神官長のポケットが夢と死骸でパンパンになってる……と噂になった。申し訳ないことをしたと今は思っている。ちょっとだけ。

 神官長の、健やかなポケット事情をお祈り申し上げます。



「な、なんだよ! はなせよっ!」


 我に返った少女が私の手を振り払おうとする。だが、痩せ細った幼子の力などたかが知れていた。私の片手も振り払えない少女を掴んだまま、支配人の男へ視線を向ける。艶やかに、しなやかに、強かな聖女の笑みを。ちなみにこの笑顔、猛烈に練習した。習得するまで顔が攣りまくった痛く悲しい思い出はおいておこう。思い出したらまた攣りそうだ。

 こほんと咳払いし、心持ち声量を上げる。


「お兄さん、折角のご厚意もそんなに迂遠的では皆様に真意が伝わりませんよ」

「……何のことでしょうか、お客様」


 割り札が有効ならば、奇異な格好をしていてもお客様。さすが客商売。だが、だからこそ悪評はまずいはずだ。庶民の味方なお値段が売りな宿であっても、支配人を置く気概を見せるならついでに大人の気概も見せてもらいたいものである。

 少女の前に膝をつき、目線を合わせた。少女は咄嗟に逃げようとしたが、ぐったりした子を抱きかかえている身はそれほど身軽ではないだろう。結局逃げられなかった子ども達の、感情が掻き混ぜられた視線を間近で受けながら、にっと笑う。


「大丈夫ですよ。この方は、ちょっと意地悪な言い方だったけれど、警邏に保護して頂きましょうねと言ってくださっていたのです」

「は?」


 明確な意思を持った呆け声は、人混みの中でもはっきり聞こえる。だが、無視して続ける。私が話しているのは彼ではないのだ。


「警邏が来たら、保護機関に連れていってくれますよ。そういう法律がね、半年前に決まったんです。同時に、養護院の経営も国が担当になっています。今までは地区や個人が寄付を募り個々で営んでいましたが、もう違います。水や道路、郵便に医療。それらと同じく、採算が取れずとも国が成り立っていく上で欠かせない分野だと法律によって定められました。だから、保護者がいない子どもは保護機関に連絡するか、自分で連れていくかなんですが……お兄さんはお仕事中だから、警邏にお願いしようとしたのでしょう。ねぇ?」


 ぐるりと首だけで振り向けば、男は気味悪そうに一歩下がった。秘技ふくろうの真似。ちなみに暗闇でやったら神官達にお化け扱いされ、塩、酒、書類、椅子、ありとあらゆる物を手当たり次第に投げつけられ、二度とやるなと涙目で怒られた。


「困っているあなた達を追い出すなんて、そんな酷いことするわけがありませんよ。だって、半年前に制定された未成年保護義務法、時と場合によっては努力義務じゃないんですよねぇ」


 未成年保護義務法。その名の通り、未成年を大人達が守りましょうねという法律だ。大人には保護が必要な子どもを見かけた場合、受け入れ場所となっている機関に連絡する義務がありますよと法が刻んでいる。


「でも、皆様大人ですものね。自国の法律なんて私などがわざわざ口にするまでもなく、皆様勉強されておられることでしょう」


 そんなわけはない。大人でも知らない人は知らないだろう。スラムや先程の地区にいる大人は生きているだけで精一杯だ。そうでなくても、所詮人は知っていることしか知らないし、知ろうとしたことしか抱けない生き物だ。

 男の口元がひくりと引き攣った。すいっと視線を回せば、通過率が異様に低い試練を超えた聖女候補を見ようと集まってきていた人々が、揃って視線を逸らした。

 はいちゅうもーく。


「基本的には子どもを守るよう努めましょうねという内容なのですが、命の危険がある場合には、ねぇ? ほら、人聞きが悪い言い方ですが見捨てたなんて、ね? そのように見えてしまう言動を行った場合は、罰金か懲役刑……」


 はいかいさーん。

 見世物じゃないぞ散れ散れ状態で人々が散っていく。見世物にしているのもなっているのも当人自身なのだが。自分で集まり自分が散る。忙しない人生だ。誰も走っていないのに、物凄い速度で離れていく。足音が楽器演奏みたいだ。しかも打楽器。いっそ走って逃げたほうが清々しいと思うほどの必死さであった。

 人々が石を放り込まれた魚の群れのように散った後には、支配人の男だけが残った。お仕事ご苦労様である。

 にこりと微笑み、少女の頭を撫でる。ごわついてべたつくのにかさつく、無機物のような髪だ。肌は粉がふくほど乾燥している。栄養不足に清潔不足。直ちに保護が必要な状態だと判断するのは容易だ。少女もその腕に抱かれる子どもも、目をまん丸にして顔を引き攣らせている。どう見ても恐怖しか感じていない。


「色々とお忙しいことでしょうし、ご事情も、ね? あることでしょうから、私が保護機関に連れていきますね」


 人目のある場所でお金のない客を受け入れるのは、危険を伴う。同じように受け入れてくれと詰め寄ってくる物が現れるからだ。善意につけ込む物は際限などない。だから善意は見せる場所を選ぶ技量が必要になってくる。そういう事情も理解はできた。だが、本当にその事情を考慮してこういう態度を取っていたのなら、奥の人間はあんな目で見てはこないだろう。


「そ、れは、助かります。ご親切に、どうも……」


 もごもごと口を動かす男を、宿の奥から総支配人が見ていた。飛んでこようとしていたが、脅えた顔になった子どもを見て足を止めている。深々と下げられた頭に、軽く頭を下げて返す。世の中持ちつ持たれつ。それに、気にくわない所業を行った人間を裁く権利は、意外と当人にはない場合が多い。それでいいのだろう。私刑が蔓延る時代が平和だった試しはないのである。


「では、お仕事頑張ってください」


 そしてこの法案を通したのは私のお仕事なので、そこのとこよろしくお願いします。








「あー、どっこいしょ!」


 少女の腕から子どもを預かり、かけ声と一緒に立ち上がる。予想通り軽い身体だ。肉も水気も失われた、熱く乾いた子ども。異臭に少し、安堵する。腐臭であればもはや間に合わない。


 左手で子どもを抱え、右手で少女の手を引く。そうして歩き始めれば、散っていた後も遠巻きにそれとなく見ていた人々に追いついてしまった。ちらちら視線を向けてくる人々の間をまっすぐ歩く。気まずいことがあると、殴りかかってくる人間と避ける人間に分かれる。人混みが分かれる様子を見るに、ここにいるのは避ける人間が多いのだろう。そもそも厄介事を避けない人間ならばこの位置まで逃げていない。いい意味で避けない人間ならば、少女達に伸ばされる手もあったはずだ。


「ごめんなさい、二人抱っこは難しくて。あ、おんぶにします?」


 よたよた歩いてついてくる少女に謝れば、少女は安堵と警戒をない交ぜにした瞳で私を見上げた。


「な、なんだよ! あんた! なにっ……」

「お医師様に見て頂いて、ご飯食べて、お風呂入って、ふかふかかは補償できないけど、少なくとも虫に刺されない布団で眠れる場所に行きましょうね」


 いやぁ、かなりお金がかかる制度だから通すのに時間がかかったけど、徹夜しといてよかった。根性で通した法律までなかったことにされていなくて本当によかった。まあ、私は忘れ去られたんですけどね!


「昨日はどこに泊まったんですか? そこでもお医師様を呼んでくれませんでしたか?」

「はなせって!」


 もしかすると昨日は宿に泊まっていないのかもしれない。大人を信用していない子どもが緊急時以外に、割り札を手に入れたとて利用するとは限らないのだ。また、法案を通したところで先程の支配人のようにすべての大人が義務を遵守するとは限らない。世界とは単純ではないのだ。


 先代聖女を煙たがり犬猿の仲となった王城で新たな法案を、それも利益としての収入は見込めず大変な金額が動く法案を通すのはとても骨が折れた。

 暗殺者が来て物理的にぼっきぼきだ。

 神殿を叩き出される前に治してもらっていてよかった。癒やしの神力を扱える人は神官でもそう多くはないのに、総掛かりで治してくれてどうもありがとうございます。お手数をおかけしました。




 私に手を引かれている間、少女はそれ以上言葉を発さなかった。ただ、私を伺っている気配だけが伝わってくる。歩く速度に勢いはなく、ぽてぽてと揺れる身体には未だ迷いが見えた。当たり前だ。甘い言葉には裏がある。タダより高いものはない。夢を見るには代償が必要で、払う代償は得たものの何倍も取り返しがつかない。

 それでもこの少女が、甘い言葉に拒絶反応を示しつつもついてくるのは私が抱く子どもが苦しそうだからだ。熱が高い。傷口が膿んでいる。熱に抗う体力も、傷口を癒やす金もない。


 少女が反射的に逃げ出してしまわないよう、人目のある大通りを選んで道を行く。もう夜だというのに、行き交う人々は増える一方だ。同じ家に帰る人がいればゆっくりとした足取りで。子は親と手を繋ぎ。一人で帰る者は足早に、けれど数十年に一度の行事が開催され、様々な催しに彩られた町並みへ興味を向けて立ち止まる。

 その度、ぶつかりそうになる身体を避けた。抱いた子どもと接触しないよう、手を繋いだ少女に大人の足が当たらぬよう、人の間を縫っていく。

 本当は大通りではなく横道を突っ切れば保護機関までの近道になるが、人気のない道は恐怖心と警戒心を増大させるだろう。そして、警邏がいるとはいえ今は私も通りたくない。もしも何かあったとき、子どもを二人抱えては走れない。


「……あんた、だれ」


 ぽそりと少女に問われ、そういえば自己紹介してなかったなと思い至る。失敗失敗。少女の声は、さきほどまで喉が張り裂けんばかりに大きかったのに、今は聞き取れないほど小さい。


「マリヴェルと申します。あなたとこの子のお名前は?」


 長い沈黙が落ちた。


「………………あんた、なんで、へんなかっこうしてるの」

「え!? 似合いませんか!? 動きやすくてかなり気に入っているのですが」

「…………へん」

「そうですかぁ。残念無念」

「……かおも、へん」

「顔も!?」

「うごきとか、ぜんぶへん」

「何一つとしていいところがない!」


 何故だ! 何がいけなかったというのだ……全部か!?

 それなら仕方ない。忘却される前から残念聖女との異名を冠したこの身である。子どもの素直な感想は謙虚に受け止めるべきだ。むしろ、幼気な子どもに全部残念な大人を見せてしまい、誠に申し訳なかった。


「そういえば、聖女の試練を受けたのですよね?」


 少女の表情はずっと硬い。緊張と警戒は当然あるだろうが、どうもさっきから違和感がある。


「そこで神官から、保護機関について聞きませんでしたか?」


 いくら忙しかったとはいえ、目の前に保護対象がいる状態で神官がそのまま放り出すとは思えない。渡された書類にも記載されているが、保護が必要な環境にいた子どもは文字を読めない可能性が高い。だから必ず口頭でも伝えられていたはずだ。

 少女は答えない。焦りを浮かべた視線で私の口元を凝視している。足を止めれば、少女は警戒と怯えを滲ませた顔で立ち止まった。視線は私の顔と、私が抱く子どもを行き来し始める。私が何かおかしなことをしたら、即座に飛びかかってくるつもりなのか足にも力が入っていた。

 しゃがみこみ、目線を合わせる。離した手を自分の口元に当て、ゆっくりと話す。


「私が、話す、声、聞こえますか?」


 後退りしそうな身体を必死に押し止めているのか、身体が妙に傾いている少女は、じっと私の口を見ていた。ゆっくりと大きく開けた口でもう一度「聞こえますか?」と問いながら、自分の耳を触る。少女は、吐息と区別がつかないほど小さく掠れた声を発した。


「…………しずかなとこなら、ちょびっと」


 なるほど。

 道理で最初、声が大きかったはずだ。かと思えば今は耳を澄ませなければ聞こえないほど小さい。耳が聞こえにくいと声の強弱を調整しにくいのだろう。言葉自体は流暢に話せているし、この歳でも発音に違和感がない。ならば先天的な問題ではなさそうだ。

 腕の中に抱く子どもの熱も高くなっている。荒い息も心配だが、何より大きな震えは筋肉の収縮に近い。痙攣しかけているのかもしれない。医術の知識はないが、すぐ治療が必要だとは分かる。だが、強引な手に出ると少女は私の手を振り払って逃げてしまうだろう。腕に抱く子どもも、軽いとはいえ片手でずっと抱くのは限界がある。実は、腕がぶるぶるしてきた。


「んー……ちょっとこっち……人目のない方に来られますか?」


 大通りから外れた建物の影を指さす。少女の身体が強張った。怖がるだろうとは思っていた。目線を合わせたまま、自分の耳を触る。そして、くるりと回した指を少女の耳へと向ける。


「あなたの耳を」


 自分の目蓋を指でこじ開け、見開く。


「診ます」


 治療しますと言えればよかったが、身振り手振りで伝えるには少々難しい。


「みみを、めんたまにつめこむの?」

「斬新な発想! さてはあなた発想の天才ですね?」


 私の身振り手振りの出来映えが無惨過ぎたようだ。今度練習しておこう。

 ……付き合ってくれそうな人が誰もいない。忘れられるって悲しいなぁと、しみじみ思う。忘れられていなくても付き合ってくれなさそうな気もする……悲しくなんてないやい。


 歩道のど真ん中でしゃがみ込む私を、邪魔そうな一瞥が通り過ぎていく。幾人も幾人も向けていくから、これは一瞥ではなくまとめて百瞥とか新しい単語を作ってもいいのでは? 


「じゃあ、壁際でしましょうか」


 子どもを抱え直し、どっこいしょと立ち上がる。思っていたより腕が疲れていて、何歩かつんのめってしまった。少女は慌てて両手を広げ、私の後をついてくる。万が一子どもが落とされた場合を心配しているのだろう。抱えたまま転ばないよう踏ん張るし、どうにもならなくて転んでしまった場合は私の顔面から地面に突っ込む予定なので、どうか安心してほしい。


 よたよたと歩道の端まで進んだ私は、追いついてきた少女を自分の身体と建物の間に立たせた。きょとんと見上げてくる大きな瞳に、子どもを渡す。


「少し……ちょびっとお願いしていいですか?」


 少女は慣れた手つきで、小さな身体には大きすぎる幼子を器用に抱いた。不安と警戒心と興味が入り乱れた瞳が、私を見上げる。警戒心は怒りに似ているけれど、その根本にあるのは恐怖だ。だから笑う。笑いすぎれば胡散臭くなるのでそこは気をつけて。

 詐欺師ほどよく笑うものだ。すべてひっくるめて笑顔で覆う。それが信用を勝ち得る一番簡単な方法だ。何故笑うか。それは、笑顔は人が一番安心する表情だからである。

 小さな子が小さな子を抱いている姿は可愛らしい。だから、ただ可愛らしいなぁという思いを膨らませた感情をそのまま表面へ出す。それだけで顔は勝手に笑みへと変わる。

 可愛い。可愛い。ふくふくとして、ただただ明日への期待だけを胸に笑っていたら、もっと。


 少女と子どもの頭に手を置き、息を吸う。そして、二人を私の陰に隠したまま聖女の力を使う。不自然な風と共に広がった髪の先まで光が走り抜けるが、髪が短いので光はすぐに散っていく。さほど目立つことはなかったはずだ。現に、この場で癒やしの力が使用されたにもかかわらず、誰一人足を止めることはなかった。



 本来、人の欲に直結する力を使用する際は術者の安全が確保されていなければならない。そうでなければ、我も我もと集まった人々により余計な暴動が起こるからだ。延命に繋がる癒術などその最たるものである。

 周りの気配を探り、おかしなどよめきがないことを確認し、ほっと視線を落とす。そんな私を、まんまるの目が見上げていた。まんまるの目がぱちくりと瞬きをする。その腕に抱かれた子どもの息は整い、すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえていた。

 少女はきょろりと周りを見た後、慌てて腕の中の子どもへ視線を落とす。少女の顔はくしゃりと潰れた後、大雨となった。


「ねつ、さがってる……も、もう、ずっと、なんにちも、さがん、なかっ……」

「うん。お耳はどう? 聞こえますか?」

「わか、わかんなっ、いっぱい、おと、いっぱい……」

「うん。お耳は、いつから聞こえなかった?」

「おと、さん、たたく、から、ぐーで、たたく、から、それで、そっから、わかん、なくて」

「うん、そっか。うん」


 会話ができている。エーレでも試したが、相変わらず聖女として授かった力は健在だ。聖女として制定した法案も機能している。健在じゃないのは認知とエーレの筋力だけである。大問題である。



 しかし、今の問題はそこではない。私はそっと少女の胸元に手を差し込んだ。はっと顔を上げる前にそれを取り出す。取りだした手に握っているのは、錆びたナイフだった。


「あの人を刺して、警邏に捕まろうと思った?」


 長い沈黙の後、少女はこくりと頷いた。


「……ろうやにはいったら、ぱんと、みずもらえるって、きいた、から。こいつ、こいつに、あげよ、うって、おもった、から」


 牢屋に入るのはあなただけで、この子と一緒にはいられない。当然、この子に食べ物をあげることも叶わない。

 私はそうと知っている。けれど、少女は知らない。誰も教えなかったからだ。知らないことを知っておけと責めるのは、惨い行いだ。だってこの子は、知らない事実を知らないのだ。世界の惨さしか教えてこなかった子どもに無を知れと、一体誰が言えるのか。


 ぼろぼろと泣きじゃくる少女と声で意思疎通できている現状と、子どもの頭から熱が引いていることも掌で確かめる。しかし病や怪我は治せても、弱り切った身体が完治したわけではない。

 後はお医師様に診てもらいつつ、栄養つけて、たっぷり寝て、すくすく大きくならなければならないのだ。

 自身が時を過ごして得た結果でなければ、どんなものも応急処置に過ぎない。どんな本も技も術も神力も、神から直接与えられた聖女の力でさえ、万能なものなどありはしない。人が扱うのなら、それが神でないのなら、万能を唄うは詐欺師であると心得よ。神殿の心得である。



 何はともあれ身体のつらさが楽になって何よりである。少女と子どもを覗き込む形で建物に肩と頭をつけた私は、うんうんと頷いた。流石に衰弱と怪我と病を負った子どもを二人いっぺんに治すと体力使う。……削れすぎだと、思わないでもないが。

 私は二人を見下ろしながらにこにこ笑う。どうしよう。一歩も動けなくなった。だるさにつられて身体を傾けてしまったが運の尽き。元の体勢に戻る力がない。私と建物の間には二人がいるため、そのままずるずると倒れこむのも不可能だ。

 ふっと静かな息と共に微笑む。どうしよう。詰みだ、これ。

 このまま朝を迎えるかもしれない。どんな場所でも眠れる自身はあるが、どんな体勢でも眠れるかは試したことがないので分からない。何にせよ、この体勢で寝たら翌日首が死ぬ。


 諦念の笑みを浮かべ、静かに燃え尽きた私の背後が何やら騒がしくなった。

 最後の気力を振り絞り、ぞりぞりと壁で顔を剃りながら振り向く。道路の端に一台の馬車が止まっていた。洒落っ気の欠片もない、実用性重視の馬車から三人の人間があたふたと駆け下りてくる。全員同じ服を着ているので制服だろう。つまり、同じ組織に所属している。

 そして私は、その制服を知っていた。


「保護要請の連絡を受けて参りました、未成年保護機関の者です! 具合の悪い子ども二人と、男物の服を着た奇妙な少女とは貴方のことですか!? 貴方のことですね! なるほど奇妙だ連れていきます!」

「連行にしか思えない! あなた、さては警邏ですね!?」

「よくお分かりですね! 以前は警邏隊で働いておりました!」

「うわ正解してしまった」


 保護の際の手引き書は全く守られていない。別に一辺倒に守れとはいわないが、せめて大声出しながら駆け寄るなの辺りは守ってほしいものだ。私が保護対象の子どもだったら死に物狂いで逃げ出している。保護対象じゃない私でさえ反射で逃げ出したいくらいだ。


 駆け寄ってきた三人は、不安そうに私の服を握りしめている少女とわたわた目線を合わせ、少女が抱きしめている子どもをおろおろ覗き込み、心配そうにぎゅうぎゅう毛布で包み込む。

 だが、如何せん勢いが強すぎる。保護と捕獲、どっちの単語を使うか悩みがせめぎ合う。

 うーんと呻いたら、視界がくらりと揺れた。世界がたらいに入った水のようにくわんと揺れる。あ、まずい。これ本格的におかしい。

 そう思ったが最後、壁に凭れていた顔がずれ、体重の力で削れた。痛みがあったようにも思うが、それらを把握する前に私の意識は途切れた。










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