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 カグマの城である医務室が無惨なことになっている。

 急患が担ぎ込まれた場合以外は几帳面に並べられている薬棚は棚ごと薙ぎ倒され、ベッドも床ごと削り飛ばされている。

 何より、別室となっているここと、一般診療室である隣の部屋が一緒くたになっている時点でもうおかしい。

 壁が壁の役割を果たせていない。巨大熊でも突入してきたのかなと思える惨状だ。

 それか酔っ払ったサヴァス。

 しかし、サヴァスはいくら泥酔していても医務室を襲撃したりしない。壊したとしてもせいぜい隣の部屋までだ。

 何せここはカグマの城。壊したらどうなるか、メスを見るより明らかだ。

 それにしても、何が一体どうなっているんだと思っていると、ぬっと伸びてきた指が私の目蓋をこじ開けた。


「意識は? 痛みは? 吐き気は? 違和感を覚える箇所は?」


 私の瞳を覗き込んできたエーレの問診は、なかなかに矢継ぎ早だ。すばやく状態を確認して、意識を状況確認に回したいのだろう。分かる。それなのに、周囲の状況確認より聖女の状態確認を優先しなければならない神官は大変だ。


「状況が把握できていない以外は問題ありません」

「ちなみにお前の自己申告は無視する方針だ」

「なんで聞いたんですか!?」


 びっくりである。


「私の人権がない! じゃなかった、物権がない!」

「言い直す馬鹿があるか大阿呆はっ倒すぞふざけるな大馬鹿野郎」


 正しい報告は事態を円滑に回すのだが、正しく報告したら二段重ねで罵られた。普段は正しく報告しないと罵ってくるというのに。

 まさに、特級神官と秋の空。特級神官の心は山の天気ほど変わりやすい。単に寝起きで機嫌が悪いだけかもしれない。

 エーレは難しいなぁと考えていると、詰めていた息が短く吐き出された。音の出所はエーレである。


「無事ならそれでいい」

「命に別状はありませんので、なんら問題ありません」

「無事の定義ついて摺り合わせを行う」

「後にしましょうか」


 長くなりそうだ。




 さて、どうしたものかと、周囲の音を聞きながら巡らせた視界が白く覆われた。なんだなんだと反射的にそれを掴めば、薬品のにおいが染みついたシーツだった。

 カグマが管理しているのだ。清潔そのものなシーツをいたずらに使用すればどうなるか、錠剤の苦さを知るより明らかだ。

 カグマに知られる前に脱出しようと、かぶせられたシーツを払いのけた途端に再び被せられた。


「羽織っていろ」

「えー、カグマに怒られるから嫌です」

「どう考えても意味なく裸でいるほうが怒られる案件だ」

「そういうもんですかね」


 首が絞まる勢いでシーツの前を絞められたので、首を傾げ損ねた。ぐぇーと呻いていると、ようやくエーレは私を解放した。

 また絞められては事なので、大人しくシーツを被ったままでいる。しかし流石に頭からだと邪魔なので、頭は出しておく。


「寝間着は医務室の備品だ。返却しろ」

「ハデルイ神に請求しなきゃなので、諦めたほうが安全かと」


 深い深い溜息が落ちたが、神と人の感性は根本から違うので、関わらなくていいときは関わらないほうがいいと心から思う。寝間着は諦めてほしいし、追加の寝間着予算をもぎ取るのもエーレだろうが頑張ってほしい。

 なんだったら、箔をつけたいが為に面会を申し込んでくる有象無象、失礼、迷える子羊たちとの面会及び相談業務の一環で寄付金大回収、失礼、親善大会を行ってもいい。

 要望があってたまにやっていたが、人に会うだけで寄付金が跳ね上がる。なかなかにぎらぎらした世界であった。

 ちなみに聖女と物理的にお近づきになりたかったらしい面々は、神兵達に摘まみ上げられて回収されていった。後日資産も寄付という名目で回収されていったので、他者と物理的にお近づきになりたい場合は、お相手の意思をきちんと確認した上で、最後まで尊重してからにしたほうがいい。

 私の肉に財産と匹敵する価値は到底あり得ないので尚更である。


 親善大会の要望はしょっちゅう上がってきていたが、大体は渋い顔をした神官長を突破できず却下されていたので、開かれても年に一度だった。

 ……しかし、今までの傾向を鑑みるに、神官長に上がってくる前にもかなりの数が却下されていたのではないだろうか。

 段々心配になってきた。


「……あの存在は、本当にハデルイ神なのか」

「え? ああ、そうですね。かつて十二神の中で最も人間贔屓であり、最も厚く熱く信仰された神でもあるハデルイ神です。そんなことより、親善大会ってもしかしてエーレの所で断ってました?」

「俺とお前のそんなことの定義も擦り合わせる必要性を感じるが、親善大会とは春花祭のことか」


 そういやそんな名前だった。

 夏にやろうが冬にやろうが春花祭。聖女と直接会えるのは、まるでこ世の春であるかのような心地になれるらしいことからつけられた名称だったはずだ。

 ただの春祭りだと季節の祭りと被るので、無理矢理花をつけたんだろうなと察する。

 しかし春を譲らなかったところを見ると、大体の意思は読み取れた。

 つまり、虫沸き、花粉舞い散り、雪解け水でぬかるみきったどろどろの土と、新芽を吹き飛ばし枯れ枝をへし折る強風飛び交う春の嵐に遭遇するかのような心地になるらしいのだ。

 正直言って、会うの止めといたほうがいいと思う。


「要請通りに春花祭を行えば、神殿の予算十倍は手堅い」

「え? やりましょうよ」


 春の暴風域に遭いたいという奇特な人々と会うだけで神殿が潤うのだ。やらない理由がない。

 そう言ったら、エーレが舌打ちして吐き捨てた。


「あんなもの、十年に一度でも充分すぎるほどだ。それをわざわざ例年開催している。それは人民を配慮した温情であるのだと、煩い連中に分からせてきた。ちなみに、開催回数に抗議があれば、その年より当代聖女の春花祭は永劫廃止と通達してある」

「えぇー……それ、神官長のご意向ですか?」

「当然だ」

「成程。では、もし金策が必要になったら他の手段を考えましょう」


 神官長がやりたくないものをあえてやる必要もない。正当な理由で以て楽に金銭を得られるのならそれに越したことはないのだろうが、神官長がそう判断したのならきちんと理由がある。

 私が理解できるかは定かではないが、神官長がそう判断し、エーレ達に異論がないのなら人として正しい判断なのだろう。

 今代の神殿が、人の有り様の指針として安心できる人達で構成されている現状は、幸運ではない。とてつもない苦労と努力で以て神官長が建て直した賜である。

 だから私では分からない人としての正しさの最終判断は、彼らを信じてきた。そしてその信が揺らいだことは一度もない。

 それ以上食い下がることのなかった私の発言に、エーレは鼻を鳴らした。


「俺とヴァレトリがいて、神殿が金策に走らねばならない窮地に陥らせると思っているのか」

「思いませんね。じゃあ、行きましょうか」


 ずるりとベッドから滑り落ちる。華麗に、べちゃりと顔から落ちた私は、そのままずべずべと床を這う。足が動かないので仕様がない。片足といえど、支えがなければ立つことなど不可能だ。残った足では、動力にしかなり得ない。そしてここは壁まで遠いのだ。

 シーツを巻き付けずべずべ這いながら、転がったほうが早いかなと考えていた私の腕が掴まれる。いつの間にかベッドから下りていたエーレがしゃがみ込み、私を引っ掴んでいた。


「持ちづらいから這うな」

「あ、先行っといてください。後から行きますので」

「理解できないのか話を聞かないのか、検証の必要を感じる」


 私の右腕を肩に回し、渾身の力で立ち上がったエーレにより、私の視界が上がる。世界が高くなると、見える物がぐんと増す。形も変わり、大きさも変わり、色も変わり、影が小さく細くなる。

 世界が広く、明るく、透明に見えた。優しく、柔らかく、美しく見えた。

 そうと知ったのは、つい昨日と思える随分前の話で。


 よたよたとよろめくエーレに支えられながら、荒れきった医務室を出る。

 そこから先も酷いものだった。まあそれは医務室を出る前から分かっていたことだ。

 何せ現在、医務室と廊下は繋がっている。完全に繋がってはいないが、壁は既に壁としての機能を失いかけで、瀕死状態だ。更に言うならば医務室と対面になっている廊下の壁も瀕死である。しかし、窓際の医務室の壁は比較的無事の範疇なので、攻撃はこっちからだ。

 そして、皆がいるのも。

 医務室に誰もいない現状が、事態の緊迫を教えてくれる。

 だってカグマが不在なのだ。崩壊した医務室に、意識のない患者二人を置いていった。助け出される可能性が限りなく低かった燃えさかる火事の最中でも、最後まで現場に残り続けた人なのに。

 抱えた私を支えるのに精一杯で視線を上げられずにいるエーレの頭越しに、破壊の痕跡と音を辿り視線を向ける。

 同時に、思わず声が出た。


「うっわ」

「何が見える」

「凄まじく淀んでいますね」

「何が」

「空気」


 緑にも紫にも黒にも見える色が、空間を満たしている。

 さて、どれも黴やら腐敗色なわけだが、空気の色を変えるほどの粉塵となり舞っているはずもなし。そしてそれならエーレも見えているはずだ。

 エーレに見えず、聖女である私の目にしか見えない。ならば後は、ろくでもない原因しかあり得ないわけで。


「なんでしょう、あれ。こってりどろ~り濃厚呪詛新発売って感じです」

「最低最悪な商品に許可を出した部署を叩き潰せ」

「今季注目商品ですね。世界が滅びそう」


 それはさておきなんだこれ。

 視界が霞んでいると誤解するほど濃厚濃密な呪いが漂っている。視認でこれだけとなると、実際浴びるとどうなることやら。

 つまり、カグマがいない理由に大体の想像がついてしまうということだ。


「エーレ、急いでください。死者が出る」

「……分かった」


 支えてもらって言える立場ではないが、間に合わなくなるわけにはいかなかった。エーレもそれ以上何も言わず私を抱え直し、進む速度を速めた。

 神様も身体機能を戻さないのであればそこは気を利かせて、使えないほうの足を切り落とすなりなんなりして私の重量を減らしておいてくれたらよかった。そうしたら、エーレもこんな苦労をせず簡単に私を運搬できたのに。

 ああでも、人ではない神様に気を利かせてほしいという願いは見当違いである。

 それに下手に気を利かせてくれると私が八つ裂きになる可能性が高いので、神様はなんの気も利かせないほうがエーレは平和のはずだ。

 神様、私の箱詰めとか作りそうだ。確かに運びやすくはなってエーレの負担は身体的には軽くなるだろうが、心労は悪化しそうな気がする。

 私は壊れず廃棄までの間使えればそれで問題ないのだが、私の生首抱えて歩くの、エーレはきっと嫌がるだろう。そういうところ、エーレは結構繊細である。


「……あの存在が本当にハデルイ神なのであれば」

「はい」


 エーレの視線は揺れていた。それは留める場所を見失い、彷徨っているかのようであったし、実際そうだったのだろう。思考も疑問も宙に浮き、確定も与えられず確信も得られぬまま事態だけが突き進み続けている。


「何故誰も彼もが神はいないと言うんだ」

「そこなんですよねー。ハデルイ神がそう言うのは何となく分かるんですけど」

「そうなのか?」


 そうなのだ。

 そしてその理由はエーレにも理解できるはずである。何故ならエーレは神官だ。そうでない人々よりよほど神に詳しい。


「ハデルイ神は最も力強き神であり、最も信仰を集めた神でもあった。故に、現状残された力で神と名乗るは憚られる。そういうことだと思いますよ。あの方は、神でさえも一目置くほどの力を有しておられましたので」


 私の記憶になくとも知っている。今ならちゃんと分かる。私の中には私の知らない知識がある。

 本当は今すぐ私を割ってその全てを取り出したいところだが、それはエーレが怒るので、私が私の意思で取り出す術を身につけなくてはならない。それはきっと、彼らの力になる。


「エーレ、ハデルイ神は人の思考に寄り添ってはくださいません。それは暴虐故にではない。あの方が人ではないからです。ただそれだけです。けれど誰より、どの神より、人を愛しておられる。あの方は、人の心に寄り添えない。神の愛は人とは違う。けれど、誰より強い力を持っていながら、何より脆弱な命を守護してくださった方です。あの方は人の願いを無碍にはしない」


 あの方が、人にとって最後の砦だ。

 何が分からずともそれだけは分かる。それだけは取り出せる。


「だから、さいごは必ず、あの方を呼んでくださいね」

「断る」

「えぇー……」


 この頑なな神官をどうするべきか。

 それは、目の前の問題を片付けてから考えよう。

 私とエーレは、屋内と屋外の区別がつかなくなった廊下から、明確な外である土へと一歩を踏み出した。










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