67聖
昼食を四人分持ってきた辺りで、少し怪しいと思っていた。その昼食を置いて「少し待ってろ」と言い、部屋を出て行った辺りで確定した。
「エーレ」
「何だ」
私はのっそりとエーレを睨む。
「私が意識失っているとき、神官長達に何か言いましたね?」
「大したことは言っていない」
しれっと書類を片付けているエーレに詰め寄る。
「大したことを言っていないのに、エーレより忙しい神官長がここで食事を取るわけないじゃないですか!」
用意された食事は四人分。しかも私達に待てと言い置いた。今の私はともかく、エーレを待たせられる身分の人は、そういない。そういない中で私達を訪ねてくる人はさらに厳選される。そのうちの有力候補である王子はさっき去った。ならば残るは、神官長くらいしかいないではないか。
ただでさえ忙しい人なのに、今は聖女選定の儀が執り行われている最中であり、その聖女選定の儀への妨害行為、というか私への襲撃事件があり、さらに前代未聞の大規模な忘却の術が行われた形跡があり、十三代聖女がすでに決まっている可能性があり、それが私という絶望的な可能性がちらついている。
ありとあらゆる意味で眠れているか心配だ。
正直、昔みたいには過ごせずとも、一緒に食事を取れるのは嬉しい。願ってもない幸運だ。
だが休んでほしい。私などに構う暇があるのなら、少しでも心身を休める時間に使ってほしいのだ。
エーレは処理済みと未処理分を分けながら、未処理分を割って私に渡した。しかし、私のほうが見るからに多い。さっき仕事をしていなかった時間分をしっかり換算して分けている。自分が動揺させたのだからと、大目には見てくれないらしい。多目には見ている。
「俺は大したことは言っていない。俺は」
「じゃあ誰が言ったんですか?」
「お前だろ」
「え!? 私あの後すとんと寝ちゃったんで、寝言は無効では?」
「寝たんじゃなくて失神だ、大馬鹿者」
そうは言われても、結果としては失神も睡眠も意識がないという意味では変わらないと思うのだが、ここは黙っておくほうがよさそうだ。
私は大人しく続きを待った。私達は昔から、どちらかが意識的に譲らないと話が終わらない傾向にある。だから星落としなどを行ったら、手も口も延々と動き続ける事態となるのだ――…………………………。
「うわ」
「何だ」
「私、エーレと星落とし打ったことがないと思ってましたけど、打った記憶がぼろぼろ出てくるんですけど」
「……………………………………うわ」
長い長い沈黙の後、真顔のエーレが呻いた。私は驚きから発した言葉だったけれど、エーレのは呻き以外の何物でもない。
記憶の喪失に気付いたからか、一緒に眠って長時間一緒にいたからかは分からないが、ぽろっとなんでもないことのように記憶が戻ってきた。おかげで驚く暇もない。
こんな何でもない拍子にぽろりと思い出すこっちは堪ったものではない。
やっとという万感の思いも、本当に忘れていたのだという恐怖も、喜びも感慨も焦燥も追いつかない。衝撃よりもただただ疲労感が勝る。
エーレも同じようで、どっと疲れた顔になった。その隙に、多目に渡された書類をそっとエーレ側に重ねてみた。戻してこないところから、かなり疲弊していると見た。
そんな状態のエーレにとどめを刺すようで申し訳ないのだが、私は一つ気付いたことがある。
「あのですね、エーレ。私思ったんですけど」
「………………何だ」
いろいろぶつぶつ途切れ断片的なものが多く、会話なんて思い出せないけれど、いろんな場所や時間に星落としを打っていた記憶がぼろぼろ出てくる。山ほどと言っても過言ではない。
ということは、つまり。
「意外なんですが、私達もしかして友達でした?」
「最悪だ」
「感情の結論出すの早すぎません?」
「最悪だ……」
「しみじみ言い直すほど……」
「正確には、深く絶望するほどだ」
「ご丁寧にも詳細を語っていただきありがとうございます傷ついた」
然程の労力を費やさず失われた記憶が戻ってきた喜びは、ここにはない。あるのは疲労と脱力感と絶望である。なんだこれ。
「最悪だ」
「聞いてもいないのに三回目言うほどですか!?」
がっくりと項垂れていたエーレは、突如顔を跳ね上げた。
「ちなみに、お前が十三代聖女である可能性や聖女候補であるという不確定要素と見なされる情報を一端保留とした場合、健康を著しく害し不安定な状態となっている身寄りのない娘という事実だけが残り、そういう人間を相手にした場合神官長がどういう対応を取るか、誰よりお前が知っているだろう」
「うっ!」
「ただ単に案じられているだけだ、大馬鹿者」
私は胸を押さえてよろめいた。神官長がただいい人なだけだった。
家族としてではなくても、身内としてではなくても、神官長は怪我した存在を普通に心配してくれる。そういう人である。何せ、スラムのゴミの身でさえ案じた人だ。
忘れたわけではなかったのに、改めてその事実をエーレから突きつけられて私はがっくり項垂れた。神官長が休めないのは、どんな意味でも私のせいだった。
座ったまま前方へ向けべったり倒れ込んだ私の横で、エーレは後方へと倒れ込んだ。
「なんでそれ今言ったんですか……」
「お前も俺と同じ脱力感を味わえ」
「戦うべき相手は私と友達になったかもしれない過去のご自身では……?」
どうしてその切っ先を私に向けるのだ。そもそも、私と友達だったかもしれない可能性は攻撃でもなんでもないはずなのに、何故か攻撃判定された上に反撃までくらった。悲しい。
「入るぞ、って、うわ。……お前ら、医務室は戦闘厳禁だからな。ここで怪我してみろ。治療が終わるまで強制寝たきり状態にしてやる」
雑なノック音の後に入ってきたカグマは、前後に倒れたままぴくりとも動かない私とエーレの脈を取り始めた。大丈夫ですカグマ。私達は今日も元気に瀕死です。
「……喧嘩をしたのかね? 仲裁が必要ならば、いつでも構わないので言いなさい。私に言いづらければ、他の誰でもいい」
そして神官長。私達は今日も仲良く致命傷を与え合っただけですので、どうぞご心配なく。
出だしはそんな感じだったわけだが、昼食自体は比較的和やかに進んだ。おかげで、うっかりにこにこしてしまわないよう苦労した。
どんな事態でも食事には持ち越さない。それが神官長との約束である。神官長が覚えていなくても、破っていい理由にはならない。
食事後、流れるように気が重く憂鬱で胃がきりきりするような議題が始まると誰もが分かっていても、食事は楽しく美味しく頂くのである。
食べ終わった後の食器は、カグマが片付けてくれた。そのまま部屋を出て行ったカグマは、神官長が部屋を出るまで戻ってくることはないだろう。
王子が渡してくれた情報は、王子が解放するまで私達が勝手に広めるわけにはいかない。だから、王子の許可を取った人、現時点では神官長にしか話せない。
それでも、神官長に話を通しているのとないのではまったく違う。情報はできる限り共有する。できるなら、一番頭にいる人とが理想だ。
神殿の場合私がその位置にいるのだが、現時点では曖昧な立ち位置な上に、私が知っているのならどちらにせよ次に共有すべき相手は神官長なので優先順位は変わらない。
「アデウス建国前に信仰されていた神の数、か」
「はい。アデウスは信仰を制限しませんでしたが、滅亡した国の民が信仰を制限された場合、徹底的に潰されること自体は珍しくありません。資料を探すのは難しいかと思われます。そのため明確な証拠としては提示できませんが」
こればっかりはどうしようもうない。王子に王家の極秘資料室を開放してもらうわけにもいかないので、神官長も王子の情報源については聞かず、開示も求めない。
問題はそんなところにはない。よりにもよって、相手が提示した聖女の数と一致したのが神の数、ということがまずいのだ。どういう仮定を立てても、まずさしかない。他にあるとすれば異常さだけだ。
だって、おかしいではないか。現在アデウスが信仰している神は、過去に信仰されたどの神でもないのだ。何せ、アデウスの国教となった神は、初代聖女を見出した名もなき神だ。
それなのに過去に信仰された神々の数が、どうしてアデウスの聖女の数に関係するのだ。私達が信仰してきた神は、その十二神のどれでもない。信仰を失った神が何処に行くかは分からないが、少なくともそのどれかの神がアデウスの一神として祀られていたのなら、その神を祀っていた宗教が現在のアデウス国教となっていただろう。
だが実際は違う。アデウスの神に名はなく、信仰も国教としてしか名を持たない。その昔、国どころか大地が砕けんばかりに世界が荒れ狂った時代、初代聖女に力を貸し世界を救った神は、この地にいたとされるどの神でもなかった。
関係が、ないはずなのだ。アデウスの国教とその十二神がどうして繋がりを見せるのだろう。
それに、何がどうなってかアデウスの聖女の数と、その十二神に関係があったとしよう。
一つの神につき一人の聖女が選ばれる、という仮定を立てた場合、十三番目の聖女はあり得ないという言葉が成り立たない。何故ならば、その十二神とアデウス国教の一神で、十三。
十三番目の聖女がいて何が悪いというのだろう。神の数と聖女の数が比例するならば、神と聖女の数は合っている。神が一人の聖女しか選べなかったとしても、なんら問題ない。その場合十四番目の聖女があり得ないとなるはずだ。
勿論、十二神という数は偶然の一致である可能性も残っている。だが、こういう事態で王子の勘に引っかかった物が無関係だった例はなかった。なんとも頼りになる絶望である。
「先代聖女と仮定する存在のアデウスには神がいないという発言は、私にとって到底信じられるものではない。神官長としても、一国民としてもだ」
「神はいます。ゆえに聖女が生まれるのです。アデウスにとっての聖女はそういうものです」
「なればこそ、神はいないと断言した先代聖女と仮定する存在の根拠はどこにあるのか。私はそこが気になっている。君の中に現れるという存在と先代聖女と仮定する存在の言が一致している箇所は、十三番目の聖女はあり得なかった。この一点のみだ」
そうなのだ。神の有無については、先代聖女だけが確信を持って断言した。私を使う存在は、神の有無については何も言っていない。
先代聖女の発言の根拠は何処だ。何故十三体存在するはずの神がいないのか。どうしてそう断言するのか。そして、いつからいないのか。
神は人の眷属などではあり得ない。神は人より派生しない。人が神を見つけるのだ。人は世界の中に神を見出し、信を捧げる。人が神を生み出さない以上、人からの信仰を失ったところで神はそこに在り続けるだけだ。
神は人の信など欲さない。信仰とは人が勝手に捧げるもの。人の信があろうがなかろうが、神にとってはどうでもいいことなのだから。
信仰が失われた地であろうが、それは神の退去に関係しない。
それなのに、神はいないと断言できるのは何故だ。
エイネ・ロイアーは何を知っている? 何故知っている?
もどかしい。胸の中を掻き毟りたいほどに。
ワタシダッテ、シッテイルハズナノニ。
知っている。私だって知っている。
この中に、あるはずなのだ。
私は、この事件の全容を知っている。始まりを知っている。終わりの形を知っている。それなのに、私が邪魔で取り出せない。
ああ、邪魔だな。私は邪魔だな。私の役割は、皆に情報を与えることではないけれど。そんなことの為につくられたわけではないけれど。
それでも皆の役に立つ情報が、確かにこの中にあるのに、私が邪魔だ。
今すぐ叩き割りたいのに、そうできない。だって世界から、私の大切な人々から、絶対に失われてはならない命が潰えてしまう。
弱り切った気持ちで視線を向けた私を、エーレが鼻で笑った。とてもではないが、自身の命を質に私の行動を制限した人間の行動ではない。ざまあみろと言わんばかりだ。
「ざまあみろ」
ざまあみろと言ったばかりだ。
「このままだとざまを見るのはエーレですよ!?」
「知るか」
「もっとご自分の命を大事に扱ってください! その命は世界に一つしかないだけではなく、もう二度と生まれないんですからね!?」
「へえー」
だからどうしたと言わんばかりの態度に、頭を抱えたくなる。
「長い歴史上二度と生まれないただ一つの生命を、どうして大事にしないんですか!」
「鏡見るか?」
「鏡? どうぞその美しい顔をご覧になってきてください。そして惜しんでください」
「見るのはお前だ」
「私が鏡を見ても私しか映らないじゃないですか」
はぁーと深く長い溜息を吐いているが、その溜息を吐きたいのは私である。
この人は、情操教育を一からやり直しなのではないだろうか。自身の命を惜しむという、生命が生まれつきもっているはずの魂の自尊心を情操教育で育めるかは分からないが、他に方法がない。
「神官長。エーレ・リシュタークは、私の死に同行という愚行を犯すと宣言しました。一度話し合いをなさることを推奨します」
エーレが聖女としてではない私の言を聞くとは思えない。よって、聞かざるを得ない人へと放り投げることにする。
私が告げ口しても、エーレはしれっとしている。告げ口を受けた神官長は、少し驚いた顔をして、私を見た。……え? なんで私?
ここは眉間に皺を寄せてエーレを見るところではないだろうか。
「君は、素晴らしい聖女だったのだろうな」
「……はい?」
神官長は、僅かに表情を崩した。そこに柔らかさがあったから、私はますます困惑した。
「神官が聖女の死に殉じるという行為は褒められたことではないが、それほどまでに信を捧げられる価値ある存在だったということでもある」
エーレの場合そういう意味合いではないのだが、神官長は穏やかに続ける。
「エーレ・リシュターク一級神官は、少し気難しいところがある」
「少し……?」
「しかし、その彼が生も命も懸けるに値すると判断した君がどういう聖女であったのか、私が忘れてしまっているのならば、それはとても残念だ」
エーレは少しではなくかなり気難しいし、私がどういう聖女だったかと問われればろくでもない聖女だったと私の言動を見れば分かってもらえるはずだ。
だが、神官長は、なんというか、少しまっすぐに人を見すぎる傾向がある。神官長としてならばしっかり人も疑えるし、きっぱり裁ける。だが、ディーク・クラウディオーツ個人としてのかなり生真面目な面が表に出すぎると、とてもいい方向へと考えがちなきらいがあるのだ。
勿論、それは彼の心の美しさと生き様の尊さが為せる有り様だから、素晴らしいことではあるのだが、エーレはかなりとても猛烈に気難しいし、エーレの行為は聖女への親愛の情から殉じようとしているのではなくただの嫌がらせであると、神官長にはいまいち伝わらない。
「だが、確かに話し合いは必要だ。リシュターク一級神官。その件については後で話をしよう」
「はい」
恭しく応える真摯さの欠片でも私に向けてくれたら、私は即座にその愚行を撤回させる。
エーレは神官長へ向けていた真摯な視線を、私に向ける過程で綺麗さっぱり取り払い、私と視線が合うと同時に吐き捨てるように笑った。
見てほしい。これが聖女の死に殉じると命を懸けた神官の顔である。どういうことなのだ。
「それが友達だったかもしれない相手に向ける顔ですか!?」
「俺は認めていない」
「そりゃ私だって驚きましたけど」
「断じて」
「そんな熱量で」
悲しい。別に嘆き悲しむほどではないけれど、ほんのり漂う悲しみがある。よって、素直に言ってみた。
「そこまでの熱量で嫌がられると、微妙に悲しいような気がしてきました」
「別に嫌がってはいない」
「え? そうなんですか?」
「深く絶望しているだけだ」
「そっちのほうが酷くありません?」
うっかりなんの前触れもなく中途半端な記憶が戻ってしまったばっかりに、私達は余計な悲しみを背負う羽目に陥った。なんだこれ。
なんともいえない絶望と悲しみを背負った私達の会話を黙って聞いていた神官長の視線に気付き、私達も視線を向ける。
「原理は分かりませんし断片的なものにはなりますが、先程私と彼の記憶が一部戻りました。その結果、私と彼は友人関係にあった可能性が浮上しました」
「星落としを異様な数行っていた記憶だけですので、単に教養の一環として互いに年が近しい練習相手としての可能性は大いにあります」
「成程。茶飲み相手ですね」
「それだと友人関係の可能性が高まるだろう」
「そういうものですか……じゃあ、ご近所付き合いのある赤の他人ということで」
「俺達はありとあらゆる意味で赤の他人だ」
「もう公私混同する上司と部下でよくないですか?」
「……よし、それでいくぞ」
私とエーレは頷き合った後、神官長との話に戻った。
「私と彼は公私混同する上司と部下という記憶が戻ったのですが、戻った理由は不明です。可能性としては、身体的接触の増加、私を使用する正体不明の存在を焼く際にエーレの炎が私の中に入った為、長期間神殿内で行動を共にしている。いま上げられるのは、この辺りかと」
「確かに。リシュターク一級神官からは、出張中一度の忘却後、神殿内への帰還と同時に思い出したとの報告を受けている。君も、長期神殿を離れた後帰還したという立場は同じだ。そこに関連があるかは定かではないが……君とリシュターク一級神官の忘却は、我々にあるとされる忘却とは種類が違うように思えるのだが、その点はどう考えているのだろうか」
それは私も思っていたが、私達は全員忘却している当人であり、自身の認識が正しいとの確証が持てないのが難点だ。
「種類と同時に、時期も違うのではと考えております。あなた方の忘却は、全てが一度に起こったものだと推測しております。だから、粗がある。長期間の忘却が一度に行われているため、つじつま合わせが間に合っていない。そんな印象を受けています。だから、様々な場所に違和感がある。そうでもなければ、こんな荒唐無稽な現象を神殿が総力挙げて調査するわけがないのですから」
だが、私とエーレの忘却はそうじゃない。
「私達はこれまでの期間山ほど星落としを打ってきたのに、その記憶全てが欠落しても何の不具合も起こっていなかったのです。私達はこれまで、互いにほとんど私事についての会話を交わしていなかったと認識し、それを疑ってもいなかった。私達の忘却には、ほとんど粗がなかったのです。丁寧に、違和感がないほど念入りに忘却が施されている。忘却をかけた術者、時期が違うだけでなく、かけられた回数すら違う恐れがあります」
「では、現在君達に忘却の自覚があり、尚且つその記憶が戻りつつある現象については」
「もう必要がないからですよ」
神官長の瞳が、一瞬強張ったように見えた。何かおかしなことを言っただろうかと、辿ろうとした記憶が擦れる。
「……あれ?」
私いま、揺れてもいないのに、消えた気がする。
エーレを見れば、こっちはあからさまに私を睨んでいた。
「いま別に割ろうとしたわけじゃ……あれ?」
どうしてだろうと考えようとして、やめた。なんとなく、法則が見えてきてしまった。
「……エーレ、これもう、どうしようもないので怒らないでください。恐らくですけど、私の意思では取り出せないだけで、私が揺れなくても、もう割れている場所から勝手に漏れ出してきているみたいです。だから、転がり出た部分が勝手に音になるんです」
私の中に全てがある。それは分かっているのに私の意思では取り出せないので、私は何も分からない。けれどもうどうしようもないことだけは分かっているのだ。
「エーレ、やっぱり駄目ですよ。あなたは私と切り離されないと。私が取り出せない私が知っている事が、理由が、この事件全ての始まりと終わりの形が、全部この中にあるんです。取り返しがつかなくなる前に、全部取り出してしまいましょう。聞いてください。きっと答えられます。でも、自分じゃ取り出せないんです。私は物だから、一人で揺れても意味がない。人が揺らすから道具になるんです」
音が鳴る玩具だって、ゴミ山で独りでに揺れたってなんの意味もない。人が幼子のために揺らして初めて、玩具になる。
物は使われて初めて道具になるのだ。受取手がいなければ、道具はゴミのままだ。
「何回も同じこと繰り返す必要もないじゃないですか。揺れて、割れて、そうして零れ出た微々たる情報を組み立てて、後手になって。何度繰り返すんですか? 無駄ですよ。無意味で無駄で、無価値な時間です。同じこと繰り返して、なんになるんですか。私だって疲れるんです。情報を出し渋って、あなた達の反応を見てからかってるわけじゃないんですよ」
割れた時点で、もうどうしようもない。継ぐことも、塞ぐこともできない。だってそう作られているのだ。そうやって生み出されたのなら、修理なんて意味がない。修理なんて想定されていないのだから、どんな凄腕の技術者にだって不可能だ。
「エーレ、壊れることが最初から決まっている物に命を繋げるなど、刑罰でしかあり得ません。そしてあなたは罪人ではないのですよ」
……私だって別に、罪人ではないけれど。
それでも、世の中には壊すために作り出された道具があるように。壊れることで初めて役割を果たせる道具があるのだ。無くなることが前提の道具は、世の中に溢れている。
「言ったでしょう。私は壊れるから意味があるんです」
マッチ棒のような、鉛筆の芯のような、ちり紙のような。
「使い捨ての道具ってそういうものでしょう?」
だって私は、十三番目の聖女なのだから。
そう続けた私に、私はいなかった。どこから私がいなかったのかは、ちょっともう分からない。
「上手に使ってください。あの方もそう仰ったではないですか」
「……マリヴェル、もういい喋るな」
「私をお使いになる、あの方。あのカタ。あの、御方」
私が掠れる。
「やめろ!」
思考も、心も。
「私をお創りになった」
「マリヴェル!」
「最後の神様」
崩れていく。
砂嵐のような音がする。視界が灰色の砂嵐で掠れて見える。揺れている? ぶれている?
私が世界と噛み合わなくなってきているんだなぁと、思った。だから、そんなものと繋がっていてはいけない。エーレは切り離されなければならない。
ソノタメナラ、エーレハワタシヲワスレテシマッタホウガイイノダロウ。
そう考える私は、もう私ではないけれど。それが一番いいのは、ワカッテイテ。
私が割れる。
私が壊れる。
でも構わない。私が壊れれば壊れるほど、私にしまわれた情報が取り出せる。
ああでも、まだ、壊れるわけにはいかない。
だって私が壊れればエーレも死ぬと言った。駄目だ。あの命を世界から奪ってはならない。 優しい人達から、あの人を奪ってはならない。
まだ壊れてはいけない。
まだ。
「忘れましょう、エーレ。あなたの幸いは、私を忘れた先にある」
「っ、お前はどうして、自分の生を惜しめないんだっ!」
「破壊への恐怖は、私に実装されていません」
そういうふうに、つくられなかった。
「聞いてください。わたしは答えを持っています。キイテクダサイ、答えられます。上手に使ってください。サイゴがくるマエに。ソノタメに、あの方は私を創ったのです」
あれ? わたしいま、どこにいるの?
「きいて つかって じょうずに さいごまで つかって やくだてて」
わたしいま、いきをしている?
わたしいま、なにになってる?
駄目なのに。まだ、駄目なのに。
エーレが離れてからじゃないと、壊れちゃ駄目なのに。
エーレを置いていくと約束してからじゃないと。エーレはついてきてしまうと言ったから。エーレを死なせるわけにはいかないから、待って。まだ壊れないで。少しでいいから。少しだけでいいから。
息をしていた名残で、私の手は胸を握りしめたのに、指先から伝わる感触は硬質な花だけだ。
「待って、待ってください。ツカッテください。待って、エーレ。使ってクダサイ。駄目ですエーレ。使ッて、ハヤク、壊れキル前ニ。エーレ、私についてきちゃ駄目です。コワシテつかって。そノためニ、エーレ、神はコレを、エーレだめ、ツクッタノデス。ダカラ、待って、モウ準備はオワリを、待って、ムカエ、お願いします、コレハモウヒツヨウガ、神様!」
黒白の砂が散るように、視界が掠れる。音も同じ砂で覆われる。
「気を――に……ちな――い!」
「――だ! ……が……――!」
「……――?」
「――……!?」
「――……――――!」
人の声がぶれて聞こえるのは、私の耳がおかしいのか、カグマ達がいるのか。分からない。温かい気がするのに寒い気もする。私を抱えるのは誰だろう。大きな神官長とエーレの区別もつかないだなんて、私はいよいよ駄目らしい。
でも、まだ手放せない。だってエーレが一緒に死ぬって言った。それだけは、何があっても止めなければ。
手を離すと言ってくれないと、壊れられないじゃないか。
「エーレ、お願いですからっ!」
「誰がっ……お前の死は俺の死だ! 絶対に一人で死ねると思うな!」
エーレは本当にひどいことを言う。
視界が赤い。私でない私も疑問に思ったのか、それとももう頭を支えられないのか、頭ごと視線の向きが変わる。そうして落ちた視線の中、胸を押さえる私の手に赤い雫が落ちていく。なんだろう。この赤。どこから落ちてくるのだろう。視界が赤いから、瞳だろうか。でもそんなことどうでもいい。
「神様、待ってください! 少しだけ、待ってくださいっ」
壊れるから。ちゃんと壊れるから。だからお願い、少しだけ、待って。
本当なら、私はここまでだったのだろう。
道理で最近、頻繁に揺れると思っていた。揺れに気付いたからだと思っていたが、どうやら違ったらしい。私が私を手放してはならない理由をエーレが作らなければ、私はたぶん、ここまでだったのだ。
私が壊れる寸前でエーレは自分を質にした。あの約束があとほんの少し遅ければ、せめて今日の夜だったら、私は崩壊に抗わず終わっていけた。
それなのに、エーレは間に合ってしまった。
アデウス全土の忘却から弾かれ、私との忘却を揃えられ、私の崩壊に間に合ってしまったこの人は、本当に、とことんついていない。
おとうさんともおはなしできたし、ほんとうなら、きょうがおしまいでも、しようがないとおわれたはずだったのに。
私がひび割れる。砕ける。崩れる。赤い雫に混じって、光が落ちていく。宝石のようなガラスのような、何かの破片だ。何かも何も、私の破片だけれど。
命の振りした私が、物に戻っていこうとしているだけだ。分かっているのに、受け入れられない。エーレが私と繋がっている今だけは、絶対に。
ほとんど動かない指を無理矢理動かす。指から、ガラスが割れるような澄んだ透明な音がした。光が散り落ちていく指を無理矢理組み、目蓋を閉ざす。
神様。
あなたが愛した命です。あなたの愛し子です。あなたの愛し子達が愛する子です。
神様。あなたは私の願いなど叶える必要はないけれど。私はあなたの加護の範疇外だけれど。彼の喪失はあなたの愛し子達の嘆きを生むのです。
お父さんが、悲しむんです。エーレが死んだら、お父さんが、私の大切な人達が、酷く悲しむんです。
「神様」
ほんの少しだけ時間をください。
一人で消失するために必要な時間を、どうか私に与えてください。
長く重い吐息が聞こえた気がした。
――ああ、よかった。
ほっと祈りを解き、ゆっくりと目蓋を開けば、真っ白な空間が広がっていた。
エーレと二人で入ればいっぱいになってしまう小さな空間。その外に広がる、延々と広がる真白い世界。
あのとき、私は不思議だった。男達を壊した、そしてエーレを壊しかけた確かな禁忌がそこにはあったのに、それらは私には関係がないと思った自分が何より奇妙だった。
でも、今なら分かる。こんなに簡単なことはない。
氷が割れるように澄んだ音を立て、私が割れる。割れていた。砕けていた。硝子細工が砕けるように、私が割れていく。
崩れていく自分を見下ろした後、視線を向けた先を見て笑ってしまう。
どうしていつも、あなたは巻き込まれるんだろうね。
私の破片が降り注ぐ中、私を見上げているエーレはたぶん、誰より諦めが悪い。今だって、拳を握りしめて私を睨み続けているのだから、彼の諦めの悪さは驚嘆に値する。
そんなエーレを見ながら、こことは真逆の真っ黒な世界を思い出す。この諦めの悪さがあったからこそ、エーレだけが壊れず出られたあの場所を。
エーレが思い出していないことを願う。あれは、身の内に抱えているだけでも魂を蝕む。
けれど、私は平気だ。
あの場所は、生ある人間がいるべき場所ではない。いてはならない。生があろうがなかろうが、人が辿り着いていい場所ではない。
あそこは世界。世界の果てであり終焉。生者は決して辿り着くなかれ。
人間は決して踏み入るなかれ。
この禁破ればたちまち神々の怒りに触れるだろう。
けれど、それらの禁忌は私に通用しない。
仕様がない。仕様がないんですよ、エーレ。すべてがもう、どうしようもないんです。最初から、どうしようもなかったのです。
だって私は、人ではなかったのだから。