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「あの夜から数日しか経っていないはずだが、そなたらの関係激変した?」


 兵士の格好をした王子が、きょとんと首を傾げた。

 王子をここまで案内してきたのがヴァレトリなので、王子の神殿への立ち入り許可は出ているのだろう。神殿から。しかし王子がこの格好をしているということは、神殿へ来る許可が出ていないのだろう。王城から。

 ヴェレトリは、王子を案内してきたまま部屋の中に入らなかった。だが、話は聞いているだろう。そういう人で、王子もそれを分かっているので今更あえて伝える必要もない。

 王子は部屋の隅にあった椅子を自分で引っ張ってきて、どっかりと座る。


「余に招待状送る気ある?」

「何の話ですか?」

「え? そなたと寝台をともにするエーレ、余にだけ見えてるの? 幻覚?」


 私はベッドの右側にいる王子へ向けていた視線を、自分の左側へ向けた。私が座っているベッドの中に、王子が部屋に入ってきたときだけ軽く頭を下げ、後は黙々と書類を眺めているエーレがいる。

 王子から友人関係を申し出たので、この程度の無礼は大いに許される。ちなみに王子から友人関係を申し出ていなかったとしても、王子は相手の態度に別に怒ったりしない。笑顔で見限るだけである。


 エーレは今朝からずっと、私と同じくベッドの住人だ。しかしベッドはベッドでも私のベッドの住人と化している。朝起きたらエーレが隣で寝ていて温かかった。

 何で隣に寝ていたかは知らないが、朝食を運んできたカグマも、サロスン家で見つかった私の顔を呪う呪具についてと、私への聖印誓約解除の話をしにきた神官長も何も言わなかったので、私が寝ている間に何かそういう方針に決まったらしい。神殿の関係者枠に三分の一くらいしか入れてもらえていない私には、細かな神殿の方針は教えてもらえないのだろう。

 だが、話のついでに神官長と一緒に朝食を食べられたことにはびっくりした。もう少しで飛びあがって驚くところだったが、横にいたエーレに引っかかって難を逃れた。

 今日の気分は、とか、体調はどうか、とか。そんな当たり障りのない会話だったけれど、最近ずっと答えを見つけられない靄を掻き分けるような案件ばかりに関わっていたので、特に何もない穏やかな会話が、まるでお風呂のようで心地よかった。

 心地はよかったのだが、如何せんこれまでの状況が状況で、いろんな意味でどきどきした。神官長が、小さくではあるがゆっくり微笑んでくれた瞬間は、顔が真っ赤になるかと思ったし心臓破裂するかと思ったし、足が動いていたらその場で窓から飛び出していただろう。エーレに引っかかってよかった。

 気を引き締めないと、先代聖女派に見られたら私の楔が丸わかりだ。


 そして足が動かない私だけでなく、エーレまで寝台で朝食を食べなければならない体調なのはどういうことなのだ。エーレの体力は私が思っているより少なかったのか。

 もしくは、体力以外にも何かを大量消費したか、だ。

 報告としてあげてこない以上、聞いても教えてくれないだろうからそれは置いておくとしても、朝だけでなく起きてからもずっとエーレが同じベットにいるのには、山より低く海より浅い理由があった。


「こちら、未だ地獄の祝福の余韻が消えきらないのに、他の面子では回しきれず滞った仕事が流されてきた特級神官未遂の悲惨な末路です。そしてこれは、精神に負荷がかかれば破壊が早まるらしいので、余計なことを考えないようエーレの仕事を回され続け悲惨な末路を辿っている当代聖女です」


 これが悲しみの連鎖である。





 何が悲しくて朝から大量の書類と睨めっこしなければならないのだ。

 ベッドの上に広がる書類に書類に書類に、ベッド脇に置かれたインク瓶とペン。山のように詰まれたインク瓶に、予定されている書類の量が分かるというものだ。これを全部消費するとなると、私とエーレの手首が疲労骨折する未来が見える。

 もうすぐ聖女選定の儀第五の試練が始まるというのに、そっちへ割く頭の余裕が皆無のまま手を無心に動かし続けていても、終わりは一向に見えてこない。


「何を言っておるのか一部分からぬが、そなたらは見ていて飽きぬので、そのままいるように」

「え? 永久に書類の海に溺れていろと?」

「俺の日常なんだがな」


 エーレにつきましては誠に申し訳なく。

 神殿の著しい人材不足は、未だ改善の兆しが見えない。先代聖女派を片っ端から排除したらこうなるので、先代聖女の置き土産は本当に手がかかる。

 エーレには日がな一日土下座しても足りないくらいなのだが、如何せん足が動かない上に、上半身だけ折り畳もうにも書類が多くて動けない。詰んだ。

 詰んだなぁと思っている私の手の中に、書類の束が積まれた。詰んだ。

 増えた書類の束にざっと目を通せば、王子と情報共有に必要な書類だったため、私は一命を取り留めた。


「王子、これサロスン家の地下で見つかった私を呪う呪具なんですけど」


 書類には、顔面が潰された簡素な人形が描かれている。

 書類を受け取った王子は、さっきの私と同じようにざっと目を通していく。私は最初の一枚だけ流し読みしてどの書類か確認すればいいだけだったが、王子には全頁読んでもらわなければならないのでしばし待つ。

 その間、私とエーレは手持ちの書類を片付けていく。


「エーレ、この書類は神官長行では?」

「ほとんどの情報を共有したことにより、特級神官未遂枠として俺に流れ始めた」

「あ……」


 悲しい。

 特級神官は、時期神官長候補であり神官長代理枠でもある。つまりはそういうことである。


 だが、流れてきた仕事をそのまま私に横流ししてくるのはどういうことだろう。そろぉーとエーレがさばく書類の山に紛れ込ませてみたら、その辺り一帯を鷲掴みにして私のほうに積んだ。渡した仕事の四倍ほどが帰ってきた。おかえり。詰んだ。

 嘆きながら書類をさばいている間、王子は一度読み終わったはずの書類をまた一から読み直している。そして、首を傾げながら顔を上げた。


「そなたもであろうが、余とてそれなりに呪われてきた身ではあるが、この手の呪具は初めて見るぞ」

「あ、私もです。中に神玉仕込んでいる類いは初めてでした」

「ほぉ……新型か?」

「それが逆のようなんですよね。まだ不確定要素が多すぎて口頭での情報共有になりますが、どうやらかなり昔はこの類いの呪具が一般的だったようです」


 呪具に一般的も何もないが。

 王子もそう思ったのか、ちょっと面白く思っている顔をした。呪われ慣れている私達は、ちょっとした呪い専門家より呪具に詳しいのである。

 その私達も知らないのは、これが非常に珍しいからだ。新たに生まれたから珍しいのではない。誰の記憶にも継がれていないほど昔に廃れ、潰えた技術が使われている。何故かは知らないけれど、きっとろくでもない理由だ。

 だって、誰かを呪うための方法を、潰えた後も後生大事に抱えている理由などろくでもない理由以外存在するはずもない。


「昔とはどれほどの期間だ?」

「それこそ、アデウス建国以前です」

「それはまた、なんとも」


 流石に驚いたのか、王子は目を丸くした。


「その旨を記載した古書が見つかったんですが、保存の術をかけていても流石に限界で、そろそろ朽ちようとしていまして。読める範囲が少ないんです。最近開発された神具のおかげで、ようやくその部分が読めた程度でして」

「最近開発された神具?」

「ほら、アデウス王立研究所が最近開発したって話題の。新聞載ってましたよ」

「ああ、あの神具に新具というやつか」

「それです」


 私も新聞を読みながらマリに解説したものだが、王子もそこを覚えていたので、意外と言葉遊びは人の記憶に有効なのかもしれない。言葉を繋げれば記憶も繋がり、関連した記憶を思い出しやすくなるのだろう。

 王子は興味深げにもう一度書類に目を通していく。私も神官長から話を聞いたときは同じ反応をした。


「古すぎて神殿にも資料がほとんど残っていないんです」

「であろうな。余のほうでも少し調べておこう」

「お願いします。それで、王子のほうは?」


 資料から目を離し、ぽんっと私のベッド上に置いた王子は、背もたれに深く体重を預けた。


「サロスンは当主が表向きは体調不良により静養、現状は現在王妃預かりで謹慎。例の襲撃により長男が負傷。しばらくは次男が当主代理、三男が代理補佐を務める。エーレはしばらくサロスンと名のつく場に顔を出さぬほうがよいぞ」

「お心遣い痛み入りますが、近づく予定も暇もございません」


 だろうなぁと、終わった書類の角を合わせて整えながら思う。これ今日中に終わるのだろうか。神殿の人手不足は先代聖女派の排除をやめればすぐに解決できる問題だが、それだと神殿が崩壊する。つまり、今いる人員でなんとかするしかないのだ。


「そういえば、先代聖女派がウルバイに流していたものは、情報もあるのでしょうが、物品としては神玉だと聞きました。これ、繋がってたらまずくないですか? 私それなりに顔やったんですけど」

「まずいであろうな」


 呪具とは、相手の運に左右する。勿論術者の腕次第なので、持っているだけで持ち主どころか一族郎党死に至らしめる呪具から、怨念だけは籠もっているものの呪具にはなりきれずただ趣味の悪いがらくたに成り果てている何かまで、いろいろある。

 どこから呪具と呼ぶべきかは難しいが、幸運を下げるだけならまだしも、不運を招くようになれば立派な呪具と呼ぶべきだ。

 それを考えると、私の顔を潰すわ削るわ焼くわと、負傷の種類よりどりみどりの大盤振る舞いしてくれたこの呪具は、質としては上の上。特上と言えよう。


「フガルの意識はまだ戻らぬと聞いたが、そちらはどうなっておる?」

「どうにも進展はなしです。私も診ましたが、以前私を襲った男達同様壊れかけていますので、覚醒の可能性は低いかと。神の手を借りれば可能かもしれませんが、現時点では触らぬほうがいいかと」


 フガルにも、神にもだ。


「ならば仕方あるまい。フガルからの情報収集は一端保留であるな」

「まあそうなりますね」


 ふむと一端区切った王子は、長い足を組む。兵士の格好をしているが、靴は王子のままだ。どうやらあまり時間がなかったらしい。ならば今も時間が無いままのはずだ。


「そなたからの依頼に答えよう」


 思った通り、王子はさほどの雑談を挟まず本題に入った。


「十二という定義、幾つか出てきた」


 書類を置く音が重なった。私だけでなくエーレも書類から手を離し、身体ごと向き直る。

 つまり、ここから先はエーレも知らない情報だ。そして、私とエーレが額を付き合わせて考えても行き詰まっていた一つである。


 十三番目の聖女はあり得なかった。


 あの言葉の意味が掴めれば、先代聖女の目的に手が届くかもしれない。先代聖女の目的に手が届けば、後手に回らないだけではなく先手すら望める。

 何があろうと私が当代聖女である事実に変更はない。ならば私は、神殿および神に仇為す不届きものの好きにさせるわけにはいかないのだ。


「王族に限れば、当時の王の側室の数、子の数、即位の歳、死去の歳など該当がいくつかあった。王都、アデウス国内に限ればそれほど山のように存在する。だが、余が有力と判断したものはなく、余が調べる必要のない物ばかりだ」


 確かにその程度ならば、歴史を漁れば簡単に調べられる。


「一つ、気になる分野で数が一致した」


 私達が欲しいのは、王子でなければ手に入らない情報だ。

 王子はゆっくりと口を開き。


「神の数だ」


 いま一番一致してはならない話を始めた。







「お待ちください、王子。アデウス建国の際に名を消した国々が信仰していた神は十一神だったはずです」


 エーレの言は正しい。現在アデウスの国土となったこの地で過去に信仰されていた神は十一体。それが定説だ。

 アデウスは建国時、滅ぼした国の名は奪ったが信仰には触らなかった。信仰を根絶やしにする体力が、建国時のアデウスに無かったともいえる。

 だからこそ、国々の詳細な資料は残っておらずとも、信仰の資料は残ったのだ。神殿が把握できているのもその為だ。

 そしてアデウスは国教を持たず、二百年が経過した。そうして細々と残っていたそれぞれの信仰も、初代聖女が現れたことで終わりを迎えた。

 世界が滅びそうなほどのありとあらゆる災厄が国を襲い、それを沈めた初代聖女へ絶大な信仰が集まった結果、アデウスは初代聖女を選んだ神への信仰を国教と定めた。


「あの時代、アデウスが滅ぼした国が既に滅亡させていた国に一体の神がいた記録があった。つまり、現在アデウスの国土となったこの地には十二体の神がいたことになる」


 この一致は、偶然か。

 その問いかけは、あまりに重い。

 よりにもよって、この世で最も一致してはならない符号が一致した。

 言葉をなくした私達をよそに、王子は気軽に立ち上がる。


「ではな。後は神殿にて審議せよ。余は忙しいのでな」

「ご配慮いただき感謝致します」

「あ、どうも。ありがとうございました」

「そなたほんに軽いよな」


 王子の気軽さも似たようなものである。鼻歌さえ歌いそうな歩調で軽々部屋を出て行った後を、やはり扉のすぐ側で待機していたヴァレトリがついていく。

 神殿の外に出るまでついていくだろう。ヴァレトリとしては、王城で王子がどうなろうが知ったことではないだろうが、神殿内で怪我をされては事だ。

 私がぼんくら聖女をやっている間に多少改善された王城との軋轢緩和が綺麗さっぱりなくなっている現状、たとえそれがかすり傷一つであろうと王子につけば大事となる。

 だから、他の誰でもないヴァレトリが王子の護衛についているのだ。





 王子が去っていけば、部屋の中急速に静まりかえる。身動ぎ一つしない、できない私達の上で、居場所を失った書類が滑り落ちていくだけだ。

 さあ、これはどうしたものか。

 もう本当に、ゆっくり謎を紐解いていく暇はなさそうだ。


「あーあ」


 そのまま後ろに倒れ込めば、シーツの上で山積みになっていた書類が宙に舞う。舞い散る書類をゆっくりと見上げたエーレは、怒らなかった。そのまま私へ下ろしてくる視線に怒りの色はない。

 白の間にエーレが見える。静かなエーレが見える。

 ふと既視感が湧いた。


「昔、似たような光景を見た気がします」

「……奇遇だな。俺もだ。しかも、一度じゃない」

「ほんとですね」


 苦虫を噛み潰したかのような顔で言ったエーレに、思わず笑う。

 白の中にいるあなたを見上げたのはいつだっただろう。なんでもない日だっただろうか。それとも特別な日だっただろうか。覚えていない。ここにあるのに、確かに私の中にあるのに取り出せない記憶として。

 両腕を顔の上に乗せ、白の中にいるエーレを遮る。


「ねえ、エーレ」

「何だ」

「つぎ私が空っぽになったら、好機です」

「は?」


 地の底を這うような声がした。どこから声を出しているんだと腕をずらして視線を向ければ、一人で抜け出した先で襲撃されて、皆の所に行かれては困るので皆がいる方向とは逆方向に逃げて崖から飛びおりた私を掴み上げてくれた神官長と同じ顔をしたエーレがいたので、どうやらここから声が出ていたようだ。

 もう腕を戻しても意味はないだろう。行き場を失った手は、適当にベッドに沈める。


「私がいれば私で蓋をされていると思うんです。でも私がいなくなれば、恐らく質問は容易です。私という制限のない私から情報を集めてください。もう私を惜しむ段階はとっくに過ぎています。これ以上エイネ・ロイアーの予定通り事が進んでは、取り返しがつかなくなる。この事件の根幹に神がいるのなら、被害は桁違いになりますよ。国が揺れるだけじゃ済まないかもしれません。国が砕けたら、スラムが溢れる。それだけは、何があろうと阻止しなければなりません」


 マリのような子どもが、ヴェルのような子どもが、名も知らない、あの子のような。

 そんな子どもが当たり前になる世が来てはならない。あの子達のような生き方を強いられる子どもは、運がなくて、特殊な環境で育ったと言われる世でないと。

 あの子達が普通になってはならない。あの子達は不運だった。そう定義される世でないと、駄目なのだ。あの子達が珍しくもない当たり前になってはならない。そのためには、もう後手は取れないのだ。

 もう、私達が先手を取れる手段は一つしかない。


「情報を得るためには、私が邪魔です」


 この中に情報があるのなら、叩き割ってでも取り出さなくてはならない。でも空っぽにならないと出てこない私を、空っぽの私は問いただせない。

 だから、エーレに頼むしかないのだ。

 私は起き上がり、エーレと向き合った。書類の雪はもうとっくの昔に落ちきって、宙には何もない。落ちた書類を見つめていたエーレは、緩慢な動作で顔を上げた。


「エーレ、これは十三代聖女としての命です。私から必ず情報を取り出しなさい。私が割れても絶対に躊躇わないでください」


 いつもの返事が聞こえない。視線は合っているのに、言葉も聞こえているはずなのに。聖女としての命に、エーレが応えない。

 エーレの瞳は一度揺れ、ゆっくりと閉ざされた後、同じ速度で開かれた。その瞳は、もう揺れていなかった。


「御意」


 そうして下げられた頭に、ほっとした。

 よかった。これでいつ割れても大丈夫だ。どうせ割れるのなら、有効活用しながら割れたいじゃないか。ほっと胸を撫で下ろすと同時に、エーレは顔を上げた。


「ただし、お前が死ねば俺も死ぬ」

「――え?」


 あり得ない言葉が聞こえた気がした。

 何度も頭の中でエーレの言葉を反芻する。けれど、咀嚼する前に反射的に吐き出してしまう。言葉を咀嚼できない。脳の中に、取り入れられない。腐った食べ物より、毒物より危険なものとして、身体が認識している。

 そんな劇物を、エーレが私に投げつけた。


「何を、言っているんですか」

「聖女に神官が殉ずる。何のおかしなことがある」

「……自分が何を言っているのか、分かっているのですか」

「自身の言葉すら理解できぬ人間が、王城に派遣されるわけがない」

「っ!」


 世界で一番安全な場所で。世界で何より優しい場所で。世界の何処より美しい場所で。

 世界で唯一の私の世界で、エーレが私に毒を投げつけた。


「その言、撤回しなさい! これは命令です!」

「これは十三代聖女が逝去した後の世の話。死人は生者に命じられない」


 当たり前だ。死者は死者。それ以外の何ものでもない。死者は生者を脅かしてはならない。だってこの世は生者のためにある。死者は生者への権利を持ち得ない。何一つとしてだ。


「生きているお前の望みはすべて叶えよう。世界だってくれてやる。だが、お前が死んだ瞬間、俺はお前の厳命すべてを放り投げ後を追う。お前にそれを止める術はない」


 分かっている。これは全部、エーレが正しい。

 私が死んだ後、どうするかはエーレの自由だ。私がエーレにかけられる制限など一つもなく、エーレも聞く義務もなければ必要もない。

 でも、だったら、どうすればいいのだ。


「あなたを愛する人々が、悲しみますよ」

「そうだな」

「あなたの生を守り慈しんだ人々が、怒りますよ」

「そうだな」


 事も無げに頷いている人は、自分の命の価値に気付いていないのか。マリもヴェルもあの子も、自分が失われることを嘆いてはくれなかった。神官長達も、当代聖女を守ろうと簡単に傷を負う。

 どうして、この世に生きる人々は、自分の命を愛おしめないのか。自身の生を奇跡と尊べないのか。あなた達の生は、守られるべきなのだと、どうして生まれた瞬間から理解してはくれないのか。


「……エーレ、あなたがそこにいるだけで幸いだと喜ぶ人々がいるんですよ」

「ありがたい話だな」

「あなたの生があるだけで、明日を生きられる人がいるんですよ!」

「感謝しよう」

「エーレっ!」


 あなた達は愛されるために生まれてきた。この世を生きるために生まれてきた。幸いを生きるために生まれてきたのだ。

 その生は平等に尊く、美しく、奇跡的で、愛おしい。そういう命として生まれてきた人が、どうしてその命を無為に投げだそうとするのだ。

 嘆かわしいと呆れられたらよかった。けれど溢れ出るのは嘆きと悲しみと、虚しさだけだ。

 この命は守られなければならない。そのために私がいるのに、その私の崩壊にこの人は付き合おうという。こんな馬鹿げた話があるだろうか。

 エーレは手を伸ばし、やり場のない私の腕を掴んだ。


「見ろ、マリヴェル」


 お父さん。どうしようお父さん。


「俺がお前の未練だ」


 エーレが、私にひどいこと、言う。


 私を割ることでしか改善が望めない事態の中、私を割ってはならない理由を投げつけてくるこの人は、どうすれば救われるのだろう。



 カグマが昼食を運んでくるまで、私は書類を見もせずそんなことばかりを考えていた。

 それなのにひどい人は、何事もなかったかのように書類に向かっているのだから、本当に酷い話である。









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