<< 前へ次へ >>  更新
65/68

65聖






 どんな状況になっても、何故だか見慣れてしまう医務室の天井を見て、意識の覚醒を自覚した。

 部屋は明るいが、窓には厚いカーテンがかかっていて外は見られない。

 あちこちに浮いている癒術の結晶や管を見ながら、ゆっくり手足を動かしてみる。うむ、まったく動かない。

 痛みはないので治療はしてもらっているらしいが、如何せん身体が動かない。癒術による治療には本人の体力も使う。死体を治療できないのはそのためだ。治療を開始するための体力が本人に残っていなければ、いかな癒術も意味をなさない。

 どうやら治療でごっそり体力を失ったらしい私の身体は、完全に動くことを拒否していた。拒否も何も、動く気が欠片もない。力が入らないとはそういうことだ。


 身体を起こせないので寝転んだまま、重さで傾けた頭と視線の動きだけで隣を見る。

 隣のベッドでは、うつ伏せのエーレが死んでいた。

 地獄の祝福、またの名を体力前借りのツケを受けている最中のようだ。私は静かに頷いた。

 当代聖女陣営、壊滅です!





 昔もよく似たような状況に陥ったものだ。

 神官長含め、当代聖女に近しい者のほとんどが地獄の祝福により次の日使い物にならなくなった。

 それだけの犠牲を払わなくては前日を乗り越えられなかったので致し方ないほどに、当時は大変だったのだ。

 幸いと言うべきか、怪我の功名と言うべきか。年季の入った経験豊かな人々のほとんどが先代聖女派だったために若者で構成された当代聖女陣営は体力の回復が早く、なんとかその次の日には動けるようになっていた。若さという点は当代聖女陣営を大いに助けた。

 あのときから比べると、当代聖女陣営は私とエーレの二人になってしまった。エーレは若さによる体力の回復はほとんど見込めず、私の体力は怪我治療のたびに削られ続け、もう備蓄がない。若さという利点が全く役に立っていない二人だけが残ってしまった。

 当代聖女陣営、残念ながら当時三十代だった神官長より回復の見込みがありません。

 視線だけで状況を確認してみたが、これ以上首を動かせないので時計を見られず時間が分からない。目に見える範囲にカグマはいない。分かるのはそれくらいだ。


「エーレぇ」

「……………………………………………………………………………………………………何だ」


 返事するか否かを非常に迷った長い長い沈黙の末、心の底から面倒くさそうな返答があった。


「暇なんでお喋りしません?」

「嫌だ」

「えぇ――……」


 否やは即答だった。


「私の血から抽出した力で作った薬、使ってもらわなかったんですか?」

「カグマは自分が成分を把握していない薬は使わないだろう。それにあれは、お前が使うために作られた薬だ。それ以外への使用は最初から考えられていない」

「そんなことありませんよ」


 深い溜息の後、エーレは寝返りを打った。仰向けになった後、ずりずりと渾身の力で身を起こしていく。地獄の祝福慣れしているから出来る芸当だ。地獄の祝福に関して、我々は玄人である。

 背もたれに体重を預けたまま項垂れたエーレは、シーツを見つめながら再び溜息をついた。非常に疲れている。


「聖女の力をお前自身に使う方法を模索して作られた薬だ。そもそも、お前以外に使うならわざわざ血を使った危険なことはしない。そんな薬、存在を知られた瞬間世界中からお前の血を狙った阿呆共が現れるだろう」

「干からびるだけで済めばいいんですけどねぇ」


 血どころか骨までしゃぶられそうだ。一応言っておくが、聖女の血を飲んでも不老にはならないし、肉を食んでも不死にならないので、世界中の人間はそこのところよろしくお願いします。


「ところでいま何時です?」

「さっき日付が変わった」

「え? まだそんなものなんですか?」


 私ではない私が現れたとき既に夜だったのに、あれからまだ数時間しか経っていないと聞いて驚いた。あるいは。


「……私、もしかして丸一日寝てました?」


 エーレは静かに頷いた。


「丸二日」

「え!?」


 私は飛びあがって驚いた。身体はぴくりとも動かなかったので、心の中でだけ跳ね飛んだ。


「エーレ二日経ってその状態なんですか!?」


 エーレは静かに頷いた。


「あと三日は回復できる気がしない」

「次の選定の儀、私は一人で出席になりそうな気がしてきました」


 エーレは静かに頷いた。

 私も静かに頷いた。


「エーレ、寝てません?」

「起きている」

「かろうじて?」

「かろうじて」


 駄目そうだ。


 しみじみ頷き、私も渾身の力でずりずり身体を動かした。芋虫でももう少し俊敏に動くぞと言いたい速度で、エーレと同じ体勢にまで持っていく。

 夜だというのにこの部屋に灯りがつけられているということは、まあそういうことだろう。

 体重のほとんどはベッドに預けているが、なんとか身体を起こしたとき、短いノック音がした。


「面白い話してるところ悪いけど、そろそろ僕ら待ってるのも疲れたんだわ」


 続き部屋の扉が開き、ヴァレトリが顔を出した。すぐに場所を譲ったので予想はついたが、やはり神官長達がいる。ココとサヴァスとカグマ。大体いつもの面子だ。おそらく、聖印が入っている面子なのだろう。他にもいるだろうが、これ以上の人数は医務室には入れない。

 戦闘兼参謀担当、戦闘担当、技術者と医療者。それらの意見を取り入れつつ作戦を立て、責任を取る頭。これが揃っていれば大体話は進められる。

 この面子が全員揃っているので申し訳なくなった。私がいつ起きるか分からなかったはずなので、忙しいのに時間を見つけて集まっていたのだろう。いつだって忙しい人達なので、休めるときに休んでほしい。私が寝ていたら水でもぶっかけてくれると助かる。





 改めて始まった話し合いの最初に、エーレがこれまでのことを一通り話した旨を聞いた。私の顔が焼けた後に男達を壊した空間については省かれたようで、そこはほっとした。それ以外は全部話したらしい。

 まあ、そうだろう。どういう形であれ私は神殿との合流を避けられないと判断した。聖女がそう決めたのなら、神官が神官長に状況説明するのは当たり前である。

 その辺りを一通り聞いた後、落ちた沈黙の中最初に口を開いたのは神官長だった。


「私は、君が当代聖女であるとの確信を持てない。しかし君を完全な部外者として扱うには、状況が揃いすぎているのもまた事実だ。我々は、十三代目聖女が既に就任していたとの認識を得ている。その上で状況を鑑みれば、十三代目聖女である可能性は君が一番高い。しかし、確信と確固たる証拠がなければ、我々は君を聖女として扱うことはできない」


 当たり前だ。なんとなくで神殿が頭を垂れるはずもなく、また垂れてはならない。

 ここは神殿。アデウスの法とは一線を画した特殊な空間。その神殿を神に次いで統べる立場にある聖女を、おざなりに決めるなんて出来ようはずもない。そんな判断を下す人を、神官長として認めるべきではない。


「そして、君を聖女候補として特別扱いすることも出来ない。選定の儀は、他の候補と同条件で受けてもらう」


 神官長は、神官長の仕事を全うしている。それだけだ。だから私も、私の立場を全うするだけだ。


「それで結構です。端からあなた方に期待してはおりません。私は私に仕えぬものを戦力として扱うつもりはありませんから」


 信じるに値しないものに生涯を費やさないで。決して、間違っても命など懸けないで。忘却がなかろうと、あなた方の生も命も、懸ける価値があるものへ向けてほしい。私などに懸けていいはずのない価値あるものなのだともう少し自覚してほしい。

 この人達は、自分の価値に無関心が過ぎる。もっと自分の価値を自覚して、自分の生を大事にしてほしいといつも思っている。


「神官長、聖印の対象範囲変更を要求します。神殿と情報を共有できないのであれば、この協力は無意味なものと成り果てますので」


 サヴァスがちょっと驚いた顔をした。他の面子は無表情を保っているので、サヴァスはちょっと迂闊である。後でヴァレトリに締められると思うので、頑張ってほしい。


「既に発動した聖印の条件変更は不可能だと言ったらどうするかね」

「聖印は、神殿内で先代聖女派への情報流出を防ぐため、私が聖女となってから作られたものです。元々聖女は対象となっていません。本来は最初から私には対応していないはずなのですが、今回は当代聖女の存在が消失していたことにより、一時的に私にも機能しているようです。後から条件を付け足すのではなく、本来かかるはずのなかった制限を解除するだけですので、すでに発動した後でも変更は可能なはずです。聖印についての研究資料は聖堂の間にありますので後ほどご確認を」


 神官長と腹の探り合いになるのが嫌で、そうなる前に全部まとめて喋ってしまう。言い争いになる隙間もないくらい、全部。

 話し合いも何もあったものではないと心の中で苦笑する。

 この面子がこうしているということは、ある程度確信があってのことだろうとは分かっている。当代聖女が存在していたことを前提とした場合、消失した当代聖女である可能性が一番高い自負はあるのだ。どこまで過去の資料が読めるかは分からないが、叩き出される直前に神殿の深部を呑気に歩いていた功績は大きい。エーレが私に付いているのも加算点だ。

 その分、一番怪しいのも私なのだが、そこは置いておきたい。




 神官長は、ゆっくり手を組んだ。大きな手は、温かかった。いつだって温かくて、その動きは柔らかかった。その手の温度を知っているからこそ感じる寒さがある。


 今は夜も遅く、話し合うべき内容はたくさんあった。何を優先すべきか。お互い、考えている。

 到底信用しきれない相手でも、必要とあれば無駄な攻撃はせず、礼を持って協力体制を取っていく。神官長はそういう人であり、彼の下にいるのはその方針に異を唱えない人々だ。だからこそ、無意味な諍いが起こればそれは私の未熟なのだろう。

 聖印の制限解除が為されるまで、話せる内容が限られているのは、今の段階ではちょっとした救いだった。信用の有無による明確な拒否と拒絶を受けるのと、仕様のない理由で閉ざされているのとでは、違うのだ。

 神殿がサロスン家に来ていた理由である、私がエーレに頼んで調査してもらっていた呪具について、聖女候補達の様子、現在神殿がどこまで消失した当代聖女の情報を得ているか。それらは聖印の範囲内になるだろう。聖印の制限が解除されるまで、私から聞けることはあまりない。情けない逃げだと分かっていても、その事実はすこしほっとする。


「ひとまず、聖女の間に残っていた私の私物について、答え合わせと致しましょう。それだけで結果を決めろとはいいませんが、多少なりと判断材料は多いほうがいいでしょう。その程度は、聖印の範疇外と見ていますが、如何でしょう」


 神官長は頷き、ヴァレトリが資料を渡す。私が一つずつ記憶を辿り、神官長がそれを確認していく。どこまでも事務的な確認作業。ほとんど私が言葉を紡ぎ、たまに一言二言神官長が言葉を挟む。

 ただそれだけで、嬉しかった。あの頃のように思いを共有するような、思い出を分かち合うような会話は一つもなかったけれど、この人と言葉を交わせる権利がここにあるだけで幸福だった。この人達が共にいる空間に添えてもらえている今が、いつもと同じほどに叫び出したいほど幸せで。

 ヴァレトリとサヴァスが立っていて、カグマとココが少し離れた場所に座っていて、神官長が私の前にいて、エーレが隣にいて。


「その棚は、犬のぬいぐるみと、握力鍛錬器具と、神力貯蔵型空跳ぶ蛙と、救急箱と、ウブトウ羊の腹巻きと」


 犬のぬいぐるみは神官長から、握力鍛錬器具はサヴァスから、神力貯蔵型空跳ぶ蛙はココから、救急箱はカグマから、ウブトウ羊の腹巻きはヴァレトリから。


「猫のぬいぐるみと、腕力鍛錬器具と、神力貯蔵型地を這う入道雲と、救急手当て解説本と、ウブトウ羊のカーディガンと」


 猫のぬいぐるみは神官長から、腕力鍛錬器具はサヴァスから、神力貯蔵型地を這う入道雲はココから、救急手当て解説本はカグマから、ウブトウ羊のカーディガンはヴァレトリから。


「おもちゃ箱みたいだな」


 そう言って思わずといったように屈託なく笑うサヴァスに、薄く笑う。

 宝箱だよ、サヴァス。この世の幸いすべてを詰め込んだ、宝箱なんだよ。

 気を抜いたらいつものように心が解けて、余計な傷を負いそうになる。だから気を張り詰めて。世界で一番安全で安心で眠れる場所で、決して気を抜かず。


「聖女の部屋、仕事に関する物ほとんど置いてなかったよ。あんた、ろくに仕事してなかったんじゃないの?」

「必要最低限はしていました」


 最低限の最低を更新する程度には。

 ははっと薄い笑い声を上げたヴァレトリに答えたのは、エーレだった。


「先代聖女が王城を揺るがしたつけを、当代聖女が支払った。当代聖女は王城の権威を尊重し、神殿と王城の境界を守り、先代聖女が侵した王城の領分を返却している最中だった」


 皆の視線が私を向く。私は誰も見ていない。何を見たって、どうしようもない。

 先代聖女が民からの支持を得るために犠牲を払ったのは王城だ。奪った権威を王城へ返さなければならない。これは必須事項だ。


 お城と神殿の役割はそれぞれ違う。

 協力するのはいい。けれど飲みこまれても飲みこんでも駄目だ。私達は違うもので在り続けなければならない。そうでなければ意味がない。違うからこそ意味がある。

 アデウスという国は、その両方がなければ成り立たない。神殿だけでも王城だけでも駄目なのだ。

 王城が落ち着かなければ、当代聖女に出来る仕事などほとんどない。膨れ上がっていた聖女の仕事など以ての外だ。王城の領分を侵す仕事はもちろん、先代聖女が蓄えた神殿の権威を維持する仕事もだ。

 先代聖女が猛威を振るった後の世で、当代聖女ができることなどたかがしれている。

 私にだって、ちょっかいを出したい施策くらいある。最優先である未成年保護義務法も、ここまで待って、王子と摺り合わせながら細心の注意を払った。そうして制定された未成年保護義務法は、神殿と王城の協力体制のもと始まったのだ。


「当代聖女の方針など、あなた方には関わりなきこと。無意味な思考を回している暇があるのなら、神官としての職務を全うしなさい」


 ある程度の予定調和の中、当代聖女の方針を尊重しながらも神官長達は口うるさかった。やれこっちの会議は出ろ、やれこっちの会合は出ろと、いつまでも諦めず地の果てまで追いかけてきた。

 王城の権威回復と神殿への信心維持を目標とし、最低限の最低更新に挑んでいた私と、最低限当代聖女の立場向上を考え続けてくれた神官長達。私達の最低限は違っていて、私は私の立場などどうでもよかったのに、神官長達は絶対に諦めず、当代聖女個人の立場を守ろうとしてくれた。

 すべてはもう、忘却の中にある。


「部屋の荷はそんなものでしょう。後は全部で十二箇所隠し場所があったと思いますが、それらは私ではなく歴代聖女の私物なので詳細は把握していません。宝石や装飾品の類いが多かったように思いますが」

「待ちたまえ」

「はい?」


 書類を捲っていた神官長の手が止まった。


「隠し場所は十三箇所だ」

「……はい?」


 初めて、私は私の部屋の設備を間違えたらしい。

 一つ、一つ、場所を言っていく。床下、壁の隙間、机の陰。様々な場所に設置されていた小さな小箱のような隠し場所。全部言い切ったはずなのに、神官長はまだ私の言葉を待っていた。


「私が把握しているのはこれだけです。見つけられていない隠し場所がありましたか」

「おそらく一番後に付け足された場所を、君はあげていない」


 エーレと視線を合わせる。


「一番後ならば、私が就任してからになりますが……エーレ、記憶ありますか?」

「俺は把握していない。誰かがお前の頼みで付け足した可能性もあるが、その場合でも報告は上がってくるはずだ」

「ですよね……。神官長、当代聖女である信憑性減点一で構いませんので、そこに入っていた物を教えてください」


 私が知らず、エーレも知らない。流石に私がいなくなった後に作られたわけではないだろう。じゃあ、私がいる内に? それとも、私が忘れているのか。


「私とエーレにも忘却はあると判断しています。その手がかりを、私達は得たい。神官長、教えてください」


 しばしの沈黙の後、神官長はヴァレトリへ視線を向けた。ひょいっと肩を竦めたヴァレトリが部屋を出て行く。そして戻ってきたときには、神官長の掌には収まるけれど、私の掌には収まらない大きさの箱を持っていた。


「これ。あ、箱は別な。ただの容れ物」


 それはそうだろう。こんな大きな箱が入るような隠し場所を見逃すとは思えない。

 ひとまず膝の上に置いて開けてみる。

 中には装飾品が入っていた。正確には宝石のついた貴金属だ。全部に宝石がついている以外は、他の隠し場所にしまわれていた物と変わりないと言える。

 しかし、他とは明確な違いがあった。


「指輪?」


 箱の中で、がしゃりと指輪が揺れた。

 他の場所にも指輪はあったが、指輪以外にも髪飾りや首飾りなど様々な種類の装飾品があり、数も多くて二つや三つ程度だった。それなのに、これは違う。指輪だけで、十を優に超える数が入っている。


「何ですか、これ」

「僕に聞かれてもね。そっちこそ、覚えはないの」

「いや、全然……そもそも、この量が入る隠し場所を見逃してたわけが……エーレ、どう思います?」


 エーレのベッドに向けて、一個放る。最初から受け取ることを諦めたエーレは、シーツの上に落ちた指輪を指で摘まみ上げ、ひっくり返しながら眺める。


「品はいい。全部がこの品質なら、貴族換算であっても一財産になるぞ」

「へぇ……」


 そういう品ならば、なんとも雑なしまい方をしたといえよう。

 再び投げ返された指輪を片手で受け取り、目線の高さに掲げ見る。綺麗だ。綺麗なのだが、何故指輪ばかりがこんなにあるのだ。綺麗だから集めていたのだろうか。趣味で集めた指輪を、聖女の部屋に隠さないでほしい。隠し場所を忘れて今に至るのなら、私はこの指輪を隠した犯人を栗鼠と呼ぼうと思う。


「残念ながら、記憶にありません。私が知らなかったのか、私の記憶が消失しているのかまでは分かりません」


 私とエーレにも忘却があると神官長達は知っている。だから分からないものは、変に拘らず正直に伝えておく。指輪をしまい直した箱をヴァレトリに返し、神官長を向き直す。


「一つ提案があるのだが」


 ゆっくり、けれど決して緩慢ではないはっきりとした声で話す神官長を、全員が注視する。


「君の言う通り、我々に聖印の制限がある現状、信頼関係の有無にかかわらず君と話し合える内容は少ない。その上で提案したいのだが、今は君とリシュターク一級神官に焦点を当てた話し合いの場としたいが、どうだろうか」

「私とエーレが抱えているであろう忘却について、ですね。それは助かります。忘却の対象者である私達だけでは、互いの忘却に気づけませんから」


 だが、問題は残る。私とエーレの忘却が同じものである確証はなく、さらに私の存在が皆の中から消失している現状、私の忘却についての摺り合わせはできないだろう。

 それでも、せめてエーレが抱える忘却について何か手がかりが掴めれば、連鎖して私の忘却を解く鍵に繋がるかもしれない。だから神官長からの提案はありがたかった。

 こればっかりは、私達二人だけではどう頑張っても解決しようのない問題であり、協力者は私達をよく知る人々でなければ意味がない事柄だからだ。

 たとえその理由の中に、私達、というよりは私への不信と調査があったとしても。


 怪しいもんな、私。

 心の中で笑う。そう思える言動をしてきたし、疑っていてくれないと、嫌っていてくれないと困るので、これはいいことなのだ。いいことと嬉しいことは必ずしも一致しないだけで。


「ですが、何から手をつければいいのか分からず仕舞いでここまで来てしまいました。互いに忘却があり、それが私が当代聖女である記憶に関する内容ではないことは確かなのですが、それ以外は何の手がかりもありません。そもそも私とエーレの忘却が同一のものとは限りません」


 厄介なのはそこだ。アデウス全土に齎された忘却は、統一性があった。しかし、私とエーレだけがその枠組みから外れているにもかかわらず忘却があるということは、その統一性さえ確実ではない。そもそも、私達の忘却が相手にとって意図的なのか事故なのか。それによっても違う。


「ちょっと聞きたいんだけどさ、おたくさんらは仲いいの?」


 ぴっと伸ばされたヴァレトリの指が、私とエーレを交互に指す。


「どうでしょう。付き合いは長いのですが、今回の事件が起こるまで仕事以外の会話を交わしたことはほとんどありません」

「話す必要性を感じなかった」


 きっぱり言い切ったエーレの言葉に、「ああ……」と言わんばかりの沈黙が部屋を満たした。納得納得と頷いているカグマと、納得と頷いているココと、「お前かわいそうだな……」という顔をしているサヴァスと、聞いておきながら質問の内容自体には特に関心がなさそうなヴァレトリ。

 そして静かな神官長。この顔は、「どういう時間を過ごしていたのだろう」と真面目に考えている顔だ。


「一度くらい一緒に遊んでおいたらよかったですかね」

「お前と遊ぶ暇があるのなら、お前のせいで読む暇がなかった本を読む」

「確かに。そもそも、エーレと何をしたら遊ぶことになるのかまったく思いつきません」

「書類を提出期限の一週間前には耳を揃えて出す遊びはどうだ」

「楽しさを見出せる場所が皆無な遊びですね」

「どこかの誰かのせいで同年代と遊んでこなかったツケだろうな」

「ここの私のせいですねぇ」


 しみじみ頷いていると、なぜか神官長とヴァレトリとカグマが奇妙な顔つきになってきた。視線を合わせた三人が何事か小さな声で会話を交わす。その都度険しくなる顔つきに気付かない振りをしつつも、何かおかしなことを言ったか私とエーレも目配せする。

 どうにも神官長達が気にかかるが、この部屋で真っ当に会話をしているのは私とエーレだけなので、会話を途切れさせれば気付かない振りをする意味がなくなってしまう。

 つらつら、取り留めない会話をするのは互いに慣れているので、労せずこなせることは幸いだ。


「十二歳で神官になれちゃう優秀さも多少の要因を担っているかと」

「――マリヴェル」


 それなのに、エーレはぴたりと会話を止めた。


「何ですか?」

「俺が神官になったのは、十歳だ」

「………………え?」


 胸が、冷たい手で握り潰されたかのようにぐしゃりと捩れる。息をすれば痛みを感じてしまいそうなほど、胸の中が冷気に満ちていく。

 恐怖とは冷たく痛いものだと、相場が決まっているもので。


「……待って。待ってください。エーレ、あなた、神殿に来たのは?」

「来たというには少々語弊があるが、七歳だ」

「――覚えて、ない」


 こんな場所に忘却があるはずがない。

 だって、何の意味があるのだ。こんなものを忘れさせて、何の益が。



「エーレ」

「はい」


 リシュターク神官、ではなく、エーレと呼んだ神官長に、驚く。基本的に公の場では姓で呼ぶ人なのだ。

 それどころじゃなかったはずなのに、神官長の言葉には反射的に意識が向いてしまう。エーレも一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに元に戻した。


「昏睡から目覚めた後、回復療養期間に君と遊んでいた子どもは誰かね」

「…………………………は?」

「……君が子どもらしく遊ぶ様子を見て、我々は安堵していたはずなのだ」


 エーレにしては酷く間が抜けた声の後、瞳が引き攣るような動きで私を見た。そんな目で見られても困る。だって私もきっと、同じ目をしている。


「昏、睡……?」

「エーレは七歳から二年ほど、原因不明の昏睡状態に陥って神殿が預かってたんだよ。……おたくらさ、人の忘却どうにかするより先に、もうちょいと自分らの摺り合わせしとけ」

「……え? だって」


 私、七歳のエーレの誕生日、祝った。


 十歳より小さなエーレに、九歳より八歳より小さな小さなエーレに。

 うまれてよかったねと、言ったのだ。


 今の今まで、十二歳以下のエーレを思い出せもしなかったくせに、するりと意識から出てきた言葉に自分で愕然とする。神官長達もだ。


「昏睡二年目の後半には、時々覚醒も見られた。だが、七歳はずっと昏睡状態のままだった。おい、どういうことだ。担当医師だった僕の知らない覚醒を、どうしてお前が知っている」


 席を立ったカグマが詰め寄ってきたが、分からない。だって、覚えていない。昏睡状態って何。知らない。覚えていない。なのに、ついさっきまで覚えていなかった記憶の確信がある。

 けれど前後は何も思い出せない。十歳のエーレと交わした会話が転がり出てくる。左右は何も思い出せない。九歳のエーレと遊んだ場面が縺れ出てくる。上下は何も思い出せない。


「記憶が、繋がっていない……? エーレっ!」


 自分でも驚くほど、責めるような、縋りつくような、悲鳴のような声が出た。言葉を失っていたエーレがそれでも弾かれたように私を見たのは、神官としての反射だったのだろう。

 だって、目が合ったエーレは、迷子の子どものような顔をしていた。


「覚えて、いない」


 その顔が、すべての答えだった。




 私達に忘却があるとしても、それが互いのことだなんてどうして思い至れるだろうか。

 この忘却に、一体何の意味があるのだ。神殿の進退にも、当代聖女の評価にも関わらない場所だ。本当に何も意味がない。だって、その忘却があろうとエーレはここにいて、一人だけ私を覚えていて、唯一の当代聖女派として動いてくれていて。

 分からない。何故。何のために。


「待って、待ってください……」


 待って。本当に待って。何が起こっているのか分からない。何が起こっていたのか、ずっと、分からないままなのに、あの日、皆が私を忘れた日のように、思考がぶつ切りになる。

 どれだけ考えても何も出てこない。記憶をどれだけ抉ろうと、目指す先が分からないまま、焦燥だけが空回って焦げ付いていく。

 思い出せ。思い出せ。思い出せ。

 必死にそう思うけれど、何を思い出せばいいのかも分からない。

 けれど、あるはずだ。忘却は完全なものじゃない。覆われているだけだ。忘却に気づけたら、記憶の矛盾を見つけられるはずだ。忘却は消滅ではない。見つけられないだけで、私の中にはあるはずなのだ。

 けれど、何を見つければいいのだ。


「――マリヴェル、おい、マリヴェル! サヴァス、マリヴェルを止めろ!」


 顔に立てていた爪に赤が付着していた。誰かの体温が私の腕を掴むけれど、それどころではない。

 あれはいつ?

 あれはどこ?

 これは、なに?

 探さなければならない。目を見開いたまま、耳を塞ぐ。シーツだけを見つめ、頭の中をひっくり返して回る。見つけなければ。探さなければ。見つけなければ。ここで過ごした記憶を無くしてはならない。欠片だって無くすべきではない。

 だって無くしたくない。

 だって。だって。だって。

 それしか。


「ああ、成程」


 ぷつりと、何かが切れた音がした。


「死にたいってこういうことなんですね」


 あれだけうるさかった自分の声も聞こえない。


「どうしましょうね、エーレ。私いま、世界に発生して初めて、死にたいって思いました」


 砂より乾いた音が、私の口から滑り落ち、散った。






 ゴミだった私を、物だった私を、ただ壊されるのを待つだけだった私を、壊れるのを待たれるだけだった私を、それ以外の何かとして扱ってくれた人達。その人達と過ごした記憶は、私の命より余程大事なもので。私にとっても、世界にとっても、私などより守られるべきもので。

 そうあってほしいもので。

 それなのに、私から欠けている。欠けていく。これからも欠け続けるのなら、そして私がそれに気付かないのだとすれば、耐えられないと、思った。

 死んで償うべき罪だと思ったわけじゃない。ただ、耐えられない。それだけは。


 顔なんて好きに焼けばいい。髪なんて端金で売りさばけばいい。手だって足だって、好きにもっていけばいい。けれど、記憶だけは。この人達との記憶だけは、絶対に。


「……マリヴェル」


 一人分。私の名前を呼ぶのは一人分。それだって、充分で、贅沢すぎる奇跡だったのに。いつから私はこんなに欲張りで、図々しくなったのだろう。


「口に出すのは、いい。だが、実行したらはっ倒すぞ」

「はは……」


 エーレの言葉に思わず笑う。同じような意味を持った言葉を言ってくれた人がいた。それよりずいぶん短いし、はっ倒すぞで締められた言葉は確かに面白かった。だから笑ったのに、顔が歪んだのが自分でも分かる。


『負からの発祥であれ、推奨されない言葉であれ、構わない。それが君の感情から紡がれる言葉であれば、胸の内に仕舞い込まれるほうが問題だ。君の心の内を私達は辿れないのだから、音にして教えてほしい。私は君を知っていたい。マリヴェル、君の心が届かない場所に行ってしまわないでくれ。私達が届くよう、追いつけるよう、辿り着くための言葉を、私達に教えてくれないかね』


 そう言ってくれた人が、目の前にいるのに。


『私が未熟なばかりに、手間をかけてすまない』


 たかだか私の考えを、思いを聞くためだけにそう言ってくれた過去が、この人の中から消えている。いずれ、私の中からも消えるのだろうか。もう、消えた光があるのだろうか。


 ああ、駄目だ。さっきからずっと、駄目なのに。

 私が揺れては、駄目なのに。


 何もしていなければ、どんどんよからぬ方向に進んでしまう。だからせめてもと、思考以外で自分が動ける方法として残された口を開く。けれど、もう手遅れだったようで。


「実行なんてしません。わたしまだ、こわれたらこまる」

「…………マリヴェル、お前」


 エーレが妙な顔をした。ああ、これは気付いている。私いま空っぽだって、気付いてる。

 おかしいな。おかしいよね。私が揺れたら、空っぽになるの、おかしいよね。

 おかしいのに、どうしようもないんだよ。だって始まりから全部、仕様がないことなんだから。

 他の誰も喋らない。エーレだけが、壊れ物に触れるよう、慎重な言葉選びを必要とする会談途中のような顔で、ゆっくりと唇を動かした。


「……いつならいいと、思っているんだ」


 空っぽの私が笑う。ちっとも楽しくなんてないのに、まるでお手本のように笑っている。


「かみがうまれるとき」


 それが、私の期限だ。






 ぷつりと何かが切れ、同時に私が返される。けれどもう、疲れていて。昔、小さなあの子を背負って穴を掘る場所を探していたときのように、身体が重くて。

 動かない。


「あ、しまった」


 身体が動かないなとは思っていたが、どうにも左足がおかしい。力が入らないのとは少し違う。力を入れる先がない。いつの間にか私が返されていたけれど、壊れた箇所は戻らないらしい。


「カグマ、すみません。左足を診てもらっていいですか?」

「どうした」


 陶器の人形のように動きを止めていたカグマは、私が頼むと同時に生身に戻った。欠片も躊躇なく立ち上がると、先程までの驚愕も戸惑いも消し去り、強張りの一つも見せず私の足に触れる。


「痛むか? それとも痺れが」

「動きません」

「力が入らない?」

「いいえ、力を入れる先がありません。まるで、腿から下がないみたいに」


 カグマは唇の片端を歪めた。何かを考えている。


「サヴァス、こいつを起こせ」

「おう」


 エーレからもカグマからも、咄嗟の力仕事を渡されるサヴァスは、嫌な顔一つせずこなしてくれる。頼み事はもちろん、絶対馬鹿にしたりせず一緒に感情を動かしてくれるので、サヴァスは話を聞いてもらいたい人として人気が高い。

 冬でも真夏の日差しの下を歩いてきたのかと問われるほど温かい大きな手が背中を支え、私の身を起こす。ベッドの端に腰掛ける状態で固定された私の身体の下に、カグマがしゃがみこむ。ぶらりと揺れる左足の膝を、どこからともなく取り出したとんかちのような物で叩く。私の膝は静まりかえっている。


「……反応がないな。昨日はあったぞ」

「あらぁー」

「それ、どういう感情なんだ」


 同じことをエーレにも言われたなと思う。


「仕様がないな、ですかね」

「仕様がない病や怪我などあって堪るか。それは医師である僕への挑戦か。張っ倒すぞ」


 エーレがすぐはっ倒しに来るの、カグマの影響なんだよなぁとしみじみ思う。

 だって、私を形作ってくれたのが神官長率いる神殿であるように、エーレだって、リシュターク家の屋敷より神殿で暮らした時間のほうが長いのだ。私達を育てたのは、神官長率いる神殿だ。私達の端々は、神官長達でできている。

 私のお父さん役をしてくれたように、エーレのお父さん役も神官長だった。そうだった。

 私達は兄妹のように育ったはずなのに。

 欠けている。多くの記憶が欠けていると、気付いてしまった。気付けたと思うべきなのに、気付いてしまったとしか思えない。

 わたしがひとであるりゆうがくだけていくときづいたけっかが、これなのだ。

 愕然としていたエーレが私を見た。ゆっくりと見開かれた瞳が、徐々に歪んでいく。緩慢な歪みを経て、両手で顔を覆う。鷲掴みにするように、握りしめるように、顔を覆う。

 カグマは私の眼球の動きから、四肢の状態、内部の機能まで神力で確認した上で、苦々しく舌打ちした。

 ごめんね、カグマ。わたしもう、すこしずつ、おわろうとしてるみたい。


「一日で何があったんだ」

「彼女は、どういう状態だね」

「元々弱っているとは思っていましたが……身体の機能が酷く低下しています。これでは寝たきりの身体だ。左足に至っては、完全に機能していません」


 ごめんなさい、おとうさん。

 わたし、あなたとおんなじなまえになれないかもしれない。

 そのみらいには、もう、まにあわないきがするの。

 ごめんなさい。おとうさん。ごめんなさい。ごめんなさい。

 あなたのやさしさにむくいることができなかったわたしを、どうかゆるしてください。

 ……ゆるさなくても、いいけど。おとうさんがいちばんくるしくないほうほうをえらんでくれたらいいな。



 わたしのこんかんがかけているとじかくすれば、わたしがからっぽになりやすくなる。

 わたしがわたしであるために、ぼうきゃくしていたのではとおもうほど、かんたんに。

 でもちがう。わたしたちのぼうきゃくは、わたしのいしではない。だってわたしは、わすれたくないし、わすれられたくなかった。それだけは、なにがしょうしつしようとたしかなきろくだ。

 たとえわたしがときをまたずこわれたとしても、それだけは、ぜったいに。



「しようがない。しようがありません。しようがないのです」


 無機質に唇が動く。口の動きと言葉が合っているかさえ定かではない。すべてがちぐはぐで、ぎこちなく、なめらかな、まるで木でできた、まるで陶器でできた

 人形だ。

 ヴァレトリが剣に手をかけている。神官長とカグマが、私の周囲に浄化の結界を張った。大抵の不浄物はこれで近寄ることすらできないが、今回に限りどうしようもない。だって私のこれは何かが入ったわけではない。私が消失しかけているだけなのだ。


「……仕様がないとは、どういう意味かね」


 神官長はよく問いかけるから、かね、かねと、柔らかい響きを山ほど聞いてきた。何より先に問うてくれるから。何より先に、自分の感情より先に、私の心を聞いてくれるから。

 でも、否、だからこそ、今はもう必要のない行為だ。


 私の首が、まるで人形のように反対側へ傾いた。

 笑っている。私が笑っている。最初からその形しかなかったかのように、笑う。


「わたしは、はいきされるためにつくられたのですから、おわりへむけじかいするはかみのせつりでしょう」


 だからエーレ。

 そんなに泣かなくていいんですよ。











<< 前へ次へ >>目次  更新