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64聖






 柔らかい土を探した。できるだけゴミが少なくて、静かで、物も者もいない場所を探した。

 もう笑わない子どもを背負ってスラムを歩き、一日中歩いてようやく見つけた場所は、今はもう食べ尽くされて存在しない木が生えていた場所だ。切り株さえ残らず掘り返された場所は、土が踏み固められていないので柔らかい。

 壁と、ゴミ山の間。何もない場所で、大きな身体は入ってこられない。生ゴミの山からも遠いので、物もあまり近寄らない。屋根がない以外は、寝床にするのにも悪くない場所だなと思った。


 私は土を掘った。爪が全部剥がれたけれど、まあいいやと掘った。

 小さな小さな子ども一人の大きさに掘るだけだったのに、気がつけばあんなに明るかった空は真っ赤になっていた。

 私の寝床に引いていた布を全部入れて、その上に子どもを寝かせる。やっぱり子どもは小さかった。

 その胸に、林檎を乗せる。両手で握りしめるように持たせ、顔の前に置いておく。残りの二つは、顔の左右に置いた。どっちを向いてもいい匂いがしたら、きっと嬉しい。

 あと、何をしたらいいか分からなかった。

 ふとむかし見た親子を思い出した。子どもの額に唇をつけた親は、あなたが大好きよと子どもに伝えていた。けれど私は別にこの子どもが好きではない。嫌いでもない。何かを抱ける時間がないまま、私はこの子をここに埋めていこうとしている。


「さびしいかな。でも、ここはしずかだよ。おそわれないばしょのほうが、きっとねむれるから。もうずっと、こわくないといいね」


 そう言って、子どもの額に唇を落とす。

 ごめんね。私がもっとちゃんとした存在であれば、愛をもってあなたを見送れた。

 けれど、私にはよく分からない。そんな高尚なものを渡してあげられるような物にはなれないのだ。ろくでもない私には、祈りしかおくれない。


 もう二度と痛くありませんように。もう二度と怖くありませんように。もう二度とお腹が痛くなりませんように。

 もう二度と、もう二度と。


「ものとしてとだえませんように」


 神様。神様。神様。

 神様。

 私はきっと次も物だけど。次なんてもうないだろうけど。

 この子は、次は者として存在しますように。

 怪我をしたら手当てをしてもらえますように。怖いものから守ってくれる大人がいますように。お腹いっぱい食べられますように。

 私なんかじゃなくて、優しい何かに見送られますように。

 温かい場所で、柔らかい場所で、穏やかな場所で。

 ずっと笑っていられますように。

 それまでの眠りが、決して脅かされませんように。

 祈って、埋めて。

 そして、立ち上がる。

 あと一つ、やらなければならないことが残っていた。








 もう二度と見つからない可能性のほうが高かったので、一生かかるかなと覚悟していたその人は、驚くほどすぐに見つかった。

 夜の闇に紛れて者の世界に紛れ込んだ私の前を、鼠色の髪をした人と共にその人が歩いている。

 やっぱり、まっすぐだ。まっすぐに立って、まっすぐに歩いて。大きいのに静かに、流れるように歩く。

 流れを邪魔しない服もきっと立派と呼ばれるもので。やっぱりこんな場所にいる人じゃないのだろう。横を歩いている鼠色の人も、そろそろ戻りましょうと何度も言っている。その度、その人はゆっくりと躱している。

 戻る場所がある人なのだ。こんな場所に生息している人じゃないのは、一目で分かる。じゃあどうしてこんな場所にいるのかと聞かれると分からないが、何か用事があったのだろう。そして、もうすぐいなくなる人なのだ。

 だから、もう今しか機会はない。


 私は闇から滑り出た。

 目の前に現れた私を見ても、その二人は驚かなかった。それに殴らなかった。叫ばなかった。蹴らなかった。身体に纏っている布を剥ごうとしなかった。唾を吐きかけようとしなかった。死ねと言わなかった。

 それがとても奇妙な気持ちだった。

 足を止め、私を見下ろすクラウディオーツと呼ばれたその人は、老人のようにゆっくりと、けれど若者のように滑らかに膝を折った。地面に膝をつけたその人にびっくりする。鼠色の人は、なんともいえない顔をしていたけれど何も言わなかった。顔の通り、なんとも言えなかったのかもしれない。


「私に、何か用かね?」

「ぬすんでごめんなさい。よごしてごめんなさい。たりなくてごめんなさい」


 両手で差し出した財布ともう一つの袋を、その人は驚いた顔で見た。もう一度私を見て、目を細める。

 まっすぐな人だと思っていたけれど、その顔はずいぶん柔らかい。私を見て、柔らかい表情をする人を初めて見た。


「落とした財布を拾ってくれたのかね。どうもありがとう」


 二つを受け取ったその人は、そのまま隣の人に渡した。

 盗んだと言っているのに、その人は怒鳴らなかった。大きな掌がゆっくりと持ち上げられる。反射的に一歩下がろうとした身体を押し止める。盗んだのだ。盗んでいなくても殴られるのが当たり前なのだから、盗んだのなら尚更だ。

 不思議と必ず視界に入った位置を保った掌が、私の頭に届いた。振り落とされたことしかないので、やけにのんびりした速度だと思ったし、まったく痛くなくて首を傾げる。

 長い指は、塊になっている私の髪をとても弱い力で掻き分けていく。

 商店通りで見た親が、子どもの頭によくしている動作によく似ていて、居心地が悪い。頭は殴られるもので、蹴り飛ばされるもので、踏みつけられるもので、髪を掴んで振り回されるもので、叩きつけられるものだ。

 手を軽く離したその人は、汚れた自分の手を見て眉を顰めた。


「……手当はしていないのか。ヴァレトリ」


 最後の言葉だけ速度が上がった。それが名前だと気付いたのは、鼠色の人が応えたからだ。


「傷薬も包帯も使った形跡はないですね。それと」


 鼠色の人がその人に目線を合わせるように屈み、私は思わず一歩下がった。大きくて柔らかく動く温かな手が離れて、なんだか急に頭が寒くなった。ついさっきまでそんなものが頭に触れたことなどなかったのに、頭がすうすうする。

 その人は、鼠色の人が開いた財布の中を見て、瞬きを一つした。

 財布の中にはぴかぴかのお金に、泥と錆と何か分からない汚れで埋もれたお金が交ざっている。足りないのは分かっている。だって、林檎一つ分にも十七枚足りなかったのに、三つ分も使ったのだ。これは殴られて然るべきだ。

 殺されるかなぁと思いながら見ていたら、その人は困ったように私へ視線を戻した。


「このお金は、君が集めたものなのだろう?」

「はい。でも、りんごをかえなくて、あなたのものからぬすみました。ごめんなさい」

「林檎が食べたかったのかね?」


 こんなに、夜風のように静かに話す人を初めて見た。


「みせで、びょうきのこがりんごをすりおろしたものならたべられるってきいたから」

「……病気の子が、いるのかね?」

「びょうきかけがかわからないけど、なにもたべられなくて。あのこがたべられるものがなかったから」

「君の弟妹かね?」


 私は首を振った。


「きのうひろった。ごみにうまってたけどいきをしていたから、ひろってかえった」

「……そうか。その子はいま、どこにいるのかね?」

「さっきうめてきた」


 その人と鼠色の人は、顔を動かさず視線を合わせた。その人はすぐに私へ視線を戻し、私の手を見た。土だらけの手をゆっくりと取り、大きな手の中で動かす。そして驚いた顔をした。


「……爪がすべて剥がれている。手で掘ったのかね?」

「うめないと、くいちらかされるから。……でも、もっとふかくうめればよかった。りんご、すりおろすまえにしんでたべられなかったけれど、うれしそうにしてたからいっしょにうめた。けど、あんなのしられたらほりかえされる。なににもきづかれないよう、もっとふかくほればよかった」

「……そうか」


 こんなに話したのは初めてだ。そもそも、話すという行為はスラムではあまり意味を為さない。最近スラムに来た物はよく喋るけれど、それだけだ。

 こんなに話すのも、私の音を聞いてくれるのも、殴られないのも初めてだ。なんだか不思議な気持ちだ。


「ヴァレトリ、頼んでも構わないだろうか」

「……へぇへぇ。どうせ、駄目って言っても聞いちゃくれないんでしょうよ」

「すまない。少し付き合ってほしい」

「どこまでもお供致しますよ。あんたが目指す場所が、僕の未来だ」

「ありがとう」


 どうしてだか、少しぼんやりしてしまった私の前で、何やら話が終わっていた。他の存在がいる場所でぼんやりするなんて死に直結するのに、なんだかおかしいのだ。何かあったら走って逃げなきゃいけないのに、今まで感じたことのないほど身体が重い。血が止まっていないから、そのせいかもしれない。


「失礼」


 そう思っていた視界が、急に上がった。世界が揺れて飛びあがったから、私は驚いて目の前にあったものにしがみついた。私の汚れがそのまま綺麗なものに移る。移ったのに、私が綺麗になるわけではない。私が握ったものは一緒に汚れていくだけだ。

 無意識に手を離していた。これは汚していいものではない。私が触れていいものではないのだ。

 両手を離した私の身体はそのまま後ろに落ちていくはずだったのに、大きく温かな手が私の背を支えた。


「その子のもとへ案内してくれるかね?」


 温かな手の中で、高い場所に私はいた。その人の顔はとても近くて、触れられる星のような瞳が私のすぐ側にある。そこに嫌悪も不快感も怒りも浮かんでいないのが不思議だった。


「なににつかうの? あのこをつかうのはだめ。つかうならわたしにして。だめ。あのこはもう、なんにもいたくないばしょでねむるから。つかうならわたしにして。わたしのほうがいきていて、すこしおおきいから、わたしにして。ちいさなこはだめ。つかうならわたしにして」


 そう頼んだら、その人は妙な顔をした。

 お腹が痛いような、お腹が空いたような、寝床を取られたような、食い散らかされたような、そんな顔だった。


「……何にも使いはしない。二度と掘り返されたりせず、静かに眠れる場所にその子を案内したいのだが、どうだろうか」

「それはどこにあるの?」

「神殿の墓地だ」


 私は首を傾げた。


「ぼちはにんげんがはいるばしょでしょう? わたしたちはものだもの。しぬまえにはいきされたのだから、あとはもうごみすてばにしかかえれないよ」


 その人は静かに首を振る。不思議な人だ。だって、まるで私を人のように扱う。目線を合わせ、言葉を交わす。そして、一番信じられないのが、私に触れていることだ。


「君達は人だ。間違いなく人なのだ。間違っているのは、君達を人として扱わない人間を作り出している我々だ。……本来神殿が真っ先に着手しなければならないことなのだ」


 この人の言っていることはよく分からないけれど、薄汚い害獣であり、駆除されるべき害虫であり、穢らわしい病の元であり、人の身に、世界に降りかかる不幸すべての原因であるらしいスラムの物の一つである私を、まるで人のように抱き上げているこの人が不思議なことはよく分かった。

 こんな距離で人と話すのは初めてだ。殴られる以外で、人に触れられるのも。

 どうしてだかずっとぼんやりした重さが消えない私を、その人は一度も大声を出さず、罵らず、見つめている。


「君さえよければ、私と一緒に来ないだろうか」

「わたしもぼちにはいるの? まだこわれるのはこまる」

「いいや。私と一緒に生活をしないかと問うているんだ」

「なににつかうの? あなたがつかうの? だれかにつかわせるの? おかねかってにつかったぶんはかえせる?」


 その人はすぐにお腹が痛そうな顔をする。きっと私が汚いからだ。下ろしてもらおうとしたのに、びくともしない。まるで丸太に乗っかっているようだ。木みたいな人だなと思った。


「ディーク様、これは埒明きませんよ。貴方が連れていくと決めたならもうそうしたらいいとは思いますがね、貴方の言っていることを理解するには十年や二十年いりそうだ」

「……そのようだ」


 その人は、スラムに向けて歩き始めた。


「できるなら君の了承を得てからにしたかったのだが、それは無理そうだ。だから、君は私と来なさい。時間をかけて、暮らしていこう。君の名前は?」

「ごみ、がき、くそ、くず、てめぇとよばれることがおおいから、すきなのをつかって」


 長く、深く、重い息が吐かれた。明日の食べ物を悩む以外でこんな息を吐く人を初めて見た。


「一晩もらって構わないだろうか。君の有り様に相応しい、美しい名を贈ろう」


 よく分からないが、一つ言っておかなければならないことがある。


「よるのすらむはあぶないから、ひとはちかづかないほうがいいよ」

「大丈夫だ。ヴァレトリ、彼は強い」


 鼠色の人は肩を竦めた。強いらしい。

 この人が言うのならきっとそうなのだろうと思った。なんの根拠もなくそう思うのはおかしなことだけど、今はもう、これが全部嘘でもいいと思った。

 私はもしかして、持たれているのでも捕まっているのでもなく、抱き上げられているのではないかと、このとき初めて気がついた。

 気がついた瞬間、私の身体はさっきよりもっとずっと重たくなった。

 できるだけこの人に触れないよう離していた私の身体を、この人は背を押すことで近づけた。頭の傷口には触れないよう、けれど確かな強さで押されて、ついに私の身体は完全にこの人と引っ付いた。


「申し訳ないが、その子のもとに着くまで頑張ってほしい。その後はもう眠ってしまいなさい」


 眠る? 人の前で? 眠る? どうして?

 不思議な言葉だ。不思議な気持ちだ。ああけれど、身体はとても重い。どうしてだろう。重いのに、つらくはないのだ。


「君はとても疲れているから、もう眠いだろう。すまない。もう少し頑張ってほしい」


 そうか、どうやら私は疲れているらしい。

 ずっと、ずっと、疲れていたのかもしれないと、そのとき初めて気がついた。


 疲れても食べ物を探さなくてはいけないし、危ない物からは逃げないといけない。だから疲れても意味がないので、今まで気がつかなかった。


「神殿には君と年の近い子もいる。事情があり今はまだ会えないが、そのうちきっと共に遊べるようになる」

「としの、ちかいこ……」

「七歳になる男の子だ。君と同じくとても聡い子で、私は君達の気がとても合うように思える」


 怒鳴っているわけでも脅えているわけでもいらついているわけでもない大人の声は、こんなにも柔らかく聞こえるのだと初めて知った。

 初めてがいっぱいあったその夜は、あらゆることが不思議なほどに静かだった。静かで、穏やかで、柔らかくて、温かくて。

 あの子がもう少し息をできていたら、この奇跡に触れられたかもしれないありえない可能性が、少しだけ冷たかった。








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