63聖
幸い捕まることなくスラムに帰ってきた私は、周囲に生き物の気配がないことを確認し、子どもを寝かせた寝床に潜り込んだ。
子どもは、私が寝かせた体勢のまま微動だにしていなかった。だらりと投げ出された手足も、ぐったり傾いた首もそのままだ。虚ろに開かれた瞳すらも変わらず、目蓋は閉じられていない。
ただ、私が戻ってきたとき、僅かに瞳が動いた。彼の横に座るまで、ずっと瞳が追ってくる。
私が寝床にしている場所は私達だからこそ入れるような隙間だったから、子どもを寝かせると私が寝転ぶ場所はない。そもそも眠るつもりはなかったので、手足を小さく縮こめて子どもの横に座る。
看病なんてことはしなかった。だって、ここには何もないのだ。薬も、清潔な寝床も、知識も、栄養ある食べ物も、飲んでもお腹が痛くならない水も。賢い人も、温かな人も、優しい人も。誰も。人も命も明日も。何も。
子どもは眠らなかった。ずっと私を見ていた。せめて子どもが寒くならないよう、身体を引っ付けて座っている私を見ていた。ときどき意識を失っていたようだが、それでもずっと。
そんな子どもを、私も見ていた。何度拭っても落ちてくる血が邪魔で、腕で拭いながら過ごした夜は、今までで一番静かだった。
外が明るくなったので、そろそろ行こうと欠伸をする。薄い呼吸と動く眼球だけが生の証である子どもの視線が私を追う。
「さむい?」
視線が揺れる。
「おなかすいた?」
視線が揺れる。
「ねむい?」
視線が揺れる。
視線だけが動いていて、薄く空いた唇からは言葉も悲鳴も恨み言も出てこない。そもそも、そんな感情を抱ける年齢なのだろうか。分からないけれど、嬉しいも美味しいもきっと分かるだろうから。
「まってて。くさってないものもってくる」
あてはないけれど、あてがないと叶わないならば私達が生きる術は一つだってない。
私は、座っていた場所の平らなゴミを剥ぎ、その下からひしゃげた缶を取り出した。その中でからから鳴るのは、小さな小さな硬貨だ。者が買い物をするとき落とすお金。落ちれば慌てて追いかけるが、分からなくなれば必死に探すほどでもないお金。そういうお金を、集めて貯めた。林檎一個買うまで、あと十七枚ほどいるだろう。
昨日の今日なので商店通りの警戒は厳しそうだが、やるしかない。
私は子どもの頭を撫で、寝床から這い出した。
いつもの倍以上気をつけながら、商店通りに近づく。仕入れた品を、または毎夜引っ込めては朝に持ってくる品を、忙しなく並べている人々と、それらの品を求めて早足で歩き回る人々でごった返している。こういう時にお金は落ちるのだ。
誰しもが忙しい時間に、小さな小さなお金を必至に追いかける人は少ない。
だから諦められたお金の狙い目なのだが、狙い所はみんな一緒だ。スラムから物が溢れ出していた時代は、この時間帯も物が大量に現れていた。
だが警邏が出てきての大掃除で、見かける数だけではなくスラム内での数もかなり減った。その後、見つかりづらい子ども以外はあまり近寄らなくなった。そして、見つかった子どもも当然破壊され処分されるので、子どもも近づけなくなり、今に至る。
だから、細心の注意を払いながら身を隠し、耳を澄ます。薄く小さなお金が落ちる音を聞き逃さないように。
しかし、すぐに別のことに意識を割かねばならなくなった。こっちに近づいてくる足音がしたのだ。
私は積まれたゴミの山に隠れている。荷物の影のほうが隠れ場所は多いが、商品として扱われる荷の側は当然人目が厳しいし、人の行き来が激しい。こっちは捨てにくる人が主となり、用事が済めばすぐにいなくなるので隠れやすいのだ。
ゴミが捨てられるまでじっと身を潜める。
しかし、ゴミが捨てられる音も人が立ち去る気配もない。
細心の注意を払いながら、そっと頭を出す。
そこには、美しい人の背中があった。綺麗に梳られた髪、汚れはもちろん皺一つない服。何より、歪みなくまっすぐに立つその背に、食べ物でもないのに見惚れた。食べられないのに、じっと見てしまう。食べ物に換えられないのに、その背は好ましかった。
だって、美しかったのだ。立ち姿が、纏う気配が、まるで飲んでもお腹が痛くならない水のようで。
綺麗だったのだ。
危険だと分かっていながら、もう少し、まだもう少し見ていたいと頭を出したままになっていた私は、次なる足音を聞いて夢から覚めるように慌てて首を引っ込めた。それはもう反射だった。反射的に人の目を避けるように動いてきたのに、その反射が動かなかったさっきがおかしかったのだ。
「クラウディオーツ様、そろそろ」
ゴミの隙間からはよく見えないが、どうやら鼠色の髪をした人が話しかけているようだ。クラウディオーツ。口の中で、復唱してみる。
鼠色の髪をした人も綺麗な格好をしているのに、クラウディオーツと呼ばれた人に恭しい態度を取っているから、きっと貴族様だ。貴族様がどうしてこんな場所にいるかは分からないが、珍しいものを見た。
「ああ、そうしよう」
夏に茹だり上がった水のように柔らかく、けれど冬に凍り付いた水のようにはっきりした声だ。
「今日がよき一日となるよう、祈ろう」
「貴方様も」
その人は、どすどすも、どたどたも、ばたばたも、てくてくもせず、歩いていった。まるで水の上を歩いているかのような、綺麗な揺れだった。
凄いものを見たなと思った。背中しか見られなかったから、どんな顔をしていたかは分からない。けれど、不思議な声をしていた。柔らかくて甘い、若葉のような音だった。
あの人も、私を見つけたら殴るのかなと、ふと思った。それは者として当然の反応だったのに、何故だか想像できなくて不思議だ。
いや、手が汚れるから物は物で殴るのだろうと結論づけ、なんとなくさっきまでその人が立っていた場所へ視線を向け、私は動きを止めた。
あの人が去っていた方向へ視線を向け、もう一度戻す。そこには、綺麗な布の塊が落ちていた。知っている。人が買い物するときに取り出す物だ。お金が入っている物だ。財布だ。
無意識に滑り出した身体を目一杯伸ばし、それを掴んでいた。すぐにゴミの影に身を隠し、それを両手で胸に抱いたまま身動き取れなくなる。視線は目の前にゴミに固定したまま、それを抱きかかえてどれくらいの時間が経っただろう。このままこうしていても仕様がないと何度も自分に言い聞かせ、そっと胸から離したそれを覗き込む。
私が抱きしめてしまったせいで、綺麗だった布が汚れている。恐る恐る中を開けば、見たこともないほどお金が入っていた。その一番上にあった、この中で一番小さな価値の硬貨を一枚取り出す指が震えていて、首を傾げる。
だって、落としていったのだ。道に落ちている物は、拾った物の物なのだ。後は、力の強い物の物となる。だから、誰かに取られるまでは私の物なのに、なんだかとてもいけないことをしているように思えた。
怪我をしている人を踏みつけるような、病に震える子どもを殴りつけるような、そんな行為と同様に、とても罪深いことをしているように。
そんな思いを抱いていた私は、自分が握りしめている布の塊が二つあることにようやく気がついた。財布と紐で繋がった小袋がある。貴族様はいっぱいお金を持つのかもしれない。これ以上どうしようと思いながらそっちの袋を開けると、真っ白な布と小さいけれど歪み一つない缶が入っていた。缶の蓋を開けると、白い何かが入っている。匂いを嗅いでみると、草のような匂いがした。
どこかで嗅いだことがある匂いだと記憶を探る。
そういえば、者達が使っている傷薬がこんな匂いだったはずだ。争奪戦になるのでほとんど触ったことはないが、ゴミ山にこの手の匂いがする物があれば儲けものだと言っていた物がいたはずだ。もうとっくに死んだ物だが、その手の物を集めるのが得意で独り占めしていたので、それを欲しがった物に群がられて八つ裂きにされた。
見たことのないほど真っ白な布と、傷薬が私の手の中にある。それは不思議な光景だった。
殴られても、割れた瓶を振りかぶられても跳ねない心臓が、どうしてだか一所懸命動いている。昨日、全力で走って逃げたときより跳ねている。
何に跳ねているかは分からないけれど、なんだか不思議な気持ちだ。こんなに心臓が動いたのは初めてだった。
朝の人混みが落ち着くまで待って、私は行動に移した。人混みを避け、毎日この時間に買い物を始める目の見えない老婆を見つけ、物陰から声をかける。
「おばあさん、こんにちは」
「あらあら、こんにちは。どちらさんかしら」
老婆は私の居場所を見つけられないでいる。目が見えない代わりに、耳と鼻がいい老婆は、近づけば私の正体に気付いてしまう。だから風向きを気をつけながら、話を続ける。
「あのね、わたし、おかあさんからおかいものをたのまれたの。けれど、おみせのひとがこわくて、おかいものができなくて……」
老婆は声を上げて笑った。
「おやおや。何を買ってくるよう頼まれたんだい?」
「りんご。りんごを、みっつ」
「なるほどねぇ。果物屋の店主は、人はいいが声が大きいからねぇ。よし分かった。あたしが買ってきてあげよう。お金は持っているかい?」
「うん……」
風向きが変わり、慌てて立ち位置を変えながら老婆の手に硬貨を一枚のせる。老婆は両手で硬化の表面を撫で確認し、頷いた。
「ここで待ってるんだよ。すぐに買ってきてあげるから」
「ありがとう、おばあさん!」
「いいんだよ。けれど、次は自分でできるようにならなきゃね。知らない人にお金を渡すのはこれっきりにするんだよ。皆が皆、暇な婆さんじゃないからね。お金を取られることだってあるんだから」
「はぁい……」
分かっているから、人がよく、時間のあるこの人を選んだのだ。
老婆は機嫌良く商店通りへと向かい、言葉通りすぐに戻ってきた。どうやら自分の買い物は後回しにしてくれたようだ。
紙袋に入った林檎は、赤くて、丸くて、甘い匂いがした。こんな匂い、初めて嗅いだ。茶色くなくて、細くなくて、虫がいなくて、どろっとしていなくて、気持ち悪くならない匂い。
林檎って、こんなに重いんだとびっくりしながら、抱え直す。
「おばあさん、ありがとう。ねつがでているこも、きっとこれならたべられる」
「おや、じゃあ早く持っていっておやり。気をつけて帰るんだよ。転ぶんじゃないよ!」
「はぁい」
返事をし、他の誰かに見つかる前に駆け出す。一度だけ振り向いて確認した老婆は、私の足音が聞こえなくなるまでそこにいるつもりらしく、にこやかな笑顔で手を振っていた。
私はお腹の辺りに林檎を隠し、その上で誰にも見つからないよう気をつけて寝床まで帰った。
裸足の足はいつだって血が出ている。固くなる前に何度何度も破れるから、きっと一生このままなんだろう。でも痛くない。だって、綺麗な、あの全部がまっすぐだった人みたいに綺麗な林檎が、三つもある。
あの子もきっと、これなら食べられる。食べても生きられるか分からないけれど、食べないと生きられないから。きっとこれなら。
だってこんなに素敵な物見たことがない。スラムには一個だって存在しない、素敵な物だ。
私は走った。昨日私をいっぱい殴っていた男を途中で見つけたので、走りながら迂回したが、後はずっと走った。
周辺に人の気配がないことだけはしっかり確認し、私はようやく辿り着いた寝床に身体をねじ込んだ。
子どもは、相変わらず据えたにおいをさせながらそこにいた。朝見たときからまったく体勢が変わっていない。ただ、戻ってきた私を見つける視線の動きが鈍くなっただけだ。
「はい、りんご」
私はお腹から取り出した林檎を、子どもの手に持たせた。胸の上に置いた後、ほとんど力の入っていない子どもの両手を私の手で動かし、林檎に添える。
子どもの指が僅かに動き、林檎を握りしめた。顔の側に持っていくと、子どもの視線は私から林檎へと移った。
「いますりおろすから、まってて」
子どもの鼻が、すんっと動く。もう一回動く。もう一回。
そして薄く、本当に薄くだけれど、子どもは笑った。嬉しそうに、泣き出しそうに、初めて見つけた何か嬉しいものを抱えるように笑って。
死んだ。