62聖
ゴミ山に物が群がる。者が不要と捨てた物で繋ぎ合わせた身体で、物は明日に繋がろうとしている。
「ちくしょう、あいつどこいきやがった」
すぐ目の前を、ゴミを掻き分けた物が進んでいく。見つからないよう、不要と廃棄された物の隙間に埋もれる。口の中でころころ転がるそれを、ちょっと悩んで吐き捨てた。今日も昨日も何も食べてないからお腹は空いているが、自分に生えていたものを食べても意味はないと思ったのだ。
「あれだけ顔がよけりゃ使い道も多いってもんだ。ぜったいつかまえてやる。売るか使うかはそのあと考えりゃいい」
上もしたもみぎも左も、ぜんぶが廃棄されたゴミ。貴方も私も廃棄物。
物は、自分より価値のない物を探すのに必死だ。自分より力ない物を探す癖がついている。呼吸より意識的に、流血より無意識に。それらを踏み台にして少しでもゴミに溺れる時間を稼ごうと。
その癖が魂に染みついたら、もしも次の生があったとしても、ずっと物のままだろう。
いらつきながら瓶を蹴り割った物の向こうを、他の物が通り過ぎていく。最近どこからかあらわれた物だ。それらはいつも、不満と非難と不平と鬱屈と苛つきと葛藤と悩みと愚痴を垂れ流している。
「あいつ、ぶつくさうるさいわね」
「さっきまでガキなぐってたのに。逃げられたのか? だせぇ。ああいうのは、ちょっと優しくしてやりゃ長く使えるのに。懐柔が大事ってね、って、うわ、そこで死んでるからくせぇな。じゃま」
「ほんとだ。あっちで死んでくれりゃよかったのに……あー、こいつあれだ。なんかやべぇのに首つっこんだとか言われてたやつだわ。ばーか、死んでやんのー。まずはさー、どうにかしてあっちと取り持ってくれる奴探してからでしょ」
「ちゃんと人脈作って、頭使って生きねぇとなぁ。こいつらみたいにはなりたくねぇよな。みっともねぇ」
「ほんとほんと。めし配ってるあいつらみたいなのにも。いい人ぶりたいの丸わかり。だいたい、スープもすっかすか。もっと肉を多くして栄養とかさ、そういうのがないと金けちってんの丸わかりじゃん」
「だよな。ぜったいどっかで金ちょろまかしてんだぜ。月一回とかありえないし。本当にやる気あるなら、毎日だろ。どうせあいつら、毎日うまいもん食ってんだから、自分たちの食う回数へらせばさ、こっちの回数ふやせるってのに、それさえしないんだから。ちょっと頭回せば分かることなのにな。オレたちみたいに上手に生きらねぇからそうなるんだ」
「しかたないよ。だってさ、みんなバカばっかりじゃん。そのくせ役にも立たない」
人脈があって、頭を回して、上手に生きている存在は、とっくにスラムを出ているし、こんな所まで流れ着かない。そこで死んでいる物だって、ここを出るために危険を冒し、死んだだけだ。
私の前を歩いていく二つは、ずっと何かを貶している。馬鹿にしている。嘲笑っている。
「善意がないよな。思いやりとか真心とか」
「親切にしてやってるって感じが臭ってるのばればれだよね。施してやってるぞーって」
「前にもいたよな。家には置いてやるから、なんかまっとーになれ、いろいろ学べーってやつ」
「ああ、いたいた! ムダな本いっぱい読まそうとしたやつ! で、学んで仕事見つけろってうるさいの。あれってさ、勉強できる奴と知り合いの自分を自慢したかったんだよね、絶対」
「だよな。本当に善意からなら、あれしろ、これしろって言わねぇもんな」
この二つが求めている「善意」「真心」「思いやり」とは、自らだけに都合のいい無償の奉仕と献身を指す。
目に映るすべてが気に入らない。存在すべてが馬鹿らしい。手当たり次第に泥を投げつけないと気が済まない。泥を投げつけ、相手が汚れるのを待っている。相手の嫌悪を、不快感を、待っている。
誰も彼もが馬鹿で、世界中は穢れたものばかりで構成されていて、自分達だけがそれを知っていると思っている。すべての出来事には裏があり、すべての善意には醜い自己愛と企みがあると思っている。
自分達だけはそれを知っていて。世界の真理も知恵も知識も、すべて知っていて。自分が知っていることすべて、気付かない人ばかりが溢れていると思っている。
だってそうじゃなきゃ、自分があまりに惨めだから。
せめて、何かを知っていると思わないと、あいつらは何も知らないと思わないと、自分の今日があまりに。
自分があまりに、汚くて。
誰も彼もが汚いと思っていないと、この世には自分以上に賢いものはあり得ないと思っていないと、自分だけが惨めで。この世には美しいものなどないと思っていないと、自分だけが汚い物になってしまうから。
だから他者が必要なのだ。自分の意見がないから、自分では嫌悪感も育てられないから。好き嫌いすら、生み出せないから。
種となる他者が作り出した物や結果が必要で、それを評価するという名目でもって初めて自分の意見を持てる人間は批判が大好きだ。だって他者の行動の結果は、自分の意見を発表できる場だと思っているから。
他者の結果を嗤うことで初めて考え、行動する。高尚な自分を他者に見せつけることができる場だとしか考えていない。全部幻だったとしても、誰かの結果を嘲笑い、貶せる自分はその誰かより偉いと思えるらしい。
だから、何も生み出さないのに、誰かの結果だけは欲しいのだ。
世界を嘲る物と、自身を哀れむ物と、溺れまいと他者を沈める物と、不幸を嘆く物と、自身を投げ出す物と、もう物であったことも忘れた物と。
大小違いはあれど、左右に差違はあれど、大体がそんな物で構成されたゴミ山で、じっと待つ。私を殴っていた物がいなくなるまで、ずっと。
ようやく物がいなくなったのは、太陽がずいぶんと傾いてからだった。そろそろ夜がぐんと冷える時期になったから、早く寝床に帰らなければいけない。
ゴミで濡れて冷えた身体をどうにかしなければならないけれど、どうにもならない。諦めるしかない。風邪をひかないよう、祈るだけだ。
ゴミ山からゴミを潰しながら這い出したとき、ぐにゃりと柔らかいものを潰した。また何か腐った物を潰したかなと思ったけれど、それにしては弾力があって、温かい。
なんだろうと視線を向ければ、肉があった。腐りかけの、腐る寸前に息が残ってしまった。そんな、小さな肉塊と目が合った。虚ろながらんどうが私を見て、水などとっくに涸れ果てた薄い唇が、息をした。
子どもを拾った。小さな小さな子どもだ。
私でも持てたくらいだから、どうしようもないほど小さな子どもだ。子どもは乾いていた。乾いていたのにぐちゃぐちゃしていて、もうほとんど熱を持っていなかった。
けれど生きていたから。息をして、心臓を止めず、光も色もない瞳を僅かに揺らしながら、私を見ていたから。
子どもは、私より小さかったから。私より、世界に発生して間もなかったから。
私だって、知っている。
子どもは守るもので。
若者は支えるもので。
大人は目指すもので。
老人は手伝うもので。
そう、知っているのだ。
だから、連れて帰った。冬を越すためになんとか掻き集めたけれど、それでもまったく足りていないゴミで作った寝床に寝かせた。
子どもは、泥水も鼠から奪い取った腐った果物も食べなかった。私が今日食べようと用意していた物はそれだけだったので、他に何もなくて途方に暮れた。一応探しにいったが、これから冬を迎えようとしてる世界で、ただでさえ存在しない食べられる物が残っているはずはない。
だからちょっと足を伸ばし、スラム街から出た先まで探しにいった。
夜は、昼間よりも者の世界に入り込みやすい。闇は物を隠してくれる。同時に隠される。光に見つからないのと、見つけてもらえないのは、どちらが悲しいのだろう。
分からない。知らない。意味もない。
あの子は、何が食べられるんだろう。考える。食べられる食べられないは、毒があるかないかでしか考えたことがないから、分からない。手に入ったものが、食べられるもの。それしか知らない。
でも、あの子は食べられなかった。だから食べられるものをとってこなければならない。
一日中賑やかだった屋台の群れも、酔っぱらいを対象としている店以外は撤収を始める時間だ。あちこちで店仕舞いが始まっている。そんな折、一つの屋台に若い男が駆け寄った。
「待って! 待ってくれ!」
慌てた様子で屋台に両手をついた男は、切れた息で必死に言葉を紡ぐ。
「り、林檎。林檎三つ……いや、十個くれ!」
「あ、ああ。もちろん。でも、どうしたんだい。そんなに急いでさ」
店主である中年の女は、驚きながらも身体ごと男へ向け、話に応じた。ようやく息を整えた男は、よほど急いだのだろう。汗を拭いながら、上気した頬を暑そうに掌で仰いだ。
「子どもの具合が悪くて、なにも食べたがらないんだ。でも、林檎なら食べるって言うからさ。これ持って帰って、食べれるだけすりおろしてやるつもりなんだ」
「そりゃ大変だ。よし、どうせもう店仕舞いなんだ。おまけしてやるよ。いっぱい食べさせてやりな」
「すまない、助かるよ」
男は嬉しそうに笑った。
林檎。林檎をすりおろしたら、あの子も食べられるだろうか。
けれど林檎は、運がよくても腐りかけの芯しか見つけられないだろう。山にも生えていない。危険は大きいが、どこかの庭に植わっていないか探してみるべきだろうか。
店主が林檎を詰めている間、ふと隣の店に目をやる。空き瓶を片付けている店主は、かなりの高齢だ。
「爺さん、俺が運ぼうか?」
「いやいや、客に手伝ってもらうわけにはいかんさ」
「そういうなよ。俺もそこの店主におまけもらったからには、この商店通りに礼を返さなくちゃいけないだろ」
話が聞こえたのだろう。林檎の他にも売れ残った日持ちのしない果物をおまけに入れていた女店主は、笑いながら身を乗り出した。
「せっかくやってくれるって言うんだから、やってもらいなよ爺さん。膝痛めてから苦労してるじゃないか」
老店主は少し迷ったが、男のやる気と女店主の言葉に背を押されたらしい。くすぐったそうに笑い、頷いた。
「ああ、悪いねぇ」
「いいっていいって」
男は気前よく引き受け、腕まくりをする。
「よかったらこれを持っていきな。あんたが疲れた顔してちゃ、子どもだって悲しむだろうからね」
老店主は、疲労によく聞くと噂の茶葉を男に渡した。男は礼を言い、嬉しそうに笑う。
林檎の調達方法に気を取られて、反応が遅れた。男は、私が隠れていた物陰に向けて歩いてきていた。
目が合った瞬間、男の声が跳ね上がった。
「スラムのガキだ!」
先程まで穏やかに会話をしながら店仕舞いをしていた商店通りの人間が、一斉に私を向く。
「盗られた物がないか確認しろ!」
「捕まえろ!」
「駄目だ触るな! 病気がうつるぞ!」
「住み着く前に殺せ! あんなのが住み着き始めれば客が来なくなるぞ!」
すぐに身を翻したが、すでに背後から重なった音が聞こえる。大勢が走り出した音だ。
「早くそいつを殺しておくれ!」
女店主の声がする。
「住処から出てきたそいつが悪いんだ!}
老店主の声がする。
「ったく! 人間の世界に害為す鼠も虫もあいつらも、全部まとめて死にやがらねぇかな、っと!」
最後に聞こえた男の声と共に、後頭部で重い衝撃が弾けた。
衝撃は重かったのに、発された音はやけに軽くて。周囲に飛び散った星のような破片と、真っ赤な雨に、瓶が後頭部に直撃したのだと理解した。
幸いだったのは、倒れ込まず足が進み続けていたことだ。視界が揺れ掠れ、赤に染まり、よく見えない。耳も、なんだか水の中にいるように聞こえる。
それでもこんなことはしょっちゅうなので、慣れた道程は僅かな視界があれば走り抜けられた。
店仕舞いが多く起こるこの時間、日持ちのしない食料が廃棄されるこの時間。スラムから物が雪崩れ込んできた時代があった。早く来ればそれだけ食べ物にありつける可能性が上がる。そのうち、時間関係なくスラムの物は商店通り近辺に出没し始めた。
スラムの物が流出すれば、目に見えて治安は悪化する。治安が悪く、衛生という概念のない物がうろつく場所で買い物をしたい者などいない。自然と客足は遠のき始めた。
そんな過去があるから、店主達はスラムから流れ出てきた物を決して許さない。店に鼠が厳禁なように、寝室に虫は毛嫌いされるように。景観を整えるため雑草を駆除するように。
子を案じ、果物を買いに息を切らせてきた優しい父親も、そんな父親へ色んな果物をおまけする気の利いた優しい女店主も、親切には礼節を持って返せる老店主も、それらはすべて人間同士で成り立つ優しさであり、礼節だ。
だから、物には関わりないことである。
まいったまいった。しっぱいした。いつもはうまくやるのにな。こんどはきをつけよう。
自分達が撒いたガラス片が邪魔で距離を縮められなかった者達を振り切りながら、私は反省した。
こんなことは日常茶飯事だ。石が飛んでくることも、瓶が飛んでくることも、怒声も破壊も当然だ。だってそれは、罪にならないのだから。
これらはすべて正常で、とりとめのない日常だ。
「子どもを相手に何をしている!」
背後から聞こえた私に向けられたわけではない鋭い声だけが、異常だった。
異常に首を傾げつつも、私は背後から追いかけてくる音が消えた事実に安堵した。
明日は気をつけよう。