61聖
「エーレ! エーレ駄目です!」
あなたの炎は、目立つのだ。
隣から噴き出した熱風に、私は必至にその視界を左手で遮った。
「離せ!」
「いまあなたが掴もうとしている私の手、折れてますからね! 手首と指! 私は全力で抵抗しますから、力尽くで引き剥がせば生き残った指も全部折れますがよろしく!」
ぐっと呻いたエーレは上げかけていた腕の動きを止めた。だが、周囲に散る炎が収め切れていない。すでに身体から神力が漏れ出している状況で、感情のまま力を使ってしまえば、見る人が見れば一発でエーレと分かってしまう。
「……離せ、マリヴェル」
「駄目です」
「俺はあれを許すわけにはいかない。たとえ俺が神官としての立場を失おうが、絶対にだ!」
「あなたを失えば、神殿の痛手は計り知れません! そして私も! 今の私に、一人で神殿に戻れと言うんですか!」
ここでエーレが出るのは最終手段だ。エーレだってそれを分かっているはずなのだ。それなのに、まだ納得し切れていない。炎が収まらない。
「王子、あれは今の戦力で始末できますか!?」
エーレが落ち着かず、人々の視線があれに集中している隙に、壁と植木の隙間に押しこむ。急に自律歩行をやめた私の体重でよろめかせたともいう。これでエーレが転べば、私の身体は大惨事だが、細かいことを言っている場合ではない。
文字通り世界に血の雨を降らして踊っている私を見上げ、王子は忌々しげに舌打ちをした。
「すまぬが、エーレを出す可能性も視野にいれておけ。ああも自在に飛ぶ輩を外に出した時点で、余らの不利は定まった。そもそも、あれに対応できるほどの神力持ちを連れてはおらん」
「……どういう状況で、あれは現れたんですか」
「余も直接見てはおらぬが、いつの間にか会場内にいたそうだ。あの服だ。目立たぬはずがないのだが」
そもそも、招待状もなく忍び込める場所ではないし、招待状があったとしてもあの格好だ。正面で止められているはずだ。それを強行突破したのであれば、いつの間にか会場にいた、なんて状況にはならないだろう。
「円を描くように、周囲にいた人間を八つ裂きにしたそうだ」
あの返り血は、その時のものか。
「そして、手当たり次第の人間に口づけして回ったそうだ」
「……ん?」
私は首を傾げ、私に視界を塞がれているエーレは舌打ちした。さっきから王子とエーレという、アデウス国で頂点を極める由緒正しき高貴なる血をお持ちの方々の行儀が悪い。
「その連中は誰も殺しておらん」
「マリヴェル、もういい。手を離せ。飛び出しはしない」
首を傾げている間に、エーレが落ち着いていたらしい。そぉっと手をずらせば、地獄の業火でももうちょっと可愛げがあるとぞと言いたくなるどす黒い色をした炎が見えた。そっと手を戻した。
「いいから離せ」
「飛び出さないだけでどう見ても危ういんですが」
「あれは、お前の顔を周りの人間に覚えさせた。人殺しをした人間の顔として」
ああ、成程。ようやく謎の行為についての合点がいった。なんとも品のない悪意である。
最近、私じゃない私にばかり出会っている気がする。
私の身体を好き勝手に使う謎の存在にも困っていたが、これは群を抜いて達が悪い。確かにこれは、やられたとしかいいようがない。
「うーん、破廉恥」
「マリヴェル。駄目だ。あれは俺が殺す。あれは必ず、神殿が殺すべきものだ」
いつの間にか、私の手は外されていた。どうやったのか、まるで痛みを感じなかった。
女は楽しそうに踊っている。飛んでくる矢も、神力による攻撃も、風に煽られる花びらのように避けている。そうかと思えば急降下し、兵士達に口づけして回った。その際に斬りつけられても、何がどうなっているのか、身体に剣がめり込んだにもかかわらず傷一つついていない。痛みも感じていないのだろう。微笑みながら次の人間に手を伸ばす。
服だけが失われていくので、もし私がしていたら神官長及び神殿関係者全員からの拳骨は免れない格好のまま、私とは思えないほど妖艶な笑みで。口づけをし、かと思えば血を撒き散らす。
分かっている。あれは、駄目だ。今すぐ行動不能にしなければならないものだ。
格好はともかく、異様な動きも傷一つつかない身体も、何一つとして見過ごせない。このまま町に出られると被害は計り知れないだろう。
「……エーレ、確実にあれを仕留められますか」
「必ず殺す。表面を焼いても無駄ならば、内を焼く。さっきお前の中にいた存在を焼いたように」
「そんなことしてたんですか……」
剣や並の神力で傷一つ負わないのであれば、それをも上回る高火力で押し潰すしかない。
本当ならばすぐにでもエーレに出てもらうべきだ。だが、これは敵の罠の可能性が高い。私に絶望を与えたいというろくでもない作戦の一環ならいい。だが、私の味方を炙り出すために行われたのであれば、エーレを出すわけにはいかない。
あれが、サロスン家に、私がいるいま現れた。それを偶然だと楽観視していい相手ではないと、とっくに分かっている。
分かっているからこそ、エーレを出すわけにはいかない。私に味方がいるとを知られても、それがエーレであるとは絶対に。
「マリヴェル!」
鋭い声を上げたエーレに、私も精一杯視線を上げる。あれが、再び空に戻ったのだ。
だが、まずい。楽しげに兵士達を見下ろしていた視線が余所を向いている。その方向には、町がある。貴族街より余程多くの人間が暮らす、町があるのに。
噛みしめた唇が血を流す。おかしいな、味がしない。苦くて濃くて不味い、命の味がしない。
「……エーレ、あれを無効化してください」
「御意、我が聖女」
恭しく頭を下げるエーレが、頼もしいのが少し苦い。無理だと首を振ってくれたほうが、彼自身の安全は保証されるというのに。
「殺されないでください」
「当然です」
「……この後も、絶対に」
「誰に向かって言っている」
下げた頭を上げ、ふんっと鼻で笑うものだから、私も笑うするしかない。普通の存在が相手なら、それこそあんな化け物が相手でないのなら、エーレを殺すには軍隊一つでは足りないだろう。
それなのに、そんなエーレを事件一つ投入するのに躊躇わなければならないのは、本当に悔しい。
エーレは支えがなくては立っていられない私を壁に置き、背を向けた。しかし少し考えて、もう少しずらして座り直させた。そうして私は、植木に隠れる形となった。完全に、置いていかれる荷物である。
お荷物なので間違いはないが、植木の高さで場所によっては全然見えなくなった。まあ、王子もいることだし、エーレが離れたら這いつくばって移動すればいい。
植木には遮られないほど高い位置を飛び回っている私の形をした女は、一度兵士達に向けてにこりと笑うと、完全に身体の向きを変えた。
「外に出させるな!」
「絶対に逃がすなぁ!」
誰しもが怒声を上げる。各自、己が起こせるすべての遠距離攻撃をしかけるが、女の身体には傷一つつかない。中には炎を扱う人間もいたが、女の皮膚には焦げ目一つつかない。
本当にどうなっているのだ。あれが幻なら納得もいくが、向こうからの攻撃で兵士は傷を負うのだから幻なわけがない。
「駄目です隊長! 止められません!」
「何が何でも止めろ! 絶対に町に出すなぁ!」
叫んだ男が、ひゅっと息を呑んだ。誰の手も届かぬ高さにいたはずの女が、目の前にいたのだ。サロスン家私軍の隊長である男は、流石の反射神経で剣を振りかぶった。
剣は女の首を通り抜けた。だが首は千切れず女は止まらず、両手を男に伸ばしたまま口を大きく開き、男の首に齧り付いた。
瞬間、凄まじい炎が女の内から噴き出した。女は絶叫を上げ、男から離れる。男は血が流れる首を押さえよろめいたが、誰の手も借りず一人で立ち、剣も取り落とさず女を睨み上げているので傷は浅そうだ。
女は再び宙に舞い上がった。だが、今度は笑みを浮かべていない。身の内からごうごうと噴き出す炎を消そうと悶え苦しんでいる。胸元をはたき、風を切り、ありとあらゆる手で火を消そうとしているが無駄だ。炎は女の中から噴き出し続ける。
女の悲鳴は、人のものとは思えなかった。蛇の威嚇のような、虫が這い回るような、奇妙な音だ。
女は絶叫を上げ、空で一回転するや否や、凄まじい速度で屋敷の外へ向かった。先程まで血の雨を降らせていた女の身体から、黒い物が降る。燃え尽きた女の身体だ。破片を振りまきながら屋敷の外へ向かう女を見上げるエーレの目に焦りはない。そのまま燃やし尽くすつもりなのだろう。
だが、エーレはふと視線を奇妙な位置に止めた。女から噴き出す炎の勢いが弱まる。
その隙をつき、女は速度を上げた。
そのまま屋敷の壁を越えようとしたその時、女の身体は大きな音を立てて弾かれた。
女を弾いたそれを見て、私は、サロスン家に来てからずっと感じていたちりちりとした違和感の正体にようやく気がついた。さぁっと血の気が引き、手足が戦慄く。
弾け飛んだ女の身体は幾度も回り、破片を撒き散らす。体積をどんどん減らしていく女がようやく体勢を整えられた瞬間、光が女を貫いた。何本もの光が女の身体を串刺しにし、空に固定する。
女は吠えた。獣より理性なく、本能とすら信じられない無機質な声で吠え立て、光の線が飛んできた方向へ向け、なんらかの術を放った。おそらく、夜会会場で人々を攻撃した術だろう。だが、その術は女が弾かれた位置ですべて霧散する。
結界だ。
その美しく強靱な結界に、私は絶望した。
そして、空に磔になった女の元へ翻った二つの影を最後まで見ることなく、目蓋を閉ざした。閉ざす前に見えてしまった光景が目に焼きついている。
空を覆う人の数。数多の神官を従える神官長。そして、女に向け剣を振りかぶったサヴァスとヴァレトリの姿が、消えない。
視界を閉ざした私の耳に、女の首が砕け散った音がはっきりと聞こえた。
「それでは、サロスン家邸宅の捜査権限、神殿が受け持つという取り決めでよろしいでしょうか」
「ああ、構わん。此度は神殿に助けられた。礼を言おう」
「勿体なきお言葉にございます」
王子に向かい、神より浅く頭を下げた神官長は、植木の隅で蹲ったまま動かない私と、その横に立つエーレへ視線を向けた。
「そちらの負傷者二人も、神殿が請け負いましょう。他の負傷者は如何致しましょうか」
「サロスン家にも癒術を取り扱える術者の一人や二人はおる。すべてを神殿に任せては、さすがに収まらん。その二人は任せた。何せ嫁入り前の娘二人だ。傷一つ残らぬよう頼むとしよ」
「神殿の名に懸けてお約束致しましょう」
それではな。軽く手を上げた王子が背を向ける。
この場の権限を神殿に明け渡した以上、ここから先は王子の仕事ではなくなる。勿論、強行すればここに残るくらいは可能だろう。しかし、神殿との仲を軋ませてまで残る理由はない。王子はデオーロやその書斎への対処が残っている。
最初は渋っていたサロスン家の人々も、王子の態度を見て完全に腹をくくった。王子が進むにつれ、神殿にその場を明け渡していく。
やがて、サロスン家の関係者は皆いなくなった。この場には神殿関係者しかいない。私を含めて、神殿の面子しかいない。それなのに、一息もつけない自分が悔しかった。
さっきよりずっと身体が痛い。首を上げるのも億劫なほど痛み、吐き気がしてきた。きっと私はいま、酷い顔をしている。
「エーレ、まさかお前が神官の職務を逸脱するとはなぁ」
女が跡形もなく燃え尽きた後も、一度たりとも剣をしまわないヴァレトリが、剣の背で自身の肩を叩いている。
「逸脱などしていない。これは俺の務めだ」
「おーい、エーレちゃーん? 大丈夫か? お目々覚めてる?」
少し糸目がちな目で弧を描いたヴァレトリは、それだけが特徴的な男だ。三十を少し超えた年齢にしては若く見えるが、濁った鼠色の髪、どこかで見たような顔つき、どこにでもいるような高くもなければ低くもない身体。中肉中背と呼ぶには少し細身だが、彼がその気になればどこにだって紛れ込めてしまう。
そんな特徴を意識して磨いてきた、神兵隊一番隊隊長。神殿の最高戦力。
そんな男が、殺気や警戒心は微塵も見せぬまま、剣をしまわない。その意味を、私達は嫌と言うほど分かっている。呼び方だってそうだ。ヴァレトリともあろう者が、人が一番嫌がる呼び方をあえてしている理由など、考えなくとも分かる。
「神殿が何故ここにいる?」
「エーレちゃんが言っただろ? 呪具を探せってな。見つけたから呼びにいきゃ、詰めてるはずの部屋はもぬけの殻ときた。ご丁寧に、その聖女候補も一緒に消えてりゃどうしようもない。流石の僕も庇いようがない。とりあえず呪具の反応がある場所に来てみれば、二人仲良く忍び逢いときたもんだ。僕に構わずどうぞ仲良くと言いたいところだけれど、そうもいかないよねぇ」
ひょいっと肩を竦めたヴァレトリの横で、サヴァスが困った顔をしている。神官長は何も言わない。神官長に声をかけられないことが救いになる日が来るだなんて、思わなかった。
耳を塞ぎたい。目を閉ざしたい。でも右腕はろくに動かない。左手だけじゃな足りない。ちょっともう、いろいろ、疲れた。痛いし、にがいし、苦しいし。呼吸でさえも疲れるから、このまま眠ってしまいたかった。
けれど、エーレは私が動くまで何も言わない。私が神官長と話すと決めるまで、エーレはどれだけ責められても事情を話さないだろう。だって神官は聖女の指示に従う。神官はたとえ世界がひっくり返ろうと聖女の味方だと、神官長が教えてくれたから。
「一人の聖女候補に入れ込むなんて、エーレちゃんともあろう者が落ちたねぇ。その子、そんなに好みだった? エーレちゃんが色恋沙汰だなんて、珍しいねぇ」
どれだけ侮辱されても、エーレは何も言わない。このまま牢に入れられても、神官の地位を剥奪されても、何も言わないだろう。私が、言わないと言ったから。
「エーレ・リシュターク」
「はっ」
静かな水面のような声がした。どんな音より真っ先に拾ってしまう声に、嫌でも意識が向く。この人に向いてしまう意識を嫌だと感じる自分が、一番呪わしかった。
「自分の行動を理解しているか」
「勿論です」
「一人の聖女候補に肩入れする行為は、神官としてふさわしくないだけではなく、根本的な背反行為となる」
「理解しております」
神官長は僅かに眉を動かした。あまり表に出すわけにはいかない場所で困っているときの顔だ。
「エーレ・リシュターク。言い分はないのか」
「ありません」
「……何の事情もなくそのような行為を撮る場合、私は君を罰しなくてはならない」
「無論です」
エーレは微動だにしない。姿勢を正し立ったまま、まっすぐに神官長を見るだけだ。
「エーレ、お前どうしちまったんだよ!」
泣き出しそうなのはサヴァスだけで、エーレ本人は何の感情も浮かべていない。
駄目だ。もう駄目だ。私が限界だ。そもそも私のわがままでこうなっているのだ。これ以上エーレ一人を矢面に立たせるわけにはいかない。
こうなった以上、もうどうしようもないのだ。最初から、私が出なければならなかったのに、覚悟が決まらずぐだぐだとしている間に、エーレ達が同士討ちで傷を負ってしまった。これは私の罪だ。
「エーレ、手を」
短く指示を出せば、エーレはさっと神官長から視線を外した。話が終わったわけでも緊急事態でもないのに、神官長より私を優先したエーレに、ヴァレトリの笑みは深まった。怒っているときほど笑う人だから、これは相当だ。
エーレの手を借り、なんとか立ち上がる。いろいろ痛いが、一番痛いのは身体のどこでもないのでもうどうでもよかった。
「エーレに罪はありませんよ。エーレは職務を全うしているだけです。むしろ、ヴァレトリ、職務を全うできていないのはあなた達です。神官長含めて、ですが」
「――へぇ」
これでもう、今のヴァレトリは二度と私を許さないだろう。神官長を生きる意味と定めたヴァレトリの生い立ちは、少し私と似ていた。
「あなた達は当代聖女の喪失に気付いたと聞いていましたが、私の聞き間違いだったようです。いまこの状況においてもまだ私が誰か思い至らぬと言うのなら、そんな神殿こちらから願い下げです。あなた達は役に立ちません。私が再び聖女に就任した暁には、全員クビですよ」
やれやれと竦めようとした肩が動かない。仕方なく、左だけ竦める。なんだか熱を持ってきたらしく、思考までじわりと熱を帯びる。
「あんたが十三代目聖女だって?」
「私以外誰がいます? 神殿の深部にいたのは、私がそこで暮らしていたからです。まったく……誰も彼もが役に立たない。本当に、失望しました」
欠伸をしつつ、エーレに預ける体重を増やす。立ったばかりだが、もうすでに座りたい。エーレは私を支えながら、何度も視線を動かしている。ヴァレトリはエーレの視線の先を素早く追っていた。
「その言い分で神殿の虎の子であるエーレを誑かして、こんな場所まで遠征か。いいご身分だな。そもそもが、アデウス全土から忘れ去られるなんて偉業が本当だったとして、だけどなぁ」
こういうとき、真っ先に憎まれ役を買って出るヴァレトリから、それを向けられるのは結構きつい。体力とは別のものがすり減っていく。
「――そうですよ。あなた達が役に立たないから、私が自ら動かなくてはならなかったのです。当代聖女を忘れ、神殿から追い出した。それなのに何故神罰下されないと思っているのです。私が神に祈ったからですよ。本当に、誰も彼もが役立たず」
吐き捨てても、ヴァレトリの顔は変わらない。深い笑みのままだ。
私とエーレが『普通』として生きて来られた場所が神殿だけのように、ヴァレトリにとっても神殿が故郷だ。神官長が生だ。
どんな人間にも逆鱗はある。ヴァレトリにとっての逆鱗は神官長が収める神殿なのだ。
それでも、この態度以外どうしろというのだ。取り出した記憶の中で、フガルは言った。神官長が収める神殿の中で、先代聖女派は数えるほどしか残っていないと。つまり、数えるほどは、いるのだ。
「あんたと同じ顔したあの化け物はどう説明するって?」
「あれが私の仕業ならば、わざわざ私の顔をさせる必要はないでしょう。姿形を自在に扱えるならば私以外の顔を取らせ、私の顔以外を作れぬのならばせめて仮面くらいはつけさせますよ。馬鹿じゃないんですから」
私にだって、逆鱗はある。逆鱗であり、根本であり、弱みであり、支えである場所が、人が。
この人達が害されたら、もうどうしていいのか分からなくなる。この人達が私の言すべてに確信を持ってくれたなら、自らの身を守ることもするだろう。だが、そんなことはあり得ない。あり得ないのだ。
私の言を頭の片隅に留めおく程度の防衛で、先代聖女を退けられるはずがない。エーレのように、最大限の警戒を以て当たってくれないと、その身を守れない。
お父さんなのだ。友達なのだ。悪友なのだ。仲間なのだ。
全部が全部、私の命としてのすべてなのに。一つだって、私には守れない。皆が自分で自分を守ってくれないと、私には一つだって守れないのだ。
「私が聖女候補である限り、神殿は私に手出しは出来ません。しかし、それ以上に私が当代聖女である可能性がある以上、あなた方は私の言に耳を傾ける義務があります。本来ならば耳を傾けるだけでなく、心を砕いて尽くす義務が発生しますが、あなた方にそこまで期待はしません。見所があるのは、リシュターク一級神官だけです」
神官長とココとカグマは表情を浮かべず、ヴァレトリは笑っていて、サヴァスは困っている。ペールはいない。神殿でお留守番組だろう。
おかしいな。もうずっとおかしい。大切な人達が囲んでいるこの場所が、世界で唯一安心できるはずなのに、頭がぐらぐらして全身ずきずきして、吐きそうで、叫びだして、消えてしまいたくて、消えてしまいたくて、消えてしまいたくて。
この人達がいるのに、こんな気持ちにならなくてはならないのが、もうずっと気持ちが悪い。
私は守れないから敵でいて。私は守れないから嫌っていて。私が誰も守れない罪を、あなた達からの嫌悪で罰してほしい。そして罪を罰したあなた達は、その功績で無事でいて。お願いだから、誰も、誰一人として無惨に殺されないで。
「神官長、彼女が十三代目聖女であるとすぐに信頼できぬのは重々承知しております。しかし現状、一番可能性があるのは彼女であるとも進言致します。当代聖女ではない彼女が、どうして神殿の深部に忍び込めたというのでしょう。それも、聖女の服を着て。あの部屋は彼女の部屋だった。部屋の荷を彼女の言と照らし合わせれば、確信は深まるかと」
言えるよ。何を持っていたか、ちゃんと分かってる。自分の物なんか持ったことがなかった私だから、自分が持った物はちゃんと覚えてる。
でも、神殿が完全に私の味方になると、先代聖女がどう出るか分からない。
それが、恐ろしい。
目眩がする。気持ちが悪い。痛い。吐きそう。眠りたい。眠りたくない。いなくなりたい。ここにいたい。何も聞きたくない。名前を呼んでほしい。
「何にせよ、カグマによる治療を要請します。彼女は重症なので」
「……許可しよう」
神官長の許可が出たことで、どこかそわそわしていたカグマがいつもより若干足早に足を踏み出した。同時に、周りを囲んでいた神官から大きな声が上がった。
「神殿を侮辱した者に施す慈悲はない!」
その声を皮切りに、ぱらぱらと似たような内容の声が上がった。カグマは足を止めない。カグマが私達の前に辿り着くと同時にエーレは私をゆっくりと座らせた。即座にカグマの手が私の全身を撫で回す。同じほど即座に、カグマの眉間に皺が寄った。重症でどうもすみません。
「そんな女、死ねばいいんだ!」
四番目に叫んだ男に視線を向けたエーレから炎が湧き上がった。あっという間に男を取り囲んだ炎とは逆に、ヴァレトリがエーレに斬りかかる。天まで立ち上る巨大な炎は私達をヴァレトリから守ったが、男を囲んだ炎は周囲を焦すほどの熱を放っている。
ヴァレトリの剣を炎の渦で受け止めた背後から、サヴァスが剣を振りかぶった。エーレの視線はサヴァスを向かない。まっすぐにヴァレトリを見ている。炎だけが生き物のように蠢き、サヴァスの剣を巻き取った。
「同じ組織に属する誼だ。一つ、警告する」
聖女がいないならば、神殿を治める者は神官長で、その代理を務める者は指名がなければ一番隊隊長だ。エーレはヴァレトリだけを見ている。
「マリヴェルに手を出す者は、例外なく殺す」
「エーレ! お前、正気か!?」
サヴァスの悲痛な声にも、エーレは反応しない。
「マリヴェルは当代聖女だ。当代聖女を守護するは神官の務め。何のおかしなことがある」
神官は聖女を守護する。エーレは何も間違ったことは言っていないのに、奇妙な者を見る目が集まる。敵意が、嫌悪が集まる。今の神殿にとって、エーレだけが異端なのだ。
それでもエーレは一歩も引かなかった。
「俺もお前も……現在神殿の上位についている者は全て、マリヴェルを己が聖女と定めた者だ。この先どれだけの聖女が現れようと、彼女を唯一とし、彼女が神殿を去る日が来れば神官としての職を退くと、神官としての生をそこで区切ると誓った。……ヴァレトリ、頼むからやめてくれ。覚えていないのは仕方ない。お前達の罪ではないと、当代聖女は定めた。だがマリヴェルは……マリヴェルに、だけは、俺達はマリヴェルにだけは剣を向けてはならない。たとえ王に剣を向けたとしても、世界でただ一人、決して剣を向けないと誓った女だ。神官として、神兵として、仕える最後の聖女にすると決めた女だ。それをせめて、せめて頭の片隅において接しろ」
膨れ上がった炎はヴァレトリとサヴァスを弾き、吹き飛ばした。
「第十三代目聖女マリヴェルを害する者は、エーレ・リシュタークが一生涯立ちはだかると思え! マリヴェルは俺達の主であり、神殿の王だ! 不敬者は、灰になる覚悟でこい!」
ぐるりと一回転し、流れるように体勢を整えた二人はそれ以上飛びかかってこなかった。それを確認し、エーレは緩慢な動作で視線の位置を変えた。
「マリヴェルに死ねと言ったお前、説明しろ」
「な、にを」
炎に取り囲まれた男は、熱さに飲まれながら喘いでいた。
「一年前、プラキ山の滝壺に少女の遺体を投げ込んだのは何故だ」
「なぜ、それを」
あまりに予想外だった問いに、思わず零れ落ちたのだろう。言葉を零してすぐに男は口を噤んだ。だが、エーレは止まらない。炎の勢いも増すばかりだ。
「前神官長フガル・ウディーペン、そしてお前を含めた八名すべてが遺体を滝壺に沈め、その死体を組み上げた先代聖女エイネ・ロイアーが現れた。その説明を、どうつける。姿形がまったく別物である死体を組み上げエイネ・ロイアーの姿を取ったその術と、今日当代聖女マリヴェルの形を取った紛い物が、俺達二人が潜入していたサロスン家に現れた説明をどうつける。その八名に所属していた残り二名共々、説明しろ。俺がお前達を灰にする前に、額を擦りつけ、当代聖女へ懺悔しろ!」
離れた場所に箇所で、新たな火柱が上がる。一番目と二番目に声を上げた二人だ。声を上げたのは十人弱で、そのうちの三名があの日死体を背負って山を登っていた面子だったとは。確かに、よく見れば見覚えがある。
ふと妙な動きをしている人に視線を向けて、納得した。間に挟まって声を上げてしまった三番目の人物が、可哀想なほど身の置き場がない顔をしている。どうやら無関係だったらしい。勢いで声を上げてしまったばっかりに。悲しい事件である。今日は美味しいご飯を食べて、ゆっくり休んだほうがいい。
「エーレ・リシュターク一級神官、君の言い分は理解した。私は君の話が聞きたい。ゆえに、少し落ち着きなさい。ヴァレトリ一番隊隊長、ドレン二番隊隊長も剣をしまいなさい。リシュターク一級神官の無力化は必要ない」
「はっ」
二人の素早い返事が聞こえる。きっと即座に頭を下げたのだろう。
「……神官長」
だが、エーレの声からはまだ熱が収まっていない。
「貴方は、私の報告などより聞かなければならない言葉がある」
ずっと堪えていた何かが破裂したように、エーレは止まらない。あの日からずっと、堪えてきたのは私だけではなく。大声で泣き喚きたかったのは、きっとこの子も同じで。
「あの日マリヴェルが心を切り崩して叫んだ嘆きは、貴方こそが聞くべきだったんだ!」
帰りたいと泣く子どもを、お父さんと叫ぶ子どもを。
あなただけがひとりぼっちにしなかった。
世界でふたりぼっちになった私達は、どこにもいけないままここに流れ着いた。泳ぎついたというにはだいぶ波に翻弄されてしまったまま、どこにも帰れない。
エーレが再び動くまでの間、三名の男は口を噤んだまま一言も喋らない。怪訝そうな顔をしていたサヴァスの目が、鋭くなっていく。無実ならばそれを訴えるなり、脅えて声も出せないのなら相応の態度がある。しかし、三人ともそのどれも取っていない。一言も喋ってなるものかと口を噤む様は、知っている人間だけが取る態度だ。
「おい、意識あるか?」
ぼんやりとその様子を見ていれば、軽く頬を叩かれた。カグマが目の下を引っ張ったようだが、あんまり感覚がない。
「意識……あります、けど……なんだか、感覚があんまり……ちょっと、疲れたみたいです」
「痛み止めを入れた。それにしても、どこもかしこも折れているか罅が入っているかのどちらかで、肋骨も肺に刺さるぎりぎりだ。聖融布でミイラにするぞこら」
「嫌ですよ、勿体ない……」
だって、頑張って作ったのに。
ゆらゆら揺れる意識の中、余計なことを言った気がする。カグマがちょっと眉を上げた。
まずい。おそらく痛み止めのせいだろうが、意識がふわふわする。思考が、あまり働かない。先程まで痛みだけに特化していた感覚が和らいだからだろう。……自白剤とか使ってないよね?
ちょっと心配したけれど、カグマは医療行為において雑音を紛れ込ませたりはしない人だ。だから大丈夫だ。意識が緩んだのは、まるで昔みたいに皆がいて、カグマの手が優しいからだろう。カグマは医療行為に雑音を紛れ込ませないだけだから、相手が私じゃなくても同じように治療するだけなのに。
「私の血から作った薬……試作品、できたって言ってたあれ、エーレにあげてください……エーレ、明日……動けなくなるでしょうから……」
なんだか浮いているようだ。最近ずっと、寝ても覚めても足が半分以上沈んでいるような重さがあったのに、今はずっとふわふわしている。浮き足だっていいような事態は一つもないのに、困ったものだ。痛みがないおかげで、痛みに疲弊した身体と精神がうまく回っていない。
ヴァレトリが殺気を収めたからだろう。エーレも私達を囲む炎を消した。だが、三人の男達を多う炎は勢いを増すばかりだ。
「だんまりを決め込むならそれでもいい。だがフガルは己の過ちを悔い、すべての情報を提供した。ゆえに、俺はお前達の所業を知っているんだ」
謎の存在が強制的に記憶を徴収しましたとは言うまい。
男達は目に見えて狼狽えた。まさか先導者であるフガルが真っ先に落ちているとは思わなかったのだろう。
「馬鹿な……フガル様が、そんな……貴様、フガル様に何をした!」
「俺は何もしていない。お前達の企みにより神殿を追われ、苦界を生きざるを得なかった当代聖女への悔恨の念が、フガルの目を覚まさせたんだ」
何かしたのは大雑把に言えば私だし、フガルはこの先物理的に目を覚ますかも定かではない。それでもそんなこと、見ていない男達には分からない。
誰だって見ていないことは分からない。それでも理解しようと努めることはできる。想像が及ばずとも、想像することは可能だ。誰にだってできるはずなのだ。しようと思えば、だが。
「聖女だと……あれが、聖女だと!? エイネ様を先代に追いやってまで現れたのが、あんな女だというのか! 選定の儀での言動のどこに、聖女としての資質があったというのだ!」
「それは失礼。何せ私、スラムの出身ですので。行儀も礼節も遙か遠き出来事ゆえ」
思わず声を上げて笑ってしまった。
感情を自覚する前に笑ってしまう癖がついたのはいつからだろう。面白くも楽しくもないのに、真っ先にこの感情で本来抱いた感情を覆う癖がついたのは。
「スラム出身の聖女がいるものか!」
「神が貴族とスラムの人間に区別がつくとでも? そして、言動に聖女の資質など必要としない。神が選べばそれが聖女だと、神殿に仕える神官の身でありながら理解できぬのなら、今すぐ神殿を去りなさい」
吐き気も痛みもなくなり、残ったのは私だけだ。
ほとんど思考を通さず反射で言い切った後には、ふわふわとした心地だけが残る。眠いわけではない。けれどどうにも思考も身の置き場も定まらない。
「カグマ……何の薬使ったんですか……やけにふわふわするんですけど」
「……新薬だ」
「それって酔っ払いみたいになる副作用があるって言ってませんでしたっけ……それでサヴァスが何度も診療室の椅子へし折ったのに……」
「改良した」
「へぇ……」
あまり改良された気がしないが、そんな副作用に目を瞑っても使いたいほど効能が凄いと言っていた。確かに、痛みはほとんどない。あんなに痛かったのに。泣き出したいほど、痛かったのに。
いつの間にか炎は落ち着いていた。しかし男達は逃げ出さない。地面に座り込んでいるのは、腰が抜けているからか、それ以外の何かをされているかは分からないが、もう逃げ出せる見込みはないのだろう。開き直った男達は怒鳴り続ける。
「貴様のような愚鈍な娘が聖女だと!? 片腹痛いわ!」
「外道よりましだろう。 ――ああ、だが」
男達の前に立ったエーレは、表情一つ変えなかった。
「俺が外道に堕ちぬのは、あの御方のお立場を穢さぬ為だ。それ以上マリヴェルを愚弄してみろ。その時は、外道と呼ぶも悍ましい地獄をお前にくれてやる」
エーレはそんなことしなくていい。私がやるから。全部私がやるから。皆はそこにいて。美しいまま、柔らかなまま、今日を紡いでいて。
そんな今日が続く明日のために、私は聖女なのだから。
「採寸終わったから、もう入っていいよ」
ココの声がする。また何か作るの? いっぱい楽しんでね。
「サヴァス、その点滴引っかけるなよ。術で追いつかない分をそれで補ってる」
カグマの声がする。この二人親戚なので、いろいろ似ていて面白い。自分ではない人と自分の血が繋がっているってどんな感覚なのだろう。肉体が似ているって、どんな気持ちなのだろう。
そんなことを、途切れ途切れに考える。
眠い。眠くて温かくて、悲しくて苦しい。こんなにも柔らかく寂しい夢があるだろうか。
「エーレちゃん、それ以上神官長に近寄らないでもらっていいかな? まだ君の嫌疑晴れたわけじゃないんだわ」
「一つ忠告しておくが、この事態が収まった瞬間死にたくなるだろうから、最低限の敬意は払っておけ」
「へぇへぇ。エーレちゃんはお真面目でいらっしゃいますこと」
「死にたくなっても、俺は焼いてやらないぞ。面倒だ」
「喧嘩すんなよー。お前らの喧嘩止めると、俺がカグマ行きになるんだからな!?」
最近よく見る悪夢だ。身体は動かないし、意識は途切れるし、楽しそうな『いつもの』皆の中、私だけがいない、いつもの夢。
ああ、でも。あの人の声がしない。いつもの夢では、必ずいるのに。
「ひとまず、お前らの言う先代聖女派ってやつらは、あの三人と追加の一人以外はいないと見ていいのか?」
「そう思いたいが、正直なところ分からないとしか言い様がない。思考がのぞけない以上、後は見て判断するしかない。しかし、これで近しい位置にいた奴らは排除できたはずだ。少しでもマリヴェルの恐怖が緩和すればそれでいい」
せっかくいつもの悪夢なのに、目が開けられない。温もりに溺れるように、身体が重い。
「……俺さ、こいつ泣くかと思った。なんでだろうな。ずっと笑ってたのに」
泣かないよ。サヴァス。泣かないよ。雨なんて、降らせはしない。
絶対に。
「泣くわけがない」
エーレの声は静かだ。霧雨のように柔らかで音を聞くためにか、他の声は聞こえなくなった。
「マリヴェルは一人では泣けない」
「は? お偉いさんは一人で泣くもんだろ?」
「涙で視界が曇れば、迫る危機に対応できない。泣けるのは守られているからだ。誰かがいるからだ。一人で世界を生きてきたマリヴェルは、瞳を曇らせぬよう過酷さを目に焼き付けながら生きるしかなかった。だから余程のことがなければ、自身が視界を失っても問題ないと思える相手の前でないと泣かない。昔から、ずっと。お前達は、マリヴェルに泣いてもらえる権利を失っただけだ」
……違う。泣きたくないだけだ。いつだって泣きたくはないけれど、今はもっと。だって、泣いたら困るじゃないか。いつか記憶が戻った日、皆はきっと傷つくから。傷ついてくれるから。
「今だって、薬が効いていなければ人前で眠るはずがない。神殿に来たばかりの頃は、廊下を人が歩く気配だけで目覚めるほど眠りが浅かった。マリヴェルは、ずっとそうやって生きてきたんだ」
優しい人達が負おうとしてしまう傷を深くする要因はできるだけ省きたい。それだけだ。
それだけだから、エーレ、そんなに怒らないで。
目蓋は冷めた鉄のように固いけれど、エーレの怒りがあまりに深いから気になってこじ開ける。炎を纏う人に関係していたからか、なんとか目蓋の鉄は熔けた。
白い靄のように光が満ちる部屋が見えた。明るいのに世界がぼやける柔らかな明るさは、早朝や夢でよく見る。そんな部屋の一番近い場所に、その人はいた。
いつも通りきっちり整えられた服に髪。乱れ一つない姿勢のまま、誰との会話にも加わらず、無言で私を見ている。
お父さんだ。嬉しい。いつもは寂しくて叫び出したいほどなのに、今日の夢はどうしてだか嬉しさだけが溢れてくる。嬉しくて、嬉しくて、何の感情を覆うわけでもないのに笑ってしまう。
頑張るよ。お父さん、私頑張るから。だから。
「また、私を見つけてくれますか?」
私、あなたと人でいる時間に帰りたい。少しでも長く、そうしていきたい。たとえ残り時間がもうなくても、さいごまで。
お父さんは、笑っても頷いてもくれなかった。けれど、持ち上げられた温かな掌が私の視界を覆う。
「今は眠りなさい」
大きく柔らかな手の向こうでどんな顔をしているか見えなかったから、勝手に優しい顔を思い出しながらその言葉に従った。
今度はもう、夢を見ないといいな。