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60聖






 物心がついたとき、世界は既に決まっていた。親はおらず、大人はおらず。物ばかりが溢れる世界に立っていた。

 けれど物心がつくよりずっと前、自他の認識がついた瞬間を覚えている人はいるのだろうか。そのとき前にいた存在を、降った言葉を。理解しているとも認識できぬまま、忘れも覚えもせず、抱えていたと思い出すことは。

 真白い世界があった。音もなく、風もなく、臭いもなく。天もなければ地もない。命もなければ死もない。そんな世界があった。

 果てのない白が続いている。遙か遠くまで続く境のない世界に色はなく、果てない白と認識しているこの白でさえ本当に白かどうかなど判別しようはなかった。



 私はいた。そこにいた。いまその時より、いるようになった。

 私の前にもいた。何かがいた。ずっと前からそこにいた。いる前からそこにいた。

 私を見下ろし、妥協するようにこれでいいかと告げるその存在を、私は知るより前に理解していた。


「――――――……――――……――――……」


 そう言った。言っていた。言っていたけれど私が聞く必要はなかった。聞かずとも、知らずとも、それは私にとって絶対で、理解せずとも必ず訪れなければならない事実だと知っていた。


「――――……――まで、聖女として務めろ」


 その為の私で、そういうものだと始まりから理解していたので、思うところは何もなかった。








 懐かしい夢を見た気がする。内容はあまり覚えていないけれど、温かくも恐ろしくもなく、思い出にはなりようもない、そんな夢だった。

 揺れる意識が覚醒と共に定まり始めた頃、認識した世界は揺れていた。

 世界が揺れる。天が揺れ、地が揺れ、音が揺れ、空気が揺れる。揺れる度、温もりが降る。

 分からない。何が揺れて、なんで揺れて、いま、どうなっているのだ。

 分からないことは山ほどあるし、むしろ分からないことだらけだけれど。分からないからこそ目を開けていなければならないことだけは分かるのだ。


 閉じていたいと愚図る目蓋を脅迫し、無理矢理こじ開ける。睫が当たる距離に、エーレの顔があった。瞬きすると、互いの睫が当たった。くすぐったい。

 沈黙が落ちる。ついでにエーレの頬から汗が滑り落ちてきた。よく見れば息も荒い。ぜぇと掠れた息を吐いているエーレは瀕死だ。


「……何事ですか?」

「……もう、起きたか。上出来だ……気分は」

「気分より疑問を改善したいかなといった感じです。どうしてこんなに揺れているんですか?」


 先程から小刻みに揺れていた世界に、一際大きな揺れが加わった。私を抱えているらしいエーレの力が強くなる。

 地が揺れているのだろうか。それにしては揺れ方がおかしい。小刻みに揺れているときは気付かなかったが、今の激しい揺れはまるで衝撃のようだった。

 激しい揺れが一段落し始めた頃、エーレは身体を起こした。しかし、膝はついたままだ。彼が身を起こしたことで、少しだけ状況を把握できた。

 ここは、地下と地上を繋げていた長い階段だ。不安定な場所で私を抱えているエーレに驚く。


「揺れている、理由、は、分からない。だが外部、か、らの、影響を、大きく遮断、しているはずの、この、場所が、これだけ、揺れて、いるんだ。まずい状況で、ある、ことは分かる。最悪の、場合、生き埋めも、考えられたため、避難中だ」

「フガルは?」

「現状、俺、と、意識がない、お前、そし、て、意識が、ないフガルの、場合、優先、順、位は、当然、俺と、お前だ。フガルは、状況が許せ、ば、後ほど、回収、する。回収、が、不可能だった、場合、運が、悪かっ、たと、俺を呪えば、いい」

「化けて出てきたらどうします?」

「焼く」


 単純明快である。

 もし運悪くフガル回収が不可能だった場合、責任の九割方は意識がなく自力脱出が不可能だった私のせいなので、フガルはエーレを訪れる前に私の元へ立ち寄ってほしい。よれよれのフガルと、ぼろぼろの私で殴り合いの大喧嘩をしましょう。

 それはさておき、意識がない私を崩壊の可能性がある地下から連れ出してくれているのは大変ありがたいが、何故この運び方なのだろう。

 私は、息も絶え絶えな状態で階段から動けなくなっているエーレに抱えられたまま身動ぎ一つできなくなっていた。横向きに抱き上げられている現状では、全身がエーレの膝と腕によって支えられている。つまり、私が身動ぎをすれば、瀕死のエーレが支えきれない可能性があった。

 二人揃って階段から転がり落ちるのは避けたい。この状態だと、私がエーレを下敷きにしてしまう可能性が高い上に、エーレは頭から落ちる。


「ところで、どうしてこんな体力一番使う運び方なんですか?」


 背負うでも抱きかかえるでもなく、横抱きは一番疲れる方法だ。対象の意識がないなら尚更である。

 私の質問に、ようやく呼吸が落ち着いてきたエーレはなんともいえない顔をした。怒ってはいなさそうだが、愉快でもなさそうだ。


「マリヴェル」

「はい」

「お前、肋骨折れてるぞ」

「嘘ぉ!? あ、確かに驚くと痛い……」

「大馬鹿者」


 成程。肋骨が折れた相手を運ぶ手段は、結構限られる。負ぶっても抱きかかえても、折れた骨に負担がかかるし、下手すると臓器に刺さるだろう。一番いいのはソリだの担架だのに乗せて運ぶ方法だが、ソリでは階段を上れないし、担架は一人じゃ運べない。

 エーレの手、というよりは身体全部を借りながら、そろりと独り立ちに移行する。確かに、肩と腕と脇と胸が痛い。大惨事である。


「ゆっくりだ。ゆっくり立て」

「上半身に響かないよう立てばいいんですよね? 大丈夫です、よっ!?」


 エーレに預けていた体重を自分の下半身に移した瞬間、私は動きを止めた。それを見たエーレの瞳に哀れみが宿る。


「……足腰も怪しいんだ」

「お、折れてます?」

「……カグマに聞いてくれ」


 痛めているだけと思いたいが、確かに腰辺りがはらはらする痛みを孕んでいる。というより、もう全身痛いのでどこが強烈に痛むかの話なのだが、正直どこも猛烈に痛む。

 謎の存在におかれましては、人の身体を使っての成人男性片手ぶん回しは、お控えいただきますようお願い申し上げます。

 腰を負傷している可能性があるなら横抱きもまずいが、臓器に骨が刺さる危険性と腰が死ぬ危険性なら、腰には死んでもらうしかないだろう。


「すまない。俺が抱えられば一番いいんだが、正直共倒れになる可能性のほうが高い」


 本当に済まなそうにしているエーレにこっちが申し訳ない。エーレが筋肉隆々であろうがなかろうが、サヴァスでもない限りこんな階段をひと一人背負って上がるのは相当な苦行だ。むしろ一人でまともに歩けなくなっている私が足手纏いを謝罪すべきである。


「私こそすみません。上まで後どれくらいか分かります?」

「半分は超えたはずだ」

「なら大丈夫」


 いけますよと言いたかったのに、また激しく揺れた世界に反射的に口を閉ざす。せっかく立ち上がろうとしていた体勢が崩れ、一からやり直しになった。おのれ。

 私の上に覆い被さり、揺れが収まるのを待っているエーレの上に、天井から落ちてきた埃なのか破片なのか分からないものが降り注ぐ。外の音は聞こえてこないが、明らかに自然現象が起こす揺れではない。


「戦闘でもしているんでしょうか」

「おそらくは」


 サロスン家の夜会で、これだけ激しい揺れが起こる戦闘が起こるとは考えにくいが、そうとしか思えない揺れだ。地上では一体何が起こっているのだろう。早く情報収集したいのに、壊れた身体が恨めしい。

 再び揺れが小さくなった隙に、エーレの手を借りて立ち上がる。そのまま、負傷の少ない左肩からエーレが私を抱えた。

 ようやく前に進める。階段を進んでいく速度が遅すぎてもどかしい。全力で上がっているのに、微々たる距離しか進めない。こういうときに限って責めたり急かしたりしてこないし、まったく怒らないので、逆にそわそわしてしまう。


「マリヴェル」

「なんですか?」


 躊躇いがちに一度口を噤んだエーレは、意を決したように再び口を開いた。


「あれは、なんだと思う」

「エイネ・ロイアーですか? 化け物かなぁと思ってますが」

「確かに」


 すんなり頷いたエーレは、強張っていた表情を少し崩した。どうやらエーレもそう思っていたらしい。人を見た目で判断してはならないと言うが、あれを人扱いする気はないので心のままに見た目で判断しようと思う。


「とにかくあの滝壺……だけで済めばいいんですが。アデウス中はないと信じたいですが、最悪の場合王都中の滝壺を浚う必要はあるかと。私はまだ調べ切れていないフガルの記憶の調査もしたいので、落ち着いたら潜ってみます。あ、エーレを巻き込んじゃったのは、おそらくですが、エーレ私に炎叩き込んだじゃないですか。あの関係じゃないかなって思うので、ほとぼりが冷めたら巻き込まないはずなので安心してください」


 脂汗が滲む頬を拭いたいが、左腕はエーレに支えてもらっているし、右腕はそもそも動かない。諦めて歩みに集中していると、エーレが自分の袖で適当に拭ってくれた。


「どうも」

「いや……思っていたより、元気だな」

「いやぁ、ずたぼろですけど」

「負傷については想定より大惨事だった」


 同感である。

 でも、精神的にはエーレが言うようにわりと元気である。


 後どれくらいで地上に辿り着けるだろうかと首を上げるだけで、あちこち痛い。通常の半分も上がらなかった視界に、長方形の光が見えた。出口が見える位置まで来ていた。エーレは半分どころか、ほとんど一人で登りきってくれていたらしい。ありがたい話だ。


「化け物だー! とは思いましたけど、発言についてはまあ、基本的にああいうのって、事実か、虚言妄言大言壮語の類いかのどちらかじゃないですか。その上で、神はいますし、私は聖女です。動揺する必要はないかと。ただ、私はエイネ・ロイアーを永劫許しませんけど」


 エーレは私を見た。ずっと見ている。

 私は思わず笑ってしまった。


「大丈夫ですよ、エーレ。アデウスに神は存在しています」


 誰がなんと言おうが、それだけは事実だ。


 私はあの日、神を見た。

 それはいつ?


 神はあの日、私を選んだ。

 ――本当に?


 少し、違う。思い出にはなりようもない意識の中、神は私に聖女であれと命じた。


 あれはいつ? どこで? 神様はどんな姿をしていた? 

 分からない。疑問は疑問のままそこにある。けれど、揺れる必要はない。

 たとえ邂逅の日が分からずとも。姿形が見えずとも。言葉の音を掴めずとも。何も覚えていなくても。

 神はいる。


「だって、私があなた達に会えたのですから」


 ゴミ山の片隅で死体と並んでゴミを食べていた物が、温かな人達が過ごす柔らかな時間に添えてもらえた。これを奇跡と呼ばずして、何を奇跡と呼ぶのだろう。


 呼吸するだけで痛みは雷のように走り、渦巻き、体重を支えるだけで全身が軋む。それでも、一歩進めば出口が近づく。下がらなければ、蹲らなければ、進む。そんな当たり前を忘れなければ、案外どんな状況でも笑えるものだ。

 まして神はいるし、私は聖女だし、私を抱えるエーレがいる。これだけ揃ってしまえば、化け物の言は音止まりだ。そもそもが疑いようのない事実である。

 空気を目視できずとも、呼吸ができている現状で存在が確認出来るように、目が見えずとも海はそこにあるように。それと同じことだ。


「あなた達は神が私に齎した奇跡のすべてです。神がいなければ私は存在しなかった。いま、あなたの隣に私がいる。エーレ、あなたは神が私に許してくれた奇跡です」


 人の妄信が作り出した、自身に都合のよい神ではない。人が利用するために作り出した幻影としての神ではない。そんなものを私が神と呼ぶことは許されない。

 人が神を作るのではない。人は世界に神を見出しただけだ。神の存在に気づけただけなのだ。

 神とは、この地に生きる許しを命に与える存在だ。この地に神はいないと言い切ったエイネ・ロイアーは、すべての意味で私の敵だ。


「エイネ・ロイアーが神をいないものとして扱うのならば、それはこの地の命を投げ出したと同義です。アデウスに生きるすべての命に死を与え、そして私の奇跡を無に帰すということです。それが望みだというのなら、私は何があろうと彼女を世界から排さねばなりません。大丈夫ですよ、エーレ。あなた達の生を脅かそうとするものすべて、排除するが私の願いです」


 問題は、あれを殺せるかどうかだ。既に死んでいるような存在を、どうやったら殺せるのだ。

 死者が蘇ったと脅える必要はない。何故ならあれは、死者を、その身体を利用していただけだ。だが、だからこそ、他者を心理的にも物理的にも利用しているエイネ・ロイアーをどうやって殺せばいいか分からない。あんな方法が可能なのであれば、どれだけ肉体を殺しても、死者を混ぜ合わせて器を作ってしまうのではないだろうか。

 考えている間も少しずつ上っていた階段も、ついには終わりが見えた。地上との境に辿り着いたのだ。


 扉の前には誰もいなかった。誤って閉まらぬよう王子が設置してくれたのだろう。扉の間には倒した椅子が挟み込まれていた。また一際大きく揺れた世界に倒れかけた私を、咄嗟に支えてくれたエーレを頼りに椅子の上を跨ぐ。ついでエーレも隠し階段から脱出した。

 痛みで目眩と吐き気がしてきて、一度座り込む。私がしゃがみきるまで手を離さず、ゆっくりと地面に座らせてくれたエーレは、じっと私を見下ろしている。


「俺は、神の存在も、お前が聖女であるか否かも、端から疑ってなどいない。あんな言葉の一つや二つで揺らぐ信を、マリヴェル、お前に預けた覚えはない」


 この人は変わらない。いつだって変わらないのだ。


「お前は俺の聖女だ。お前以外の誰が当代聖女たり得る。そして、お前という存在が俺の前に現れた以上、神の存在を証明するこれ以上の証拠はない」


 人は、私達の確信を狂信と呼ぶのだろうか。

 だが、分かるまい。誰に分かるものか。

 私達が過ごした時間を、神殿という特殊な場をもって初めて『普通』を与えられた私達の奇跡を、日常を得られた私達の願いを、誰が。

 私達の確信は、信心を持つがゆえではない。確信を持つがゆえの信心だ。なんとも人間らしい打算的な信心だという自負はある。だが、確信が無いものに人生を懸けた信心を捧げるのは、悪質な賭博に引っかかるのと同じだ。どうしても捧げたければ、願いとして抱くべきだ。


「分かっていますよ。じゃ、いきましょうか。王子を探さないと。デオーロもいませんし、さてさて、何があったのやら」


 そろそろいくかと、気合いを入れる。痛みを軽減するというよりは、これ以上負傷箇所を増やさないよう気をつけつつ、よっこいしょと腰を浮かせる。その下に、エーレが手を差し込んできた。


「行くぞ」

「え、っとぉ!?」


 再び私の身体を横向きに抱き上げたエーレの首に、慌てて左腕を回す。右は死んでいるし、左も手首や指は死んでいるが、肩はなんとか生きているのが功を奏した。


「エーレ、大丈夫ですか!?」

「階段でもなく、お前の意識もあるならなんとかなる」

「ここ三階なんで、まだ階段ありますが」

「……なんとか、する。階段が滑り台ならよかったとかほざいていたお前の言、今なら一票入れてしまいそうになる」

「滑り台もすでにあるはあるんですよね。手摺りとか」

「部品名から使用意図を汲み取る勉強から始めるか?」


 二歩ほどたたらを踏んだものの、なんとか踏ん張ったエーレは私を抱き上げたまま歩を進め始める。書斎の扉は閉まっていたが、蹴り開けた。私が。ちなみに、蹴ったというより足で開けたが正しい。


「うわきな臭い!」


 廊下に出るや否や漂ってくる臭いに呻く。エーレも眉を寄せた。

 まず臭いが先に来たが、書斎を出たことにより音と振動も押し寄せてくる。地震ではあり得ない音と振動だ。どう聞いても戦闘音でしかない。破裂音と打撃音が多い。そして、大勢の人間が叫びながら駆ける音。

 よろめいたエーレが壁に背中をつくことで体勢を整えた。


「……こっちじゃないな。会場の方角だ」

「でも、声はこの辺りで聞こえていますね」


 私達は庭を越え、回り込んでサロスン家が居住している屋敷に来た。だが、正当な手順を踏んで進めば、夜会会場のある建物とこの建物は繋がっている。

 そうはいっても、寝室もある屋敷に足を踏み入れるなど失礼の極み。招待がなければ許されるはずもない。

 壁から離れたエーレは廊下の窓へと近寄った。二人揃って地上を覗き込む。

 貴族達が走っていた。人目がある場所では常に優雅に冷静に、それを基本目標に掲げているはずの貴族達が、転がるように駆けていく。


「……敵襲でもうけたか?」

「サロスン家って、襲撃してくるような政敵いましたっけ」


 頭の中でざっと勢力図を広げてみるがぴんと来ない。エーレを見てみる。いでよ私の新聞。または家門相関図。


「正直、争って勝てる見込みのある家はリシュタークしか思い浮かばない」


 私ははっとなった。


「末っ子大戦が勃発!?」

「阿呆」

「ですよねー」

「やるなら自分でやる」

「ですよねー……」


 その場合でも末っ子大戦なのではと思ったが、黙っておいた。

 それはさておき、どうしたものか。王子もいるし、サロスン家は私軍を持っている。下手に首を突っ込まないほうがややこしくはならないだろう。


「うーん……」

「どうする。俺はお前の指示に従う」


 それは分かっている。私は窓枠に私の体重を預けて休憩しているエーレの体力を心配しつつ、思考を回す。

 このまま、避難なのか逃亡しているのかいまいち分からない人々に交ざり、逃げてしまうのが一番楽なのは分かっている。

 エーレは派手に力を使えないし、私の力は使用不可となっているのでどちらにせよ戦力にはならない。だが、状況が状況だ。この状況で戦闘が行われている場合、私達が無関係とは言い切れない。むしろ関わっている可能性のほうが高い。


「様子見て決めましょう」

「了解した。下りるぞ」

「私下ろしてくれていいんですが」

「階段を下りてからだ」


 そこは譲る気がないらしいので、ありがたくお世話になることにした。正直、息をするだけで結構痛い。死んでないからそれでいいけれど、人の手を煩わせるほどの負傷はできればしたくないものだ。



 一階に到達すれば、音はさらに大きくなる。きな臭さだけではなく煙も視認できた。逃げ惑っていた人々のほとんどは走り去った後らしく、逃げ遅れたと思わしき人々が這々の体で逃げていく様子が窺えるだけだ。

 エーレの手を借りながら地面に足を下ろし、左肩を軸に身体を支えてもらいながら、人々が逃げてきた方向へ向かう。使用人達に見つかれば避難を促されるため、行きと同じ道を使うしかなく、ちょっと遠回りになってしまった。


 きな臭さは完全なる丸焦げ臭さへと変化し、冷たかったはずの夜風も熱を持っている。どう考えても火が出ているとしか思えない中、爆音まで響いていた。

 会場を抜け出したバルコニー近辺に辿り着いた時、そこには大勢の人間がいた。サロスン家の私軍と王子の護衛が入り混じり、なかなか大変な事態に陥っている。音と煙の発生源は会場内のようだ。

 半ばほどで指揮を執っていた王子と目が合った。


「まだ避難が完了しておらんのか。ああ、構わん。余がいく。そなたらは命をはたせ」


 手早く指示を済ませ、足早に私達へ近づいてきた王子は護衛を追い払った。


「負傷した令嬢二人に気を張る暇があるならば、さっさと戦力になってこい」


 鬱陶しげに手を振られた護衛達は、任務と責務に板挟みとなっている様子がよく分かる。なんとも可哀想だ。僅かな逡巡の後、逃げない王子を守るならば、この場の危険を排除するほうがいいと判断したのだろう。苦渋の決断をしたと書いている顔をさっと下げ、走り去った。

 王子は私達を気遣いながら案内している素振りを見せつつ、脇に寄せた。


「フガルは?」

「いましたが私がこれなので地下から回収できていません。意識はなく、エーレが縛ってはきたそうですが目覚めるかは不明です。しかし収穫としては、王子にご助力いただいた甲斐はあったかと」

「ならばよし。しかしそなた、手酷くやられたようだな。フガルはそれほどに難敵であったか? 余としては、戦闘に長けている印象はなかったな」

「いやぁ、これはどっちかというと自壊に近いですね。それより、何事ですか、これ」

 また一つ、大きく破裂するかのような音が響き渡った。同時に会場内から膨れ上がった風が噴き出す。飛び出してくるガラスと瓦礫が美しく整えられた庭に降り積もっていく。


「襲撃者が現れたのだが……聖女、此度はしてやられたかもしれぬぞ」

「え?」


 疑問に思う間もなく、鼓膜が破れんばかりの衝撃が弾けた。咄嗟にエーレが前に来てくれていなかったら、衝撃だけで負傷していたかもしれない。それでも音と風で身体中に激痛が走る。


「マリヴェル!」

「へ、いき、です。それより、なに」


 ともかく襲撃者の姿を捉えたいと動かした視界の中、王子が忌々しげに舌打ちをした。


「屋敷内で片をつけよと命じたはずだ!」

「申し訳ございません!」


 兵士達の絶叫に近い謝罪が響き渡る。丁寧に音声を絞る余裕がないのだ。王子も指示を出した者として一応の叱責は出したが、事情が分かっているのでそれ以上追撃はしなかった。剣に手を添えたまま、鋭い視線で空を見上げている。

 これは、仕様がない。状況がほとんど把握できていない、直前の合流組である私とエーレでも分かる。そして、王子が言った言葉の意味も。


「はは……」


 思わず笑ってしまった。


 夜空に、女が漂っていた。

 足をも超える長い赤紫色の髪を夜風に遊ばせ、楽しそうに笑っている。どれだけの血を被ったのか、赤い液体で肌を染め上げながら、足場が何もない宙にいるとは思えないほど自由自在に女が踊る。

 回るたび、跳ねるたび、空から赤い雨が降った。

 まるで聖女のような白の服を着た女が裾を翻して舞うたび、光と血が世界に撒き散らされる。

 女は笑う。笑って、笑って、微笑んで。楽しそうに、歌うように、世界に幸を振りまくように、笑っている。

 私を支えているエーレの身体が震えていた。かちかちと鳴る音は、感情を抑えきれなかった歯がぶつかり合っているのだ。エーレの周りに風が起こり、髪が不自然に揺れる。


「殺してやる」


 瞳に炎を咲かせたエーレの怒りを、私はどこかぼんやり受けた。


「殺してやるっ!」


 血まみれの女の顔は、私と同じ形をしていた。









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