6聖
とりあえず行動したい。確かにそう思った。だが、誰が第一の試練を五分で駆け抜けたいと言ったのだ。しかも蜂と一緒に。
「どういうことなの」
自分の声で目が覚めた。自分の声であろうが、現実の音を耳にすることで世界を認識し、いつの間にか寝てしまった現実を把握した。
枕を押しつぶすように突っ伏していたベッドの上で、そのまま伸びをする。身体がぴちぴち鳴った。あまりの疲労で、ぼきんと鳴る気力もなかったらしい。待ち疲れ、恐ろしや。蜂はもっと恐ろしい。
よっこいせと起き上がり、今度は座ったまま伸びをする。くわっと欠伸をしながら時計を見れば、時刻はもう少しで夕方になろうとしている。寝過ぎた。
ちょっと考えながら、ぼりぼり腕を掻く。腕をひっくり返し、腹を捲り、足を持ち上げる。あちこち、ぽつぽつと赤い斑点がある。ノミかダニだろう。部屋の中をぐるりと見渡す。
中にある家具はベッドと、申し訳程度に置かれているクッション部分が破れた椅子だけだ。ちょっと動いただけで断末魔を上げるベッドに床。雨漏りの後だろうか、壁には染みが猛威を振るい、天井は割れている。窓ガラスには罅が入り、破れたカーテンにはカビが蔓延る。あと、なんか酸っぱい臭い。
誰がどう見ても安宿以外の何ものでもない。
もう一度欠伸をして、椅子にかけて置いた服を着る。昨夜というべきか今日の早朝というべきか若干悩むが、とにかく第一の試練が終わったのがその時間だった。その時間から泊まれる宿を見つけるのに苦労したのだ。そもそも、大半の人がそこまでに宿を見つけている。王都の住人は家がある。遠方から着た者達も、第一の試練が始まる当日までには王都に着いているだろうし、連れがいる場合は行列に並んでいる間に宿を探してくれているだろう。
王都にいたが今晩から宿のない私が、数十年に一度行われる行事の当日に、まともな宿を確保できるはずがない。
通過者であれば金銭の心配はしなくていいが、空中に金を払っても意味がない。払う先がなければ、金貨は金貨のまま食べられないし泊まれないのだ。
結果スラムにほど近い、いろいろと訳ありが雨を凌ぐ際に仕方なく利用する宿に泊まった。つまりは、訳ありさえも躊躇する宿である。
一応悩んだが、大金を抱えたままスラムで寝るのと道端で寝るのとこの宿で寝るの、その三択ならばちゃちではあるが鍵がかかって周囲が覆われているほうがマシだと判断したのだ。
スラムよりはマシだが、寝ている最中たまにドアノブががちゃがちゃ鳴る音と男の舌打ちが聞こえていたことを思い出し、誰も見ていないのに気障ったらしくふっと笑う。
「エーレが知ったら怒りそう」
くどくど怒るか、ぐぁっと怒るか。……こめかみ掘削拳が出てきたらどうしよう内緒にしよう。あえて言う必要もあるまい。
かっこつけたままかいた冷や汗を拭う。
大きく十三区画に分かれている王都の中、スラムとこの区画だけは名づけられていない。ないものとされているのだ。それでも実際にはあるので、ひっそり十四区画と呼ばれている。
「さて、と、やることやっとこうかな」
時間が時間だったので、昨日は風呂も着替えも用意できなかった。今日はそれらを確保しつつ新しい宿を探したい。贅沢を言える立場ではないが、ここで命を懸ける理由は全くないのだ。
私は第一の試練を通過した。蜂と一緒に。これで第二の試練に進める。蜂は知らない。
第二の試練からは神殿で行うが、全員の合否が決まらなければ第二の試練は始められない。だからそれまでは、宿で待機しなければならない。
さて、今晩の宿はどうしようかな。第一の試練を通過できなかった面子は滞在費が出なくなり、宿が空き始める。今日は飛び込みでも泊まれる確率は上がっている、はずだ。選定の儀を一目見ようと王都に来ている観光客も大勢いるので、確実とは言えないが。
支度はすぐに済む。私の荷物など、エーレから借りた服とお金が入った財布、そして聖女選定の儀通過者証明である割り札だけだ。準備など服着りゃ終わる。非常に楽だ。
聖女時代は身なりを整えろと口を酸っぱくして言われ、髪を結うだけで時間がかかったものだ。式典ともなると、肌の調子を整えるために一週間以上前から下拵えされる。当日は夜が明ける前から始まり、七時間ほどかけて支度が終わるのだ。その間、口にできるのは飲み物くらいだ。運がよければ軽くつまめるが、化粧を終えたら何も口にできぬものと思え。そう告げた世話係達の顔は、戦士のそれであった。
鏡なんてないので髪は適当に手で梳き、用意は終わった。
「よし、身嗜み整えましたよ。今日も一日頑張ります、神官長。後数時間で今日終わりますけれど、些事ですよね!」
報告終わり。
部屋に一枚だけある扉に張りつき、耳をつける。廊下に人の気配はない。今はまだ日が弱まり始めただけだが、もう少しすれば本格的に赤く染まり始めるだろう。そうなると、今夜の宿を求めた客が入り始める。人がいない間に出たほうがいい。
昨日は開口一番断末魔といわんばかりの勢いで叫んだ扉を宥めつつ、できるだけ音を立てず開ける。閉めるときも叫ばれるのは分かっていたので、半開きで置いてきた。廊下も頑丈そうな部分を選び、なおかつ体重移動に気をつける。部屋は三階だったのでこの先には階段が待ち受けているが、階段は歩く場所が限られているから簡単だ。皆が歩く真ん中は音が鳴りやすく、端は鳴りにくい。
一階受付には誰もいない。用事があればカウンターで無造作に転がっているベルを振るのだ。一応奥に店主の姿が見えているが、ちらりとこっちを見ただけでまたごろりと寝転がってしまった。一泊と伝えているし、基本的に先払いなので去る客に用事はないのだ。そして私にもない。長居は無用だとさっさと宿を出た。
宿から出て真っ先に視界へ入るのは、土が剥き出しになっている狭い道と転がるゴミ。そしてなんだか酸っぱい臭い。スラムよりはマシだが、ものの質は変わらない場合が多い。だから、早く人目のある場所に移動しようと歩き出した。昨日は日が落ちるどころか明ける寸前だったので比較的安全だったが、夜が近くなれば危険が増す。
この辺り一帯は、スラムに比べればしっかりした建物があるほうだが、道の幅は狭く建物の壁は崩れている物が多い。隣の家へ傾いていたり、半分以上崩れている物もあった。建物同士の間隔も狭く、鼠専用通路になっている場所もあった。
そもそもスラムと並んでいる地区だ、治安がいいはずもない。狭い道の端々には、蹲っている人や寝転がっている人があちこちに見受けられる。
前から野太い話し声が聞こえたので、建物の間に滑り込む。子どもならともかく、並大抵の男では入ってこられないだろう。狭いところに入り込むのは得意なのだ。
そういえばエーレから「平らになるな」と言われていたような気がするけど早速破ってしまった内緒にしよう。
平らになっている私の横を、あまり風呂に入っていないと一目で分かる男達が大笑いしながら通り過ぎていく。持っている武器がちぐはぐだ。切るよりのこぎりのように使わないと対象を千切れないぼろぼろの剣から、武器屋でいい値段がするであろう弓までバラバラである。一際体格のいい男が持っている剣は貴族の家で飾られていてもおかしくなく、彼の体格にも合っていない。十中八九盗品だ。賊の類いだろうか。
「しっかし、こんな人混みで探せるかねぇ」
「金払いがいいお客さんだ。いいとこ見せときゃ次に繋げられるかもしれねぇから、てめぇら気張れや」
何十年かに一度の大行事。人が動けば金が動く。金が動けば価値が動く。そういうときは、おこぼれを狙った輩が群がってくるものだ。会話も見た目も物騒である。関わるとろくなことにならないので、この手の輩には存在を認知されないに限る。
男達は私に気付かず通り過ぎていった。声が完全に聞こえなくなってから、隙間からぬるりと滑り出る。やはりこの手はかなり有効だ。それなのに、神官達には見つかるようになってしまった。以前は集団で駆け抜けていったのに、今ではどんな隙間もとりあえずはと覗き込んでくる。覗いた先に私がいて、絹を裂くような悲鳴を上げた神官(四十代男子)は元気だろうか。
入り込んだ壁を掃除してしまい汚れた服を、ぱたぱた叩く。服の仕立てがもっと悪ければよかったなと贅沢なことを思う。だが、仕立てのよい女服より余程安全だ。
その後も足早に進み、ようやく警邏の目がある場所に出た。町行く人々は、近くにいる人の凶器を確認しなくていいし、何かあれば警邏を呼ぶ。親は丸みをおびた子どもの手を引いて歩き、子はその手が自分の後ろ盾だと認識する必要もなく守られる。掬い取られる範疇にいる人々が生きる場所。そんな人達を、警邏が守る。掬い取られない物は守られない。与えられない物はすべてを与えられない。不公平だがおかしな話ではない。警邏が守っているからそう生きられるとも言えるのだから。
土が剥き出しになっていない舗装された道を、靴越しに歩きながら考える。
私が使っていた神殿の部屋は、掃除が入っていなかったとエーレが言っていた。本来、聖女不在であっても毎日清掃が入る。それがその仕事ごと放棄された。
エーレ以外の人から、当代聖女である私の記憶は失われた。だが、私がいた痕跡は消えていない。様々な書類にも私の名前がある。今はまだ。それなのに何も騒ぎになっていない。
エーレはこれを催眠の類いではないかと言った。事実が過去から変化し、現在になりかわっているわけではない。時が乱され、過去が改変されたがゆえの変容であれば、当代聖女の痕跡ごとなくなっているはずだ。
塗り潰されているのは人の意識だけ。物的証拠があちこちに散らばっているのに、誰も当代聖女が既に見つかっている事実に目を向けられないのは、何かしらの阻害があるゆえに認識できなくなっているだけだと。少なくとも、今はまだ。
それならば、規模はとんでもないとしても人の範疇に収まる。誰かとんでもない神力を操れる人間がいると仮定できる。私の存在を、聖女として過ごしてきた間に残した物を、名を、行動を。すべて根こそぎなかったことにできるのは神の所業だ。だが、人の認識だけを阻害したと考えれば人でも可能だった。
問題は、そんな規模で神力を扱える人間に心当たりが全くないことである。私にも、エーレにもだ。そもそもエーレは、神力だけでいうなら神殿で五本指に入るほどの力を持っている。何せ最年少一級神官の称号持ちだ。そのエーレに心当たりがないとすれば、神殿の関係者ではない、はずだ。
「先代聖女派だったら困るなぁ」
先代聖女は今でも根強い人気がある。王政に切り込み食い込みとかなり行動派だったので、王城関係者からは蛇蝎の如く嫌われていたらしいが、民からは絶大な人気があるのだ。
頭の切れる美女だったそうだ。そりゃあ人気も出るだろう。私の人気? 民からは知らない。神殿からは諦念を、王城からは「遠くで幸せになってくれ、大陸の裏側くらいで」との言を頂いた。
それはともかく、先代聖女はよくも悪くも様々な痕跡を残している。何せ、先代聖女派という新たな派閥を生み出してしまったのだ。
通える学校が限られていた平民の子が貴族の養子にならずとも学校を選べるようになったのも、爵位を継ぐ資格も結婚後給金を得る職にもつけなかった女性がそれらを認められたのも、先代聖女の功績だ。建国七百年間変わらなかったしきたりや法律を変えたのは凄いし、さぞや努力をされたことだろう。
そんな人気絶大な先代聖女を唯一とする派閥が先代聖女派である。先代聖女至上主義ともいう。
先代聖女派は、慣例として優劣は存在させないと決まっていたはずの歴代聖女に、堂々たる差をつけた。先代聖女に対し、最も偉大で、最も美しく、最も賢く、最も強く、最も素晴らしいといって憚らない。それが先代聖女派だ。
それどころかこの世で最も尊ぶべき存在と掲げたのだから堪らない。
神殿内、つまりは神官や神兵からも多く排出された先代聖女派。先代聖女と関わった時間が長かったと考えると当然の帰結かもしれないが、これはまずい。何せ、神殿に勤めながら神より聖女を取ったのだ。先代聖女派はことごとく神殿から叩き出された。それでも公言していないだけで身の内に秘めている者はいるだろう。神官長はいつも頭を痛めていた。
鼻だけで溜息を吐く。口を開けば、頭を抱えて呻きかねなかったからである。考えなければならないことが多すぎるし、いろいろ、そういろいろ、もやもやするのって本当に心の底から。
「あーもーめんどくさっ!」
結局口が開いてしまった。突然叫んだ私に、周囲の人々は足先の向きを変えた。そそくさ離れていく人々との間に木枯らしが吹いた気がする。いいんだ、歩きやすくなったのだから。
もの悲しい気持ちを快適な道で誤魔化すも、歩を進めればまた道が塞がれてきた。時刻は夕方。家路へ急ぐ人やこれから一遊び繰り出そうとする人。朝に次いで人の往来が激しくなる時間だ。それに加え、ここ数十年で一番人が集まっているのだ。混むのは当然である。