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 その瞬間、私の口は思考と乖離した。


「時間の無駄だ」


 淡々とした声と共に、私の腕が跳ね上がった。目を見開いて私を見上げるフガルの顎を鷲掴みにした私の腕は、そのまま力を籠めていく。


「マリヴェル!」


 エーレが後ろから私を抱え、フガルの顎を掴む私の腕を押さえる。

 いくらなんでもエーレが全力を出せば、私はそれを振り払えない。それなのにエーレは私を止められずにいた。私の腕の筋が軋み、妙な音を立てる。


「やめ、ろ、何を!」

「我を見よ、人の子」


 私がフガルを覗き込んでいる。見開かれたフガルの目玉に、花を咲かせた私の瞳がはっきり映っていた。










 私は悲鳴を上げていた。しかし口からは何の音も出ていない。何かが流れ込んでくる。私の中に何かが渦を巻いている。だが、それが何か分からない。到底理解できる速度や量ではないものが、強制的に雪崩れ込む。

 まるで本に書かれた文字が、ばらばらになったまま落ちてくるかのようだった。意味も理解できず、ただただその量に圧倒される。文字に溺れ、自分の身体が分からない。手足も、視界も、聴覚も。呼吸をしているかさえ分からない。

 私はどこ。

 いま私を構成しているものは、なに?

 何も分からない。ただただ大量の文字が、情報となる前の形だけが雪崩れ込んでくる中、私は私を探すことしかできない。けれど、何かを掴もうにも息ができず、声を上げようにも私がいない。

 私はどこ。

 私は、なに。

 わたしって、なに?


「マリヴェル!」


 金切り声が聞こえた。聞こえたのは、耳があるから。


「マリヴェル! やめろ! その身体をマリヴェルに返せ!」


 何かが揺れている。揺れているのは、私の身体だ。温かいのは、私以外の温度がそこにあるからで。

 私を抱え、必死にフガルから引き剥がそうとしているエーレがいるからで。


 思考が戻ると同時に、ざぁっと血の気が引く。同様に、波が引いていくように文字が集約されていった。大量の文字は一所に集約され、どんどん小さくなっていく。それに合わせて、私に私が帰されていく。

 返された。帰された。分からないけれど。何も、分からないままだけれど。

 私が、短く大きな呼吸を紡いだのが分かる。身体は動かないが、私の身体を認識できている証左だ。覚醒するように、急速に世界がかえってきた。世界と己の狭間が分かる。光と音を認識して、私の意識を把握できた。

 しかし、まだ叫び声が聞こえる。私の声ではない。

 ならば。


 今度こそはっきりと意思を持って開いた視界に映ったものを見て、わりと本気で、私死んだほうがいいんじゃないかなって、思った。





 私が覗き込んでいるフガルは、絶叫をあげていた。眼孔から血よりもさらにどす黒い何かを垂れ流しながら、悲鳴とも絶命の声とも取れる音を上げ続けている。あの暗闇の中、やんでいった男達のような声を。


「碌な情報が残っていないが、使えないでもないか」


 私の声が、私の意思を介さず音を紡ぐ。私の意思が、私に反映されない。

 筋が引き連れるような、引きちぎれるような、妙な音がしている。エーレはもう、私の怪我を考慮していない。負傷の懸念を排除し、全力で私の腕を掴んでいた。

 私がフガルを殺す前に、何が何でも引き剥がそうと。

 炎を使えばいいのに。使って、腕を焼き落としてくれればいいのに、それはできないらしい。


「お前が何者かは知らないが、今すぐマリヴェルから出ていけ!」

「人の子よ、少々喧しいぞ」

「他者を害すのであれば自分を使え! マリヴェルの身体を使うな!」


 私の口が息を吐いた。重く、けれど軽い、煩わしさを含んだ音を聞き、私の自由にならない身体なのに、血の気が引いたのが分かった。

 フガルの顎を砕かんばかりに掴んでいた私の左手が外される。頽れ、椅子からも転げ落ちたフガルは動かなくなった。足元に横たわるフガルを向いたまま、私の右手が跳ね上がった。

 私の右手が、エーレの首を掴んでいる。みしりと嫌な音がした。私の腕からも、エーレの首からも。


「人の子、きさまらの矮小さは愉快であり、浅ましさを愛おしいとは思うが、時と場合によるとはこの事よ。人の子は我らの目こぼしを受け生を紡いでいるだけに過ぎぬと心得よ」


 腕が振り回され、エーレの身体が私の前に現れる。足が地面についていない。私はエーレを天へ掲げるように持ち、首を限界まで傾けて見上げている。エーレを振り回したとき、腕どころか肩でも妙な音がした。折れていてもおかしくないのに、痛みも疲労も感じない。

 両手で私の腕を掴んだエーレの瞳から炎が漏れ出していた。命を守ろうとした本能の反射だ。そのまま生存本能に従えばいいのに、本能を押さえつけようとしているエーレは愚かだ。そんな余裕どこにもないだろうに、私の腕に爪さえ立てていない。ただ力を籠め、腕の機能を落とそうとしているだけだ。

 焼いて。今すぐ、私の腕を焼き落として。本当は命ごと焼いてもらったほうがいいのかもしれないけれど、エーレにそこまでやらせるわけにはいかないから、せめて腕だけでも。

 そう願うのに、私の口は私の意思を通さない。


「記憶があるから煩いのか?」


 歯を食いしばり、少しでも酸素を確保しようとしていたエーレの目が見開かれる。私の心臓が嫌な音を立てて軋んだのに、私の中にいるそれは止まらない。


「やはりお前は消しておくべきか。我がこれを使う度邪魔をするのであれば、煩わしい」


 私の左手がゆっくり上がっていく。


「や、めろ」

「何、案ずるな。これだけでは使い物にならん。これに助力する義務の記憶程度は残しておこう」

「やめ、ろっ」


 炎が舞い上がる。しかし、炎は私を焼かない。指がつけた歪な痣を首に滲ませ、すでに焦点も合っていない瞳が、それとは違う苦しさで私を見ている。

 やめて。焼いて。やめて。焼いて。やめて。焼いて。やめて。焼いて。

 音は出なかった。けれど、その言葉だけで染め上げた私の思考は、外に漏れ出した。

 私を、焼いて。

 音には出せず、けれど形だけは動かせた私の唇を見たエーレが、唇を噛みしめた。


「おれの、炎は、マリヴェルを焼くために、あるんじゃ、ないっ!」


 だったら腕を切り落としてくれたらいいのに。それもしないのに、何も、しないのに。エーレは、無茶ばかりする。

 もはや意識も曖昧なのか、エーレの瞳が虚ろになっていく。もうろくに見えていないのだろう。私の左手が、エーレに届いてしまう。

 忘れる? 私を?

 エーレが?


「やめて」


 声が、出た。

 薄く、浅く、吐息よりも情けない小さな音だったけれど、確かに私の言葉として口から滑り出る。


「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて」


 お願い、やめて。


「いや」


 エーレと目が合った気がした。もはや意識も定かではないはずの虚ろな瞳が、私を映している。

 お願いします。何でもします。どんな罰でも受けます。どんな役目でも果たします。

 ですからお願いします。誰か、お願い、誰か、神様。


「エーレ」


 お願いだから。


「わすれないで」


 虚ろな瞳が、閉ざされ。

 次の瞬間、弾かれたように開かれる。秋の山に放り込まれたかのような赤が世界を覆う。

 炎だ。

 部屋中を覆ったエーレの炎が一点に集約されていく。私の中に、収まっていく。

 けれど熱くない。痛みもない。エーレから溢れ出る炎は私の中へ消えていくのに、私には焦げ目一つつかない。


「はっ」


 それはただ息を吐いたというよりは、堪えきれなかった笑い声だった。


「すごいな。熱いぞ」


 私の両腕から突如力が抜ける。エーレの身体は地面に落ち、大きく噎せ込んだ。

 喉と胸を押さえ、激しく酸素を取り入れながらもエーレは私を見上げる。


「何をした、人の子。よもや我に届こうとは思わなんだぞ」

「答える、義理は、ない」


 また一つ大きく咳き込んだエーレに、私は肩を竦めた。


「義理はなくとも義務はあろうが、まあよしとしよう。なかなかに面白かったぞ、人の子よ。いつの世も、突出した人の子は現れるものよな」


 私は、ひょいっとエーレを覗き込んだ。フガルのことを思い出したのか、エーレの顔が引き攣る。それを笑いながら、私は続けた。


「これをうまく使え、人の子。間に合わせゆえあまり役には立たぬだろうが、これよりさらに使い物にならなくなっていく」


 にこやかに告げた私に、エーレの周りで炎が膨れ上がる。


「そこな人の子より徴収した情報はこれの中に収めておる。これがうまく扱えれば引き出せるであろう。うまく使えば、多少は役にたとう」

「……これ、これと――人の聖女を物扱いするなっ!」


 枯れた喉を酷使した怒声と激憤のまま溢れ出した炎を受けた私は、声を上げて笑った。

 同時に、がくんと視線が下がった。何の加減もなく打ち付けた両膝から痛みが走り抜けて初めて、身体が返された事実を知った。

 膝はついたものの勢いは殺せず、前にいるエーレに覆い被さるように倒れ込んだ。


「エーレ、大丈夫ですか!? すみません!」

「お前に、謝られる筋合いは、ない」

「襲撃に使用されたのは私の身体ですし……」

「襲撃を止められなかったのは、俺の責だ」


 事情は違えど、咄嗟に身体を動かせない者同士、潰し潰されの状態で待機するよりない。整わない呼吸で荒く跳ねる背に身体を乗せたまま、じっとする。熱いほどの体温も、激しすぎる呼吸も、彼の生命維持が絶たれそうになった名残だ。まったく喜ばしい痕跡ではない。

 私も深く吸った息を、長く吐いた。薄い背に額をつけ、目蓋を閉じる。


「エーレが無事で、何よりです」

「まったく無事じゃないお前は最悪だ」

「殺されかけたエーレよりは無事です」

「負傷は少ない分お前よりは無事だ」


 つまり、どっちもどっちでは?


「重い」


 なんにせよ、私は結局エーレを潰すらしい。


「神殿にいた頃の体重には戻っていないと思いますが、落としたほうがいい感じですか?」

「それ以上、ごほっ、僅かにでも、落ちてみろ。はっ倒すぞ」

「えぇー……」


 呼吸が落ち着いてきたのだろう。エーレは潰れきらず、そのまま起き上がってきた。私もその動きを借りて、体勢を戻す。だらりと垂らしたままの両手を引き摺り、足と腰を使ってずりずり後ろに下がる。

 エーレはまだ喉を押さえたまま俯いているものの呼吸は整っていて、ほっとした。

 視線だけでフガルを確認する。床に倒れ込んだままぴくりとも動かない。固く閉ざされた目元から流れ出た黒い跡が何本も残っていた。私の視線を追ったエーレは、軽く身を乗り出しフガルの首元と顔に手を当てた。


「……生きていますか?」

「脈と呼吸は問題ない。意識が戻るかはカグマに診てもらわなければ分からないが、意識自体は元々良好とも言えない状態だった。今更悪化しようが大差ない」

「どこまでがフガルだったのか、ちょっともう分からなかったですね」


 私にとっては、あのフガルがずっとフガルだったけれど、神官長が言っていたフガルの人物像とは当てはまらなかった。もうずっと前からそうだった。

 サラのときもそうだったが、異様に攻撃的に、そして短絡的になる。そういう人間は多くいるが、元々の性格とかけ離れた攻撃性を持ち、思慮深かったはずの人が癇癪持ちの子どもより短気となり、反射のように怒鳴りつけてくる様は異様としか言い様がない。

 それでも、目を見開いたままどす黒い涙を流していた姿を思えば、どうしたって様子が気になる。元々壊されていたとして、もっと壊していい理由にはならないのと同様だ。

 フガルを覗き込もうとずりずり近づけば、背を向けていたエーレが弾かれたように振り向いた。私は瞬きをし、足とお尻でずりっと後ずさりして、詰めた距離を離していく。


「中にはもう何もいません。襲ったりしません。そもそもあの謎の存在も、もう襲う気なさそうでしたから、恐らく大丈夫だと、思うのですが……」


 本当は両手を上げて敵意はないと訴えたかったが、それは難しいので距離を取ることで主張するしかない。エーレは笑いも怒りもしていない目で、じっと私を見ている。絶対に安全であると言い切れないのが申し訳なかった。


「マリヴェル、腕は」

「あ! そうですね! 両腕とも指一本動かないので物理的に大丈夫です! たぶん右は肩が折れてます!」

「第十三代聖女の大馬鹿野郎様ふざけるなたわけるのも大概にしろ大阿呆がはっ倒すぞ」


 これでエーレに襲いかかっても大した被害にならないだろうと自信満々に告げたら、間髪入れずに罵られた。早口言葉選手権があったら、上位入賞間違いなしである。

 長く深い溜息が聞こえた。


「道理で身体を引き摺って動く音ばかりが聞こえるはずだ。お前、立てないんだろう」


 すっくと立ち上がったエーレがずかずかこっちに来るものだから、私は慌てて後ずさる。ぴくりとも動かせない両手を床に引き摺りながらの移動になるので、どうにも体勢を保ちがたく、速度が出ない。あっという間に追いついてきたエーレが、目の前で膝をつく。


「痛みは」

「それなりに?」

「大馬鹿野郎」


 不機嫌そうに言われても、これこそまさに不可抗力である。


「だって、私を使っているあの存在、こっちの肉体限界全然考慮してないんですよ。そのうち稼働区域完全無視して膝とか逆折りしますって、絶対」


 盛大に舌打ちしないでほしい。痛みが出ないよう触診してくれている手つきは優しいのに、舌は元気いっぱいだ。


「それより、エーレ何をしたんですか? あんなに炎が私の中に入っていったのに、私全然痛くなかったんですけど」

「色々」

「あ、これ説明するのめんどくさくなってる」


 話す気力がないのなら踏み込んで聞くのも申し訳ない。何せ、さっきまで呼吸がままならなかった人だ。疲れていて当然である。

 ドレスを剥いで、何故か右の脇腹を触っているエーレは置いておいて、さっき謎の存在が言っていた言葉を考える。

 フガルから徴収した情報と言った。もしかすると、あのばらばらの文字が凝縮された状態のことだろうか。

 わざわざ言葉として紡いだのであれば、触れないわけにもいかないだろう。

 私は溜息と意識集中のため、深く呼吸をした。あちこち痛むが、それは仕方がない。痛みに気を散らされないよう気をつけて目を閉じ、意識を集中させる。


 自分の中で捜し物をするのは、記憶以外では初めてだ。

 目を閉じれば、満天の星空のような、夜空に星の渦巻きができているような、目蓋の裏の景色が見える。その奥、もっと奥、深く掘り進めているのか、落ちているのかは分からないが、どこまでも進んでいった先に、何かがあった。

 何かがあるのは分かったが、これが何かはさっぱり分からない。箱なのか缶なのか鞄なのか、角なのか丸なのか水なのか。何かは分からないが、私の中に何かがある。何かの中にも。

 これは、触っていいのだろうか。触ったくらいでどうにかなるのか。開けていいのか開けては駄目なのか。よく分からないが、もし駄目だったら私のどこかしらが壊れる程度だろう。

 そもそも自分の中に何かを設置されるのが初めてなのでよく分からない。意味も分からない。

 触るといっても手で触れるという感覚ではない。顔面から突っ込んでいく感覚に近い。だからこそ、落ちていると表現するほうが正しい気がしてきた。

 意味も訳も分からないが、これを開けなければいけないことだけは分かるので、頑張るしかない。

 何かに顔面から突っ込みながら、私は目蓋閉ざして夜空を見ながら、目を開けた。





 水の香りがする。土臭く青臭い、濃密な森の香りを纏った水の香りだ。濃藍に染まった世界は、ここが真夜中だと教えている。少し冷たい湿った夜風が、髪の間を通り抜けて肌を撫でていく感覚は、これが現実だと教えている。

 だが、現実じゃない。ありえない光景だ。ならば、現実に存在した事象だ。

 確証はなかったが、確信はあった。

 これは、フガルの記憶だ。人の記憶を覆える人間がいるのだ。人の記憶を奪える何ものかがいたって不思議ではない。あの存在が人間如きの記憶を奪えないはずもない。


 私はゆっくりと視線を巡らせ、息を呑んだ。ひゅっと掠れた呼吸が喉を鳴らす。隣に、エーレがいたのだ。フガルの記憶にエーレがいても、現実のエーレがいても、おかしい。

 エーレはゆっくりと周囲を見回し、私で視線を止めた。唇を動かすも、音が出ていない。おそらく私も何も喋れないのだろう。だからだろうか。エーレは言葉を諦め、持ち上げた手で意思を示した。


『何かするなら言ってからにしろ大馬鹿野郎』


 王子との暗号を使って言葉を伝えてきたエーレに、私は静かに瞳を伏せた。

 まっず。これ現実のエーレだ。

 私の存在に気付いていることからほぼ分かっていたことではあるが、どうやら私が潜った情報探りに巻き込まれたらしい。大層お怒りである。

 確かに現実で両方意識を失っていては見張りも何もあったものじゃない。私もエーレを連れてくるつもりはなかった。そもそも自分だけで潜れるかも分からなかったのだ。

 何がどうなってか一緒にいたエーレをしっかりばっちり巻き込んだ私は、流れるように腰を折り、無言の許しを請うた。

 ほんとどうもすみません。お願いしますから拳は引っ込めていただけないでしょうか。

 私の願いが通じたらしく、深く重い息と、後で覚えてろの暗号と共にエーレの拳は下げられた。どう考えても問題が先延ばしになっただけであるが、ひとまずよしとしよう。


 ともあれ、必要なのは情報収集だ。

 私とエーレは状況の把握に努めた。複製したのか丸々強奪したのかは分からないが、ここがフガルの記憶の中なら、フガル自身がいるはずだ。

 ここはどうやら森のようだ。木々の合間から遠くに王城が見えた。王城が見えれば、ここがどこかは大体把握できる。城下町の外れにある森、聖女選定第一の試練を行った森だ。この森は、深く進めば傾斜がつき、小高い山となる。私達がいるのは中腹ほどだろうか。

 視線を合わせ、私とエーレは木々の合間を縫い、森の外がよく見える位置まで移動した。

 近くにある平原では祭りが行われていた。遠くに見える城下町も、まるで燃えていると錯覚しそうなほど明るい町も、足元にある祭り会場も、人が溢れている。夜も遅いというのに元気なものだ。

 月の高さから見るに夜も更けてそれなりの時間が経っているのに、あちこちが明るい。かなり盛大な祭りだ。何の祭りか分かれば、時期も判明するだろう。

 隣にいるエーレと声を出さず会話を交わす。王子との暗号を共有しておいてよかったと思うときが、こんなに早く訪れるとは思わなかった。


『これ、いつか分かります? 東の時計塔が改修工事してるんで、ここ三年以内だってことは分かるんですけど』


 東の時計塔は最近ようやく工事が終わった。

 時計の部分は見えているが、何せ古い建物で、時計の修繕ではなく老朽化に伴う塔の改修工事が三年間行われていたのである。時計塔は確か、そろそろ百歳になる。その中でこれほど大規模な工事をしているのはここ最近の三年間だけなので、分かりやすくて助かった。

 ここ三年以内とまで絞れたからよしとすべきだろうか。できるならもう少し絞りたいものだ。


『去年』

『え? どこ見たら分かります?』


 慌てて祭りと城下町を見渡すが、祭りを行っているということしか分からない。春祭りにしては主役となる花の種類が違う。豊穣祭にしては野菜と果物が積み上げられた塔がない。


『東の時計塔を覆っている幕だ』

『工事用のですよね。あー……なんか模様がありますね。えー、あんな模様ありました? 私結構な頻度で見てたのに気付きませんでした』


 神殿から抜け出す度に、時間確認で見ていたのに全然気がつかなかった。

『聖女が結構な頻度で見上げる建物じゃないがな。あの幕は、去年のお前の聖誕祭にだけかかった』


 驚いて大きく瞬きしてしまった。

 確かに、聖誕祭の日は朝から晩まで神殿と王城の往復をしているので町に下りたことはない。


『聖女の絵を幕に描きたいという申し出があったが、描きたいと名乗り出てきた絵描きが多すぎて収拾がつかなくなったため、絵以外で許可を出した』

『聞いてないですねぇ』

『絵描き同士で暗殺者を放ち合った話を聞きたいか?』

『あ、結構です』


 収拾がつかないにも程があると思うのだ。人の聖誕祭で物騒な催しを開かないでいただきたい。

 いくら私の聖誕の日が(推定)とつけられるとしても、暗殺者はないだろう、暗殺者は。推定であろうが神官長が決めてくれた日なのだ。せめて人死にだけは避けてもらっていいだろうか。

 なんともいえない話を知ってしまったとき、背後から音がした。エーレと二人、同時に振り向く。山を、何者かが上がってくる。夜の森だというのに灯りもつけず、暗色の外套を深くかぶった集団だ。十人には満たないが、片手の数は超えている。

 迷ったが、身を隠さずそのまま集団が通り過ぎるのを待った。集団は私達には気付かず足早に通り過ぎていく。気付かないのは当然だ。私達はここにいない存在なのだ。だが、ちょっと身構えてしまったのは許してほしい。


 集団は荷物を抱えていた。一人につき一つ、大きな籠を背負っている。布で覆われているため中身は分からないが、なんだか嫌な大きさだなと、思った。

 集団が通り過ぎるのを待たず、私は足を進めた。一人一人、集団の顔を覗き込んでいく。エーレも同様に顔を確認していた。なんだか幽霊になった気分だ。大きな荷を背負わなければならないからか、集団は全て男だった。

 先頭から三番目に、フガルがいた。年相応の顔をしている。どう見ても、九十にも百にも見える外見ではない。この日から今日までの間に、フガルに何があったというのだろう。

 フガル以外は記憶にない顔ばかりだ。だがエーレが苦い顔をしていたので、どうやら知っている顔らしい。後で聞こう。


 男達は無言で歩き続け、やがて小さな滝壺に辿り着いた。誰が指示するわけでもなく、全員が荷を下ろし始める。黙々と荷から布を外している様子を後ろから見ていたエーレの視線が険しくなっていく。

 嫌な大きさだと、思ったのだ。

 男達は両腕と共に上半身を籠に入れ、起き上がってくる頃にはもう一人連れていた。

 そこには女達がいた。小さな子どもから、老婆まで。一つの籠に一人ずつ。籠の大きさはちょうど、成人女性が膝を折って座っている大きさだった。


 女達は、生きているようには見えなかった。肌の色も、ぐにゃりと頽れる形も、薄く開いた虚ろな瞳も、すべてが生者のそれではなかった。

 死者を抱え直した男達は、無言で彼女達を滝壺に沈めていく。

 たとえ小さくとも、ここは滝壺だ。上から落ちてくる水による水流で上がってこられなくなる。凍えるほど冷たい水と、ぐるぐると縦に渦巻く水流で生者が落ちれば一溜まりもない。生者も死者となって発見される場所に、これだけの数の死者を沈める理由が分からない。

 死者を隠したいなら埋めたほうが早い。事故を装いたいならこの数は無理がある。

 八人もの死者が沈められた滝壺を、男達はぐるりと囲った。じっと見つめ続ける様子は異様だ。ここに来るまでのすべてが異様だったが、今が一番異質に見えた。滝壺を見つめ続ける瞳には、奇跡を願う切実さが宿っていた。

 夜の闇に染まった死者が沈むどす黒い滝壺を見るには、あまりに切実な狂気がそこにはある。



 それからどれだけの時間が経っただろう。滝壺に変化はない。それでも男達は動かない。身動ぎ一つせず、滝壺を見つめ続ける。

 私は自分の掌を見た。何度か握っては開き、軽く肩も回す。ここに来るまでに分かっていたが、やはり身体の状態は現実と違って正常だ。水中で息ができるかは分からないが、一度潜ってみよう。

 そう決めて、滝壺に足を踏み入れようとした私の身体が背後に吹っ飛んだ。腕を加減無しに引っ張られたのだ。剥き出しの土と岩が混在する地面に叩きつけられたにしては柔らかく温かいものにぶつかったので痛くはないが、驚いた。

 視線を向ければ、私を抱えたまま地面に座り込んだエーレがいた。そんな勢いで止めなくてもいいではないかと思ったが、様子がおかしい。エーレは私を見ていない。片手で私を抱えたまま、残った手は地面を擦り、少しでも背後へ下がろうとしている。

 いや、距離を取ろうとしているのだ。

 強張ったまま固定されたかのように動かないエーレの視線を辿り、滝壺へ視線を戻した私も、動きを止めた。


 滝壺に、女がいた。

 沈められた死者達かと思ったが、すぐに違うと分かる。滝壺から、女が生えているのだ。夜の闇を溶け込ませた水面から、裸体の女が生えている。腕の数が、足の数が、頭の、数が、あわない。

 腰から下は水面に浸かっているはずなのに、足が六本見えている。真っ正面に向いているはずなのに、何本もの足裏が、膝裏が、見えていた。頭も腕も、手の指も、すべてがおかしい。数があわない。位置があわない。角度があわない。

 瞬きの度に、数が変わる。呼吸の度に、位置が変わる。まるで、沈められた女達の身体すべてを自らに組み込んでいるかのように。

 こんなもの、こんなものを、人と呼んでいいはずがない。私だって人でなしで、ろくでもない存在だけれど、これを人と呼ぶのは、命への冒涜だ。


 それが揺れた。いつの間にか一つになった頭を大きく揺らすと同時に、岸辺に近づいている。一歩踏み出したのか。深い滝壺のどこに、足をつけたというのだ。

 それが近づく度に、私の身体は後ろに下がる。私を抱えたまま、エーレが下がっているのだ。あれと同じ高さにいたくない。立ち上がることは、できなかった。


 それが岸辺に辿り着く。滝壺を囲んでいた男達は、いつの間にかそれが辿り着く場に膝をつき、頭を垂れていた。

 それが水から上がる。それは、いつの間にか人の形をしていた。足元まである薄い金色の髪をした、美しい少女だ。月明かりに照らされた真白い身体は、死者ではなく生者のものだ。さっきまでの異形を見ていなければ、生者だと信じてしまいそうなほどに。

 ゆっくりと上げられた顔を、私は知っていた。十代半ばほどの少女だ。幾度となく本で見た。絵画で見た、屋台で見た、店で見た、神殿で見た、アデウス中で見た。

 先代聖女、エイネ・ロイアーの顔だ。


「嗚呼、エイネ様。お待ち申し上げておりましたっ」


 感極まったフガルの声で堪えきれなくなったのか、男達から啜り泣く声が聞こえてくる。


「ええ……本当に、長く待たせてしまいました」


 水のような声だった。透き通っているのに重く、軽んじることは難しい美しい声だ。女達の死体を組み上げた身体で出しているとは思えない声だった。


「寿命を終えた後、再び貴方達の元へ帰りますと告げた約束の日を、何年も遅れてしまいました。ただでさえ、信じ難い言葉だったでしょうに……本当に、よく待っていてくれました」

「勿体ないお言葉にございます。神殿は、いつ如何なる時も、貴方様の忠実なる僕にございますれば」


 答えたフガルは、悔しそうに歯噛みした。


「しかし現在、神殿は愚者により乗っ取られております。我らの力及ばぬばかりに誠に申し訳ございません」

「……そうでしたか。御しやすいよう、年若い者を指名したはずでしたが。確か、ディーク・クラウディオーツといったような」

「は……しかし、あの若輩者は卑劣な手段を用い、我らが同胞を次々に神殿より除籍して回りました。最早、我らが同胞は数えるほどしか神殿に残ってはおりません」


 口惜しげに歯噛みするフガル達とは対称的に、エイネはくすりと笑って見せた。


「してやられましたね、フガル。いつの世も若者の台頭には目を見張るものがありますから、油断は禁物ですね。ですが」


 柔らかく細められた瞳が、滝壺のような冷たさを纏った。


「紛い物の聖女を掲げるような人間を神官長に任命してしまったのは、わたくしの責です」

「あの者は、クラウディオーツがスラムより拾ってきたと申しておりましたが、それ以外の出自は一切不明にございます。しかしどれだけ探ろうと、選定の儀での不正を見つけ出すことは叶わず……口惜しいことにございます。あのような品性なき者を、たとえ一瞬であろうと聖女の座に据えてしまったこと、我ら一生の不覚にございます」


 エーレはずっと、音を立てず後ろに下がり続けている。もう話し声も聞き取りづらい距離だ。だが、それを咎めようとは思えない。

 あれは、なんだ。なんなのだ。

 エイネが出てきた滝壺から、白い物体が大量に浮き上がってきた。手足が、身体が、頭が、何人もの女達の破片が浮かび、再び沈んでいく。


「貴方達がいたから、わたくしはこれまでも、そしてこれからも、民の為、国の為に尽力してゆけます。十二代聖女の死によって、アデウスは惑い、更なる混沌が生まれました。しかし、案ずることはありません。わたくしがいます。アデウスは平和を取り戻すでしょう。大丈夫ですよ、フガル。紛い物は廃棄されるが世の常。あれが聖女であるはずがありません。すぐに間違いは是正され、アデウスは正しい形に治まります。そもそも、十三代目聖女は現れるはずがないのです」


 美しい少女は、歌うように語る。


「アデウスに、もはや神は存在しない」


 私はあの日、神を見た。

 それはいつ?


「ゆえに、二度と聖女は現れない」


 神はあの日、私を選んだ。

 ――本当に?



 エイネ・ロイアーは、柔らかな春風のような声で、夏に茹だった浅い川のような声で、厳しい明日を見据えた秋の実りのような声で、春を夢見る冬のような声で。


「わたくしが皆の前に帰るその日、アデウスは完全なる神国として生まれ変わるのですから」


 この世の終わりを宣言した。










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