58聖
サロスン家の地下は、階層がないだけで地上と遜色ない屋敷が広がっていた。先が見えぬほど延々と続くまっすぐな廊下は異質であったが、それ以外は地下であることを忘れるほど豪奢に整えられている。
部屋は廊下を挟んだ左右に存在し、これまでに見ただけでも優に五十は超えている。扉の間隔を見るに、一つ一つもそれなりの広さがあるようだ。扉のない部屋も途中で発見した。中は巨大な厨房であったり、洗濯場であったり、鍛錬室と思わしき部屋であったり、こちらは扉があったが風呂場も当然のようにあった。
どこから引いているのかは分からない上に神力は必要なようだが、エーレが手を翳せばどの蛇口からも透き通った水が出る。
生活の場として、それも共同生活の場として今も機能していた。
存在が当主以外に秘匿されているとはいえ、使用は当主に限定した造りではない。この数だ。一族以外でも相当な数の使用人、もしくは兵士が籠城できるだろう。当時の当主がどういう状況を想定して造ったのかは知らないが、血なまぐさい理由でなければいいなと願うしかない。
私とエーレは、呑気に探索しているわけでもないが、汗水垂らして疾走するほど焦りもせず、どちらかといえばのんびり地下を進んでいた。
フガルがここにいる。それさえ分かっていれば充分だ。
これほどの地下設備だ。出入り口が書斎のあれ一つな訳がない。だがそれをデオーロがフガルに教えているとは思えない。
この場所を使わせているだけで破格の扱いである。それ以上を与えられるほどには、先代聖女派はサロスンの信頼を得られなかったようだ。フガルの仲間、先代聖女派が他に潜んでいる可能性も同様の理由で除外できる。他の出入り口をフガルが自力で探し当てたとしても、そちらもまた自壊する鍵とやらが必要になっているはずだ。鍵開けの技術をフガルが持っているとは思えない。
よって、私とエーレは急ぐ必要がないのだ。私達の侵入にフガルが気付いたとしても、逃げようがない。
そうは言ってもかなり歩いた。ざっと見ただけでも把握できた部屋の数で分かってもらえると思う。私達は、かなりげんなりしている。
エーレがフガルの神力を探しているので逐一扉を開けて部屋を確認する必要がないのはありがたいが、それでも結構な労力だ。もういっそ、フガルでーすと自分から飛び出してきてほしい。飛び出してきてくれたら、その瞬間二人で殴りかかってあげるから今すぐ出てきてほしい。
うんざりと歩きながら、頭は色んなことを考える。エーレもそうなのだろう。私達の会話は度々不自然なほど途絶える。互いにうんざりした顔をしているのに、会話が途絶えた瞬間からうんざりは散ってしまう。うんざりしていたほうがましだなんて、本当に最悪な気分だ。
「エーレ」
「何だ」
だったら話しかけなければいいし、エーレも応えなくていいのに、律儀に応えてくれるから困る。私を甘やかすと碌なことにならないと身を以て知っているはずなのに、神官の責務を負う人は大変だ。
「私がもしフガルを殺しそうになったら止めてくださいね」
それが私の意思でない場合は勿論、あったとしても絶対に。
「私の損傷は、死ななきゃまあいいので」
「分かった」
エーレはすんなり頷いてくれた。
「お前の発言は、全てが解決した後の神官長への報告書に一言一句違えず書いておく」
さらりと告げられた内容に飛びあがる。
「忘れた頃にやってくる死刑宣告やめません!?」
「怒られると分かっているのに俺には言うお前が悪いだろうが!」
「神官長は何言っても怒るけど、エーレは怒らない場合もあるじゃないですか! そこに一縷の望みをかけて言っているんです!」
「俺は纏めて怒っているだけだ!」
「え!? じゃあ全部怒ってる換算だったんですか!?」
「当たり前だ!」
長い付き合いだが、今になって衝撃の事実が発覚してしまった。まさか纏めて怒ることで、逐一怒るより体力消費を抑えていただなんて思わなかった。
衝撃によろめいた私を、エーレのじっとりとした視線が追いかけてくる。
「お前、怒られるのは分かっているが、怒られる理由はいまいち分かっていないだろう」
「私が私の運用下手ってことですよね。分かってますよ。面倒くさがりなんで無駄が多いのは分かってるんですけど、やっぱり楽に楽しくいきたいなぁと」
エーレはくるりと振り向き、空いている手をゆっくりと振り上げた。反射的に一歩下がろうとしたが、空いていない手は繋がったままなので逃げそびれる。そのまますこーんと落ちてきた手は、私の脳天をかち割った。
「いったぁー!」
「いまいちどころか何一つ分かっていなかったことは分かった」
痛みに悶える私は完全に無視して、エーレはぐんぐん進んでいく。私はかろうじて自分の足で歩いているけれど、前進する力はほぼエーレのものなので引き摺られていると言っても過言ではない。
地下でも星は降るらしい。ちかちか瞬く星を目蓋の裏に感じながら、へろへろ進んでいると、前進していたエーレがぴたりと足を止めた。
「いたぞ。六つ先の右扉」
「いたた……それはよかったです。後、フガルの顔を見た瞬間殺意が湧いちゃったらどうしよう案件はそれどころじゃなくなったおかげで大丈夫な気がします。私の意思分はですけど」
「それはよかった」
「私の頭は全然よくない気がします」
「確かにお前の頭はよくない」
私が言った意味とは違う含みがあったように思うけれど、きっと気のせいだろう。
扉はエーレが開けた。開かれていく扉の先で、年老いた男が慌てた様子もなくこちらに向かって座っている。開けているエーレではなく、真ん中に立っている私と真っ先に目が合った。
心配していた衝動はまったく起こらなかった。さっきのエーレによって散ってくれたらしい。ありがたいことだ。
しかし、代わりが沸いてきた。疑問だ。
椅子に座る男に面影はある。フガルだ。昔、私を嫌悪と憎悪っぽい何か……というよりそのまんま憎悪だったのかもしれないが、そんなもので一杯になった目で私を睨んでいた男と同一人物だと分かる程度には面影がある。面影はあるのだが。
しかし先代聖女の右腕として神官長を勤め上げた男の年齢は、現在六十代だったはずだ。それなのに、どう見ても八十は優に超えているように見える。八十どころか、百の大台に乗っていると言われても納得してしまうかもしれない老い様だ。
病を宿したとても、こんな老い方をするだろうか。
あのときより一回りも二回りも小さくなったようなフガルは、もう伸ばすこともつらいのか、両手で持った杖を支えにするように背を丸めて座っている。
「フガル・ウディーペン。エイネ・ロイアーはどこにいます」
部屋自体は豪奢なものだ。とても地下とは思えない。風が通らない場所特有の空気の淀みも、重さも、黴の臭いもしない。灯りは適度で、室温も冷え切らず心地いい。美しく丁寧に作られた調度品は埃一つ被らず、住みやすそうな場所だ。
そんな場所に、今にも萎れてしまいそうな老人が一人、ぽつんと座っている。
「王城の犬か」
しゃがれ、掠れ、濁り、聞き取りにくい声だ。たっぷりの泥が揺れ零れた音に似ていた。
どこから持ってきたのか、いつの間にかエーレが用意した椅子に座り、フガルと向かい合う。話し合うというには少々遠いが、対面しているのは互い以外いるまいという絶妙な距離だ。
「それとも、忌々しきクラウディオーツの犬か」
唾棄すべきこの世の悪がここにいると言わんばかりには吐き捨てられなかった事実に、私は今度こそ確信を持って笑った。
「どうしましょうね、アデリーナ」
「は」
視線を向けず、隣に立つエーレへ言葉だけを向ける。
「私はここに、先代聖女エイネ・ロイアーの右腕がいると聞いて足を運びました」
先代聖女と言った途端、フガルが射殺さんばかりの視線を向けてくる。十二代目聖女だけを主とし、神をも捨てた輩にとっては、先代聖女という言葉自体が侮辱であり、許し難い「不道徳」なのだ。何せ未だエイネ・ロイアーだけが聖女なのだから、彼女はずっと「当代」で在り続け、「先代」などという言葉で呼ばれる侮辱を許すわけにはいかない。
私は、だからこそ彼らを先代聖女派と名付けた神官長派である当代聖女なので、遠慮なく呼び続ける所存だ。
「先代聖女について、そして先代聖女派について重要な情報を持っていると思ったからこそここまで来たというのに、いたのは有象無象と変わらぬ扱いを受けた老いぼれ一人。これでは地下くんだりまで出向いた甲斐がないというものでしょう」
「仰る通りにございます、我が主」
「この程度の扱いを受けた老いぼれからでは、碌な情報は手に入りませんね」
「無駄足にございましたね」
年老いた皺だらけの額に青筋が走る。外見はともかく、中身は血気盛んな初老のままのようだ。
「この私を、有象無象と申すか」
濁り掠れた言葉を感情でさらに震わせたフガルの身体全体が揺れている。国民に絶大な人気を誇る先代聖女の右腕として、長年憧憬と尊敬の中生きてきた男が、晩年になってこんな地下で価値無しとして扱われるのは、さぞや堪えるだろう。
「当然でしょう」
「この私を、あの御方の信を一身に頂いたこの私を老いぼれ扱いするなどと……きさま如き若輩が侮辱するは許さんぞ!」
ぶるぶる震える両手で持っている杖が、地面からずれてしまいそうだ。そうなったら、この男は自らの感情を御せず床に倒れ込む。それが分かっているのかいないのか。分かっていても許せぬ怒りなのか、年老いて感情を制御できなくなったのか。それとも急激に老いるほどの損傷を肉体に受け、思考できなくなったのか。もしくは別の要因か。
まだ深く考えたことはないが、もし神官長がお年を召され病を患った場合、私は最期までお世話をするつもりだった。そうはいっても、沢山の人に慕われているあの人のことだ。私が手を出す場所が残っているのかは分からないが。
でも今は、お世話どころか、理由がなければ視線に入ることすら許されない場所にまで追い出されてしまった。そして目の前のこの男が原因の一端を握っている。
やっと、やっとここまで来た。何も掴めないまま、疑問だけが積み重なる中、やっと掴みかかれる実体を得た。
はっと短い息を笑いと共に零し、口角を吊り上げる。
「だって貴方、私が誰かも分かっていないのでしょう?」
「――何?」
肉がそげ落ち、薄い皮が骨に張りついただけの顔からは、ちょっとした動きで大袈裟なほどに表情がよく見える。不審げではあるが、心の底から疑問を浮かべた顔に声を上げて笑いたくなった。
「私を神官長の犬かと問いましたね。その問いにわんと応えることは吝かではありませんが、今はやめておきましょう。フガル・ウディーペン、いま一度問いましょう。その返答如何により、私は貴方を先代聖女の右腕なのか、それとも有象無象の駒の一つなのかを判断致します。さあ、私は誰でしょう」
別にこんな問答必要ないが、あえて反抗的で攻撃的な人間の相手をする必要もない。絶対に喋るものか、あわよくば一矢報いるためにと、逃げも隠れもせず私達を待ち構えた人間の意気込みをそのまま受け止めてあげるほど、私はいい人でもなければ暇でもないのである。意気込みは、揺らげば揺らぐほどいい。
取り調べを、最悪の場合拷問を覚悟していたのであろうフガルの顔に、屈辱と憤怒と奇妙さが浮かぶ。
「参考までに一つ助言を差し上げましょう」
人差し指を口に当て、内緒話をするかのように微笑む。
「私はスラム出身です」
告げた瞬間、フガルの顔に嘲りが走った。
「貴様もその類いか」
「と、申しますと?」
窶れ果てた顔の中、フガルの瞳だけがぎょろぎょろ動いている。明日その寿命が尽きたとしても不思議ではないほど老いた顔をしているが、開いた口から見える歯はしっかりと生えそろっていた。それが、酷く奇妙な有り様を作り出している。
「あの男は本当にくだらない。特別賢いわけでもなく、力に優れているわけでもなく、融通も利かない愚鈍な男だ」
苛立ったように、杖が地面を打つ。
「なればこそ、自らが価値ある存在に見せようと、下位の者ばかりでその身を囲う。どこの馬の骨とも知らぬ孤児、罪人、年若き者。決して自らより上位の者を身の内に置こうとせぬ時点で、底が見えるというものよ」
舌打ちをしたかったのだろうが、痩せ衰えた力では何かを咀嚼しているようにしか聞こえない。
「あの若造は、聖女様より神官長の任を賜っておきながら、恩を仇で返した大罪人よ! あの若造が作り出した神殿を見たか! 貴様らはあの男を善人としたがる。ああ、そうだろう。食事を与える程度、あの男にとっては大した損害にもならぬ。その程度の施しであろうと、命を救われたと感謝の一つもしよう。だがあの男は、神官長の地位を得るや否や、先任者を次々追い出し始めるような男だ! 実力のある人間を追い出したところで、後任に据えられる自身の手駒は実力の浅い若輩者ばかりと知っていながら、自身を脅かさぬ下位の人間ばかりで固めたがる。そんな矮小で愚鈍で偽善ばかりでその身を固めるあの男の何が善なるものか!」
烈火の如く罵詈雑言を吐ききったフガルは、一度言葉を切ると見る見る萎んでいった。荒い息を吐く身体を支えきれないのか、ますます折り畳まれていく。
フガルの視線が地面を向いている内に、ちらりとエーレを見上げる。微動だにせず立っていた。眉一つ動かしていない視線が、ちらりと私を向いた。エーレ側にある左肩を軽く竦めてみせれば、竦めた右肩が返ってきた。
聞き慣れた罵倒だ。私への罵倒も飽きるほど聞いてきたが、若くしてその任に就いたにもかかわらず先代聖女派の暴挙を抑えた神官長への罵倒も耳にたこができるほど聞いてきた。主に先代聖女派が流した罵詈雑言であった。もう十年以上である。きっと先代聖女派は暇なのだろう。有意義な余暇の過ごし方を研究したほうがいい。
「そんな、矮小で、愚鈍で、偽善で、あとなんでしたっけ? まあいいですが、そんな若造に、正当な理由で以てあっという間に神殿を叩き出された貴方方は、一体なんとお呼びすればよいのでしょうか?」
最早怒りも湧かないので、純粋に疑問で聞いてみた。いやほんと、なんて呼べばいいのだ。
しかし、最初の問いにも、今回の問いにもフガルは答えなかった。ぎょろりと怒りに満ちた眼球を向けてくるだけだ。曲がりなりにも長い間神官長を務めた男だ。もう少し理性的であったと記憶しているが、この感情的な様は老いのせいか、それとも別の要因があるのだろうか。
「言い分はそれだけですか。前神官長フガル・ウディーペン」
だったら次は、私の番でいいのだろう。
背筋を伸ばし、フガルを見つめる。
「神官長ディーク・クラウディオーツは、神を蔑ろにし、自らの欲望のため神殿を利用せんとした貴方方先代聖女派の排除に尽力し、神殿の秩序を正しました。私は彼の行いを評価します」
フガルはきっと何かを言いたいのだろう。殺気とそれに比類した感情を詰め込んだ瞳で私を睨み続けている。しかし、先程叫んだ衝撃はまだ彼の身体を蝕んでいる最中らしい。
「彼が率いる神殿の人々が年若い者ばかりなのは致し方ないでしょう。何せ、先任者達がこの有様ですので。神殿の禁を犯す人間達を、神殿に置いておくわけには参りません。そのようなこと、貴方が一番分かっていなければならないのではないですか」
神官長が率いる神殿は、エーレを見れば分かるがみな年若い。神官長自身も歴代最年少の神官長だが、その他にも最年少の称号を受けた者で溢れている。
歴代の神殿最年少記録は、大体が今の代で塗り替えられた。
経験豊かな先任者達は、それだけ歴代最高と讃えられた先代聖女と過ごした時間が長い。つまり見事、大体が先代聖女派であった。
よって神官長は、先代聖女の影響をあまり受けていない若年層で立ち向かうしかなかったのだ。フガルの言う下位の人間ばかり集めたのではなく、上位の人間が軒並み使えなかっただけの話である。神官として真っ当に働いてくれる人間を集めたら、上位の人間が見つからなかったという悲しい事実だけがそこにあるのだが、その原因を担う本人には分からないものだ。
優秀な人間が多かったそうだ。優しく賢く穏やかで、そんな人格者も大勢いたそうだ。それなのに、多くの神官達が神殿に務める者としての責務を蔑ろにしていった。
ぜえと、掠れた息を吐きながらもフガルは口を開いた。
「聖女様は素晴らしい方だ。あの方こそが神殿の主に相応しい。そのような聖女を戴き続けることこそが、我々神殿の務めだ」
「神殿は神を戴く場。聖女は神によって選ばれただけに過ぎません」
「神が私に何をしてくださった」
さあ。
自分の半生を、何故私に聞くのか。ご自分の人生はご自身で把握しておいていただきたい。どんな不幸があって、どんなときに救いを求め、どれくらいの確率で神が手を差し伸べたか否かなど知る由もないのだ。
「我らの前に降臨されるでもなく、お言葉を賜る名誉をくださることもなく。その存在自体が立証できぬ存在とまで成り果てた神を、何故、あの御方よりも尊重せねばならぬのだ。アデウスの国民は皆、あの方に頭を垂れ、あの方に身も心も財も捧げるべきだ。存在すら明らかではない神より、この地に生き、我らを救うため尽力され、目の前におられるあの方こそが頭を垂れる相手として相応しい」
私の何倍も生きてきた男だ。まあ、いろいろあるだろう。それは分かる。神に救ってほしいと祈ったことも、その祈りが叶わなかったことも、それこそ山ほどあるに違いない。だが彼の生涯に興味はないし、疑問は募る。
私は首を傾げた。
「神殿を蝕む理由として、神の存在を信じられないことのどこに正当性があるのですか?」
心底疑問なのだが、フガルは質問の意味が分からなかったらしい。眉を顰めることで疑問を現わした。
「ですので、神の存在を疑い、敬うに値しないと判断したのであれば、何故神殿を出ていかなかったのですか? 神殿は神を信ずる者のためにあります。信じないのであれば去ればよろしい。神殿以外の場所で先代聖女を支持するのであれば、推奨はしませんが排斥も致しません。そうして貴方方が信ずる先代聖女を祀るための宮を立てればよろしかったのに、何故それを神殿で行おうとしたのでしょうか」
仕える価値がないと思ったのであれば仕えなければいい。神殿は神官を徴用しない。アデウスで神力と呼ばれる力を持った人間が徴用される国もあるが、アデウスでは私以外の全国民が持ち得る能力であるため、神殿にも王城にも強制的に集められることはない。
ウルバイなどは徴用の最たる国であるが、それだけの兵を集めたとしてもアデウスの兵力には到底及ばない。希少だからこそ強制的に集められているのだ。その力が特に珍しくもないアデウスとは、母数が違う。そんなウルバイと手を組んで、先代聖女は何が目的なのだろうか。
「神を敬わぬと言いつつ、神のために整えられた基盤だけは使いたい。それは些か卑怯ではありませんか? それとも、先代聖女は新たな宮を立てることが不可能な程度の人心しか集められていないため、神殿の基盤に縋らねばすぐにでも霧散してしまう程度の敬愛だったのですか?」
「貴様っ! エイネ様を侮辱するか!」
「事実を告げれば侮辱となるのですか? 不思議な感性をお持ちですね。私には馴染みがありません」
嘘です。結構ある。そういう人、怒りやすい人に多いよね。
「神殿に集う人々は、神を信じ、神に尽くしております。神の代弁者として選任された聖女にも仕えてはおりますが、それは神の存在あってこそ。神のために建てられた神殿で、神のために集められた資金で、神のために集った人材で、神のために祈った人心で、先代聖女のための場を作る。詐欺ですね。言い訳は裁判官の前でなさるとよろしいかと」
ああ、でも。大仰に片手を口元に当て、驚いてみせる。
「もう亡くなった先代聖女が、あたかも生きているかのような仰りよう……病院が先ですね。申し訳ありません。会話が可能な存在として扱ってしまいました」
こほんと咳払いし、にこりと微笑みながら立ち上がった。フガルの顔はどす黒い。青筋が何本も額を走り、まるで木の根が這っているように見える。まるで私の胸のように。
「分からない話をしてごめんなさい、おじいちゃん。さあ、病院に行きましょうか。立てますか? ここがどこか分かりますか? 今日は何日? おじいちゃん、自分の名前を言えますか? 分からない? そっかぁ」
昔のフガルであれば、この程度の挑発に乗るはずがない。
ないのだが。
「エイネ様は生きておられる!」
『理知的で、良識的で、誠実で……愉快さを兼ね備えた素晴らしい方だった』
かつて神官長がそう評した人の姿は、微塵も残っていなかった。
尋常ではない光を宿した瞳をぎょろりと動かし、フガルは立ち上がった。エーレが位置を変え、私の半歩前に立つ。
「あの御方は死なぬ! 決して死なぬのだ!」
「でも、お墓がありますよね。死亡確認もされましたし」
「あの御方は神にも等しい御方だ。肉体が滅びただけで死に至る我々のような矮小な人間とは違う、高尚な存在である。眠りにつかれた後、我々は全てあの御方の指示に従った。葬儀を済ませ、墓に入れた。それでもあの御方は帰ってこられた。自らの足で歩き、呼吸を紡ぎ、その喉で我らの名を呼んでくださった」
「うわ怖い」
お化けかな?
「あの御方こそが神なのだ!」
思わず本音が転がり出てしまったが、幸いフガルは気付かなかったようだ。
「神殿も民の信心もあの御方のためにある。王族が何するものぞ。神が何するものぞ。世界はあの御方の為にある!」
座っていても杖を手放せなかったはずのフガルは、両手を広げ自分の足だけで立っている。手放された杖が音を立てて床に転がった。
「私はあの方のためならば命だって捧げよう。そうしてあの方も私の信に答えてくださった。私の力を必要としてくださった! あの方が永遠である限り、私もまた永遠である!」
そんな声量を紡ぎ出す体力がどこに残っていたのか。耳だけではなく、こちらの腹まで揺らすほどの声だ。
私とエーレは僅かに視線を合わせる。本当に、先代聖女が生きているというのだろうか。確かにそれ以外の黒幕が今更出てこられてもそれはそれで困るが、疑問は募る一方だ。
「エイネ・ロイアーは、生前……そう言っていいのかは今の段階では判断出来ませんが、葬儀の前からこの計画を立てていたと?」
「当然だ。あの方ほど思慮深く、予見する力に長けた存在はいない。あの方は、いつもアデウスを案じておられた。高齢となってからは毎日、自身が去った後のアデウスを案じ続けておられたのだ。我ら如き矮小な人間しかいないこの国は、あの方で保たれているといっても過言ではないからな」
過言ですね。
私とエーレは静かに頷いた。
「でしたら何故、死を偽装する必要があったのでしょう。確かに彼女は長命でした。しかし二百や三百を超え存在し、化け物の誹りを受けたわけでもない。死者から戻ってくるくらいなら、最初から十二代目聖女で居続ければよかったのです。何故死を偽装してまで表舞台から姿を消し、十二代目聖女を終わらせたのですか」
「それは――」
はくりと、フガルの舌が泳いだ。それまでぎょろぎょろと光を放っていた目玉が動きを止める。迷っているのでも悩んでいるのもない。その舌は、紡ぐ言葉を持たないのだ。そして、その事実にフガルは初めて気が付いた。
「……貴方は、エイネ・ロイアーの目的を知っていましたか?」
「あ、たりまえだ。私は、あの方の右腕だ」
「では彼女が貴方に語った目的は、今も貴方の中にありますか?」
哀れみが滲まぬよう声を出すのに、少し、苦労した。
痩せ細ったせいかやけに大きく見える目玉が零れ落ちそうだ。
先代聖女は、フガルの人生だった。
先代聖女。貴方はどこまで人が生まれ持つ権利を踏みにじるのだ。想いだけでなく、命だけでなく、権利まで踏みにじる。貴方に心酔していたはずの人まで、貴方に人生を懸けて尽くしてきた人まで、どうして蔑ろにして切り捨てるような真似ができるのだ。
「……これは個人的な意見なのですが、私はエイネ・ロイアーを素晴らしい人格者だとは思っておりません」
先程までの激情が鳴りを潜めたフガルの瞳は揺れた。虚ろと激情の狭間にある瞳は、生き物としての反射なのか目の前で音を発する私に固定された。
「彼女の残した功績は、確かに素晴らしい。何百年も固定された理不尽な格差を、差別を、常識ではなく異質な問題として扱った。そうして長年の蟠りを沢山ほどいていった。それは快挙であり、間違いなく歴史に名を残すでしょう」
「……当たり前だ。あの御方は、誰も成し遂げられなかった偉業を成し遂げられたのだ」
「そうですね。ですが、王城を蔑ろにしたのはいただけない」
散々言われてきた言葉なのだろう。神官長は、聖女への最終的な盾となる。
反射なのか、フガルは戦意が籠もった視線で私を睨む。先代聖女にとって、フガルは信頼するに値する人だったはずだ。少なくとも、先代聖女の生前、神官長としての働きぶりは文句の付け所のない人だった。
「王城が長い年月をかけて準備していた制度を、国が抱える問題点として先に国民へ提示するなんて、その最たるものです。エイネ・ロイアーはその戦法をよく取っておられましたね。王城がどれだけの手間と時間をかけて整えた制度であっても、先にその問題を提示した人物の功績となる。エイネ・ロイアーの提示の後、二週間後に発足された制度もありましたね。国の制度が、そのような短期間で纏まるはずがない。先に王城が、すべて用意していたからです。それなのに、国が制度発足を発表する前に、問題として提示する。そんなことが何度も起こる度、国民は王城の手際の悪さ、遅緩を責めた。エイネ・ロイアーが何かを提示する度、国民の王城への不満と反発が膨れ上がり、王城は様々な制度を繰り上げて発足していくしかなくなった。無理矢理期限を縮めればどうなるか、結果は火を見るより明らかです。当然、抜かりが出る。それを不手際として糾弾するたび、国民はエイネ・ロイアーをまるで賢主のように褒め称えた」
フガルは何も言わなかった。これはフガルも承知していたことだ。
「神殿の方針は、その代の聖女によって変わります。神殿の権威をより高めると聖女が定める。それ自体は責められることではありません。そういう代もあるでしょう。神官達は聖女の方針通りに動く。聖女の意向に従い、たとえ王城の不信を買おうとも譲らない。それも別段間違いではありません。神殿及び聖女は、王城とは一線を画した組織であり、個として確立された機関です。法ですら聖女には適用されない。これ以上の権威が必要かは疑問ですが、その代がそういう方針で行くと決めたのならば、神殿は従うでしょう。それ自体に、とやかく言う必要はありません」
けれど。
「アデウスを守るためには、王城がいなければ立ちゆきません。神殿と王城が司るものは違います。神殿の権威を高めるのは結構。けれど、ならばどうして王城から人心を奪う必要があったのです。神殿と王城の役割は異なります。片方だけがいればいいという、簡単な話ではありません。それなのに、エイネ・ロイアーは最後まで王城を攻撃し続けた。それこそ、国が揺らぎかねないほどに」
おかげで、当代聖女はこのざまだ。先代がそれだけやらかしてくれたのだ。当代にできることは酷く限られる。
「国を揺るがしかねない方針にさえ生涯かけて付き従ってくれた神官からも記憶を奪う必要があったのかと、私は疑問に思います。そんな貴方でさえついてこないという確信がある目的を、彼女は持っていたのでしょうか」
愕然とした顔で椅子に座り落ちたフガルは、異様に小さく見えた。震える枯れ木のような手が自身の顔を覆う。それでも目蓋を閉ざせないのか、瞳は驚愕に見開かれたままだ。
「エイネ・ロイアーは、アデウスを覆うほどの術を使いましたね」
「あ、あ」
「その為に、貴方の神力を渡しましたか」
「……ああ」
「それがどんな術だったか、覚えておられますか」
「………………何、も」
何も。
もう一度繰り返された言葉は震えていた。あれだけぎょろぎょろと動いていた瞳は、急速に光を失っていく。
「……私が誰か、思い出せますか?」
そっと問えば、緩慢な動作でフガルの視線が動く。呆然とした瞳は、一歩間違えば虚無へと堕ちていきそうだった。まだ驚愕という感情が支配しているから動けているのだ。驚愕さえ失われてしまえば、もう動けなくなってしまいそうな危うさがある。
フガルは溺れるものが掴む藁のように私を見つめ、戦慄きながら小さく首を振った。
「フガル、私は当代です」
「な、に?」
一歩踏み出すと同時に、エーレが半歩ずれて道を空けた。フガルの前まで歩を進め、彼を見下ろす。本当は目線を合わせたいが、今は膝をつかないほうがいいと判断した。跪くのは敬意を示すか、何でもない私だけだ。
「アデウス全土から忘却された身ではありますが」
そして今の私は、何でもない私では許されない。
「第十三代目聖女マリヴェルと申します」
今度こそ、目玉が零れ落ちるかと思った。本当ならば落ち着くまで待ってあげるべきなのだろう。だが、そんな余裕はとっくに失われている。私にとっても、フガルにとってもだ。
「馬鹿な」
喘ぐように紡がれた言葉に、ゆるりと微笑みを返すことしかできない。愉快では決してないけれど、せめて哀れみを出さないように。
「フガル、私は始め、エイネ・ロイアーを先代聖女と呼びました。彼女を崇拝する派閥を、貴方方を先代聖女派と呼びました。先代は当代が現れてからの呼び名となりますが、貴方はそこに違和感を覚えたようには見えませんでした。それは、貴方が既に知っていたはずのことだからだと、私は判断しました」
「……………………その、ようだ」
「よかった」
心から胸を撫で下ろす。先代聖女にとって不都合な記憶が、重ねて消されていく仕様だったらどうしようかと思っていた。
「私が貴方を正常な状態ではないと判断したのは、貴方が私を知らなかったからです。先代聖女はアデウス全土に忘却の術をかけた。信じ難い内容ですが、ここまで来ればもう事実して認めるより他ない。しかし、右腕の貴方までもがかかっているのは何故でしょう。貴方だけではありません。先代聖女派は、常に当代聖女である私を認めまいと命を狙ってきました。しかし、私がアデウスに忘れられてより、誰も命を狙ってこない。先代聖女は、誰も信用していないのですか?」
焦るな。いつの間にか唇が乾ききっている。紅の味を噛みしめ、舌を湿らせた。
「フガル・ウディーペン、長として神殿を率いた貴方にだからこそ、問います。先代聖女エイネ・ロイアーはどこにいます。私は彼女から話を聞かねばなりません。目的は、思い出せないのならそれでも構いません。しかし、何があったのですか。彼女が死んだとされる日から、いいえ、その前から。一体何があって――貴方は以前、『それが聖女であるはずがない。どうやって真理を歪めた、背徳者め』と、私と共にいたディーク・クラウディオーツに言いました。あれはどういう意味でしょう。貴方は何を知っているのですか」
焦るなと、自分に何度言い聞かせても矢継ぎ早になってしまう。よくない兆候だ。焦るなと思っているのに焦ってしまう自分に、焦る。聖女としても、質問者としても、体調の悪い人へかける言葉としてもどれも適切はない。
しかし、この焦りは適切ではない行動をしてしまっている焦りだけではない。
私の中の何かが警告している。いや、これは不安だろうか。
揺れるな。揺らぐな。
私が揺らげば。
私が失われるのに。