<< 前へ次へ >>  更新
57/68

57聖






 中庭は中庭でも、会場や客室から見える場所からぐるりと移動した区画まで回り込む。

 居住棟の一階窓から、アデウス第一王子、特級神官、ついでに当代聖女が侵入する。さっと、すっと、よっこいせと侵入した窓は、最初から開いていた。おそらく王子が事前に手を回していたのだろう。

 盛大な夜会が開かれているだけあり、使用人のほとんどはそちらに割かれている。居住棟は静かなものだ。さすがに警備はいるが、いつもより手薄気味になっている。会場内の警備に人数が割かれた分、必要最低限で回される警備の隙をつくのは大得意だ。

 建物内は夜に相応しく静まりかえっている。だが寝静まるにはまだ早い時間なのに人の気配がほとんどしない建物は、廃墟にいるようで面白い。人はいないのに明かりだけは絶やさず、煌々と光り輝く廊下が続く廃墟。神の宮殿みたいだ。

 厚手の敷布により足音を気遣う必要がなくなった私達は、王子を先頭に早足で廊下を進んでいく。


「ところで王子、デオーロから何を掏ったんですか?」

「これだ」


 振り向かず懐からじゃらりと取り出されたのは、銀の鎖に繋がれた鍵だ。こっちの素材は金属ではあるが銀とは違うようだし、貴族が好んで使用する装飾が施された美しい鍵でもない。多少の装飾が施されただけで棒のような無骨さがある。


「どこの鍵です?」

「叔父上の書斎だ」


 指に引っかけた鎖をじゃらりと回し、掌の中に収め直した王子は、鼻歌でも歌いそうなほどご機嫌だ。とてもではないが、今から身内の大罪を暴きにかかるようには見えない。まあ、当代聖女を排除して先代聖女を掲げようとする集団に味方するその行為を、どこまでの罪と見なしているかは知らないが。


「叔父上は身内に甘いが、書斎にだけは誰も入れんのだ。掃除まで自分でするのだから見上げたものよ。この鍵とて、隙を見ては逐一確認しておるのだから、掏るのは難儀でな。形も重さも似た物を用意した上ですり替えねばならんのだぞ」


 鍵を握ったままひょいっと肩を竦める王子に、「だったら掏らなければいいのでは?」と言う人間はここにはいない。是非掏ってくれたと諸手をあげるものはいる。この私だ。


「フガルの居所が書かれた資料がそこにあるんですか?」

「というより、フガルがいるはずだ」


 私とエーレは顔を見合わせた。


「フガル、書斎に住み着いているんですか?」


 書斎の一角に住み着く前神官長の姿を思い浮かべる。どう好意的に考えても邪魔である。部屋の掃除をしたら真っ先に捨てる候補入りだ。掃除を思い立つ前に捨てているかもしれない。

 王子とエーレもその光景を想像したのか、なんともいえない顔になった。


「あれに住み着かれるのは勘弁願いたいものだな。いるのは書斎からの続き部屋だ。元々有事の際に逃げ込める場所として用意されている地下があるのだが、そこに通じている」

「へぇー。ちなみに王子がその部屋を知っているわけは?」

「鍵を掏って中に入った。それ以来叔父上の警戒が跳ね上がったわ」


 デオーロの判断は妥当である。


「ちなみにどうして掏ったんですか?」

「興味本位だ。余も若かったものだ」

「ちなみに今は?」

「ぴっちぴちである」


 聞いておいてなんだが、非常にどうでもいい情報であった。王子の肌がぴっちぴちでも精神がしわっしわでもすべてにおいて支障がなさ過ぎる。この人は、肌がしわっしわだろうが精神がぴっちぴちだろうが、何も変わらないだろう。


「事前の調査では、ほぼ間違いなくフガルはそこにいる。無いに等しいが、万が一フガルではないにしても、重要な誰かは確実にいるであろう。身内にさえ隠している地下に、叔父上が誰かを匿っている事は確定なのでな」


 どうやってそんな場所に潜む人間の有無を調べたかは聞かないでおこう。情報源が誰でどこにあっても、聞かないほうが身の為だ。エーレもずっと黙りこくっている。

 王子と穏やかに付き合いたければ、王子が下ろしてくる以上の情報を求めないことだ。境界内であれば何をどう聞いてもいいが、一度上限を超えればその上限は二度と使われない。後は下げられる一方なので、上弦は下げないに尽きる。

 そこまでは問題がない。一国の王子としては当たり前の対応だ。問題は、まったく情報やその他諸々を求めてこない相手には、上限をなくした情報をぽんぽん下ろしてくることである。

 今のところその件での被害者は私だけのようだが、おかげで王城から睨まれる睨まれる。ついでに疎まれる。……いやでも、王子関係なくても先代聖女のおかげで当代聖女は最初からしっかりばっちり疎まれているので、特に問題はなかった。




 極々稀に使用人と擦れ違う以外、ほとんど人と出会うことなく、私達はあっさり目的の場所へと到達した。

 案内係として半歩前を歩いていた王子が立ち止まったのは、三階の一室だった。地下にいるとのことだったので、てっきり入り口のある書斎は一階にあると思っていた。階段を一回上ってもまだ思っていた。二回上がった段階で一回にある可能性を若干排除しかけたが、一応信じてみた。別に一階説を擁護する必要は皆無なので、王子が立ち止まった辺りで一階説は見捨てた。

 王子が立ち止まった部屋は角部屋ではなく廊下の真ん中にあった。隣の扉との間隔はそれなりに広いが、広すぎるというほどでもなく。

 扉同士の距離で部屋の大きさは大体分かる。大貴族の主が使う書斎にしては少々狭いかもしれないという印象を受けた。

 他と変わらない扉を前に、王子は取り出した鍵を手元で弄くり回している。何をしているのかと手元を覗き込めば、鍵が真っ二つになった。ここまできて鍵を破壊するとは恐れ入る。


「王子、知恵の輪を力任せに引き千切る類いはサヴァス一人いればわりと事足りるので勘弁してもらっていいですか? サヴァス、勢い余ってねじ切ったドアノブは星の数なんですよ」

「そなたの代の神殿は、興趣が尽きぬのだろうなと覚えておらぬ今でも思うぞ。それはさておき、よく見よ聖女」


 差し出されたのは真っ二つになった鍵。まじまじと見て、納得した。これは真っ二つになった鍵ではなく、真っ二つになった鍵だ。……一つの鍵が二つの鍵として分離したといったほうが正しい気がしてきた。二つの鍵の大きさがほとんど変わらないので、真っ二つでも間違っていないが、どちらも破損はしておらず、両方が鍵として機能する形として分かれている。


「へぇー、細工箱は見たことありますけど、鍵は初めてです」

「似たようなものだ。決まった手順をこなし外さねば、鍵として機能しないどころか自壊するだけである」

「金属なのに!?」


 不器用に厳しすぎる仕様である。


「そういう術がかかっている。ちなみに、この扉の前で鍵を割ろうが、他者から見れば一つの鍵を差し込んでいるように見えるぞ」

「細工鍵の存在知られないんですね。それは便利、ですけど……」

 確かに、誰しも絶対他人に開けられたくない場所の一つや二つあるだろう。だが、鍵に壊れられては他人は開けられないが自分も開けられない、悲しい開かずの間の完成である。


「……え? デオーロって、そんな危険に満ちあふれた鍵を日常使いしているんですか?」


 私なら鍵を与えられた初日に壊す。絶対だ。

 自信満々に胸を張って告げれば、エーレが静かに目を伏せた。


「自壊しない鍵を壊した奴の言には信用しかないな」

「いやぁ、暗殺者が殴りかかってきたら、まあ鍵を指の間に挟んで殴り返しますよねぇ」

 手持ちの武器がなかったので、ちょっとでも殺傷力を上げようと模索した結果である。拳に嵌める武器があると知ったばかりだったので、試してみたかったのも大いにあった。結果、当たればそれなりに効果があると知った。相手に当たれば。


「空振りして岩を殴り、鍵を歪め指と手首を折った奴は面構えが違うな」

「死ななかったのでよしとしません?」

「サヴァスが慌ててねじ切った暗殺者の首に当たり、転倒した拍子に残った手首も折ったのは未来永劫許さない」

「そこは不可抗力で手を打ちません?」

「打たない」

「ここにも無期懲役が……」


 そろそろ私の懲役、四千年とかいきそうだ。当代聖女の寝床は、次から牢獄になります。

 看守の皆様、これから牢獄に響くのは、当代聖女に怒り狂う神官達の声です。

 牢獄が賑やかになるなぁと思っていると、王子が視界の端から徐々に見えてきた。


「そろそろ余も交ざっていい?」

「危険に満ちあふれた鍵を握っている王子、発言をどうぞ」

「許可制であったか……」


 二つに分けた鍵を両手でそれぞれ握っている王子は、神妙に頷いた。そして、右手で握っている鍵を鍵穴に差し込む。扉と鍵に反し、まるで門を塞いでいる巨大なかんぬきが動いたような重たい音が響く。王子が軽く右手を回しただけで立つ音ではない。

 王子は簡単に開けた扉を通り、書斎へと入っていく。次いで私、最後にエーレが入り、扉を閉める。


「……古い術ですね」


 閉めた扉を揃えた指でなぞったエーレがぽつりと呟く。


「昔の当主が、高名な術者に頼んだと聞く」


 成程。結界かそれに近しい術がかかっているのだろう。私も掌をべたりと貼り付け、まったく揃えない指で扉をなぞり、ぽつりと呟く。


「まったく分かりません!」

「王子、地下室の入り口はどちらに」

「うむ、案内してやろう」


 綺麗に華麗に私を無視したエーレと、腹筋を鍛えかけている王子が本棚の間を縫って奥へと進んでいった。

 エーレの判断は妥当だなぁと思いながら、二人の後を追うついでに部屋の中を見回す。扉から入って真っ正面に大きな机と椅子がある。左右には本棚の群れが密集していた。大部屋とはいえない広さの部屋に、左右何列にも渡って本棚がある。通路は、人が一人通るだけで精一杯だ。

 本棚に挟まれた中心に机がある以外、ある意味何もない部屋である。大貴族の書斎には見えないような、これだけの本を揃えられる歴史と財力のある家なのだなと納得がいくような、

 本は立派な背表紙が多く、古書は少ないように思えたが、エーレ達の後を追って奥の本棚を見ればそちらは比較的古書が多いように見えた。どうやら、最初は壁際にしかなかった本棚が、代々増やされているようだ。月日が経てば、そして当主が変われば新たな本が入る。いい環境だ。そうでない環境を一概に悪いというつもりはないが、知においてサロスン家がいい環境を得ているのは間違いないだろう。

 エーレ達は、扉から入って左手一番奥にある左から二番目の本棚前にいた。王子が突然しゃがむので、エーレも見下ろすわけにはいかず隣にしゃがみ込む。私もその後ろでついでにしゃがむ。しかし、この位置だと王子が何をやっているのか見えないので、エーレの肩を顎置きにして王子の手元を覗き込んだ。

 邪魔だったらしく、エーレが首を振り側頭部をぶつけてきた。石頭はそれなりに痛かったが、ここまでかち割られてきた私の頭だって相当だ。結局、ごっと鈍い音がして終わった。突然そんな音がしたので、王子が驚いて視線を向けてきた。


「そなたら、乳繰り合っとるのか命取り合っとるのか分からんな」


 王子は下段の本を端から三冊取りだし、本棚の端に爪をかけた。すると爪をかけた部分が指の太さほどの大きさで動いた。軸は外れぬまま、手前に倒れてきただけだ。ついでのように、何かが外れた音がする。こっちも鍵と同じく、動かした大きさに似合わぬ重たい音がした。

 王子はしゃがんだまま、本棚の縁に手をかけ、体重をかけて横に引っ張った。


「おぉー」


 どういう術がかかっているかは知らないが、王子が引っ張った本棚が隣の本棚に吸い込まれるように消えていく。否、重なったといったほうがいいのかもしれない。


「エーレ、この術知ってます?」

「いや」

「便利ですね、これ。場所を取らずに大量の物を収納できたりします?」


 本棚をどかした後、壁に現れた金庫、ではなく現れた金庫周りの壁を弄っている王子に向けて言えば、王子はうむと仰々しく頷いた。


「余もそのように思ったが、どうも突発的な金型の術者だったらしくてな。後世に術の構成を残しておらなんだ」

「それは残念。でも、そうですよね。大量の物を収納するだけならともかく、人間収納されちゃ困りものですもんねぇ」

「困りもので済めばよいがなぁ。っと、あったぞ」


 しゃがんだまま金庫周りの壁を撫で続けていた王子は、今度は小指の先を何かに引っかけた。が、動きを止める。私とエーレを見て、視線を下ろす。


「聖女、ここを手前に倒せ。余の指では隙間に入り切らん」

「んー? どこですか?」


 エーレを押して視線を王子の指差す先に近づける。これ以上前に行けば壁と私の間にいるエーレが潰れる位置で、ようやく王子が示す先を見つけた。確かに、何か小さな穴がある。私の小指の爪先でもかろうじて入るかどうかといった、小さな穴だ。

 そこに小指の爪先を引っかけ、小指がぶれて外れないよう片手で支え、引っ張る。すると、小枝のように細い範囲が手前に倒れてきた。同時に再び重たい音が響く。

 軸は根元に残ったまま引っ張り出した部分は、音の収束と同時にまた元の位置に戻っていった。戻していいのかと王子に視線で問えば特に止められなかったので、自然と戻っていく力に逆らわず指を離した。

 離した後も音は続く。しかし不思議なもので、重たい音のわりに振動を感じない。外部に振動を広げないよう、術でもかかっているのだろう。私達に聞こえているこの音も外部には聞こえていない可能性が高い。そうでもなければ、いくら広いとはいえ屋敷のど真ん中でこんな仕掛けが作動して、使用人に気付かれないはずがない。

 見る見る間に、金庫が設置されている壁ごと変化していく。それまで何の切れ目もなかった壁に、人の腰ほどの高さの扉が現れる。扉が現れること自体は術による不思議現象だが、それだけにしてはやけに重たい音が続いていたので、この扉の奥に大がかりな変化があったと思われる。


「おぉー」


 エーレに顎を置いたままなので拍手ができない。どけば済む話なのだが、エーレに体重を押し付けるこの体勢は楽である。ちょっと休憩。


「金庫どこにいったんですか? 偽物ですか?」

「いや、一応本物ではあるのだがな。ある程度金目の物と、奪われると多少困りものな書類が入っているのみである。人は目的の物を発見したと判断すれば、そこはそれ以上深く探さんのでな。まあ、罠の一つだ。扉として稼働すれば、本棚同様どこかに重なり見えなくなるだけだ」


 確かに、ここに侵入してくる賊の目的は、金目の物か家門の秘匿情報かのどちらかだろう。間違っても秘密の地下室など求めてはいない。いやそりゃ、そういう場所があると分かっていればそれも秘匿情報の一つなので、いそいそ探りに行くだろう。だが、そもそも存在自体が秘匿なのだ。それ目当てで侵入してくる賊はいないに等しい。


「サロスンの屋敷がこんなに面白いだなんて知りませんでした。王城も結構面白いですけど。そういえばエーレ、東館四階角部屋に飾られている獅子の画、あれって後ろの隠し通路から部屋の中覗き見られるの知っています?」

「知らない。マリヴェル、重い」


 体重をかけすぎていたようで、エーレが私の下で潰れた。なんとか肘で潰れきるのを防いでいるようだが、それも時間の問題だろう。気付かなかったが、体重をほぼかけきっていた。そりゃ潰れもするだろうと反省しつつ謝る。


「どうもすみません」


 リシュターク家の末を床に突っ伏させるわけにもいかないので、とりあえずエーレの上からどいた。リシュターク家の末を床に押しつぶしたと上の二人に知られれば最後、私に明日はやってこない。


「お手をどうぞ」


 先に立ったので一応手を差し伸べてみたが、完全に無視したエーレは一人でさっと立ち上がる。この機敏な動きが、明日には失われていると思うと涙を禁じ得ない。明日のエーレに幸多からんことを。

 そして、ゆっくりと立ち上がった王子と並び、私達はしゃがんでいたためできた皺をはたき、軽く身形を整えた。

 私達が動きを止めたのと、扉が開かれたのは同時だった。


「……殿下、お戯れが過ぎますぞ」


 低い声で現れたのはデオーロだ。相手が相手なので苦肉の策だったとは思うが、一人で入ってきたのには恐れ入った。

 主の命が出ているのだろう。兵士達は開いたままの扉前でそわそわしている。

 デオーロは、サロスン家の中では小柄なほうだ。息子達も王子もみな長身に部類される中、デオーロは頭一つ低くなる。そんな彼が、護衛を置いて扉を閉めるのは身内である王子への信頼か、それとも既に開かれていたもう一つの入り口を隠すためか。どっちが理由でもきっと王子は気にしない。

 扉が閉まれば、室内は完全な静寂で満たされた。外部で起こっていたざわめきは明らかに遮断されている。あの重たい音が外部へ聞こえない仕組みが施されているのなら、人のざわめきを通さぬくらいお手の物なのだろう。


 護衛すべてを置き去りにしたデオーロは、私とエーレに気付き進めた歩をぴたりと止めた。本棚の影で見えなかったのだろう。

 デオーロの顔には驚愕が隠し切れていない。すぐに表情は引っ込められたが、隠しきる一瞬見えた表情に私とエーレは僅かに視線を合わせた。そして、心の中で肩を竦め合う。


「部外者を入れたとなれば、最早いつもの気紛れでは済ませられませんぞ」

「余とて冗談で済ませられては困るぞ」


 軽く笑った王子は腕を組み、本棚に背を預けた。並んだ本の上ではなく、棚の縁に体重をかけている辺りは好感が持てる。しかし、さてどうしてくれようと鼻歌を歌いそうな機嫌で自らの叔父を追いつめようとしているのだから、デオーロには頑張ってほしい。


「殿下! いくら貴方とて笑い事では済ませられませんぞ!」


 代々当主が隠してきた秘密の入り口を、当主ではないが身分は上の甥が部外者に教える。最悪の図だ。デオーロの怒りも頷ける。

 ここに来て初めて声を荒げたデオーロに、王子の瞳が細められた。


「叔父上よ、少々やり過ぎだ。見過ごせんと糾弾するは余であるぞ」


 身に覚えがあるのだろう。デオーロはぴたりと口を閉ざした。狼狽えたり攻撃的になってうやむやにしてしまおうとしないのは流石だ。そういう人間、結構多い。


「殿下」


 何にせよ、私とエーレの前で話したくはないだろう。冷静な声音で紡がれた短い言葉に、王子は表情一つ変えない。


「この二人は事情を把握しておる。そもそも、余が許可しておるのだ。そなたが気にすることでもなかろう。デオーロ、くだらん芝居は無用とせよ。余とて暇ではない。まだ調べ物が残っておってな」


 その通りである。王子は天上の情報漁りをどうぞよろしくお願いします。確か情報を管理する番人がいると聞いたことがあるので、その人物と協力してもらうためにも、王子はさっさと王城に帰ってほしい。

 勿論、デオーロの後始末をつけてからだが。

 ぴくりと僅かに引き攣ったデオーロのこめかみを哀れに思う者はここにはいない。

 何せ、ここにいるのは王城と神殿だ。王城を脅かした先代聖女派、神を蔑ろにする先代聖女派。どちらの立場であっても、先代聖女派と手を組んだ人間はやってくれやがったなこの野郎判定である。


「……殿下、お待ちください」

「暇ではないと言っておろう、デオーロ。賢明で遊び心の少ないそなたであるが、いや、あるからこそか? 普段は真面目な人間が羽目を外すと大きいものよ」


 王子も確信があるからこそここにいるわけだが、デオーロもここまで言われてなお、否、最初から訳が分からないといった顔をしていないので、覚悟はあったのだろう。そもそも覚悟もなく先代聖女派につけるはずがない立場だ。

 デオーロは身内に甘いが、決して情だけで判断を下す人間ではない。愚かでもなければ稚拙でもない。サロスン家当主として相応しい品性と格と、そして善悪を交えた知を兼ね備えている。そうでもなければ、それらを備えない血族が跋扈するサロスン家を維持などできるはずがない。姉が王妃ならば尚のことだ。

 その上で先代聖女派についたのだ。ならば、秘匿が暴かれた際の覚悟はできているだろう。それでも食い下がるのは、部外者だと思っている私達がここにいるからだ。

 それは分かっているし、どうせすぐ地下室へ移動する。デオーロの言い分に興味はない。デオーロへの対処は王子につけてもらうのが望ましい。

 それでもここで、デオーロの言い分だけでも聞いていこうと思っているのは、ちょっとした嫌がらせだった。


「デオーロ」

 呼び捨てた私に、流石に嫌悪が表に出たのだろう。眉を顰めたデオーロが私を見る。


「私達のことはどうぞお構いなく。すぐいなくなりますから。けれど、何にせよ、貴方に我々を排除する権利はありません」

「……何を」

「貴方がどこまで関わっているか今の段階では私の知るところではありませんが、此度の事件、先代聖女派と手を組んでいた貴方は我々の敵であり、私にとってはどこまでいっても加害者なのです。故に、貴方は私を排除するは叶いませんよ。貴方がどれだけ望もうと、たとえ私が望んでも」


 おかげさまでこのざまだと言っても私の全てが忘却された現状どうせ通じないので、言わない。それでも、苦いものを抱くくらい、許されてもいいだろう。嫌がる相手の前に居座って、特に興味のない言い分を聞いていこうとしている嫌がらせくらい、許してほしい。

 片手を上げ、顔面を握り潰すことで視界を覆う。


「恨まないだけで、よしとしてくださいよ」


 喉から出てくるのは愛想笑いよりよほど乾いた笑い声だったのに、自分がどんな顔をしているか分からない。どんな目をデオーロへ向けるか分からなかったから、覆ってしまって正解だ。恨みがましい目でも、怒り狂った目でもいただけない。けれど何よりまずいのは、視界を曇らせることだ。


「……君達は、殿下の配下か」

「まさか」


 努めて平坦を保った声を出し、心も強制的に落ち着かせる。手を外した先では、同じように務めたのか表情を平坦に保ったデオーロがいた。


「ならば……神殿関係者か」

「当事者とだけお伝えしましょう」


 貴方方が存在を消し去った当代聖女ですよ。

 そう言ったらこの人はどんな顔をするのだろう。どんな顔もしない気がするので、ちょっと笑ってしまう。

 この男も、多くの人間も、守りたいのは自身を含めた身内だけだ。それは別に罪ではない。多くを守れるほど人は賢くない。強くもなければ大きくもない。身内を、自身の有り様を守りたいと願った手段が国の発展に繋がろうが、その結果多くが救われても、人は神にはなれないのだ。

 何を救う気がなくとも掬い上げ、何の興味がなくとも滅ぼすような神には決して。

 なれない。なってはならない。


 弱さは罪ではない。卑怯も卑屈も、どれだけ見苦しく惨めであろうと罪とはなり得ない。だから、万能ではない、万能となり得てはならない生き物である人間達が、願いのためにもがいた過程で罪を生むのは自然なのかもしれない。

 そして、罪に罰を望むのは人間だけだ。狐に食われた兎の血縁が、狐に罰をだなんて望まない。鹿に食い散らかされ枯れた木が、鹿の死を望んだりしない。そもそも、善悪に区別をつけた生き物は人間だけだ。

 だから、罪を犯すのも罰を負うのも、人間だけである。だからこそ、裁くのも罰を与えるのも人間同士で行わなければ。

 デオーロにどういう罰を与えるのかは王子の仕事だ。アーティのときとは違った意味で、私が出ると非常にややこしくなる。

 ちなみに、神に罰を乞うてはならない。神様は自分が愛した存在以外は個として見ないので、非常に大雑把に罰を下す場合がある。「あいつを懲らしめろ!」と指させば、言った本人もろとも国が滅ぶ可能性も大いにあるくらいだ。そもそも罰を下さない可能性のほうが高い。

 人間が定めた価値観に、神を混ぜれば非常にややこしくなるので、人間のことは人間の間で決着をつけることをおすすめする。


 王子はちょっと飽きてきたのか、苛立つほどではないが腕を組んだ指を軽く動かした。


「叔父上、余は身内といえど、三度は言わぬぞ。そも、そなたのことよ。事が暴かれた際の言い分を用意しておろう? それを告げよと申しておる。真の言い分など後で母上にでも告げるがよかろう。余が必要としておるは、そなたが自身とサロスンを守れると信じた贄よ」 


 そんなことだろうなと思った。

 サロスンほどの大家を守れる男だ。保身の一つや二つ用意しておくだろう。さて、デオーロは何を売るのだろう。

 王子はこういう情報を手に入れられるから裏切りが大好きだ。いつもほっくほくで暴きに行く。

 楽しそうで何よりだが、真夜中に私の部屋まで来てその日の収穫を語っていくのはやめてほしい。起きているときはいいが、いや、起きている場合は用事をしているのでよくもないのだが、寝ているときに枕元で楽しげに語っていくのは睡眠妨害だと思うのだ。


 デオーロは余計に言いたくなさそうな顔をしたが、命じた相手は王子だ。言わぬわけにもいかないだろう。

 最後まで私とエーレを気にしていたが、それでも深い溜息を吐ききり、握っていた拳を一度開いた後のデオーロは悪あがきをしなかった。そもそもこの部屋に入り込まれ、地下の入り口を開けられた時点で彼の詰みだ。


「畏まりました、殿下。そも、潮時と思っておりましたゆえ」


 緩く頭を振る様子に嘘は見られない。王子を前に嘘をついても無意味だと知っているのは私とエーレだけだ。


「売国奴フガル・ウディーペンを見張り、アデウスに仇為す外敵を見定めておりました」

「ほぉ? 最近大きく出た奴の言は大抵事実で頭が痛いものだが、そなたはどうか?」


 面白そうに笑いを零した王子の目が笑っていない。デオーロも、最早怯みはしなかった。


「先代聖女派は、ウルバイと通じております」


 王子は片眉を上げ、エーレは眉を寄せ、私は頭の中に世界地図を描いた。

 ウルバイは、表向きであろうが友好国として手を伸ばしてくる国が多い中では珍しく、明確にアデウスと敵対している国だ。

 土地が荒れることが多く、そうすれば当然国が荒れ、民意が荒れるたびにアデウスへ攻め入ってくる。内部の不満を余所へずらすことで国政を維持している国だった。

 アデウスを悪魔のような国だと掲げていれば、国民の目が王よりアデウスへ向かいやすいからだ。

 ウルバイが敵対しているのはアデウスだけではなく、あっちもこっちも戦争をふっかけている。そういう国なので流石に名前と位置は分かっているが、私の頭の世界地図では他の国の位置が少々危うい。ウルバイはアデウスから北西にある国だが、ウルバイの東にある国の名前は、カヴァルだったかカヴァールだったかはたまたカルヴァだったか……。ちなみにカヴァルもカヴァーるもカルヴァも、全部その辺りに実在する国である。あの辺り、名前が似ている国が多くて覚えにくいのだ。

 私とエーレは短く視線を合わせた。その情報を得た時点で先代聖女派を見限るには充分すぎると思うのだが、それでも保身として抱えつつ、王子に知られるまで離れられないほどの執着を持っているのか。


「ウルバイなぁ。あの国ならばアデウスの情報を売ると言えば喜んで乗ってくるであろうが、ウルバイのどの系統と繋がっておるのだ。あの国は外部とも揉めておるが、内部が相当揉めておろう。そも、先代聖女派がウルバイから得られるものは何だ?」


 ウルバイの名が出た途端、聞きたいことが一気に増えたらしい。王子は次から次へと疑問を述べる。その辺りは王子の仕事なので、私とエーレはそろそろ移動しよう。話は後でも聞けるのだ。


「じゃあ王子、私達はフガルとっ捕まえてきますね」

「ああ、そなたらはそなたらの務めを果たすがよい。殺すでないぞー」


 人の生死がかかっているわりには軽い声かけである。

 腰ほどの高さまでしかない扉を前に少し考え、ドアノブごと蹴り飛ばしてみたらちゃんと開いた。お行儀よく手を使わなければ開かないだなんて仕掛けが施されていなくてよかった。

 エーレはじとりと私を睨んでいたが、逆に手を使ってドアノブを回したら何か発動する仕掛けがあったかもしれないじゃないか。


 扉の向こうには、ぽっかり開いた闇が現れた。部屋内から零れ出た僅かな光が半歩分を照らしているが、それだけだ。一歩先も見えない闇が口を開け、静寂と共に佇んでいる。

 分かるのは、質のよい厚手の敷布が重ねられた階段になっているということだけだ。階段の長さも幅も分からない。

 デオーロはそこに私達を入れるのは酷い抵抗があるようだが、彼に制止権は存在しないので我慢してもらうしかない。それは彼も分かっているのだろう。そもそもここに王子がいる以上、彼の権限は権利以上に無いに等しい。

 だからか、私達が扉を潜ろうとしても彼は止めなかった。代わりなのか、せめて何か言いたかったのか。デオーロの口から出てきたのは問いだった。


「私の末息子を誑かしたのは、その復讐か」

「うーん……」


 どう答えたものか。どう答えてもややこしくなるこの場合、もう素直に真実を言うほうがよさそうだ。


「どう言葉を濁しても失礼になりますので正直に申し上げますが、協力者として王子を引き込めている以上、これ以上情報提供者を増やす理由を持ち得ません。むしろ邪魔です。よって、貴方の末息子との件は予定外であり、大変難儀しました」


 本当に難儀しました。

 しみじみ紡げば、流石にデオーロは複雑な顔をした。ケインの父としては複雑な気持ちなのだろう。

 私からお父さんを奪う片棒を担いだこの人はケインの父のままなのだ。この人にとっても、ケインにとっても、父のままで。


「簡単に復讐などと口に出さないでください、デオーロ。私は、心の底から誰かを憎めばどうなるか、自分でも分からないのですから」


 少なくとも、サロスン家が大切にしてきた末息子を傷つけることを復讐とは呼ばないだろう。


「うっかり貴方を憎んだら、どうするのです」


 倫理も道徳も、後付けで補正された私だ。私は私の正しさを、真っ当さを、誰より信用していない。


「貴方が先代聖女派に手を貸したのは、アデウス国内での地位に更なる強固さを与えるためですか。身内に甘い貴方のことです。幼い甥の死を嘆きましたか。憤りましたか。真相を暴かんと奔走し、それでも誰かを糾弾するには至らなかった。その無力さを怒りへと変え、現状でも確固たる地位を更に固めることで、甥の仇を討つための力とするつもりでしたか。それとも残った身内を守るために使うつもりでしたか。神の意を黙殺し、人の意で選ぶを禁忌と知りながら自らに都合のいい聖女を得ようとしましたか。聖女と手を組めば恐れるものなど何もないと思いましたか。それとも、幼い甥を蘇らせるとでも?」


 デオーロの顔がどす黒く染まる。その感情は怒りだろうか屈辱だろうか。それとも、あり得ないと分かっていながら縋った奇跡への懇願だろうか。


「……フガルは、そう言った」

「死者は蘇らない。そんなことが可能ならば、神に愛された人間は永劫蘇り続けることになる。しかしそんな人間はどこにもいない。それは神にも不可能だからです。神より与えられた神力で、神にも不可能な奇跡を起こせる聖女などいません。枯れた苗が花を咲かせるのは、苗がまだ生きていたからに過ぎません。死んだ人間は蘇らない。命を失えば、それはただの肉塊だからです。肉に命を与えたところで、現れるのはただ弄ばれた命の成れの果て。雷に打たれた肉が波打つように、反射で動くだけの物です。命の固定は、誰にもできないのですから」


 人は意思あるだけの肉塊だ。命が失われた瞬間、それはもう人間ではなく物となる。最期まで者として扱いたい人を得ていた肉塊だけが、者として弔われているだけのことだ。

 死者は死者。者は者。物は物。分けて扱うのは善悪ではない。それらの間を線引くは、それが世界の理だからだ。この世で命として生きる以上、決して忘れてはならない線引きを、人間だけが踏み越えたがる。


「神への信心なき先代聖女派を、王城への敬意なき先代聖女を妄信した先代聖女派を、貴方が御せるのでしょうか。深く願うあまり思考を停止したが故の楽観を許すほど世界は人に甘くはないと、貴方ほどの人間が知らないはずはないのですが、耄碌しましたか、デオーロ。そろそろ引退を考えられては如何でしょう。先代聖女派と手を組むことが愚行と分からぬ当主を掲げていては、貴方の愛するご家族はこの後苦労では済まない不幸に苛まされることでしょう」


 今にも血管が切れてしまいそうな顔色になっているデオーロを見る私の中には、何の感情も浮かばない。何も、空虚に乾燥した虚無すら。口からはつらつら言葉が流れ出ていくのに、頭は何も考えていない。胸の中にも何も浮かばない。


「現に、先代聖女は蘇った!」


 やっと辿りついた重要な情報を前にしても、前のめりになりたいのは私だけで、私の中は空っぽだ。


「私は彼女と会い、会話も交わした。若く少女の姿となって吐いたが、あれは確かに先代聖女であった」

「事実、それが先代聖女であったとするならば。元より生存を隠していたか、それとも皮だけを似せて作られた人形か。死を偽装する必要がある存在は信用できて、真っ当にしきたりを繋いだ神殿は蔑ろにする。それは愚かと呼ばないのか」


 エイネ・ロイアー。貴方に聞きたいことは山ほどある。聞かねばならないことが水のように溢れ出ている。積もりに積もった鬱憤で前のめりになるほど情報を欲しているのに、私の口はエイネ・ロイアーの情報を求めない。


「蘇りなどという人の願いだけで構成された奇跡に夢を見ましたか。聖女ならできると、歴代随一と呼ばれた先代聖女ならば、当人が蘇れるのならばと、夢を見たのですか。死者は死者です。この先の世には持ち越せない時を止めた命を、明日のどこに置こうとしたのですか」


 何の目的もなく、目の前にいる男の傷を抉って、どうするのだろう。幼子の不幸な死を持ち出してまで。

 何も、本当に何もないのに。

 男の絶望も、怒りも、失態もいらない。引きずり出したい情報もなければ、与えたい傷もない。誰かの父であることをやめてほしいわけでもない。

 死者は死者。事実だ。

 死者に先はない。事実だ。

 死者は二度と微笑まない。事実だ。

 だが、事実は時に刃より深く残忍に傷を抉る狂気となる。まるで錆びた刃のように、傷口に錆を残し、生者の肉を壊死させる。

 これ以上事実を渡せば、デオーロへの呪いとなる。だからもう口を噤まなければならないのに、止まらない。私は彼を恨んだのだろうか。憎んだのだろうか。だから傷をつけたくて、惨めに落ちぶれさせたくて、恥辱に塗れさせたくて、彼を呪おうとしているのだろうか。


 違う。本当に、違うのだ。

 喋っている私の中には何もない。怒りも憤りも、悲しみすらも。まるで空っぽなのだ。


 これはまずい。

 焦る。

 焦る思考はあるのに、慌てる感情はあるはずなのに、私の中は空っぽのままだ。

 妙な何かにしょっちゅう入り込まれるのも頷ける。こんなにも空っぽでは、まるで人形ではないか。

 でも、何故だろう。焦る私の感情はどこにいってしまったのだ。私の身体に、どうして私の感情が収まらないのだ。



 不意に視界が途切れた。どす黒く顔を染めたデオーロが見えなくなる。また何かが身体に入ったかと思ったが、違う。私の視界を塞いだのはエーレの掌だった。


「余は死者に用などないがな」


 王子の声がする。


「殿下っ!」


 悲痛と呼んでも差し支えのないデオーロの声もする。


「故にこそ、責を負わせるわけにはいくまい。死者を理合いとするくらいならば沈黙を保て。口を開かねば耐えきれぬと言うならば、理合いは自身が負え」


 続く言葉は聞こえない。デオーロがどんな顔をしているのか、私には分からない。私に見えるのは、世界との境界を薄ら赤く染めたエーレの掌だけだ。

 その手の温度が、私の肌へと移る。他者の温度を実感すると同時に、自分の身体を認識できた。

 急速に私の身体に私の感情が弾けた。今の今まで喋っていたのだから息を詰めていたはずもないのに、ようやく呼吸を許された人間のように息を吐き出す。勢いはあるのに短い息を吐き出せば、通常の呼吸が戻ってくる。

 エーレは私の視界を塞いだまま、私の身体を軽く回した。その動きに逆らわず、王子達に背を向ける。そこでようやく掌は外された。目の前にはぽっかり空いた闇がある。

 エーレは先程まで私の視界を覆っていた手で私の手を取り、闇の中に潜っていく。同時に、光が灯る。水が流れ込むように光が闇を覆う。光が固定された空間は、屈んで入らなければならない入り口の狭さからは思いもつかないほどの広さがある。人が二人並んでも充分な階段は、丁寧な刺繍の入った厚い敷布だけでなく、誰が求めたのか手摺りにまで装飾が施されていた。

 大貴族の屋敷から、鏡の中にあるもう一つの屋敷へ移動しているかのような妙な感覚がある。流石に天井は高くないが、空気は淀まず、ただ静寂だけが満ちていた。

 まるで、あの場所のようだ。暗闇の中、男達を肉塊へと変えた終わりの地を思い出す。

 世界に忘却されたあの日から、分からないことだらけだ。けれど、あそこでも、ここでも、エーレが光を灯さねば、私はずっと暗闇に留まるしかないということだけは分かった。

 何が分からずとも、それだけは。


「エーレ」

「何だ」


 エーレは振り向かず、どんどん進んでいく。エーレが歩を進めるにつれ、灯りは伸びる。薄緑色の髪は光を流し、毛先で散らす。私の髪はどうなっているのだろう。少しだけ気になったけれど、確認するために視線を動かすつもりはなかった。ぼんやりと、エーレの髪だけを見つめる。


「さっきの私、花は咲いていませんでしたよね」

「……分かるのか?」

「何かに入られていたときとは明確な差がありましたから」

「どういう」

「空っぽでした」


 何も、何もなかった。私の中に私がいない。そんな酷い理不尽が、当然のように成り立っていた。私の中に虚無があるのではない。ただ、私がいなかった。それだけだ。

 思い返せば、時々、そんなことがあったように思う。私が音を紡いでいるはずなのに、私に入った何かが勝手に喋っているときとは違う、私でもそれでもない、何でもない無が喋っているような奇妙な感覚が。


「ねぇ、エーレ」

「……何だ」


 エーレは振り向かない。ずっと、光を散らしながら歩いている。繋いだ手だけが温かい。


「私、どうしちゃったんでしょうね」


 あれだけ求めていた先代聖女の情報が、目の前にあったのに。あれだけ探していたエイネ・ロイアーに繋がる情報を、あの男が持っていたのに。先代聖女の目的を、エイネ・ロイアーの居所を、その一端でも、その方向性だけでも掴めたらとあれだけ欲していたのに。掴まなければいけなかったのに。

 それなのに、私の口は彼女に関する情報を一切求めなかった。


「どうして私の中に私がいなくなるんでしょう」


 泣きたいわけではない。恐ろしいわけでもなければ、今度は無でもない。けれど私は、私の感情を定められずにいた。

 だって、どうして恐ろしくないのだろう。

 どうしてだか、静かな諦念が私を満たしている。

 まるでそれが真理だと言わんばかりに凪いだ私の心の中を、不思議だと思う感情すらいずれ失ってしまうのだろうか。


「いつか私は私を手放す日が来るのでしょうか」


 笑いたいわけでもないけれど、口からは乾いた笑いが漏れた。


「私が私を忘れちゃったら、どうしましょうね」


 エーレの歩調は変わらない。繋いだ手の力も変わらない。

 階段は長かった。いったいどこまで続いているのだろう。果てが見えず、未来永劫続いているかのような階段は、答えのない問いを無意味に散らすには充分だ。そもそも答えなんて求めていない。こんな答えを求められても、エーレだって困るだろう。

 長い長い階段が終われば、意味のない問いとも呼べない独り言など放り捨てて、今やるべきことだけを見つめればいい。今はそこに至るまでの、ちょっとした空白だ。


「俺がいる」


 ただそれだけだったのに、エーレは口を開いた。


「世界がお前を忘れても、お前がお前を忘れても、俺がお前を覚えている」


 それは事実だ。既に互いが認識済みの事実は、今更確認の必要もなければ共有の理由もない。それなのに、エーレは繰り返した。


「マリヴェル、お前には俺がいる。忘れるなら忘れてもいいが、俺はお前の頭を叩き割ってでも思い出させるぞ」


 本当に、生真面目な人だ。こんな答えも求めぬただ思考を散らしただけの言葉など、流してしまえばいいものを。皆と一緒に忘れてしまえば、苦労なんてしなくて済んだものを。


「割らないでくださいよぉ」


 私は笑った。笑ったと、思うのだけど。

 雨は論外で、常に晴れていてもらわなければ困る瞳が曇ってしまったから、無でないことだけは確かなのに、私は自分がどんな顔をしているのかまったく分からなかった。








<< 前へ次へ >>目次  更新