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56聖






 華やかで、艶やかで。打算と保身と、愛と気遣いが混ざり合うこの場所は、昼も夜も変わらない。季節も場所も意味を持たず回り続ける。

 莫大な金銭を費やして開かれる、会話の場。善悪では区切れない生きる上では必ずしも必要とはせずとも、不要と言い切ることはできない場。

 明日、来年、十年後、不確かな未来を持つ人間から見れば無駄で無意味で無価値な場に見えるだろう。しかし、高級だけを散りばめた場を開く余裕を国が持てなくなれば、芸術は枯れ、技術は廃れ、余裕は潰え、嗜好が消え、思考が滞る。

 余裕が消えれば教育が潰え、子の成長は労働力となり、強者だけが闊歩し、他者を弱者にすることで生き延びる時代が来る。

 そう理解したのはいつだったか、もう覚えていない。


 いつからか慣れた貴族の坩堝へ再び戻ってきた私達を、あからさまな視線とさりげない視線が絡め取る。皿を割り人々の視線を集めた上で、天下のリシュターク家の二人に連れられ退場したばかりだ。人目を集めない理由がどこにもない。

 しかし、三十分にも満たない時間で戻ってきたため、リシュターク家の二人に妙な噂が立つこともないだろう。



 私達に気付くや否や、ケインが足早に歩いてくる。かろうじて駆け寄っていないところに自制を見た。

 ケインがこっちに辿り着く前に、私はお姉様の手を握ったまま進み出す。さりげなく道を空けてくれる人々の間を縫い、さっさとケインの前に近づく。


「ご気分はいかがですか」

「ええ、もう平気ですわ。皆様のおかげです」

「そうですか。よかったです」

「ケイン様、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」

「お気になさらず」


 すごい、全然私に興味がない。視線はエーレに釘付けだ。だが、私とエーレはもう本当に時間がないので、それには一切構わず、おかしくならない程度に一方的に会話を続ける。


「それでは私の気が済みませんわ」


 にこりと笑い、私はエーレの手を引いたままケインの横を擦り抜けた。


「私、ダンスが得意ですの。一曲披露致しますので、是非ご覧になってくださいませ!」


 慌てて振り向いたケインへ伝えるついでに、周囲にも周知する。後はもう一直線に、人波を突っ切り開けた空間へひた進む。優雅で優美でさりげなく、最速を出すのは当代聖女率いる神殿組は大の得意なのである。

 誰にもぶつからないよう視線を動かしがてら、ちらりと王子を見る。デオーロの横で取り繕った顔をしているが、長い付き合いの私には分かる。

 あれは、さて何をやらかしてくれるか、余はわっくわくだぞの顔だ。

 長い間楽しみにしていた大人気の観劇を前にしているかのような王子のご期待には、恐らく応えられる。十二分に楽しんでいただけることだろう。後で余もやりたいと言い出さない限り、問題ないはずだ。


 最初の一歩で追いつけなかったケインを置き去りに、私達は人が少なくなった空間へ進み出た。夜会が始まって既に一時間が経過している。踊るつもりのある人々も大抵入れ替わり終え、疲れを見せ始めた頃だ。この時間、踊りのために開けられているこの空間は一気に空く。

 今だって、ほとんど私達の独壇場だ。だからこそ、こんな要求も耳に届くというもので。


「楽師様方。どうか暮春の夢を」


 無邪気に躍り出てきた下級貴族の娘からの要求に、楽師長は少し驚いた顔をしつつもすぐに取り繕い、ちらりとデオーロを見る。王子と並び談笑していたデオーロは、小さく頷いた。許可ができた楽師長は、すぐに指揮棒を振る。

 暮春の夢は、アデウスでは有名な古曲だ。

 その名の通り、春を主題として作られた曲である。様々な理由から、他国でもわりと有名な一曲だ。有名なので誰しもが一度は聞いたことがあるだろうが、若い世代には少し馴染みが薄い。そんな曲。古曲とはそういうものだ。

 周囲からも、驚きと期待、やれるものならやってみろの気配を感じる。踊っていた数少ない男女は、慌てたようにこの場から離脱していき、今度こそ完全に私とエーレしか残らなかった。

 私達は手を繋いだまま、空いた手でスカートを軽く持ち上げて礼をする。


 春。

 それは全ての命が芽吹く季節。つらく厳しい冬を越え、温かな世界が開ける喜びの季節。

 同時に、あちこちで爆発的に目覚めが起き、世界の均衡が一斉に崩れ、温度も天気も荒れ狂う季節。

 つまり。

 ぎゅんっと鳴り響いた弦楽器に、ただでさ集まっていた会場中の視線と聴覚、そして意識が集約された。エーレがぐっと息を詰め、向かい合って握った手の力が強くなる。だって。


 春の嵐は激しいと、相場が決まっているもので。






 大樹を薙ぎ倒さんばかりの暴風を模した弦楽器に打楽器が重なると同時に、私達は踊り始めた。

 この曲は、男役、女役、どちらもぐるぐる立場が入れ替わる。スカートの裾も髪も、常に一拍置き去りになり、終いには私達が動いた先で身体と当たる。遅れすぎると先頭が最後尾に追いついてしまう現象に近いのかもしれない。近くないかもしれない。

 暮春の夢がアデウス国内に留まらず、国外にまで名を馳せている理由の一つは、この激しさだ。曲がりなりにも春とついているものは、大抵穏やかで伸びやかで、華やかで喜びに満ちている場合がほとんどだ。しかし、暮春の夢は、春の激しさに主軸を置いた曲である。

 解放は爆発だ! 目覚めは爆発だ! 芽吹きは爆発だ! 喜びは爆発だ! 芸術は爆発だ! 冬の鬱憤も爆発させろ! 天も地も風も命も爆発だ――!

 という、作曲家の勢いがこれでもかと詰まった逸品である。

 ちなみに、暮春の夢は四部作の一つなので、後三つある。

 この次の真夏の夢も有名な一曲だ。とにかく静かで、消え入りそうな音が続く。夏と名がつくものは光が想像しやすい音になりがちだが、真夏の夢は、延々と細々とした音が途切れそうになりながら、本当にもう延々と続く。

 何故こんな一曲になったか。そう、作曲家は夏に弱かった。夏の暑さにやられ、息も絶え絶えに夏を生き抜く作曲家の生き様がこれでもかと紡がれた逸品となっている。

 ちなみに冬はもっと激しく消え入りそうな曲となっている。この作曲家が元気なのは春と秋だけで、そのうち春は爆発している。つまり、作曲家がまともなのは秋だけだ。


 四部作の中で最も激しい暮春の夢を、エーレと二人でぐるぐる踊る。回って回して、支えて支えられ、どっちが右で左で前で後ろか分からなくなりそうだ。かろうじて分かるのは上下だが、それすら怪しくなってきた。目が回りそうだ。

 しかしそんな激しさの中、エーレの目は死んでいなかった。むしろ獲物を狙う鷹のように鋭い。

 さきほどから私に触れる手の位置が微妙だなと思っていたが、どうやらさっき確認した打ち身やら切り傷やらがあった部位は避けているらしい。踊るだけで手一杯のはずなのに、どこにそんな余裕があるというのだ。神官の意地は凄い。

 この曲で踊れる人間は、そう多くはない。

 踊りを生業としている人々か、もしくは体力のある男二人がほとんどだった。男女で踊ることすらそうそうない踊りを、貴族の娘二人が踊るのだ。会場中の視線はいま、私達に集中している。

 普段なら場の流れが停滞し始める頃だ。時間帯としても物珍しさとしても、ちょうどいい見世物となっている。

 ちなみに、どうして私とエーレがこの曲で踊れるか。簡単な話だ。むかし練習したからである。

 ただ、どうして練習したのかはもう覚えていない。十割方私が原因なんだろうなということだけは分かる。相手がエーレだったのは、当時は身長差がほとんどなかったので練習相手として丁度よかったのだと思われる。




 暮春の夢は、始まりもさることながら終わりも唐突だ。曲がぴたりと停まると同時に、私達もその場に停止した。

 始まりと同じく、繋いだ手はそのままに、空いた手でスカートを持ち上げて軽く頭を下げる。

 同時に、拍手が響き渡った。流石に市井の祭りとは違い、口笛や大声での反応はなかったが、それでも充分すぎるほどの賛美が響く。


「いやぁ、素晴らしかった」

「見事な踊りでしたわ」

「君達のように年若い子がよくこの踊りを知っていたね」


 まだ鳴り止まない拍手に囲まれた私達は、ちょっとした舞台役者だ。拍手をくれる人々をぐるりと見回しながら、視線を流す。その先で、王子が任務完了の合図を送ってきた。

 私とエーレは息を整えながら、拍手に応えるため周囲に向けていた身体を互いへ向ける。目を合わせると、少し首を傾け微笑み合う。視線を合わせたまま簡単に礼をした後、いたずらっ子のような顔で笑ったまま抱きついてきた妹を、お姉様はふわりと抱き留めた。

 端から見れば、踊りの余韻が残る仲のいい姉妹だ。


「私の向きからは王子が何をしたか見えなかったんですが」

「デオーロの懐から何かを取り出していた」

「王子、掏摸上手いですよねぇ」

「組み合わさってはいけない単語が聞こえた気がしたな」


 世界は広いのだし、王子が掏摸を得意とすることもあるだろう。ちなみに掏摸を教えたのは私ではない。なんか勝手に上手かった。人の動きや反応を読む術に長けていることと、純粋に指先が器用なのだろう。

 そんな王子が、わざわざ私達にデオーロの視線を奪うよう指示してきたということは、それだけ手強い相手なのだ。反射の問題か、それともそれだけ厳重に保持している物だったのか。


「掏摸勝負したときは、数は王子、金額は私が勝ちました」

「………………掏摸、勝負? それは警邏を呼ぶ案件か?」

「いや、いやいやいやいや」


 アデウスの聖女と王子が掏摸で逮捕されては目も当てられない。大罪ならばいいというものでは決してないが、掏摸は掏摸でまずい気がする。

 そもそも、私達は何の罪も犯していない。


「私は王子から、王子は私から掏るんですよ」

「ああ、成程」


 さっさと会話を済ませ、息と心拍数を整えることに全力を尽くす。エーレではないが、流石に私の体力もつきそうだ。だが、まだ前座に過ぎず、私達の目的はこの先にある。

 様々な要因が重なり、もはや踊りしか選択肢が残っていなかったが、なんとか任務は達成できたようで何よりだ。

 さてここからは適当に時間を潰しつつ、隙を見て王子と合流しなければ。合流場所は王子の指示待ちだ。部外者である私達よりサロスン邸に詳しい人に決めてもらったほうがいい。

 それまではケインとの対峙も覚悟しなければならないだろう。流石にケインを避けられる手札が品薄だ。避ける理由が本題とは別の、私達の私情となれば尚のこと。

 すでに予期せぬ理由で一度抜けた会場だ。ただでさえ何度も出入りするのは怪しいというのに、こんな理由で不信感を抱かせたくはない。それに、残り少ない手札をここで使い切るのはあまりに勿体なかった。

 いつまでもこの場を独占しているわけにもいかない。私達は踊りのために用意された空間から、それを囲む人々へと足を向ける。塊に分断されないよう、私とエーレは仲のいい姉妹としては不自然でない距離に一応詰めた。しかし、視界の端にこっちへ向かってきているケインを見つけ、半歩ずれた。

 そんな私の手を取り、お姉様は自分の腕へ私を導いた。これは諦めたほうがよさそうだ。

 導かれるまま、お姉様の腕に抱きつき、寄り添っておく。とりあえず甘えんぼの妹になっておこう。またの名をお邪魔虫という。

 まだ踊りの余韻が残る身体は、互いに熱く、脈も落ち着ききっていない。ひっつくと暑いが、致し方あるまい。腕にぴたりと張り付き、肩に頭を寄せる私の手に、優しい顔をしたお姉様が自身の手を重ねた。私の手を覆うように包みながら指を絡め、握りしめる。

 私はにこりと微笑み、お姉様と視線を合わせる。お姉様も同じ顔を返してきた。

 編むように指を絡めてくるまだ少し汗ばんだ手から、彼の感情が伝わってくる。すなわち、一人で逃がすかこの野郎だ。


「痛い痛い痛い痛い痛い」


 私の視線が周囲を撫でた瞬間、指にかかる力が強くなった。指が折れる。小声で悲鳴を上げる私を見ずに、お姉様も小声で返してきた。


「死なば諸共だ」

「ちゃんと一緒に死にますから指質は解放してもらっていいですかね!?」

「聖女が神官の都合で死ぬなどあっていいはずがないだろう」

「どうしろと?」


 頭の中に大量の疑問符を浮かべたあたりで、ケインが私達に到達した。私とエーレは、死んだ目で柔らかく微笑み、彼を出迎えた。







 のらりくらり、のらくら、のら。

 適当適宜、ケインの言葉と熱を避け、逸らし、投げ飛ばし、聞き流す。適当さなら任せてほしい。聞き流しにおいて当代聖女は達人として名を馳せているわけで、もはやケインが話していた内容の何割を聞いていないかすら把握していないが、まあ問題ないだろう。


「アデリーナ嬢は、乗馬などは、お好きでしょうか」

「馬は好きですけれど、乗馬はあまり得意ではありませんの。ああ、けれど、アレンカさんはとても上手で。まるで風のように走るの。ねえ、アレンカさん」

「ええ、私、乗馬がとても好きで。またお姉様を乗せてあげるわ」

「まあ、楽しみ」


 笑い合っている私達を風が撫でていく。夜風が気持ちよくて、火照っていた身体はだいぶ落ち着いてきた。

 バルコニーに場所を移してからずっと、ケインはアデリーナ嬢に話題を振り続けている。


「か、絵画などは」

「描くことはできませんけれど好きですわ」

「でしたら今度、腕のいい絵描きを」

「ふふ、アレンカさんはとっても素敵な絵を描くの。だからいつも、お部屋の絵はアレンカさんに描いてもらうの。ねえ、アレンカさん」

「ええ、お姉様。今度もまた、お姉様のお好きな絵を描くわ。何がいいかしら」

「楽しみだわ。わたくし、あなたの絵が一等好きよ」

「嬉しい、お姉様! とびっきりの絵をまた贈りますね!」


 ケインはアデリーナ嬢に話題を振り続け、アデリーナ嬢はその話題すべてをアレンカさんにぶん投げてくる。ちなみに宣伝文句に偽りありだ。私は乗馬は好きだが何故か馬に嫌われるので一人では乗れず、絵は線消し用のパンを食べていたら首になった。

 お姉様の腕を抱きかかえ、ぺったり絡まりながらすべての話題を持っていく妹を、ケインはどう思っているのだろう。腹立たしく思ってくれたらいい。怒って去って行ってくれればなおよし。

 そこまで上々にはいかずとも、妹を疎ましく思うあまりちくりとでも嫌味を言ってくれれば、それを理由にお姉様が怒れる。怒り、悲しみ、この場を離れる理由ができるので、一発殴ってくれないかなぁと思いつつケインを眺める。

 ケインは、必死に次の話題を考えていた。

 押しは強いが悪人ではなさそうだ。美しい方を前に頭がいっぱいになり、邪魔者を排除することにまで意識が届いていない可能性も残っているため、断定はできないが。


 このバルコニーは、開始前に私達が潜んでいた場所とは違う。会場内どころか、もしかすると屋敷内で一番大きなバルコニーだと思われる。緩やかに弧を描く階段が、昼ほどとは言えないまでも夜とは思えない明るさを保った中庭へと伸びていた。

 ケインとここに来てすぐは、中庭から戻ってくる者、中庭へ出ようとする者が何組が通ろうとしていた。しかし、すぐにそんな人々はいなくなり、私達三人はずっとバルコニーを占拠している。

 王子からの指示が出ていない以上、会場を去るわけにも行かず、私とエーレはこのバルコニーに留まっていた。指示を出しにくい場所にいようが、相手が王子なら少々の障害はものともせず指示を飛ばしてくるので、指示が出ていないということはやはりまだ機ではないのだろう。

 欠伸を噛み殺しながら、エーレからぶん投げられた話題をケインに転がして返す会話を繰り返していると、バルコニーに影が伸びた。

 すわ王子かと視線を向ける。エーレも即座に反応し、身体も半身が窓を向く。エーレが動けば引っ付いている私も必然的に押されるわけで、同じ角度で同じ場所を見た。


「ケイン、こんな所にいたのか」


 にこやかに現れたのはサロスン家次男マルクスだ。ケインとよく似た金髪と顔つきをしているが、雰囲気はまったく違う。丸まり気味なケインとは対称的に背筋はぴんと伸びているが、そこに緊張や強張りは見られない。

 王子ではなくて残念な気持ちを表には出さずくるりと隠し、マルクスの肩越しに会場をさっと見回す。王子がいない。こんな面白い見世物を王子が見逃すはずがないので、絶対にどこかで見ているはずだ。そして腹筋を鍛えているに違いない。


「兄上……」


 眉を下げ、弱った顔をするケインにマルクスは肩を竦める。


「一曲も踊らずどこに行ったのかと思いきや。サロスン家の人間が、一曲も踊らず済ますつもりか?」

「まあ、大変。わたくし達がお邪魔をしてしまいましたのね。アレンカさん、失礼しましょうか」


 ここぞとばかりに去ろうとするエーレが素早い。若干慌てつつ、体勢を変える風に見せかけて一歩ずれ、その身体で退路を断ったマルクスも素早い。慌ててエーレの背に追いついたケインは、一歩遅いようだ。この辺りは経験の差だと思われる。


「アデリーナ嬢、是非ケインと踊ってやってはくれませんか。こう見えて、ダンスは上等にうまいんですよ」

「まあ……けれどわたくしは、男爵家の娘でございます。ケイン様と踊れるような身分ではございません。それに、妹はこういう場には慣れておりません。ですから、あまり一人にはしたくありませんの。今日はわたくしが側についていると約束したことで、お父様が出席を許してくださったのですから」


 慈しみを湛えた瞳がじっと私を見つめる。お姉様! 瞳に光がございませんことよ! 慈しみもいいけれど、是非とも生気も湛えてほしい。


「それならば、アレンカ嬢はわたしと踊りましょう。それならばアデリーナ嬢もお父様とのお約束を破ったことにはならないでしょう」


 マルクス卿、可愛い弟を意中の相手と踊らせてあげたいのは分かる。その為に、このぺったり張りついている邪魔者を排除したいのも分かる。排除先として自分が請け負えば、それを名分として囲い、二人っきりの時間を作って上げやすい効率的な方法だ。

 分かる。分かるのだが。


「私、少し疲れてしまって……お姉様、傍にいてくださいませ」

「おや、それは大変だ。アデリーナ嬢、あなたが踊っている間、アレンカ嬢は部屋で休んでいただくこととしましょう。ちょうど、先程お帰りになったリシュターク家の方々が、あなた方へと残した部屋もございますし」


 やめてマルクス卿! 私とお姉様を引き剥がさないで!

 私は指質を取られてるんですよ!?


 さっきから、人質ならぬ指質に取られた右手が軋んでいる。指質の命は残り僅かだ。これが、恐怖や動揺から、救いを求めていたり縋っているのならまだ分かるのだが、いまここにある感情は見捨てたらはっ倒すぞの怨念だけだ。つまり、見捨てた瞬間指の命はない。無情な犯人である。

 指質を盾に私を脅している人は、慈愛の笑みを浮かべた顔で私の頬を撫で、髪を横に流していく。今にも私の指をへし折りそうになっている人とは思えない。

 長い指にくすぐったそうに目を細めておいてから、私はマルクスを見る。


「いいえ、私が我儘を言ったのです。一人でいる不安だからと……だって、お姉様とずっといたくて……」


 自由な片手で胸元を押さえ、目を潤ませる。……まずい、潤まない。悲しいことを思い出せ。こめかみ掘削拳とか脳天粉砕拳とか脳天かち割り拳とか……痛いことしか思い出せないな。しかしあの痛みを思い出せば、反射で涙も滲もうというものだ。


「お姉様はもうすぐ嫁がれますの。ですから私、少しでも長くお姉様と一緒にいたくて……」


 じんわり潤ませた涙が乾かぬうちに、顔を歪めて必死に切なげな表情を作り出す。神官達からは、気持ち悪い、やめとけ、世界が滅ぶ、否滅ぼすと散々な言われようだったが、私の普段を知らないマルクス達には多少の効果が見込まれるはずだ。

 抜け出してきていた城下町でぶつかってきた男が大声で怒鳴り始めたとき、急いでいたので穏便に解決したくてこの顔をしてみたら、何故かお金をくれたのである程度は効くはずだ。そのお金はありがたく孤児院の寄付箱に突っ込んできた。おいしいお肉を食べてほしい。


「とつ、ぐ……?」


 呆然と言葉を落としたケインには衝撃の事実で申し訳ないが、真っ赤な嘘であるので諦めてほしい。何を言っているか分からないと思うが私にも分からないので、言わなければいいの方針でいこうと思う。


「もちろんお義兄様はお優しくて、穏やかで、英明で。お姉様ととてもお似合いの方です。ですから、お姉様のご結婚に不満なんてありはしません。お義兄様ができることはとても嬉しいです。けれど……ずっと一緒にいてくださったお姉様が嫁がれることが、私、寂しくて……」

「……まあ、アレンカさん。あなた、そんなことを思っていたの?」


 お姉様は、両手で私の頬を覆った。

 指質解放、成功です!

 これなら王子を探しに行くという名目でいつ逃げても大丈夫だなとほくそ笑んでいる私の耳を、お姉様の指が撫でた。

 耳質事件発生!


「もう、嫁ぐと言っても、あの方は我が家に婿に来てくださるのよ? だから、わたくしはあなたとずっと一緒よ」


 ずぅっと。

 ゆっくり動いた唇が繰り返した言葉で、私は死なば諸共警報が解除されていない現実を再確認した。

 泣きそう。涙はさっき必要だった。でも、せっかくなのでこの悲哀の涙も活用しよう。


「おねえざま、わだじ、うれじいでず」


 耳質への恐怖で声が震えたが、嬉し泣きに見えたことを祈ろう。

 耳の解放を求めて、とりあえず抱きついておいた。胸の詰め物が潰れない程度にぎゅっと抱きつけば、お姉様はふんわりと私を覆った。……腰はともかく、首を掴んでいるのは首質という解釈でよろしいでしょうか。


 私以上に泣きそうな顔をしているケインとは裏腹に、マルクスは何事か思案顔だ。お姉様の婚約者に手を回そうとしているのかもしれない。しかし残念ながら優しく穏やかで英明なお義兄様はこの世に存在しないので、彼の企みは空振りが決まっている。ついでにいうとお姉様も存在しない。

 お姉様の隙間から世界を見ているので、お姉様だけは見えないが、それ以外はわりとよく見える。水死体より青ざめたケインと、何事かを企んでいるマルクスは見飽きたので、別方向へ視線を移す。

 ここはアデウス有数の大貴族のお屋敷。中も外も庭も見所抜群ともなれば、夜風も星空もゴミ山と腐りかけの死体の中で死にかけながら見るものとは違って見えた。これは綺麗で、あれは危険だ。なにせ夜風は体温が奪われるし、星空は意識を失う前の景色によく似ている。

 ………………何か、首筋がちりちりする。夜会が始まる前にも同じ感覚を受けた。背中がそわそわするような、胸がばくばくするような、首がひりひりするような。そんな感覚だ。

 待ち遠しいような、来てほしくないよう。自信があるようなないような試験が返ってくるときの感覚がこんな風だと、ペールが言っていた。

 いまそんな感覚を受ける理由がないのに、どことなく落ち着かない。後でエーレに相談しなければ。しかし今はその機が見つけられない。

 私は悩んだ。

 悩みながら視線を回した隣のバルコニーで、手摺りに肘をつき、優雅に取り繕った顔で腹筋を鍛えている王子を見るまでは確かに悩んでいた。






 人目がなければ死にかけのエビとなり、床でぴちぴち跳ねていただろう王子は現在、身体を小刻みに震わせているのに顔面は取り繕っている。どちらにせよ死にかけのエビだなと思う。川エビの死にかけこんな感じ。海エビは死んだものしか見たことがないので分からないが、川エビより大きいので死にかけでもびったんびったんしているのではと予測している。


「従兄弟殿」


 顔と声を取り繕ったエビが、間違えた王子が声をかけたことで、サロスン家兄弟はやっとエビの存在に気付いたらしい。ぱっと視線を向けると同時に身体の向きも変えた。


「殿下、そちらにいらっしゃいましたか。これは失礼を致しました」

「何、夜風へ当たりに来ただけだ。構わんさ。先にいたのはそなたらのほうゆえな。それよりも従兄弟殿、叔父上が探していたぞ。ご老体らの到着だ」


 敬っているのいないのか、おそらくいないに比重が割かれた物言いに、マルクスは苦笑した。

 彼らが指しているご老体というのは、サロスン家の親族だ。彼らにとっての祖父母は既に他界しているので、それ以外の親族を指す。

 老人は、身分の有無にかかわらず負担を鑑みて最初から参加せずとも許される風潮がある。だから宴も酣とはいかないまでも、それなりに遅く現れるのが常だ。

 そして、サロスン家の直系一族が呼ばれるのであれば、それは親族の到着を意味する場合が多い。さらにいうならば、仲のよい信頼している親族が現れるならばこんな顔をしない。つまりはまあ、そういうことである。


「仕方がない。ケイン、行くか」

「…………はい、兄上」


 王子の登場により放心が収まってはいたものの、そうすれば再び絶望に覆われる余裕ができてしまったらしいケインは、今さっき死んだばかりの人間みたいな顔色になっている。

 じっとエーレを見ているが、エーレと私は下級貴族の娘らしく王子に頭を下げ、礼の姿勢をとり続けているので反応しなくていい。しかしこの体勢、エーレだけでなく私もそれなりに疲れているのであまり長く取りたくはなかった。


「あの、アデリーナ嬢」


 そっとというより、恐る恐るケインに話しかけられ、お姉様は少し困った顔で微笑みながら軽く顔をそっちに向けた。王子への不敬にならないぎりぎりの線だ。


「また、お目にかかれますか?」

「ええ、もちろん」


 ふわりと、お姉様が微笑む。


「まだ夜は長いのですもの。夜会が終わるまでには、きっとまたお話できますわ」


 つまりはまあ、そういうことである。



 がっくりと項垂れたケインと、まだ微妙に諦めていなさそうなマルクスが渋々バルコニーを去っていく。その影が完全にバルコニーから離れた瞬間、エビが死んだ。

 手摺りに突っ伏し、かたかた震えるエビが下を指さすので、私とエーレはそそくさとバルコニーを後にした。

 その後ろからエビが地面に跳ね下りた音がしたので、影で合流予定だ。




 段差を低く幅を広くした代わりに、距離が長くなった階段を下りきると夜の匂いが濃く香る。土と水と草の匂い。夜風は大体そういうものでできている。人の営みが盛んな町中でさえそうなのだから、夜は人の領分ではないと神が定めたのだろう。だから皆、夜はさっさと寝たほうがいい。

 夜だなぁと思いながら、夜露を弾きながらさっさと歩く。その横を、無表情で死んだエーレと生還したエビも歩いている。王子が生還したらエーレが死ぬ。この世に存在できる生の数は決まっているのだろうか。

 何はともあれ、私を挟んで生死を行き来させないでほしい。


 夜闇に紛れ、サロスン家の立派な庭を三人で突き進む。人目を避けているので派手な音は厳禁だ。よって全速力で駆け抜ける訳にはいかないが、足音に気をつけつつ出せる最大速度を出していた。

 案内は王子に任せ、全員顔は前を向いたままひた進む私達の姿は、新たな怪談として名を馳せるには充分すぎるものだという自負はある。


「しかし、本当にエーレは凄まじいものだな」


 王子はまだ涙目だ。涙を拭いながら、ぶり返してきそうな笑いを飲み下すのに苦労している。


「ケインは、強気な相手であろうが弱気な相手であろうが、すべて一律に怖がってしまってな。サロスン直系最後の空き枠ということもありそれなりに言い寄られていたのだが、まあ結果は推して知るべしと言ったところだ。叔父上も従兄弟殿らも見ての通り身内には甘い。ケインに無理をさせてまで婚姻を望む必要も現状なく、本人の意思に任せようと落ち着いたのだが」

「それは、サロスン家もアデリーナお嬢様を逃がしたくはないでしょうねぇ」

「うるさい」

「いったぁ!」


 手刀が落ちた。私の頭にだけ。

 地上で星を舞わせた張本人は、無表情をむすっと崩した。


「なんで私だけ!?」

「余は事実を述べただけであるからなぁ」

「私も事実を述べただけでは?」


 手刀が再びゆらりと上がってきた。話題を変えよう。



 ヒールが挟まらないよう、石畳でありながらきちんと隙間が塗り固められている道は歩きやすい。けれど足音が響きやいのは変わらないので注意が必要だ。

 足音と、スカートを草木に引っかけないよう気をつけながら、変える先の話題を考える。適当に頭の中で今日あったことを流していくうち、会場内の人々の視線を改めて思い出す。

 人の目はエーレを追う。見惚れる。それだけならまだしも、心まで傾けるのだからエーレは大変だ。

 今日だけに限らず、これまでも。きっとこれからも。


「エーレは、神に愛されているんでしょうね」


 思わずぽろりと零れ落ちた言葉に、エーレは怒らなかった。正確には手刀を落としてはこなかっただけで怒ってはいた。ぎろりと私を睨み、深く嘆息する。たんに怒る気力がなかっただけのようだ。


「お前が言うな」


 そうして、不思議なことを言う。

 私は首を傾げた。


「私は神に愛されてなどいませんよ?」

「聖女に選ばれておきながら何を言うんだ、お前は」


 これ以上付き合うのも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりのエーレに睨まれても、その認識は誤りだ。神は私を愛してなどいない。だって私は聖女なのだから。


「聖女は神が選んだもの。つまり、役割のために神が作ったものです。エーレは、愛する人を十三代目聖女に任命したいですか?」


 無言が返る。それが答えだ。

 聖女の立ち位置は絶対的であるが故に微妙だ。高貴ではなく、安くもない。アデウスの女であれば誰であってもなれる、たった一人のためのもの。

 金が集まり、人心が集まるもの。必然的に、喜びから幸い、厄介事から憎悪まで集約するもの。

 ただでさえ厄介なものに、十二代聖女の次代としての肩書きが付与される。膨れ上がった民の妄信、アデウスという同じ国を守っていく同士であるはずの王城の厭い、先代聖女派による狂信と狂気が丸々下りてくる十三代目。

 そんな地位に、愛する存在を据えたい存在などいないだろう。


「まして神は、愛するか無関心か。そのどちらかしかありません。三つ目の感情を得た神は、神ではなく別の存在へ変貌します。憎悪とか最悪ですね。祟り始めた神は見境がありませんから」


 エーレと王子は顔面から表情を消している。だが、エーレの瞳には感情が揺れて見えた。酷く傷ついているような、痛みを堪えるような、悲しみと怒りが綯い交ぜになったような器用な感情だ。

 他者のためにこんな複雑な感情を抱ける彼だからこそ、どこかの神は彼を愛したのだろう。


「神の愛とは、何も求めず、与えるだけ。エーレに果たさなければならない神による使命は存在しない。だからこそ、愛と判別できるのです。そしてそれは僥倖というより他にありません。神に与えられた使命など、触るものではない。あれは、人が触れるべきではないものです」 


 だから。


「私は神に作られただけの存在であるがゆえに、愛されてなどいませんよ」


 私にそれを与えてくれたのは人だけだ。私を忘れてしまったあの場所だけが、私にそれを教えてくれた。ゆえに私を人として形作ったのは神官長達なのだろう。

 それはただの事実なので、悲しむべきものでも悲しまれるべきものでもない。ついでに私も悲しいとは微塵も思っていない。別に神からの愛が欲しいとは思わないからだ。エーレを見ていたらその大変さがしみじみ分かるというものだ。


「人があなたに群がるのは、神の愛による余波で人目を引き、その顔と性格で落としているだけで別に神による試練などではありませんので……まあ、なんというか頑張ってください!」


 神の愛で覆われたエーレは、おそらく無意識下で輝いて見えるのだろう。火であれ光であれ、明るく温かければ命は群がってくるものなので、習性はもう致し方ない。

 人には、強く生きなければならない定めを背負って生まれてくるものがいる。エーレは恐らくその類いだ。エーレのこれからに幸あれ!

 まあ、適当に強く生きていってくれればいいなぁと心から思い、激励の意味で背中をぽんっと叩いたら、ひゅっと風を切る音が聞こえた。その直後、ばちーんと平たく弾ける音と共に、エーレの手が私の背に被弾した。


「いったぁ――!?」

「半分担え」

「神様の愛を!? 嫌ですよ! そんな重たくて厄介で粘着質で鬱陶しいもの!」

「お前の顔なら担える」

「無茶が過ぎる」

「死なば諸共だ」

「無情が過ぎる」


 私の顔は、殴られたり、子どもに足で鼻を抉られたり、叩かれたり、寝転んでいたら子どもに座られたり、石投げられたり、エーレに頬を摘まみ上げられたり、壁で削れたり、神官長にほっぺたを潰されたり、炎で焼かれたりといった些末事には耐えられても、神の寵愛なんて面倒事代表格には耐えられないと思うので、お裾分けは勘弁願いたいものである。


「そなたら、余のことすぐ忘れるなぁ」


 王子がのんびりと零す。


「睦み合うのは結構だが、余とて仲間はずれを寂しく思う心は一応持ち合わせておるぞ」


 王子の言葉に、私とエーレは顔を見合わせた。互いの間に沈黙が落ちる。生命活動さえ途絶えてしまったのではないかと思える静寂の後、私達が言葉を発したのは同時だった。


「ムツミアウ?」

「アデウスの言語を知らぬ異国人のような顔する?」


 急いでいるのも忘れ三者三様ぽかんと立ち尽くしてしまった私達の間を、何やら雲行きが怪しくなってきたのか湿った重たい夜風が走り去っていった。







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