55聖
「大丈夫ですか!?」
慌てた様子でサロスン家の使用人達が足早に駆け寄ってくる。エーレのドレスと髪の隙間から、対象の人物を急いで探す。そして、やらかしたなぁと思う。
家族に背を押されたケインがこっちに向けて足早に向かってくる。確かに彼は主催者一族の直系だ。何か揉め事が起こった場合、解決する義務と権利を有する。
だが、この場において一番こっちに来てほしくない人物だ。
やらかしたのは私だが、私の身体を呼吸するかのように乗っ取った何ものかの責任もあると思うのだ。ということで、何ものかさんはそれなりに責任をふんわりもって、なんかこういい感じにこの場を適当に収めてもらえないだろうか。
そうは思うものの、そんな言い分があの存在に通用するとは思えないので、結局自分でなんとかするしかない。
私を支えるように抱えているエーレに駆け寄ってきたケインのため、使用人達が道を空ける。ケインは、ひどく慌てた様子で瞳を輝かせていた。ここまで最初以外に接点を持てなかった美しい方に、やっと話しかける機会を得られて嬉しいのだろう。目がきらきらしている。素直でよろしい。
ここでふらついている私の心配だけをする、まるで神官長のようにいい人だったら、ちょっと困る。
「ど、どうしましたか? お怪我は?」
急いで来たためか生来の気質か、どうにも言葉が詰まりがちなケインからの問いかけに、エーレはたおやなか動きで顔を伏せる。
「ございません。ああ、けれど申し訳ないことを……妹は少し身体が弱くて、目眩を起こしてしまったのかもしれません」
「そんな、どうか気に病まないでください。部屋を用意させます。妹君を休ませて差し上げてはいかがでしょう。勿論、貴方も一緒に」
具合の悪そうな人を連れた相手への言葉としては間違っていないが、愛の劇場を開催させた人間からの申し出としては少々気を揉む言葉である。それを分かっているのかいないのか、それによってケインという人間に対する認識がだいぶ変わる。
近づきたくない相手か、絶対に近づきたくない相手か、さてどっちだ。
最終手段として、盛大に酔っ払った振りをして、お姉様を引っ張りながら会場内を練り歩くしかない。それで王子が指示した時間まで持ちこたえよう。時間になれば気絶した振りでもすればいい。注目は集められるはずだ。
その名も、散々奇行をやらかした張本人が気絶し、一人取り残されるエーレに幸あれ作戦だ。
エーレの体力問題については、後で私の血でも飲んで回復してほしい。聖女の治癒力が体力回復にまで役立つかどうかは知らないし、気力については如何ともしがたいと決定しているが。
「ケイン殿、その役目、我らに譲ってはいただけないだろうか」
血ってどの部位からが飲みやすいかなぁと考えていると、柔らかく落ち着いた声が聞こえてきた。低く穏やかで、水中から聞く世界の音みたいな声は神官長を思い出させる。
これをもっと柔らかく優しい音にしたら、神官長が私を呼ぶ声になる。今の神官長が、私にそんな声音を向けてくれることはないけれど。
穏やかな声の主がために空けられた道を、二人の人間が歩いてくる。リシュターク家当主であり長兄ラーシュと次兄コーレだ。先頭を歩いているラーシュの半歩後ろをコーレが歩いている。
ラーシュは、穏やかな声音を発しているとは思えない顔つきで私達の前に立つ。しかめっ面でもなければ睨んでいるわけでもない。ただ笑っていないだけなのだが、怒っているように見えて不安になる人は一定層いるらしいのだ。リシュターク三兄弟で、笑っている顔をよく見るのは次兄だけなので、不安になった人は安心してほしい。
ちなみにエーレは怒っていてもいなくても無表情だったりするので、見極めて発言しないと脳天かち割られるので気をつけていきたい所存である。
「リシュタークへとご用意いただいた部屋を、彼女達へお渡ししたく」
「ラーシュ様……あの……?」
ケインは戸惑いつつも一歩も足を動かしていない。思っていたより根性があるようだ。サロスン家一家がこっちをさりげなく見ているのも背中を押しているのだろう。ここは彼らの本陣なので、家族仲が良好ならば一番本領発揮できる場所のはずだ。
だが、家族仲が良好なのはリシュターク家も同様である。私が全力をかけて仕上げた渾身のエーレをあっさり見抜くくらいには。
「ああ、突然申し訳ありません。実は私は、こちらのお嬢様方へ届ける礼を持っておりまして」
「礼……?」
静かでいてい重々しい声で告げられた長子の演技を、末っ子が引き継ぐ。
「まあ……あなた方はあの時の」
死んだ目を輝かせるという器用な芸当をやって見せた末っ子の後を、真ん中っ子が引き継ぐ。
「ええ、そうなのです。僕達は今日、こちらへ向かう道中に少々揉め事に巻き込まれまして。その際、こちらのお嬢様方が手を貸してくださったのです。けれど、なんと言うことでしょう。僕達が礼を渡す前に、お嬢様方は時間が迫っていると立ち去ってしまったのです」
なるほど。腹筋を割っている王子と馬車に乗っている間にそんなことが。
「恩人へ礼を渡せぬなど、リシュタークの名折れにもほどがありましょう。恩人の行方を捜していたところ、この場にいらっしゃるではありませんか。しかし、我々が突然話しかけてしまえば、混乱は必至。それではお嬢様方のご迷惑となり得ましょう。ですから機を窺っておりましたが、この状況下においてはここで礼を返せない事こそ名折れというものです」
この三兄弟、こんな状況でつらつら話を合わせられる様子を見るに、普段から似たようなことをやっているようだ。兄弟がかち合った際、様子を見つつも互いの不利は庇う。今代のリシュターク家は安泰だろうから、人々は敵に回さないほうがよさそうである。
「そんな、御礼を言っていただくようなことは何も……」
「いいえ、お嬢様。あなた方の勇敢な行動に感謝します。そんな折りに恐縮ですが、この場で我々の顔を立てていただくことは可能でしょうか?」
ラーシュの静かな言葉に、エーレはくすりと相好を崩した。まるで花の精である。あと、私そろそろ首が痛いんでエーレに埋もれている状態をどうにかしたいです。
私の切実な祈りが届いたのか、すぐに体勢を元に戻すことができた。倒れかけた体勢から、立った私を支える形に状態を変えたエーレは、リシュタークの二人に向けて小さく礼の姿勢を取った。
「それではご厚意に甘えさせていただきます。ですので、他の品々はお断りさせてくださいませ」
「本当に、謙虚な方ですね」
「あんな大きな宝石、わたくし達では手に余ってしまいますもの」
困ったように、けれど軽やかに笑ってみせたエーレに、ケインの頬が赤くなる。その瞬間、コーレが彼の視線を遮るように居場所を変えた。名目としては具合の悪そうな私を支えると言ったところだろう。
失礼と一言断わり、エーレに凭れるようにして絡まっている私の右半身とは逆の左半身を持った。しかし、名目はそれでも実情は可愛い弟へ向けられた愛の劇場型視線を遮ったのだ。
……思うのだが、この場に私ほんと必要ない。アデウス国最大を競っていると呼べる規模の貴族二家が、末っ子の幸福を思って争っているだけなので、当代聖女としての私も認知を失った私も男爵令嬢としての私も、どれもほんと必要ない。
「ケイン殿、よろしいでしょうか」
ラーシュの言葉は、問いではなかった。ただ規則として了承の言葉を紡がせるだけの言葉に、ケインは口籠もった。だが、女性に対して悪い噂の一切ないリシュターク家当主が、恩あるという女性に控え室を貸したいと言い、それを女性側が了承したのだ。
サロスン家には主催者として断る権利があるとは言え、器の小ささを披露してしまう事態は避けたいはずだ。露呈してしまうならともかく、これだけの大仰な場で披露する必要はどこにもない。
「そ、うですね。では、何かありましたらお伝えください。それが何であってもすぐに用意させましょう」
ラーシュから逸らした視線をエーレに向けたケインは、また頬を染める。顔を起こしている私のことなど眼中にもないだろう。とりあえず、私の左半身を支えるという名目を持っているはずのコーレが私の左腕を握り潰そうとしているんで、誰かなんとかしてほしい。
「お怪我がなくて、何よりです……また後ほど、是非お話を」
「ええ、本当に。アレンカさんに怪我がなくて何よりでした」
ほっとしたように、嬉しそうに微笑んだエーレは小さく礼をした後、ラーシュとコーレに連れられて会場を後にした。
さて、麗しい笑顔を向けられて今度こそ上限に到達したのではと心配するほど顔を真っ赤に染め上げたケインは気付いているだろうか。また後ほどという言葉に対し、エーレは一切触れていないということに。
あと、完全に荷物扱いされて退場していく私の存在を覚えている人は、ケイン以外にもあんまりいないと思う。
サロスン家の客室において、二番目に豪奢に作られている部屋は流石のものといえた。全てが職人による一点ものというだけではなく、飾られている花だけではなく葉の一枚、敷物の毛の流れ一本一本まで丁寧に整えられている。クリシュタのホテルといい勝負だ。
一番いい部屋は、まあ当然王子が使っている。
部屋に入ると、コーレが使用人達を下がらせていく。サロスン家の使用人は最初からおらず、この部屋にはリシュターク家が連れてきた人々しかいない。
さっと礼をした使用人達が無言で去っていた瞬間、エーレは俯いていた私をぺいっと長椅子の上に放り投げた。そのまま椅子の上に片膝をついて私の上に乗り上げると、伸ばしてきた両親指で私の目をひん剥いた。勢いがつきすぎて額がぶつかる。だが、今はそれどころじゃない。
「まだ咲いてます?」
「いや。蕾も見えない」
言うや否や、手は私の胸元を剥いで中を覗き込む。そのまま突っ込んだ指で、慎重に肌がなぞられていく。若干くすぐったさを感じるということは、そこにはまだ神経が通っているらしい。
「伸びてます?」
「……ああ」
「あらぁー」
「痛みは」
「まったくありません。エーレが触っている箇所が若干くすぐったいくらいですね」
麻痺していないということは、引っこ抜けば痛いということだ。別に今更怯む痛みもないわけだが、流血沙汰は最終手段にしたい。何せ服が汚れる。
とりあえず私の胸に咲く花の根は伸びていたらしい。あまり深く根付かれると面倒なので対処を考えていると、エーレが消えた。
エーレとは思えない機敏な動きで私の上からどくと、今度は足元に膝をついている。そして私のスカートをわさっと撥ね除け、脹ら脛をわしっと掴んで持ち上げた。そのまま自分の膝に私の足を乗せ、慎重に足首に触れている。
足を持ち上げられた私は、背もたれにかける重さを多くしながら、私の足の間にしゃがみこんでいるエーレを眺めた。怪我はないと伝えたはずだけれど、捻挫の有無まできっちり確認されていることから、私の自己申告が全く信用されていないことが窺える。妥当な判断だ。
暇になった私は順繰りに、跳ね上げられたスカート、自分の足、その間にいるエーレ、さらにその肩越しに見えるリシュターク家長兄と次兄を見た。
そんな冷静で妥当な判断を下せるはずの人が、一人は無言で一人は麗しい笑顔でかけてきているこの圧力に気付いていないはずがない。
背もたれに預けていた重心を変え、よっこらせと身体を折り畳む。今度は反対側の足を確認しているエーレに顔を寄せ、声を潜める。
「お兄さん達に説明しなくていいんですか?」
「忙しい」
「すっごい圧が飛んでくるんですけど」
「俺は、忙しい」
沈黙が落ちる。
「私に説明ぶん投げるのやめません!? あなたも口は空いているでしょう!?」
頑なに視線を私の足に固定しているエーレの頬を両手で掴み上げる。
「政務官十人から話しかけられてそれぞれに答えを返した人が、私の捻挫調査だけでよもや口を開く余裕を失うだなんて言わせませんからね!?」
エーレはすいっと視線を逃がし、顔も背けた。心なしか、面倒くさそうな顔をしているような気が。いやいやそんなまさか。十人の政務官から質問攻めにあっても、問題なく流れるようにこなした神殿の神童が、二人の兄への説明を面倒くさがるなんてそんなまさか。
「……兄上達の相手は面倒なんだ」
そんなまさかだった。まさかなのは別にいいとしても、私にぶん投げてくるのは如何なものか。
「いや、私だって面倒ですし、この場合私が間に挟まるほうが厄介な事態に陥りません?」
「お前が厄介な事態に陥るのはいつものことだろう」
「まあ確かに」
それはそうだが、流石に末っ子を可愛がっている兄二人に対し、いい感じにこの場を取り繕うのは至難の業だ。エーレの兄なら尚更だろう。どう楽観視しても、厄介な予感しかしない。
そんな気持ちを全身から醸し出しているというのに、エーレは私の拘束からあっさり逃れ、黙々と私の足を調べている。
「私が厄介な事態に陥ると、その何倍も厄介な目に遭うのはあなたでは?」
「………………おい、これ何だ」
頑なに沈黙で返していたエーレの指がぴたりと止まり、低い声が飛んできた。
「え? 何かあります?」
「腿の裏」
足を回収して確認するが、どうにも位置が悪くよく見えない。葡萄みたいな色の端っこは見えるのだが、これはただの打ち身なので怒られるものでもないだろう。足を持ち上げて覗き込んでいると、後頭部を引っぱたかれた。
「それ以上捲るな」
「見えてないから大丈夫では? それと、太股の裏ってどれのことですか?」
「それだ。派手に打っている。説明」
指差された先には打ち身しかない。まさかのこれだった。
確かに広げた掌ほどの大きさで打ち身が存在している。私は、意図したわけではないがまがりなりにも定期的にカグマによる全身治癒が入っている身体だ。つまりこれは活きのいい打ち身である。いつ打ったっけ。
だが、別に治療が必要な怪我でもない。出血しているわけでも骨が折れているわけでもないのに、神官は基本的に心配性である。
「どこかで打ったんでしょうねったぁ!? なんで押すんですか!?」
「この規模の打ち身の記憶がないのであれば、痛覚の麻痺が疑われるからだ。痛いならいい」
「いや、よくはありませんね」
おもに、全身全霊で私にとって。
「膝の切り傷についての説明も追加」
私はにこりと笑みを浮かべた顔を上げ、リシュターク家のお二人を見た。こっちに説明するほうが早く済みそうだ。
アデウスにおいて上から数えて五本指に入る大貴族を率いる若きお二人は、まるで使用人のように扉の前に並んで立ったまま動いていない。全体像を見渡せる距離を保っている。
「エーレのお兄様方。我々は神殿任務の一環としてこの場におりますので、詳細はお伝え致しかねますがご助力感謝致します。我々はすぐに会場内へ戻らなければならず、簡素な礼をご容赦願います」
「ご丁寧にどうも。ついでと言ってはなんですが、我らが末弟とのご関係をお伺いしても?」
意外と言うべきか、ここまで長兄を立てる言動を徹底していた次兄が先に発言してきた。人目が無くなったからか、それほどに気になったからか。
しかし、ご関係か。関係……。
幼馴染みと呼べるほどに幼い頃からの付き合いではあるが、仕事以外で共に出かけたことは皆無で、仕事以外の会話を交わしたこともこれまではほとんどなく。ただただ付き合いだけは長く、大抵の騒動は一緒に超えてきた相手をなんと呼ぶべきだろう。
少し考え、すぐにぴったりな言葉に辿り着く。
「同僚です!」
「却下」
「えぇー!?」
私に説明を押し付けた人が、即座に却下してきた。悲しい。
それと、いつのまにか私の手首まで確認してるところ悪いんですが、出血していない及び出血が止まっている傷は傷として数えないでもらえると大変助かります。
だから太股裏の打ち身も、二の腕の内側にできている切り傷も数には入れないということで、ひとつよろしく。
でも、あなたがよく引っぱたく頭への負傷は入れてくださって結構ですよ?
それはそれとして、私の渾身の説明がエーレにより却下されてしまったわけだが、下手に突っ込むとこっちはこっちで傷の説明をあれこれ求めてきそうなので藪はつつきたくない。この藪から出てきた蛇は、絶対火を噴く。
「えーと……同僚以外同僚以外……………………じょ、上司?」
「まあ……今の段階では妥当か」
どうやら及第点だったようだ。確かに、他に言い様がないのである。
神官は聖女に仕えている立場ではあるので、普段ならば主と表現すべきだ。だが、私の認知が失われている現状では他に説明の仕様がない。
ようやく納得のいく確認を終えたらしいエーレが立ち上がる。ついでに自由となった私も振り上げてから下ろした足の勢いで立ち上がると、二人並んでドレスの状態を整えていく。多少の皺はご愛敬だが、多大な皺は隙となる。
雑に扱って良い人間と判断されると面倒だ。それしか問題がないのなら別にいいのだが、今は余計な厄介事を増やしたくない。
「兄上」
「何でしょうか、エーレ」
ラーシュは、まっすぐに立ったままゆっくりと応えた。三兄弟の中では一番体格に恵まれているが、一番穏やかな喋り方をするのはラーシュだ。コーレは腕を組み、笑みを消して扉に凭れた。一番含みを持たせた喋り方をするのは彼で、一番愛想がないのがエーレである。
そんな兄弟達へ、自分の髪を直しながらだがエーレはやっと視線を向けた。
「彼女はわたしにとって直属という意味では最高位の上司に当たりますので、それを踏まえた対応をしてください。ただし現状、表立った表明ができませんのでご助力いただけるのであれば極秘裏にお願いします」
淡々と告げた内容は、事情を知っているこちらからすれば妥当なものだったが、こんなものを愛する末弟から聞かされたほうはたまったものではなかっただろう。
現に、コーレが弾かれたように扉から離れた。
「ちょっと待て、待ちなさいエーレ。お前が部下なんですか?」
「当然です。私が影となったのは彼女だけです」
コーレは目を剥いたが、慌てたのは私も同じだ。
「エーレが私の影みたいなことしてくれていたのは、身長差が出る前だからかなり昔の話じゃない……です、か…………もしかして最近もしてました?」
「立たなければまだ通用する」
「いやそりゃ、立たなけりゃいつまでも通用しそうですけど……えぇー、聞いていませんよ。もうずっと囮も私がやってたじゃないですか」
「そもそもそれがおかしな話だが……お前が出てくるまでもない件だけだ」
「私が出てくるまでもないのに囮が必要な事件ってあります!?」
「お前が出るまでもない件だ」
「知る必要までないってことあります!?」
「ある」
「断言!」
取り付く島もない。もともとあったかと聞かれると、断崖絶壁にぴょこんと飛び出した木の根っこくらいにしかなかった気もするが、それにしたってなさすぎるだろう。
言いたいことは多々あるが、私は視線を感じてはっと顔を上げた。どことなくエーレに似た瞳をした人と、それとなくエーレに似た顔つきをした人が私達をじっと見ている。長兄は静かに、次兄はじとっと。
私は慌ててエーレに顔を寄せ、ひそひそ話す。
「全然上司っぽく見えてないみたいです」
「だろうな。俺も上司として扱っていない」
「妥当と言っておきながら!?」
なんてこったい。お兄さん達への説明を私に投げ渡し、私がうんうん唸って出した答えに妥当と答えたにもかかわらず、なんとも悲しい対応である。
「エーレ」
「はい」
私への態度とはまったく違う。まるで神官長を相手にした時のように、エーレはラーシュが声をかければ身体ごとそちらへ向ける。あまり笑わない二人が向かい合うと、これから会議でもするのかなと思えてきた。……家族会議だったらどうしよう。
王子からの指示に間に合わなくなるので、私とエーレはもうそろそろ会場に戻らなければならない。家族会議はまたの機会ということで、延長要請を受け入れてもらいたいがどうだろうか。
そもそも私はリシュターク家の家族会議にはまったく関係がない身の上なので、私がいないときにお願いします。
「彼女の影を引き受けていること、彼女の下で働いていること。それらはお前が選択したことなのですか?」
「はい」
「今の格好も?」
「望んだわけではありませんが、強要されたわけでもありません。必要と判断したのはわたしです」
「そうですか」
ラーシュは静かに頷き、身体をずらした。コーレは複雑な表情を隠しもしていないが、彼もまた長兄と同様身体をずらし、扉への道を空けた。
「お前がそう判断したのであれば、兄らは余計な口出しはしません。急ぎの用事があるのでしょう。お行きなさい」
「ありがとうございます。けれど兄上、一つだけよろしいでしょうか」
「何でしょうか?」
自分の身形を確認した後、私とエーレはそれぞれ互いの身形を確認し合う。エーレはラーシュと喋っている途中だが、時間がないので許してほしい。
「今宵、この場は戦場となるやもしれません。どうぞ、お早いお帰りを」
細い隙間を風が走り抜けたかのような音がした。コーレが口笛を吹いたのだ。彼の視線は、長兄でもエーレでもなく、私を向いた。
「リシュタークの末を影に甘んじさせた上司とやらから、説明を聞きたいものですね」
「自称上司でどうもすみません!」
聖女と名乗れぬ以上、どうにも怪しい自己紹介しかできない。どう考えても、神官長より優秀で素晴らしい人材ではないので余計にだ。直属という意味で最高位の上司は、どう考えても神官長以外あり得ないのに、聖女と名乗れないばっかりに。
「ですが、エーレの言は事実です。私達もできればこの歴史ある建物を瓦礫にしたくはないのですが、場合によっては更地にすることを躊躇うつもりはありません。ですので、退避できる方は早めにご帰宅ください。エーレの身内なら尚のことです」
背中から見た腰回りを直してもらうため、上げた両腕を心持ち下ろす。直してくれているエーレには邪魔だろうが、威嚇しているわけではないのだからできれば穏便に済ませたい。
「私はそこにあなた方がいると分かっていても、必要とあらばエーレに攻撃指示を出しますし、躊躇いません。それらを踏まえると、帰っていただくのが無難かなぁと」
へらっと笑えば、コーレの眉はぴくっと動き、ラーシュは無表情を崩さず、エーレは溜息を吐いた。おかしいな、三兄弟を相手にしているはずなのに、エーレを三人相手にしている気分だ。
今よりずっと融通の利かないエーレと、今よりずっと意味深な態度が似合うエーレと、いつものエーレである。この三兄弟、喋り方もさることながら、本当に色々似ている。困る。
エーレ一人相手でも私はまる焦げになるのに、これでは灰も残らない。撤収あるのみである。
「それでは失礼します。エーレ、行きましょう」
「ああ。兄上方、失礼します」
二人が開けてくれた場所を通り、扉に手をかける。
「エーレ、何かあればいつでも言いなさい。兄らは、いつでもお前の味方ですよ」
「エーレ、昔みたいに呼んでくれないと大人しく帰らないと言ったらどうします?」
「コーレ兄上を焼きます」
「こんがり焼かせないために帰っていただくのに!?」
慌てて取っ手から手を離してしまった私に、早く開けろ何やってるんだこの野郎の視線が向けられた。エーレは目でも口でも手でも語るから、手が来る前にさっさと開けるに限る。
「おやまあ、お前は相変わらず短気だね。兄上はこのまま僕が責任もって連れ帰るから、お前は何の心配もせず焼き払っておしまいな」
私には兄弟どころか血縁もいないのでよく分からないが、世間ではきっとこういうのをいいお兄さんと呼ぶのだろう。……たぶん。
扉が閉まる直前、まるで静かに私を制止する神官長のような声でラーシュがコーレを呼んだのが聞こえたけれど、たぶんいいお兄さんなのだろう。
ちらりと視線を向けた先で、エーレは疲労感を浮かべながらも気を緩ませた口元を閉じる。
最初から最後までエーレが緊張していなかった。相手にするまでもないと軽視しているでも、勿論存在に気付いていないわけでもなく。まったく気を張らず、かなり適当で、ひどく雑で。けれどそれは、ただ蔑ろにしているのとは訳が違う。あれは甘えだ。そんな扱いでも、向けられる感情は変わらないと無意識の自信と自覚があるからできる態度だ。
そんなエーレに対し、二人は怒ることなく、何だか育むような目でエーレを見ていたのだから、この兄弟の関係が窺えるというものだ。
ちなみに私への雑な対応は、本当にただ雑なだけである。
エーレを見ていたら、胸の中に枯れ葉が落ちていくような感覚がした。
私にだって、いたのだ。困ったとき、手を差し伸べてくれる人が。転んだとき、振り向いてくれる人が。蹲ったとき、抱き上げてくれた人が。
笑ったとき、笑い返してくれた人が、いたのに。
今では、良識ある人間として手を差し出してくれる人ばかり。それだって、有り難いけれど。そんな人間、スラムにはいるはずのない、有り難い奇跡だけれど。
だけど。
私が転べばそれで終わりになるような、どこにも誰とも繋がっていない不安定で不確かで無意味で無価値な生は、あの日終わったはずだったのに。
「マリヴェル、行くぞ」
「はーい」
世界でただ一人私との糸が切れなかったこの人の元から、逃げ去るような別れは嫌だなと思う。叩き出されながら逃げ去るように離れる私を、誰も見送ってくれない別れは、もう二度と。
そうなっても、きっと、泣きはしないけれど。泣かないよ。泣かないよ。世界に雨を降らせはしないけれど。
急いでいるというのに、私が歩き出すまで律儀に待っているこの人が、私を振り向く理由を失えば。
その時、私はどんな顔をしているのだろうとは、思うのだ。
王子との約束の時間までもう五分切っている。不自然にならない程度の早足で、廊下を急ぐ。ひそひそとまではいかないまでも、ぽつぽつすれ違うサロスン家の使用人達に聞こえない声で話しながら急ぐ道は、神殿にいた頃のようで少し懐かしい。
「お兄さん達のお相手はエーレがすべきでは?」
「俺が相手をすると長くなる。お前が相手ならば、必要最低限しか話さなかっただろう」
「成程。面倒だったからじゃなかったんですね」
「九割強は面倒だったからだ」
「ほとんどすぎません?」
確かに、取り繕ったおすまし顔の中に疲労が隠し切れていない。疲労といえば、エーレの体力は枯渇していてもおかしくないほど使われているはずなのに、早足が保てている。
「疲れていません? 大丈夫ですか?」
「……お前の付き人は体力が保たない可能性があるとカグマに言って、術を懸けてもらった」
「え!?」
驚いて足が止まりかけ、慌てて歩だけは止めず進めていく。しかし顔はエーレに向けたままだ。その横顔には、死を覚悟した歴戦の勇者が浮かべる決意があった。私の声も震えてしまう。
「あ、明日の筋肉痛、大丈夫なんですか?」
カグマが使える力は、何も傷や病を癒やすだけではない。怪我や病には至っていないまでも、身体の不調を整える術にも長けている。知識としても神力としてもだ。
その中に、疲労を急速回復する術がある。
神殿が賊という仮面を被った先代聖女派から強襲を受けた際、朝から晩まで戦い続けたときも、徹夜で会議書類を纏めていたときも、賊という化粧を施した先代聖女派に雪山で遭難させられたときも、山ほど溜め込んだ明日締め切りの宿題に取りかかっていたときも、賊という演者に成りきった先代聖女派に一瞬でも聖女の力の使用をやめれば死に至る呪いをかけられたときも大いに役立った術だ。
この術、体力が尽きず身体も動き続けるので大変ありがたい術なのだが、術が切れた瞬間それまで蓄えたすべての疲労が割り増しで飛んでくる、地獄の祝福と呼ばれている。
指先一つ動かせず、寝台に突っ伏しながら猛烈な睡魔に苛まされつつ、筋肉痛と肉体疲労による痛みで眠れないという地獄を味わう。まさに地獄の祝福である。
這う元気のある者は、聖女の部屋まで必死に辿り着くので聖女の力で回復していた。なぜ私が皆の部屋を回らないか? 私も寝台に突っ伏していたからである。
あの地獄を思い出し恐れ戦きながら問う私に、エーレは静かに頷いた。
「大丈夫じゃない」
ですよね。
「あの……明日、私の血を飲みます?」
「……………………馬鹿を言うな」
若干迷った気配を察知した。
明日もエーレは私の付き人のはずなんだけど、大丈夫なのだろうか。いや、私の付き人だからなんとかなるのだろうか。私が部屋に籠もって一歩も動かなければ、エーレが寝台に突っ伏して死んでいても問題ない。私が動かなければ、エーレも動く必要がないのだから。
しかし、私達だけならばその方法で明日をやり過ごせても、少なくともカグマはその術をかけた事実を知っている。明日のエーレが死ぬことを理解しているのだ。
そんな状態で聖女候補問題児筆頭の付き人ができるわけもないので、どう説得して術をかけてもらったのだろう。
「よくその術かけてもらえましたね。体力が追っつかないとなると、私の付き人から外される可能性もあったのでは?」
それは困る。私の身動きが取れなくなるし、エーレと連携が今以上に取りづらくなってしまう。
その危険性にエーレが思い至らないはずもないので、何か手を打ったはずだ。だからこそ、今日のエーレは明日の死が決定している。カグマを納得させられずして、地獄の祝福は降り注がないのだ。
「俺が培ってきた全てを懸けてでも、明日のお前を部屋から出さないよう口で丸め込むと誓ってきた」
「神殿を心の底から毛嫌いしている政務官から、神殿の設備一新の費用半分出させたその口で!?」
そんな恐ろしいものを全力で使わないでいただきたい。明日の私は大丈夫だろうか。聞かなきゃいいんだな。よし、全部聞き流そう。
「あの術を使った翌日、俺だけ王城で臨時の会議が入り、死に物狂いで出席して椅子に座り続けた功績が生きた」
「あれは悲しい事件でしたね……」
もうこの角を曲がれば会場の扉が見えてくる。いつもならこの辺りで歩を緩めるが、今日は本当に時間がないのでそのままの勢いで曲がった。
「あのときは会議の間中、お前への罵詈雑言で頭が一杯だった」
「緊急会議が入ったの私の罪じゃなかったですよね!?」
そもそも全身全霊の根性で歩いて会議室まで向かったのだから、そのついでに私の部屋に来たら、寝台で死んでいる私が癒やせたのに何故こなかったのだ。
そう伝えると、じとっと睨まれた。
「死んでいたお前が目覚めなかった」
「この度はわたくしめの熟睡により多大なるご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます。今後は偶にしかこのような悲劇が起こらぬよう努力はしようがないけれどとりあえず祈ってはおきますので、何卒ご容赦のほどお願い申し上げますけど許されませんねこれ」
もうそろそろお姉様と妹に戻らなければならないこともあり、一息で言い切った私に、エーレは深く頷いた。
「なかなか際どかったですが、なんとかなりましたね」
王子が指定した時間まで、残り二分。なんとか間に合った。
「入場しただけで会場内の視線を引く気はするがな」
「一瞬引くだけでもよさそうですが、そこは釘付けになってもらいましょう。その代わり、エーレは明日を生き延びてください」
「努力は、しよう」
扉を守る兵士に軽く微笑み、お姉様と並んで扉が開かれるのを待つ。
惜しげもなく使われた術により廊下も夜とは思えぬほど明るいが、会場内とは比ぶべくもない。
扉が開いていくにつれ、光の線が太く遠く伸びていく。その線が私達のスカートに届いたとき、エーレがぽつりと呟いた。
「あのときのお前、熟睡していたというより普通に失神してたんじゃないか?」
「あ、許されますかね、これ」
「一生許さない」
「無期懲役でしたか……」
死刑じゃないだけ情状酌量の余地が与えられたとみるべきだろう。
それならまあいいか。
「お姉様、お手を拝借してもよろしいかしら」
「まあ、嬉しいわ、アレンカさん」
隣に並んだお姉様に手を差し出せば、流れる水のように爽やかで甘やかな声が返ってくる。表情まで揃えてくるのは流石だ。
扉を開いていく兵士が微笑ましそうに見つめてくる。
柔らかく乗せられた手を握り、ついでにもうあの謎の何かから横やりが入りませんようにと祈りながら、私達は会場へと戻った。