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54聖






 私は覚悟を決めた。胃袋に別れを告げる日がやってきただけだ。石詰めたり土詰めたりと酷使してきたことを考えると、腐っておらず安全な上に、最上級に美味しく調理された食べ物で破裂するのだ。胃袋も本望であろう。

 こうなりゃ自棄だと、肉もお菓子も山盛りで皿に詰んでいく。破裂を見越した最後の晩餐だ。豪勢にいこう。

 もっしゃもっしゃと最後の晩餐をおいしくいただきながら、会場内を視線で撫でる。仲のいい姉妹に見えるよう寄り添いながら、表情とは裏腹に作戦立案者が冷たい視線を向けてきた。


「必要なのは量じゃないぞ、時間だ」

「最後の晩餐なら豪勢にいきたいじゃないですか。それより、どうするんですか?」

「ここで時間ぎりぎりまで粘る」

「私の胃袋防衛戦線の話じゃなくて、三男ですよ。これ、会場内で最も困った相手じゃないですか?」

「兄上達よりは困らない」


 それもそうか。

 確かに、リシュターク兄弟が実弟に気付かず惚れるよりどうしようもない事態はそうそうないだろう。私は深く納得した。

 あからさまな視線は向けず、視界の端にケインの姿を引っかける。にこやかに穏やかに華やかに、一歩も引かず詰め寄ってくる塊を相手に、明らかに場慣れしていないまでもそれなりにはさばけていた。

 流石サロスン家の一員だ。場慣れは数をこなさなければならないが、下地として基礎教育を受けているのならなんとかなるものである。そのための基礎を築くのが教育の役割なのだ。

 しかも、ざっと見ただけではあるが、家族仲も別段悪くないようだ。それどころか、いい部類に入るだろう。

 あれは、三男の恋路を家族総出で応援する類いと見た。

 エーレもそう思ったのだろう。視線を向ければ、美しい人の顔からはめんどくさそうな色が漏れ出している。お姉様、美しい顔が台無し……にはなってないな、なってはいないけれど新たな扉を開ける人がでたら困るのでお気をつけ遊ばせ。


「エーレ、婚約者とかいないんですか?」


 そういう存在がいれば他からの縁談は断りやすい。というか、断る以外の選択肢が存在しなくなる。相手もそれならばと引き下がるしかない。極々当たり前の反応だ。

 問題は、いても問題になる現状である。


「いると思うのか」

「いるのにあの惨状だったら、数多のアデウス国民の倫理観について深く絶望するところでした」


 よかった。よくないけどよかった。

 アデウス国民の倫理観は正常だった。ただし、現状問題となっている事態は何一つとして解決しないのでそこはまったくよくない。

 通常貴族は、十八にもなれば婚約者や許嫁の一人やふた……一人くらいはいるものだ。だが、リシュターク家ほどの大貴族の三男になれば、逆に自由なのかもしれない。何せ、婚姻による家門強化を図らずとも全く問題ない。


「申し込みは多そうですね」

「すべてラーシュ兄上に押し付けてある」


 長兄は頑張ってほしい。


「それでも零れた分はコーレ兄上に押し付けてある」


 次兄も頑張ってほしい。


「それでも俺まで来る」


 当人も頑張ってほしい。


「男女共々」


 全力で頑張ってほしい。


 顔と人がいいと大変だなぁと思いながら、口の中でとろけるお肉を舌で押しつぶす。

 視界の端に引っかけているケインが、ちらちらエーレを見ている。エーレはまったく気付いていないふりで、頑なに視線を向けようとはしない。手持ち無沙汰にならないよう新たに調達した果実水を優雅に揺らし、揺れる水面に映る光を楽しんだり、私との会話を楽しむ振りに徹していた。

 手慣れた様子に、これまでの苦労が忍ばれる。


「聖女候補の中にもいたりして」


 彼の苦労を思ってしんみりしてきたので、軽口を叩いてみる。馬鹿を言うなと冷たい視線が飛んでくる予定だったが、死んだ目が返ってきた。


「――嘘でしょう!?」


 世界ってそこまでエーレに厳しいものなのか。




「うるさい」


 私の動揺を死んだ目で一刀両断したエーレに注意され、慌てて化けの皮をかぶり直す。

 端から見れば、私達は仲良し姉妹。可愛い姉妹。決して、お互い認知と世界の厳しさでそれぞれ死にかけている聖女と神官ではない。

 いや、瀕死のエーレはともかく、私の場合認知的にはもう死んでいるので死にかけではない。死体だ。

 何はともあれ、私達は可愛い仲良し姉妹だ。……色んな意味で無理がある。

 無理があろうとやるしかないと自分に言い聞かせ、外聞だけ頑張って整えていく。そのついでに動揺も落ち着かせ、恐る恐るエーレを覗き込む。目も表情も死んでいる。美しくたおやかに微笑んでいるのに死んでいる。

 今日一日、生きた目をしていた時間のほうが短かったのではなかろうか。悲しい。

 頭の中で残っている聖女候補の顔をざっと思い浮かべる。誰だろう。話したことのない人間のほうが多い。


「えー……私、選定の儀中に話してます?」


 まさかベルナディアではあるまいな? あるまいな!?

 あまりに恐ろしすぎる予想に、私は震え上がった。頭の中で、うふふと笑うベルナディアの横にエーレを配置してみる。エーレの目が死んだ。横から離し、本来の定位置である聖女の神官としての立ち位置に配置し直す。エーレの目が死んだ。

 エーレ生存の道が見つけられない。


「選民思想が強く、同じ貴族であっても下流貴族とは口を利かない人物だ」

「あ、絶対話してないですね」


 ただでさえお近づきになりたくない聖女候補堂々の第一位を獲得しているのに、その手の思考をお持ちの方は私の存在を視界に入れることすら嫌がるだろう。

 何せ貴族平民などの選民以前の問題として、人として認められていない区画出身である。誰も石ころや生ゴミに声をかけようとは思わないであろう。流石の私も、生ゴミ相手に語りかけたことはあまりない。石ころにはわりとある。


「どういう立ち位置の女性か聞いても大丈夫ですか?」

「お前には関係ない」

「それはそうなんですけど、なんか気まずいじゃないですか」


 同じ聖女候補生の中に、唯一の味方との婚約希望者がいる自体は別段問題ない。だが、なんというかこう、実に微妙な気持ちになる。

 微妙な気持ちはそのまま顔に出たらしく、エーレはちょっと意外な顔をした。


「お前、気まずいという感性があったんだな」

「正確には、何かやらかした際の申し訳なさが倍になりそうなだなという気まずさです」

「申し訳なさを感じる感性があった事実だけは神に感謝しよう」


 誰に対しての申し訳なさかは分からないけれど、色恋沙汰に関しては他のどんな聖女業務より私にはどうしようもないものだ。人の気持ちに修正は聞かず、また責任の取りようがない。だから、できれば関わりたくない。

 そう正直に告げれば、気持ちは分かるとこれまた正直に返ってきた。


「アレッタ・ポルスト。伯爵家長女。十六歳、金髪、緑の瞳。ポルストは、上流貴族ではあるがリシュタークやサロスンには及ばない。何か一つ決定打があれば近づけるかもしれない立ち位置だ」

「なるほど。だから何が何でも縁戚狙いなんですね」

「何度もリシュタークに縁談を申し込んできたが兄上達が断り続けた結果、父娘共々偶然という名目のもと、何度も王城で擦れ違うようになった」

「恐ろしきは人の執念。さすがモテますね」

「リシュタークがな」


 料理を選ぶ振りをして人々に背を向けているので、遠慮なく会話を続ける。


「だがそもそも、お前が気まずさを感じる必要はないだろう。全く関係がない」

「いや、だって……」

「だって?」


 彩りのため付け合わされていた野菜を、フォークの先でぐりぐり抉る。

 胸がもやもやする。

 もやもやというか、ざわざわというか、うまく表現できない気持ちが溢れてきた。この気持ちが増長すれば、私の胸はどす黒く染まってしまうだろう。

 そうなる前に、私はそっと白状した。


「だって私は……………………ポルスト家及びご令嬢が何度も諦めず確保に挑戦している相手を、文字通りの意味で忙殺させかねないほどにこき使っている立場でして……」

「確かに」


 エーレは深く深く深く頷いた。


「俺がポルスト家の立場なら、極刑にしても生ぬるい」

「ですよね!?」


 申し訳なさを煮詰めると、きっとこんな色をしているだろう。そもそも、どんな鮮やかな色でも重ねていくと黒くなり、煮詰めるとどす黒く染まる。ついでに焦げる。


「うわ気まずい……絶対ポルスト家ご令嬢には近寄らないようにしよ」

「決意するまでもなく、向こうもお前に近寄らないだろう」

「いやぁ……聖女候補としての私にもエーレがついてるし、どうかなぁと」

「…………ここまでは近寄ってこなかっただろう」

「エーレが私に付いてから、その方が私に近寄る隙ありましったけ?」

「お前が負傷する度に機会は失われているな」


 これからも怪我をし続ければ厄介事からは逃げられるということか。

 ちょっと検討の余地があるなと思っていると、横から殺意が飛んできた。蘇生が早い。


「せめて他の聖女候補からは秋波を向けられないでくださいね!」

「………………」


 死去も早い。世界はエーレに厳しい。



 エーレが死んだので、蘇生まで食べておいしい見てたのしい料理達を眺める。

 そこにある果物の塔、色鮮やかで豪勢で見ても楽しいきっと食べても美味しいのだろうが、どこを取っても崩れそうなので手が出せない。こんなに美味しそうなのに! きっと絶対美味しいのに!


「…………断ろうが断るまいが、かかる手間が変わらないのはどうしてなんだ。断るが」

「常設で大惨事ですね」


 おもに、エーレだけ。

 エーレが吐いた深い溜息が、果実水の表面を薄く揺らす。神力が作りだした明かりが、薄緑の髪の上を滑り落ち、光を弾いた果実水がエーレの瞳を光と混ぜる。

 光と色が踊る様を横目で見ながら、滑らかな生地が重ねられた蒸し焼きを一口で口に放り込む。

 もっしゃもっしゃ食べながら、逐一綺麗な人が、金という最も人に集られる要素を潤沢に持っているものだから、人の世で穏便に生きるのは難しいのだろうと思う。かといって、虫や獣の世界で生きるには貧弱なので、是非とも人の世で頑張ってほしいものだ。


「どこかで辞退するか落ちるだろうと思っていたが、意外と残っている」

「神様の好みなのか、はたまたただの偶然か。でも、確かに根性ありますね。その手の思想をお持ちの方が私と一緒くたに選定の儀を受けるのは、かなりつらそうなのに」

「この後は流石に辞退するだろうが……」


 そういえば、どこかで山遊びみたいな選定の儀があったはずだ。記憶の引き出しを片っ端から開け、該当の記憶を引っ張り出す。

 枯れ葉を布団に倒木を枕に、夜空を見ながら眠った記憶が出てきた。何故?

 それを伝えれば、エーレの目が死んだ。生きている時間が短い。


「……霊峰での試練は、簡易とはいえ天幕が張られるんだがな」

「私、なんで外で寝てたんですか?」

「俺に聞くな」

「私さん。どうして外で寝てたんですか?」

「過去の自分にも聞くな」

「誰に聞けばいいんですか!?」

「過去の己が長き年月を超えて明確な答えを返してくれる逸材だと思うなら聞いてみろ」

「あ、無理ですね。どうせ虫でも探してたら疲れて、その辺で寝たんでしょう」

「その辺りが妥当な推測だな」


 過去の私への信頼が厚い。エーレからも私からも。

 そもそも、霊峰での試練があったことすらろくに覚えていなかった私が、自分の行動理由を逐一覚えているわけがない。何かしらの外的要因があったのなら、神殿側に記載が残っているはずだし、それをエーレが把握していないはずがない。だとすれば、十割私のせいであろう。


「選民としての意味で貴族であることに深い自意識を持っている人に、天幕生活はつらそうですねぇ。虫もたんまりいますし」

「食べるなよ」

「即座に切り込んでこなくても食べませんよ! 山ですし」

「山だと食べないのか?」

「基本的に虫以外のほうがお腹に溜まるんですよ。山には他にいっぱい食べる物ありますから、そっち優先ですね。木の実とか葉っぱとか木とか根っことか土とか苔とか、捕まえられそうなら魚とか獣も。茸はなぁ、うっかりすると死ぬんで最終手段ですね。霊峰なら水が豊富なんで、とりあえずなんとかなって嬉しいです」


 山に放逐してくれたら、とりあえずは生きていけるだろう。逆に町中のほうが食べ物は少ない。何せ食べられる物は腐りやすい。腐敗物は人の営みの中で放置されないのだ。腐敗は疫病の元である。

 だから、スラムがあるあの区画は、本当に人の営みから隔絶された世界なのだ。人が流したゴミが辿り着く場所。腐敗物が蠢く場所。命があろうがなかろうが、誰もが亡者のように生きる場所。



「選民ですかぁ」


 山のように詰まれたみずみずしい果物を、会場内の人々は見向きもしない。夜会が始まって然程時間の経っていない現在、料理の前に立っている人間自体ほとんどいなかった。

 飲み物は会場内に配置された使用人達から受け取れる。ここにいる人間達に必要なのは、言葉を紡ぐための喉を潤す飲料と、手の位置を決めるためのグラスだけだ。

 食べなくても生きていける人間など存在しない。だが、いま食べなくても生きていける人間は多数存在する。そうでない存在のほうが、この国では少ない。

 夜の明かりも、好みで変化をつける料理も、冬の暖も、吐き戻さなくても問題ない最初から食料として流通している食べ物も。

 見向きもせず得られる者と、死に物狂いでしがみついても得られない物。

 選民思想。選ばれた人間を作り出す思想。上下を作り出したがる人間の癖が形となった思想。

 特別を作りたがる、選ばれたがる思考が形にした、肉の選別。

 ふっと意識が宙を切った。唇の端が吊り上がると同時に、エーレの目が見開かれていく。


「人なぞ所詮、意思あるだけの肉塊だ」


 意識はここにあるのに、身体の制御が効かない。末端まで意思が通らず、皿が滑り落ちていく様がやけにゆっくりと見える。砕け散る皿の末路を見届けることなく、私の瞳は呆然と私を見つめるエーレを捉えていた。


「随分と愉快な思考を身につけたものだ。ただの肉塊如きが選ぶ立場にあるつもりとは。滑稽も過ぎれば哀れになるな」


 周囲の喧噪は遠く、思考が鈍る。驚愕も動揺も湧き上がらず、自身の肉すら遙か遠い。


「神でもあるまいに」


 私の声が、私の思考を通さず勝手に音を紡ぐ。その音を唯一聞いた人は、見開いた目をそのままに薄く唇を開く。呼吸と見紛うように、溺れるように、喘ぐような音を紡ぐ。


 マリヴェル


 掠れた音で紡がれた名が耳に届くと同時に、私に私が帰された。

 何の前触れもなく返された身体は自重をうまく分散できない。頭の重さが、身体の向きが把握できず、ぐらりと身体と意識がぶれる。

 咄嗟に伸ばされた手が、砕け散った皿に見向きもせず私の身体を抱き留めた。たたらも踏んだ。ちょっと、連続ダンスの負担が大きすぎたようだ。

 よろめきながら、互いのドレスと髪に埋もれるようにして表情と口元を隠す。


「うわ……息するように入り込まれる」

「不調は」

「今のところは特に。急に身体を返されて、力を入れそびれただけです」


 皿を落とした私達へ、好機と心配の視線が向けられる。凝視してもいいという大義名分を得た人々の視線は容赦がない。


「……すみません、意図せぬ形で目立ちました」

「大丈夫だ」


 間髪入れず返ってきた返答に苦笑する。こういうときは怒らないのだ。

 昔から、いつも。









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