5聖
皆で協力して列を守り始め、しばらく経った。そこでようやく、少しだけ事態が進展した。
「それでは、名を」
列が詰まり、受付まで辿り着けなくなった。ならば「受付が動けばいいんだな!」という斬新な発想により、受付が移動してきた。
受付が終わらねば参加者の全体数が把握できないので合理的ではあるが、別に受付け用に設置されたテントごと移動してこなくていいと思うのだ。人の頭がひしめき合う空間を縫いながら、ひょこひょこ移動するテント。ここの責任者、融通が利くのか利かないのかいまいち読めない。
目の前の神官は、エーレが着ていた衣装より飾りが少ない。この量だと、恐らく四級神官だ。
神官は、特級から五級にまで分けられる。振り分け方は、勤続年数、神力の強弱、働きっぷりなど様々だが、基本的に数が少ないほど上の位となる。神兵はまたちょっと分け方が違う。
「もし?」
答えが遅れた私へ不思議そうに声をかけた神官は知らぬ顔だ。それでも懐かしい匂いがする。もみくちゃになってなお整えられた身形から香る、神殿の香。
残念ながら私はこの人達の顔と名前を知らない。だが、この人達は私を知っていただろう。
ここで聖女の力を使えばどうなるだろう。その考えはいつだってちらりと頭を過るが、結局は最初と同じ結論に至ってしまう。聖女の力とて無限ではない。一日何百人にも使える無限の万能薬ではないのだ。ここで数人の神官に使って、それでどうなるというのだ。彼らが私を思い出し、それで?
消されないと、言い切れるだろうか。
人々から当代聖女の記憶を消し去った存在が、思い出した少数に手を出さない保証はどこにもない。それが再びの忘却であるのならまだいい。消される対象が命とならない保証がない限り、力を使う相手を選ぶ必要がある。権力と実力を兼ね備えた人。即ち、神殿にいる高位の神官達。また王城の面子。
たとえば、神官長、とか。
「もしやご気分でも?」
神官達は、テントの下に収まっている女達全員の受付を纏めて済ませていく。なるほど、仕切りの代わりにしているらしい。
「すみません。名はマリヴェル。姓はありません。居住区もありません」
この間まではあったし、姓も得る予定となっていた。残念無念この上ない。
「と、申しますと」
「スラムです」
ぎょっとした顔をしたのは周囲にいた女性達だけで、神官達は大仰な反応を見せない。王都では特別珍しい話でもないのだ。だが疑問はあるのだろう。神官は私の格好を上から下までさっと見下ろした。
「失礼ですが、スラムにいたとはお見受けできませんが?」
「親切な方が衣服を提供してくださったのです。身支度を整える場も提供してくださいました。心より感謝しております。どうかあの方に、神のご加護がありますように」
ついでに私にもありますように。
にこりと微笑みながら告げれば、神官達はそれ以上問うてはこなかった。私達の会話が聞こえていたのか、他の列の女達がこちらを見てひそひそと何事か言葉を交わし合っている。そこには、苦笑とも嘲笑ともとれぬ色が混じっていた。
スラムにいたという女が、風呂に入り、髪を解かし、男物の服を着ている。それも、仕立てのいい服だ。貴族の男がスラムにいた女に気紛れを起こしたと解釈されたのだろう。貴族の道楽は幅広いが、人は己の知識にある範囲でしか思考を回せない生き物だ。
どう思われようが構わない。ここアデウス国において、聖女に必要なのは聖なる心を持った女ではない。神により選ばれた。その事実だけが必要なのだから、貴族の道楽でこの場に現れた女でも、他者を自らの妄想で嘲笑する女でも、誰だって構わない。
だから神官は何一つ気にせず作業を続けている。
「では、こちらに親指を当ててください」
神力が籠もった紙に指をつければ、じわりと熱が灯った。同時に紙へ指紋が刻まれる。神殿の紋様が入った紙に入った私の指紋。そこを機転に、神官は力を入れた。ぱきんと飴細工が割れるような音がし、紙だった物は透明な板へと姿を変えた。
「あなたが聖女ではないと判定が出るまでの間、この割り札があなたの証明書となります。こちらを提示すれば、宿泊や食事代は無料となります。残念ながら通過できなかった場合、自動的に効力を失い、本体は消滅します。詳細はこちらに印字されていますので後ほどお読みください。では」
必要情報だけ渡し、神官達はさっさとテントごと移動した。なんともさっぱりとした対応だ。
さっきの神官達と話したことはなかったが、私が聖女だったときは、聖女様聖女様と大勢の神官が話しかけてくれたものだ。あまり話したことのない神官も、用事でしばらく一緒にいればすぐに仲良くなれたから、少し寂しい。
最初はとても気を使ってくれるが、最終的には私の頭を肘置きにしてお茶を飲むくらい仲良くなれるのだ。ああ、神官達が私を呼ぶ声が懐かしい。
「聖女様」
「聖女様聖女様」
「聖女様?」
「聖女様……」
「聖女様っ」
「聖女様!」
「おのれ聖女――!」
何故みんな、呼び方の変転とそこに籠もる熱が同じなのか。
神官による聖女の呼び方教育なる勉強会でもあるのだろうか。昔から続く制度とは、納得のいくものから、「何故この手段を選んだ……?」と心の底から不思議に思うものまでよりどりみどりなので、聖女の呼び方もそういう類いなのかもしれない。
懐かしい思い出を辿っている間にもどんどん時は過ぎていく。空の色は、赤より藍に比重を傾けている。元気なのは夕食を売りさばいている面子だけで、当事者である女性達は皆ぐったりしていた。
だが、流石に列は進み始めた。私は自薦の選定方法を知らないが、どうやら複数人一斉に行うらしく動くときは一気に進んだ。
それでも相当時間がかかる。エーレも言っていた、一日や二日では済まないと。いつもでさえその混雑なのだから、今回はさらに待つ覚悟がいるだろう。幸い、私は先頭に並んでいるほうだ。
そんなことを考えていると、突如鈴の音が響き渡った。
「それでは、今から番号札配布を開始します」
神官達が声を張り上げる。一斉に視線が集まった。動きだけが発した音も、この人数だと大歓声と変わらない大音量となる。サボり中に見た兵士の行軍訓練と似た音がしたなと思った。
「渡された方は、明日の朝六時よりここに番号順で並んでください。番号が大きい方は午後からでも結構ですが、呼ばれた際その場にいなければ最後尾に並んで頂きます」
列に並んだまま数日を過ごさなくてもいいよう、どう足掻いても今日中には不可能と判断された人へ番号札が渡され始めた。彼女達は一旦帰るか宿に泊まりなりして、また明日並ぶのだ。
幸いというべきか、私は番号札を渡されなかった。私の真後ろの人から渡され始めたのだ。後ろの人は渡された瞬間、がっかりしたようなほっとしたような顔をした後、私を見て哀れみの表情を浮かべた。
私も、虚ろな目で前を向いた。まだまだ先が見えない行列が続く。見えるものは人の頭人の頭人の頭紫毛アデウス牛の看板。これは、徹夜も覚悟しなければなるまい。眠気覚ましに、どこの牛の肉とも知れぬ串焼きを食む手段も視野に入れた。
番号札を渡された人から、ぞろぞろと移動が始まる。同時に前がごそっと動いた。今まで何度か繰り返した動きをほぼ反射で行う。詰める距離は変わらない。一度につき大体百人分の距離が動いている。動く時間は、大体一時間に一回だ。
番号札を握りしめた女達は連れを探して散っていく。先に帰った相手もいれば、まだこの場にいる相手もいるようだ。
どんどん人が減っていけば、ようやくまともに周囲を見ることができた。不安そうに周囲を見回している人もいれば、合流できてほっとしている人もいる。疲れ切った顔を隠そうとしない人もいれば、疲れを見せず笑っている人もいる。
まっすぐ前を向いて歩いていく子どももいた。比較的いい服を着ている人が多い中、清潔とは言い難い服を着ている。他にも、そういう人はいた。そういう人達は、まっすぐ前を向き、誰かを探す素振りも見せず去る。不安も期待も浮かべぬ瞳に決意だけを光らせ、暮れゆく世界に消えていくのだ。
それは、これしかない女達だった。これしか、今の生活から逃れるすべがない。そういう人間達だとすぐに分かる。何一つとして寄る辺のない、己が身一つが命を繋げるすべであり証明。それ以外何もない。子どもも大人もない。多くの人間が当然に持ち合わせている後ろ盾を、血反吐を吐きながら、爪が剥がれてもしがみつかなければ得られない。そんな女達。
スラムで見かけなかった顔も多い。王都以外から集まったのだろう。そして、何かに繋げられなければ新たにスラムの方角へ散る住人となる。そこには男も女もない。何もない。己が身一つしか持ち得ず、その身は多くの誰かより蔑ろにされる生。
ひどく馴染みのある感覚をまとったまま、消えていく背を見送る。様々な環境へ散っていく背を見送りながら、短くなった髪をいじる。彼女達を救うのは神ではなく人の仕事であり、掬いきれない罪は国のものだ。
座っているだけなのにやけに疲れた足首を回し、たしっと地面を叩く。
聖女選定の儀はまだ始まったばかりであり、私としては始まってもいない。
「がーんばろ」
まだまだ先は長いが、進まなければ叶わない。願いとは、そういうものである。
そこからどれくらいの時間が過ぎただろう。日の傾き具合で判断できなくなって久しい。太陽はとっくの昔に沈み、商魂たくましい商売人達でさえ大半が撤収を始め、明日の仕込みに帰っていった。
また一つ、ごそっと列が進んだ。ここまでくればようやく列の先頭が見え始めた。先頭から大体百人ほどの女達が森の中へ消えていく。女達は帰ってこないので、どのくらい通過者が出ているのかさっぱりだ。
森の中で何が起こっているかも分からない。ただ、ほんのり明かりが見えているので真っ暗闇を歩かされるわけではないようだ。
「ぅばぁー……」
猛烈に面倒くさい会議前の資料作成、読み込み、読み合わせで、関係者と半月近くほぼ徹夜で詰めていたときと似た呻き声が漏れた。
疲れた。何もしてないのに疲れた。考えるだけなのはどうにも性に合わない。とりあえずやってみてから後悔するほうが性に合う。やりながら考えるので、徹夜してでも今すぐ全試練駆け抜けたい。
「寝ときゃよかった……」
どうして律儀に起きたまま待ってしまったんだ。起きているように見せかけてぐっすり眠るのは大得意だったのに。どうやら、自分でも思った以上に緊張していたようだ。
周りを見れば、最初は緊張していたはずの人々が船を漕いでいる。一応、自薦枠も他薦枠も難易度としては変わらない。そもそも選ぶのは神であって人ではないので、人の意思で選定の儀をどうのこうのと弄れないのだ。だが、疲労が溜まるほど不利になる気がしてしまう。
他薦枠ではどんなことをやったかなと、記憶を絞り出す。最近考えることが多すぎて、それ以外はからっからになった脳みそを根性で絞り、かろうじて抽出した。
たしか、中庭にどでんと設置された人の背丈ほどある神玉周りを一周し、光ったら合格、だった、はず。いま思えば、あの神玉には試練用の特殊な神力が注がれていたのだろう。そうでもなければ、神力を持ち得ない私が光らせられるはずがない。現に、普段よじ登ったり抱きついたりしても光った例しがなかった。その現場を押さえられた際は、脳天粉砕拳により星が瞬いた。痛かった。
流れ作業で延々と進み続ける列。貴族が多く、噎せ返る香水の香りとわさわさしたスカートに挟まれる私。飽きて逃亡をはかる私。その首根っこを一秒で掴み上げる神官長。服を脱ぎ捨て離脱をはかる私。眉間に山脈を刻み脳天粉砕拳を炸裂する神官長。
懐かしめばいいのか忘れたままでいたほうがよかったのか悩む思い出が蘇ってしまった。
神官長、その節は大変ご迷惑をおかけしました。その後も多大なるご迷惑をおかけしました。これからも甚大なるご迷惑をおかけするため邁進して参りますので、どうぞよろしくお願いします!
眠らない都と呼ばれる王都でさえほとんどの明かりが落ちた頃、ようやく私の番が来た。とっくに日は変わっているだろう。残っていたのは私を含め二百名ほどいたが、全員移動の指示が出たので、少しでも数を増やそうと試行錯誤しているのだろう。この回がうまくいけば明日は最初からこの人数を通すはずだ。
そうすれば今日の倍ははける。その代わり、担当の神官達は今日の倍頑張らねばならない。神殿から増援は避けられない。
頑張れ、明日の神官達。第一の試練を越えた当代聖女が、その頃にはたぶん到達できているであろうベッドの中から応援しています!
立ち上がり、尻をぱたぱた叩いて汚れを落とす。折り曲げていた裾に入っていた小石も取り出した。なんとなく摘まんだ指先で転がした小石は尖っていて、ちくちく肌を刺してくる。もう少し力を篭めれば肉を突き破るだろう。靴があるってすばらしいなと、思う。
ぞろぞろ移動し、森の前に並ぶ。真っ暗な森はひどく静かだ。遠くから見えていた薄い明かりは、どうやら森の入り口からではなく途中から設置されているらしい。
待ちくたびれた人々は疲れを隠せていなかったが、その顔には緊張と興奮、そして期待と不安が満ちていた。私もわくわくしてきた。何をするか分からないが、とにかく何かやってるほうがいい。しかも、よく考えたら夜の森に入れるのだ。いつもなら「夜の森で遊びたいです!」「聖女の大馬鹿野郎様、とっとと部屋で寝ろ」という、悲しいほど短い遣り取りで一蹴されていたのに、今日は合法的に夜の森に入れる。こんなに素晴らしいことがあるだろうか。
「大変お待たせ致しました。それでは皆様、第十三代聖女選定の儀、第一の試練を開始します。内容は簡単です。森に入り、道を進み、そこで待つ神官の元に辿り着いてください。以上です」
人々がざわめく。さきほどあった様々な感情が不安一色に変わっていく。ちらちらと神官達へ視線を向けたり、互いに顔を見合わせたりするも、誰も口に出さない。
神官達はざわめきが収まるまで待つ心づもりのようだ。先に進まない気配を察知。とりあえず手を上げてみた。神官が、揃えた指で私を示す。
「はい、どうぞ」
「キケンナンジャナイデスカー。ヒルマニシレンヲウケタヒトタチ、ズルゥイ」
「森は神力で満たしてあり、通常時の森と違い生き物はおらず、また昼も夜も周囲の光量は変わりません。昼もこの暗さで行っています。聖女の資格がない人間は、道から逸れます。そうなった方々は神官が回収します。他にご質問がある方は」
説明し慣れた様子で必要事項だけが語られた。その後、誰も手を上げないことを確認し、神官達は静かに胸元へ手をつけた。
王より浅く、神より浅い、簡易の礼だ。
この礼を受けたのは久しぶりだ。みんな気楽に接してくれたが、礼をする機会があれば、必ず神より浅く、王より深く、頭を下げた。
私の大切な人達が、私を聖女として扱ってくれた。認めてくれた。だからこそ私は、何が何でも元に戻らなくてはならない。神が定めた場であっても、そこに座り続けようと決めたのは皆がいたからだ。
こんなところで待ち疲れを起こし、挫けるわけにはいかない。とっくにやる気満々だったのに、行列に阻まれ不完全燃焼となってしまったこの気合いで、今なら空さえ飛べそうだ。
神よ、世界よ、刮目せよ! これが、忘却聖女帰還物語の第一歩だ!
ぐっと拳を握ったと同時に、背後で小さな悲鳴が聞こえた。ざわめきが漣のように広がっていく。ついでに、なんか羽音がした気がするが、すぐに羽音は消えたので気のせいだろう。
しかしなんとなく気になり後ろを振り向けば、背後にいた人々が私を指さしていた。首をねじ切らんばかりに捻って見た私の背には、空を飛ぶ輝かしい羽の代わりに巨大な蜂が止まっていた。
……なんで?
「それでは皆様に、神のご加護がございますことを」
「うわ蜂っ!」
神官の祝援を大声でかき消した私は、全速力で夜の森へと突っ込んだ。
背後から女性達の悲鳴にも似た驚きの声と、「ちょっ……一番で通過しても特典などは特にございませんからねぇ!?」という、おすましが取れた神官達の絶叫が聞こえてきた。それらを気にする余裕もなく、夜の空気を思いっきり吸い込む。
「私の神様のご加護、なんかちょっと独創的すぎませんかぁー!?」
どれだけ絶叫しても、神のご加護は私の背から取り除かれなかった。しかし私は当代聖女。だからこそ分かることがある。これ、神のご加護じゃなくてただの不運だ。
そして誰か聞いてほしい。
ほぼ丸一日行列に並んで挑んだ第一の試練、蜂と一緒に五分で終わった。