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 人間の手は可動域が多いので、たくさんの表現が可能だ。大ぶりに動かさずとも相手に意図を伝えられる便利な部位である。

 忘却する前の王子と決めていた合図を、馬車の中で確認し合う。元々王子が徹夜で決めてきた合図だったからか、王子は短い間でほぼ完璧に仕上げていく。

 そしてエーレは、楽しげに覚えていく王子より真剣に覚えていた。


「基本的に私と行動するんなら、別にエーレは覚えなくて大丈夫ですよ?」


 私が覚えているならそれで済む問題だから、考えなければならない事柄が多いエーレは、頭の容量を空けておいたほうがいいと思うのだ。エーレと私は、当代聖女周りだけに通ずる合図を持っている。声に出せない遣り取りは、こっちで充分だろう。

 しかしエーレは私の手の動きを再度要求した。私の手が燃えそうなほど凝視している。


「この暗号を記憶する労力と、記憶しない場合に生じる労力は天秤にかけるまでもない」

「と言いますと?」


 美しい瞳が、睫の隙間から私を睨んだ。


「ルウィード殿下とお前の脱走経歴を一から綴るか?」

「やめときましょうか」

「そうだな」


 険しかった瞳がするりと解けた。すんなり流してくれたのは、機嫌がいいからだろうか。


「ちなみに、あと何人との暗号を持っている?」


 取引であった。

 さっきこちらの言い分を飲んでもらったので、エーレの要求を弾くわけにもいかない。私はエーレの要求を呑み、記憶からそれぞれの暗号を引っ張り出して整理する。


「えーと、神官、神兵、神殿共通のものと、単語のみなど簡単なのはおいとくとして、明確な遣り取りが出来るほどのは、神官長とココとヴァレトリと料理長と所長とペールとマティルダと――……全員言わなきゃ駄目ですか?」

「……想定内であり何一つ期待していなかったのに、絶望したのは何故だろうな」


 期待されていないのに失望されるよりはいい評価だが、エーレの瞳は死んでいた。無表情のほうが幾分ましなのかもしれないが、この顔も神殿外から見れば無表情に分類されるのだろうなとは思う。エーレは強く生きてほしい。


「……いっそ神官長の物以外、全て燃やせばいいのか?」

「暗号という概念を燃やし尽くすなんて神様みたいな所業は勘弁してください」


 そんなことできるわけがないと思えないところが、神殿の秘蔵っこエーレである。その炎が嘗めるだけで鉄をも溶かすと言われる彼の実力は伊達じゃない。


「私が考えたのは一個もないんですけどね。だからこそなんですけど、皆それぞれ個性が出ていて面白いんです。サヴァスも暗号考えてきてくれたんですけど、サヴァス自身が覚えられなくてお蔵入りになりました。あと、神官長が用意してくれたのは私がねだったようなものです。読んでいた本に出てきて、これ便利そうですねって言ったのを覚えてくれていたみたいで」


 神官長が教えてくれた秘密の言語は、訳が分からないほど温かくて熱いほどで、私はその場で鼻血を出した。目眩がするほどの熱は、弾けんばかりの喜びや幸福と呼ばれる類いの感情だったと、後で知った。




 秘密でも何でもない、アデウス共通語である文字を習った時は、まだよく分からなかった。文字を教えようと言ってくれた神官長に、私は首を傾げるだけだった。

 これがじをおぼえていいのかと、当時の私は問うた。

 じとは、かれらのように、にんげんとしていきることがゆるされたそんざいだけにあたえられたおんけいである。

 そう思っていたから、私に教えようとする彼がとても不思議だったのだ。

 うすぎたないごみが、きたならしいいぬっころが、みじめなしにぞこないが、しゃかいのがいちゅうが、習っていいものではない。

 必要がないだけではない。文字や勉学は人間だけが持つ特権だから、人間として認められない存在が手にすることは許されないのだと。

 うまれて生きた四年間でそう学んだ私の言葉に、神官長は瞬き一つの間だけ、酷く痛みを覚えた色を瞳に浮かべた。しかし瞬きを終えて開いた視界には、穏やかに微笑みを浮かべた顔だけが残っていた。

 その表情が不思議で、もう一度首を傾げた。

 これが字を知って許されるのかと問うた私の頭を、神官長は大きな手でゆっくり撫でた。


『当たり前だ。字とは理解するためにある。そして……人が人へ伝えるためにあるのだから』


 私の頭を撫でる神官長の手は、蜘蛛の巣が頬を滑るほどに柔らかかった。





 そうして私が初めて書いた字は、神官長が与えてくれたマリヴェルという名でも、その日の朝に食べたたべものの名前でもなく、ディーク・クラウディオーツその人の名だった。

 書きたいとねだった私に、嫌な顔一つせずに教えてくれた。ぐちゃぐちゃの、泥水とゴミ山みたいな線で、紙までぐしゃぐしゃに破きながら書かれてしまった己の名を見ても怒らなかった神官長を見て、こういう人が当たり前に生きていける世界とはどういうものなのだろうと、思った。

 そして、この人は、昨日は生きていた存在が隣で腐り始めるような末期を迎えないといいなと、思ったのだ。


 もう随分昔のことなのに、鮮明に覚えている記憶を静かに沈める。いま丁寧に開いてしまっては、傷になる。あの人との日々を傷にはしたくない。最後の悪あがきだとは分かっていても、これは私の意地だ。

 ぱっと意識を散らし、今へと戻す。


「ちなみに一番覚えるのが大変だったのはヴァレトリの暗号です」

「……だろうな」


 一拍空けた後、エーレは深く同意した。

 ヴァレトリの暗号は、指の角度によって内容が激しく変わる。行けと止めろの違いがほんの僅かな角度しかないのはどうかと思うのだ。彼曰く、ややこしければややこしいほど、他者に読み解かれる心配がないとのことだ。他者に読み解かれる心配より、私とヴァレトリの間で読み解けない心配のほうが先である。


「当代聖女の世話係を束ねるマティルダはまだ分かるが、ペールは何故だ? ペールは四級神官で当代聖女との関わる仕事はほとんどなかったはずだが」

「ああ、ペールとは読書仲間で、いつも読んだ本の感想を言い合ってるんです」


 ペールは大層な読書家で、本の感想を言い合うのが大好きな人だ。少し人見知りをする性格で、なかなか感想を語れる仲間ができないと嘆いていたところに、逃走中の私とばったり出くわしたのがきっかけだ。

 ペールは確かに人見知りではあるのだが、一度慣れてしまうと後は早い。しゃべり出したら止まらない。今まで溜まりに溜まっていたと思わしき本の感想が、ほとんど息継ぎなく語られていく様子は何度見ても飽きなかった。

 ちなみに、読んだことがない本の感想を一通り聞いてからその本を読んでみると、彼が説明した登場人物の関係性は何一つ繋がっていないことが三十回ほどあった。面白かった。


「ペールの解釈面白いんですよ。同じ頁にいた登場人物は恋愛感情があること前提で話すんで、私が読んだ物語と全く違う解釈になるんです。だから新しい物語をもう一冊読んだ気持ちになれて楽しいんですよ。最近楽しみにしているのは死者が蘇って人を襲うという内容なんですけど……私まだ読めていないんですよね」


 今度医務室送りになったら差し入れてもらえないだろうか。お金は、私の貯金を回収できるまでツケでお願いしたい。


「……一から暗号を作る必要性はあったのか?」

「ペール曰く、『当代聖女との身分差えっぐいけど新刊の感想語りたい』とのことで、誰にも見られない場所が空いていなかった場合は、距離がある場所でも話せるようにと作ってきたので覚えました。ただペールは、感想を話していると徐々に興奮する質らしく、だんだん手の動きが凄まじく高速になるので、凝視していないと見逃します」


 エーレは面倒事が起こったかのような溜息を吐いた。


「うっかり見逃してしまった時、悪の総帥であり推定百キロを越えた巨漢男性の話題が瞬き一つの間に終わっていて、主人公が片思いをする可愛らしい女性の話題に移行していたと気付かないまま最後まで話を聞いていました」


 月が美しい夜、橋の欄干で主人公と踊る巨漢男性。必ず生きて帰るからと主人公と指切りする巨漢男性。命の危機に瀕した主人公を愛の口づけで蘇らせる悪の総帥。私はというと途中で勘違いに気付くこともなく、新しい類いの物語だなぁと思っていた。

 しみじみ語る私の前には、酷い頭痛を覚えたかのようなエーレが額を押さえている。


「……一時期、当代聖女は自分で作った暗号を渡せば必ず覚えてくれるため、当代聖女と秘密を持てるというどうしようもなくくだらない癖に大迷惑な噂が流行したが事実か?」

「へぇー。道理で一時期、会う人会う人が暗号持ってきたわけです」


 様々な形態の暗号を大量に覚えたので、もしかすると私は、暗号解読が得意になったかもしれない。ちょっとわくわくしながらエーレに伝えると、虚無の瞳が返ってきた。理由はいまいち分からなかったが、とりあえず彼の仕事を増やしたことは分かった。


「ああでも、他にも難しいのがあったような……」

「ヴァレトリと並ぶほどに? それはさぞや扱いづらい人間との暗号だな……」


 王城にいる人間であればエーレが相手をすることになる。心底嫌そうな顔をしたエーレに、私は曖昧に頷いた。

 ヴァレトリの暗号から意地の悪さを抜き出して、生真面目で神経質な緻密さを混ぜ込んだような暗号があったような気がする。

 しかし、ペールの話をしていたら、ますます本の続きが読みたくなってきた。

 本当はペールが自分の分と一緒に私の分も買ってくれる手筈となっていたが、今はどうなっているのだろう。急に四冊も手元に届いて驚いていないだろうか。ちなみに三冊はペールの分である。

 確か、読む用と飾る用と保存する用だったはずだ。他の人にお勧めする際はその都度買っているという。かくいう私も、ペールから一巻だけでも読んでほしいと渡されたのがきっかけだ。

 そういえば、本で思い出した。

 私は、何が面白いのか、機嫌がよさそうに私とエーレを見ている王子へ視線を向けた。


「王子、十二という括りに心当たりはありませんか?」

「十二?」


 突如話を振られても、王子は特に動揺は示さない。のんびりと足を組み直し、向かって左の壁に肩から寄りかかる。


「とある謎の存在から、本来十三番目の聖女はあり得なかったと言われました。真偽はともかく、意図を探っています」


 こちらを戸惑わせたいのならば、情報が少なすぎる。意味が分からず、取るに足らないと切り捨てられてもおかしくない程度の情報を、全面的に信じるつもりはない。だが、捨て置くには状況が異質すぎるのだ。


「ふむ、十二とな。これはまた、答えの多いものを。十二で括られた存在は多い故に、な」


 王子の長い指は、自身の膝を不規則に打っている。音程を取るようでいて、その実何の意味もない動作だ。王子は時々、思考を泳ぐ際、全く関係のない動作を行う。集中するためでも、ましては飽きているわけでもない。真意を探ろうとする他者を混乱させるために始めた、癖だ。


「余から蘊蓄を聞きたいわけでもあるまい。どの程度の情報を欲する、聖女よ」

「私では立ち入りが許可されていない、天上の情報を」


 王子の瞳が僅かに歪む。不快さに顔を歪めたのではない。面白がった顔を無意識にとどめたのだ。




 天上の情報。それはその名自体が閉ざされた存在だ。王城に勤めている者でも、この名を知っている者は数少ない。簡単に言えば、王家だけが所有する秘匿情報だが、王族でさえ、知らされる者とそれ以外に分かれる。


 アデウスは人が作った国だ。建国された国ではない。国が在り、その後神殿が作られた。現在王家の威信は先代聖女により揺らいでいるが、王家は神殿より深い歴史を持つ。開国当時の情報も、王家のみが所有する箇所がある。

 国が生まれたのだ。綺麗事だけでは済まない。人も獣も、血を撒き散らしながら生まれてくる。国という巨大な生き物が生まれたのだ。そこに赤が存在しないはずはない。


 それが人の所業であろうとなかろうと、赤を撒き散らした存在が命であろうとなかろうと。どこかに必ず傷が生まれる。大多数の人間には受け入れられないもの。受け入れられない可能性があるもの。しかし時の流れに埋没させてはならないもの。後世の人間が、王族が、知っておかねばならぬもの。

 それが、天上の情報だ。


「余は、そなたにそこまで与えたか」


 苦笑か、嫌悪か、それとも安堵か。

 王子が浮かべた表情からは読み取れない。本人が知覚できない存在を、他者が正確に理解できるはずはなく、またその必要もない。


「王子は、望まぬ者には与えすぎる人ですよね」

「はは、そのようだ」


 膝上で揺らす指とは反対の手がゆっくりと上がっていく。折り曲げた人差し指で自身の下唇を潰した後、ぱっと手が離される。


「よかろう。余が知らぬ余を知らしめた、情報提供への褒美としよう。この件、余が請け負った。該当する情報が存在しなかった場合を除き、そなたが望む情報を与えよう」

「ありがとうございます。それ以外の可能性はこっちで当たるので、王子はそこをお願いします」


 ほっと胸を撫で下ろしながら、期待を持つ。流石に天上の情報が保管されている書庫室に入ったことはないが、王子曰く『ずらりと陰気な事実が並ぶ書庫』だという。陰気な事実がそれなりの量並ぶ書庫室に、私が頼んだ謎の答えが無いことを確認してほしい。

 天上の情報に望む答えがなければよし。あれば、厄介なことになる。

 だって、神殿ができてからの情報は神殿に管理されているのだ。神殿が持ち得ぬ情報は、神殿が設立される前。そんな古い時代の情報が必要になるならば、人とは思えないといわざるを得ない力で忘却を巻き起こした此度の首謀者、本当に人ではない可能性が出てきてしまう。


 そうしたら、神殿に出てきてもらわなければならなくなるじゃないか。

 私の顔は笑顔で固定されているのに、遊ぶように組んだ掌から力を抜くことができない。

 もしもそんな大事となったのなら、力として、支えとしての存在はもちろん、立場としても、神殿を通さねばならなくなる。そうでなければ、解決後、神殿が痛手を負う。

 エーレは神殿も動いているといった。だが、多くの人は自分だけで手一杯だから。自分が見えている範囲だけが世界だから。目に見えない場所でどれだけの対策が為されていようと、溢れんばかりの犠牲が出ようと、見えていない場所での出来事は無と一緒だ。


 神殿がその名を掲げ、目に見える行動を起こしていないと、神殿は民意を失う。その隙を、王城は見逃さないだろう。

 現在、王城から刮げ取るように抱え込んだ神殿の民意は、すべて先代聖女が築き上げたものだ。先代聖女が死去した現状を、民はどこまで待てるだろうか。

 少々民意が揺らごうと、王城からの攻撃を受けようと、神官長が纏め上げる神殿はびくともしないだろう。当たり前だ。あの人達はとても優秀で賢明で、道理を知る人達だから。人望厚く、人脈もあり、実力もある。多少のことでは揺らがない。

 けれど、だからといって傷を与えていい理由にはならない。あえて苦労させる道を選ばせる必要もない。それにこの事件では、真相と被害次第では少々の傷では済まなくなる。

 罪を犯すなら私だけがいい。罰を受けるなら私だけがいい。

 私の世界が私だけならば。

 そうであるのなら、恐ろしいものなど何一つないというのに。なのに、明日をも知れぬ日々よりも、明日が当たり前に思えていた奇跡のような日々のほうが、世界は怖いものだらけだった。恐ろしいものだらけの世界があんなにも温かだなんて、知らなかったのだ。

 だから、私の世界が私だけならばよかったと。私には、どうしたって思えなかった。











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