48聖
地上で溺れる王子はおいておくつもりだったが、流石に今日は腹筋を鍛えすぎたのだろう。引き攣りながら無理矢理笑いを引っ込めた王子は、予想より早く復活した。
未だ目尻に残る涙を拭いつつ、軽く咳払いをして呼吸を整える。
「まあ、何だ。そなたら、とりあえず一人は男を挟んでおいたほうがいいな……余か? 余も変装すべきか?」
確かに着飾ったエーレに群がる人々を、私一人でさばくのは大変だなと、結い直されている頭を動かさないよう心の中で頷く。聖女の義務回避、失敗です。
「王子、私は男ですが」
私に身体を支えられつつ、両手を上げて私の髪を結うエーレはちらりと王子を見た。若干気安くするよう頼まれてから、態度の変化が早い。順応。素晴らしい言葉だ。そしてエーレは順応が早い。エーレに限らず、神殿の人々はどんな環境でもわりと簡単に順応してしまう。不思議だ。
私が神殿に来たばかりの頃は、予定と違う事態が起こったら大慌てだったのに、今では食べるものがなければ狩ればいいのだと即座に対応してしまうのである。
「そうなんだがなぁ。何にせよ、今日は男ではないだろう」
「…………確かに」
エーレさん、私の髪をねじ切ろうとするの止めて頂いても構いませんか? 確かに掴んでいるのは鬘ですが、その鬘は地毛に引っ付いているので地毛ごとすっぽ抜けます。
「まあ、何とかなりますよ。今日は自由にできますし、お姉様のことは私がお守りします!」
そう、今日の私は美しい姉を持つ田舎貴族姉妹の妹だ。多少の無礼は見逃される。何せ、サロスン家と言えば王妃のご実家。そこで定期的に開かれている巨大な夜会だ。
出席できれば一生の栄誉とまで言われる夜会には、当然名だたる貴族達が集まる。だが、中には弱小貴族だって現れるのだ。名だたる貴族の紹介という形だ。栄誉ある場を訪れる機会を与えてやろうというわけで、一種の慈善活動のようなものである。
その慈善枠で招待される、本来ならその場に立つことも出来ない弱小貴族の不慣れさに、いちいち目くじらを立てるほうが恥ずかしいというのが貴族の見解だ。
だから、私とエーレは今日はわりと好き放題できる。嘲笑されようが、どうせ存在しない家名だ。どことも繋がりがないから、私達以外に迷惑をかけることもない。サロスン家に侵入するためだけに作られ、終われば廃棄される、仮初めの器だ。
ところでエーレさん、私の髪に特大はげを作ろうとするの止めて頂いても構いませんか?
「安心してください。はげてもエーレのことは華麗に守ってみせますからったぁ!?」
頭皮ごといってない? 大丈夫?
エーレを支えるのを止め、自分の頭を触る。とりあえず髪はあるし、頭皮も無事のようだ。支えをなくしたエーレはすぐさま馬車の揺れに負け、私の両肩に肘を置いて体勢を整えた。
「あ、そのままぐりぐりしてもらっていいですか? 肩こりに効きそう。エーレ、手の力も弱いので揉んでもらってもあんまり効かなさそうでででででででで!」
流石に全体重かけて抉ってくるのは止めてほしい。しかし、すぐに攻撃は止まった。首を傾げて視線を上げれば、肘を押さえてそっぽを向くエーレがいた。おそらく彼の肘は自身の全体重に耐えられなかったのだろう。痛めてない? 大丈夫?
「……エーレ、会場内では私から離れないでもらっていいですか?」
「業腹だがその手の事態には慣れている。お前の助けは必要ない」
「エーレ、炎もリシュタークの名も使えないのは、子ども相手以外じゃ初めてじゃないですか?」
身元を知られるわけにはいかないからリシュタークの名は使えず、同時に炎の遣い手が少ないせいでそっちも極限まで使わない方針でいく予定だ。
エーレの視線が微妙に逸らされた。
「…………………………何とでも、なる」
「王子! 作戦変更です! 私一人で行きます!」
いくら必要な侵入とはいえ、狼の群れにダンゴムシを放り込むわけにはいかない。手も足も出ないどころかまず届かないだろう。
ダンゴムシはすっと神官の顔となった。
「お前を一人で行かせるくらいなら、俺は神官の格好でお前に張りつくぞ。神殿からあっという間にお前の存在が補足されるが、致し方ないな」
「エ、エーレのダンゴムシ!」
「お前昔から、相手を攻撃する際虫を用いるのはどうしてなんだ」
確かに、神官長に意地悪を言った男目がけて、掌いっぱいのダンゴムシを叩きつけた思い出がある。奇声を上げ、服をはたく男を前にして、神官長は珍しく顔を背けたまま無言を保っていた。笑いを堪える神官長は、稀少だったのでよく覚えている。
「手元にいっぱいあったからです。おいしくないしお腹も張らないからあまり食べませんし」
「……確かに神殿に来たばかりのお前は、虫を食べていたと聞いたな」
「あの時は、もらった分を返す方法が分からなかったので、せめて返さないといけない量を減らそうと思ったんです。ゴミ以外の物を等価を支払わないで得られるなんて夢にも思わなかったので」
まさか夢のようにおいしい物を、毎日三回どころか五回も六回ももらえるだなんて思わなかったのだ。神官長が言うには、栄養失調なのに一度に消化できる量が少なかったので、量を減らし回数を増やしたほうがよかったらしい。
当時はよく分からなかったが、彼らの行動が、どうにも今まで経験したことのない善意というものなのではとは朧気に理解できた。ならば、とりあえず暴利な金銭は請求されないだろうと考え、それなら払わなければならないのは食べた分だけだと思ったのだ。
けれど私のお腹がいっぱいになるまで次から次へと出てくるから、ひとまずもらう量を減らすため、自分で食料を見つけようと考えたのである。
彼らが与えてくれた善意やら好意やらという言動を全面的に信用して、受け入れたのだから、当時の私としては革命的な決意だった。しかし、どうにもあと一歩、「無償」という概念についての理解が足りなかったらしい。
そして、食べてはいけない物なんて、誰も教えてくれなかったのだ。
ちなみに、料理長には後日泣かれた。彼の料理より虫のほうが美味しいと思っていたわけでは断じてないので泣かないでほしい。同じように分かりづらく悲しい顔をした神官長に困ってしまい、木は生木のほうが口の中で刺さらないから食べやすいことと、石を食べたら歯が欠けるから噛まずに丸呑みすればいいことと、土は湿っているのが食べやすいことと、泥水じゃない透き通った水でもお腹を壊す場合があるという、とっておきの情報を教えてあげたら即座にカグマの元へ担ぎ込まれた。結果、神殿に来る前に食べた分の石も全部除去された。
「腐った物はお腹が痛くなるから、それよりは虫とか土のほうがよかったんです。お腹壊したら余計お腹空きますし。それに、植えられた木や花はばれるとただじゃ済まないので、その辺りが妥当だったんです。神殿に行く前、どこだったかの庭に生えていた花を食べたら棍棒で叩きのめされたのほんと痛くて、できればもう経験したくないなと。そういえばあの時、目が覚めたら埋められてたんですよね」
「…………は?」
「死んだと思われたんだと思います。捨てるんじゃなくて埋めてくれるなんて親切な人でした。……隠蔽工作だったんですかね? まあどっちにしても埋め立てほやほやだったみたいで、簡単に土から這い出せたんでよかったです。ちなみに、土はさらさらの物より湿っているほうが食べやすかったですよ。さらさらのは咽せちゃって、お腹が痛くならない水を探すの大変でした」
石は消化もされず体内に残るのでまずい。そう学んだので、石は食べないよう心に決めた。そして神官長にも自信満々に約束した。それなのにしばらくの間、必ず誰かが私の傍にいるようになってしまった。石は食べないと約束したのに。
最後の飾りがつけ直され、私の頭は元に戻された。礼を言って、話を戻す。
「というわけで、エーレは置いていきますね」
「どういう訳でもお前が一人で行く選択肢が消え失せただけだ」
「それには同意だが、そろそろ余を交ぜる気にならない?」
三者三様の言い分を乗せ、馬車は呑気にかぽかぽ進む。重い馬車を引ける馬が六頭もついているのだ。かぽかぽというより、ばこばこだったがそこは気にしないでおく。
そして、私とエーレは途中で馬車乗り換えなので、一人になる王子は元気出してほしい。