46聖
国紋が刻まれた馬車は大きく、機能面と芸術としての美が競い合う。そして、若干機能面が負けている。贅と美がふんだんに塗され、必然的に重量を増した馬車を引くには二頭の馬では到底足らず、四頭ですら厳しい。余裕を持たせるためには計六頭の馬が必要だ。
だが、それだけの馬が引くには強度が足りず、強度を増すためにさらに一回り大きくなる。そうして出来上がった、豪奢で強大な象徴が、アデウス王族の馬車だ。
「王子の馬車って重いんですよね。だから安定感があって寝るには最適なんですけど」
「当然のように王子の馬車で寝た経験があるのは問い詰めていいのか」
エーレが投げやり気味に返してきたので、是非流してくださいと懇願しておいた。
現在、アデウス象徴の一つである、王位継承権第一であり第一王子である人が所有する馬車に乗り込んでいるのは、私とエーレの二名のみだ。第一王子所有の馬車に第一王子が欠けている。
私達は、誰にも見られないよう王城を出る必要があった。その問題を解決する手段がこの馬車だ。サロスン家へこっそり向かうため、王子の馬車で堂々と出る予定である。
小窓のカーテンすら閉めきっているため外を窺うことは出来ないが、馬車扉の前には一人の男が立っているはずだ。衣装部屋からこの馬車に至るまでの道程を、誰にも会わず案内しきった男は、王子の世話係である。
王子の無茶な要求も突然の要望もすべて、「畏まりました」の一言であっという間に整えてしまう凄腕だ。あれは既に超人の領域に到達しているのではと、もっぱらの噂だ。何せ王子が、「パンが食べたい」とぽつんと呟いた次の瞬間、焼きたてのパンが出てくるほどなのである。呟いた王子すら猛烈に引いていたのは印象的だった。
彼曰く、「無謀な指示は出されない方ですから」だそうだ。確かに王子は、出来る実力を持つ人を選んで無茶を振る。そこは王子の見る目と采配だろうが、こなしてしまえるのはひとえに彼の能力だろう。流石の王子も、一瞬でパンを焼いてこいとは命じていないし、焼けるとも思っていなかったはずだ。こなせるとは思っていないものを平然とこなさないでほしい。あの王子が引くという大変珍しい現象が起こってしまったではないか。
今もしれっとした顔で馬車の前で待機している男は、端から見ればただ王子を迎えるため控えているように見える。その実、人が縦横無尽に行き来している時間帯の城内を、誰の目にもとまらせずドレスを着た二人を案内仕切った偉業を成し遂げているのだ。
数え切れないほど抜け出してきた私と王子だからこそ、城内を誰にも見つからず通り抜ける難しさを知っている。彼は超人意外の何者でもない。それなのに、実は私は彼の名前を知らない。いつも「世話係とお呼びください」としか言わないからだ。しかし本人がそれでよしとしているのだから、無理に調べようとは思っていない。人それぞれ、居心地のよい立ち位置というものがあるのだ。
片側をまるまる空けているので、私と並んで座っているエーレをまじまじと眺める。昔は当代聖女の囮役としてよく女装していたが、背が伸び、尚且つ暗殺者への対応に神殿側が慣れ始めてから、回数は目に見えて減った。彼を囮役として使うより、最初から戦力として導入するほうが大変有効なので尚更だ。
「相変わらずとびきり似合いますね。猛烈に綺麗ですよ、エーレ! ……そんな凄まじく嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないですか」
鉄壁の顔面と名高い氷の無表情をもっと活用してほしい。
「私としては上出来な出来映えだと思うんですが、ご感想は?」
「久しい。以上」
「やっぱり私よりよっぽど当代聖女っぽいので、これからも定期的に女装しません?」
「暗殺対応なら当然請け負う。それが俺の仕事だ」
「それじゃ変わってもらう意味がないじゃないですか。主に会議の為にです」
「鋼鉄の枷をつけて椅子に縛り付けた上、お前の背後に立って会議に出させてやる」
少し考える。
「……それ、エーレに女装してもらう意味なくないですか?」
「どうして通常状態の俺が背後に立っている状態を想像できないんだ」
それもそうだ。
「綺麗で可愛い存在を見ていたら、会議中でもうんざりせず乗り切れるから……?」
「自分で言って自分で首を傾げるな。それに、綺麗はともかく可愛いは侮辱に近いだろう」
「どうしてですか?」
「侮られていると感じる」
どうやら嫌な思い出がわんさかあるらしい。苦々しいを煮詰め、わずらわしいを山ほど詰めて固定されたかのような表情は、端から見れば意外と無に近い。
「どう感じるかはあなたの自由なのでそれはそれでいいとは思いますけど、悪意なき可愛いはあなたが好きよと言われているんだと思いますよ。嫌いな存在に可愛いは使わないでしょう。曲がりなりにも愛が入っているんですから」
「はっ。馬鹿にする時にも使うだろう」
「愛が入っている言葉を、馬鹿にする時に使う人が悪いんですよ。乳飲み子を使って犯罪を犯す人は酷い人間ですけれど、赤子に罪はないでしょう。それと同じです」
この顔で、名家の三男だ。それはもう嫌な思いをしてきたのだろう。何せ神殿にいる間も王城にいる間も、空き部屋に引きずり込まれそうになること数知れず。燃やした部屋は伯爵家級。ついでに灰にした恋心も星の数。炭にした類いの恋心は今だ火がくすぶり続け、かなり消しにくい状態なので是非とも気をつけてほしい。
エーレはもう一度短く息を吐き捨て、姿勢を正した。
「一つ聞いておきたいことがある」
「はい」
くるりと変わった姿勢と声音に、私も姿勢を正す。
「王子の、合い言葉だ」
「ああ……はい」
確かに、説明しておいたほうがよさそうだ。
身体を捻り、締めきられたカーテンの裾を少しだけ寄せる。ちらりと覗いた窓の外に王子の姿はなく、また人も増えていない。王子が到着するまで、まだ少し時間がありそうだ。
「ルウィというのは、王子が第六王子にのみ許していた……そうですね、愛称のようなものです。かの方はまだ幼く、兄上ともルウィードとも口に出来なかった時期に、王子自ら与え、それからずっと」
ルーヴェルト第六王子。ルウィード第一王子にとって唯一母を同じくする、享年三歳の弟。
永遠に幼いままの、小さな弟だ。
ある日、昼寝から目覚めなかった。たった一言で説明できる。そんな事柄で、幼い王子の生涯は閉じてしまった。
病だったのか。事故だったのか。――事件だったのか。
それすら、未だ分かっていない。病と呼ぶにはあまりに苦痛がなく、事故と呼ぶには不審すぎて、事件と呼ぶには何の利点もなかった。
賢さも愚かさも、王子としての素質も個としての在り方も、何かを発揮するにはあまりに幼すぎる時間しかこの世に在れなかった、小さな命。
「余とて、せめて身内くらいには多少甘くありたいと思ってはいる。身内への甘さというものを、あの子から学べそうだった。王子はそう言っていました」
それももう、叶わないけれど。
「王子にとって、ルーヴェルト様は特殊な立ち位置でした。幼く、何も出来なくとも許される、何をしても許される。ただ大きくなればいいだけの幼き子。可愛がる、慈しむ。王子にとっては未知の領域を与えなければならない、与えるべきである存在で……ルーヴェルト様が亡くなる前も、後も、その呼び方を許す人間はいなかったんですが、突然私に渡したのは、あの方が生きた痕跡の一つを消すのを惜しんだんでしょうかね」
王子がルーヴェルト様を亡くしたのは、十二歳の時だった。あれからもう、七年も経ってしまった。ルーヴェルト様だけが、拙いがゆえに与えられた特別な呼び方が、私の元へと下ろされてきたのは三年前。何でもないよく晴れた日で。
まるで、ルーヴェルト様が亡くなった昼下がりのような日だった。
「王子の誕生日にくれたんですけどね。呼ぶのが、贈り物だったようで。でも、エーレも半分許されたようなものですから、エーレ、思っていたよりずっと王子に好かれていたんですね。わりと凄いことですよ、これ。王子は偏食や食わず嫌いとは違い、ただひたすら選ぶ人なので」
難しい人であり、単純な人なのだ。
エーレは黙って私の話を聞いている。やがて静かに胸を膨らませ、ゆっくりと息を吐いた。
「だとすれば光栄と言うべきなのだろうが、俺は、あの方どういう方なのか、未だ理解が及ばない。なればこそ、その判断は許されないだろう」
どこまでも真面目だなとは思う。他者が勝手に向けてくる感情を、理解の上で抱き留めようとするのだから。
こういう人だから、身勝手に向けられてきた欲の情がどれだけ重かったか、想像に難くない。散々苛まされた結果、新たな扉を開かせるに至ってしまったのは誰にとっても誤算だっただろうが。
「簡単ですよ。あの人は誰にも期待していません。だから失望もあり得ない。あの人は誰にも何にも失望しません」
難しく考え込んでしまったエーレは、私の言葉に瞬きをした。大して手を加えていないのに充分に美しい睫が瞳の中に影を落とす。睫が落とす影で憂えて見える瞳は、真実憂えているのだろう。王子の、決して苦しんではいないのにどうしたって平坦ではない生を。
「自らが危機に陥った際、相手が手助けしてくれなくても救援に来なくても構わない。なんなら敵に回っても別に構わないしなんとも思わない。けれど、裏切ったら決して許さない。必要があれば裏切った相手とも手を組めるけれど、一生自軍として数えない。そういう人です。ただそれだけです。付き合う上では別に難しい人ではありませんよ」
「……よく、分からない方だ」
珍しく少し困った顔をするエーレに苦笑する。
「お前はどうやって……その名を戴くに至ったんだ」
「さあ」
「マリヴェル」
「怒らないでください。私にも分からないんです。それに恐らくは、王子だって分かっていませんよ。自分のどういう状態を親しいと呼ぶのか、その基準はどこにあるのか、王子すら認識していないんです。あの人はそれらを認識する前に、ルーヴェルト様を失ってしまいましたから」
王も王妃も、彼に親しさを与えなかった。彼らはただ国父であり、国母であった。弟妹は半分は同じ血を引く、一つの椅子を見つめる同士であり競争者だ。仲間は家と上下関係を前提とし、知人は価値を見極め合う為にある。
何を以てして親しさと呼ぶのか、何を基準として情と呼ぶのか。王子には分からない。分からないから選んでいるだけだ。
「私も王子も、他者から関係を尋ねられれば互いを悪友と呼びます。けれど本当は、他に呼び方がないからそう定義づけているに過ぎません」
家族にも友達にもなれない私達だからこそ、私達は対等であれた。そして忘却後、感情への弊害は互いに少ないのも、そういうことだ。
「王子が分からないと分かるから、あの人は私といるだけです。ある意味で、私達は似たもの同士なんです」
複雑そうな表情を浮かべていたエーレの視線が私を通り越した。その視線を辿り、私も馬車の外へと意識を移す。防音に長けた王族の馬車とはいえ、完全に物音を遮断するものでもない。
増えた人の気配に、私達はお喋りをやめた。
扉はいつもより浅く開かれ、その影に私達を隠したまま王子が乗り込んでくる。王子は一人で馬車に乗り込んだ。外からはそう見えているはずだ。
するりと乗り込んだ王子は、私達を目に留めた一瞬、動きを止めた。しかしすぐに扉を閉め、窮屈さを見せず、マントを器用に払って椅子へと座った。豪奢な装飾を普段着として着こなすのは流石といえる。
手慣れた動作で、剣の柄を使い馬車の壁をかんかんと二度叩き合図を出せば、馬車が進み始めた。重量と馬力の問題で滑り出すようにとはいかないが、安定感はそれなりにあるおかげで跳ねるようにともいかず、それなりの乗り心地で馬車は進んでいく。
そうして私とエーレは、こっそり堂々と神殿及び王城を抜け出した。