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45聖








 見慣れぬ黒髪を梳きながら、束を持ち上げる。


「上げます? 下げます? 最近の流行はどっちでもいいはずですけど」

「……任せる」

「了解しましたー。一応下ろしましょうか。私の髪も下りてますし」


 下ろしているが結っていないわけではない。飾りもしっかりつけられている流行りの髪型だ。完全に結い上げてしまうと、咄嗟に鬘を脱ぎ捨てることもできなくなるので、下ろした形を原型として結っていく。

 私の髪は既にエーレが結ってくれたので、それが崩れないよう体勢を気をつけつつ作業を続けていく。元々の色鮮やかな髪が見えないか何度も確認して、華やかになりすぎない程度に飾りもつける。

 美しさよりにすべきか、可愛さよりにすべきか。悩むところだ。美しすぎて完璧な近寄りがたさで人を避けるか、愛らしい美しさで人を集めるべきか。多少は情報収集をしたいので完全に避けられては困る。だからといって、あまりに愛らしくては人が集まりすぎて動きにくくなる。間がないのだ、間が。エーレはなんとも難しい男である。


 いろいろ悩んだが、どうせならとエーレによって飾られた自分の髪と揃いにする。

 私達は姉妹。私達は姉妹。どちらにも姉妹はいないからいまいち感覚が分からないけれど、お揃いくらいするだろう。



 最後に手鏡を持ち後ろまで確認してもらい、丸をもらったので今度はさっきまでエーレが座っていた椅子に私が座り直す。エーレが選んだ青緑色のドレスが崩れないよう気をつけて、据わりのいい場所を探して落ち着く。このドレス、動きやすく裾も引っかけにくい。かなり機能面によって選ばれている。私もエーレに選んだドレスは機能面を重視した。走れないより走れるほうがいいに決まっている。


「お任せで!」


 聞かれる前にぶん投げたら、化粧道具を選んでいたエーレから鏡越しに睨まれた。しかしその後黙々と作業を開始してくれたので、問題はないだろう。何せ、私の化粧は適当でいいのだ。エーレは顔を隠す意味合いが強くなるので気合いを入れなければならないが、私は良くも悪くも忘却されている。誰も私の顔など分からないし知らないので都合がいい。


「下を向け」

「はーい」


 下を向けば、私が選んだエーレの青いドレスが揺れている。


「マリヴェル」

「何ですか?」


 少しだけ動かした視線の先に見た鏡越しのエーレは、昨日ちらりと浮かべた表情で私を見ていた。


「神官長にも、話をしないか」


 自分の膝に乗せていた手が強張ったのが、目視でも分かった。








「神殿はいま、聖女を探している」

「……そりゃ、聖女選定の儀を行っていますからね」

「マリヴェル」


 怒声も呆れも滲ませない声が降る。どうやらおふざけには付き合ってくれないようだ。

 聖印すら発動して動き出しているのは、それだけの理由を見つけているからだ。王子のように体質として術に強いわけではなくとも、そもそもが術の遣い手達ばかりである。違和感に気付けば、そこから矛盾を紐解いていくなど当たり前のお話だ。

 違和感を取り逃さず握り込めば、空っぽの座に何かがいた痕跡などそこら中に転がっている。エーレ一人を見たって、既に違和感は現れるのだ。当代聖女が現れていないのに、特級昇位試験が受けられるはずがない。彼が特級昇位の権限を得たのなら、それに関する書類は必ず厳重に保管される。物品は残るのだ。その時点で既に、当代聖女不在が奇妙な空白を生み出す。


「お前が率いた神殿は、そこまで馬鹿じゃない」


 神殿が聖女を探しているとわざわざエーレが告げたのならば、探されているのは新たな聖女ではない。

 そこにいたはずの、十三代目聖女。当代聖女に他ならないだろう。


「十三代目聖女マリヴェル。現神殿は、貴方の為に在ります。貴方を唯一の主と定めた神官と神兵により構成された、貴方だけの盾であり、剣です。……当代聖女。お前の神殿は、主の不在に気がついた」


 最後だけただのエーレとしてかけられた言葉は、この人が持つ優しさだったのだろう。


「今なら、当代聖女の認知が戻せなくても話はできるはずだ」


 けれど、ずっとふざけていたいな。全部全部おふさげのまま何となく解決されて、誰も何も思うところがないまま、いつの間にか元に戻っていたらいい。誰に元にも傷はなく、どこにも蟠りは残らず、誰の所為でもない嵐の後始末に追われるだけで終わればいい。

 そうだったら、どれだけいいか。


「嫌です」

「マリヴェル」

「嫌です」

「マリヴェル」

「……いや」


 ドレスが皺になる。私の手が、人が苦心して美しくあろうと整えているものを、握り潰す。見ていられなくて視線を上げても、そこにあるのは私が歪めた表情だけだ。同じような顔を私が浮かべているのは、私の所為だけれど。


「だって、私の絶望が、あそこにあるのに」


 敵の目的が私の絶望にあるのなら、絶対近づいてはならぬ場所だ。




「私は、私を害されることが一番恐ろしい。顔を焼かれるのが嫌。男に襲われるのが恐ろしい。引き籠もって、震えてしまうほどに。それでいいじゃないですか。恐ろしくて堪らないのに、神殿へ助けを求めないのは信用していないんです。信頼していないんです。だから、近づかない。役に、立たないから、助けを求めない。どうでも、いいから。私は神殿の誰もが役に立たないと思っていて、だから使えないなら切り捨てる人間で、だから近づかなくて。私はそういう人間で……だから、それでいいじゃないですか」


 今回の事件で私は脅えて引き籠もったことになっている。恐怖が深く、外に出られないと。私の絶望はここにあると。

 次からもそこを狙ってくれないと、困る。私を、私だけを狙ってくれないと。


「そうじゃ、ないと」


 あの人達が害されたら、どうしたらいいのだ。


「……敵を捕らえるなり始末するなりしなければ、近寄れない。彼らが私の拠所である以上、これ以上狙われる理由なんて作りたくありません」


 ただでさえ敵が方針を変え、私の周囲へ矛先を向け始めれば真っ先に標的となる人達だ。そこに私の味方である可能性を僅かにでも秘めてしまえば、もうどうしようもない。国中の記憶を覆ってしまえる敵が、あの地を利用するような輩が、どんな惨たらしい手であの人達を苛むのか。考えたくもない。


「狙いが私の生の放棄にあるのなら……神官長を殺せば、すぐだもの」


 人が踏み込んではならない場所を利用するような相手だと最初から分かっていれば、私は神官長の記憶を戻そうとはしなかった。ココに名前を聞いたりしなかった。王子の手を借りることさえ悩んだはずだ。


「神殿はもう動いている。どちらにせよ、いずれはお前に辿り着く」


 それは現状において、何より恐ろしい未来だった。


「……ココが襲われたら、サヴァスが焼かれたら、皆が…………」


 視線も声も強張り、喉がひりつく。まるでこの場に存在する空気に毒でも含まれているようだった。

 私は恐怖を感じない人間ではない。私の恐怖はそこら中に転がっている。敵が、気付いていないだけで。


「……神官長が、こわ、されたら……………………駄目ですよ、エーレ。私の絶望はすぐそこにある。私は、彼らを人質とされたなら、すぐに敵の願いを叶えてしまう」


 一度手を出されているのだ。私の記憶が誰からも失われた。だが、今はそれだけで済んでよかったと思っている。神殿の人間があの地に堕とされたら、それが可能だったのだとしたら、私の死と引き換えに彼らをあの地から出すと言われれば、私はその場でこの首を掻き切った。


「私のような人間でも、他者を当たり前に慮れる、そういう善良な人が尊いのだと分かります。彼らは損なわれてはいけない存在です。人が動物でありながら獣とは違うのだと豪語する以上、失ってはならないものです。それらが損なわれるような世界は、人の世として維持されるべきではない」


 人が動物をけだものと区分する以上、人に必要とされる理想を、己に課して生きる人々だ。

 完全なる生命体では、もちろんない。失敗も失態もあるだろう。

 けれど、理想を理想として目指していける人だ。それが困難だから、自分には難しいから、出来ないからと、言い訳を世界の真理のようにこねて倫理を歪めたりせず、理想を理想と分かった上で、大切な美しさとして抱えていける人達だ。

 そんな人達が損なわれる可能性を恐れない理由などどこにもない。


「……お前は、いつになったらその損なわれてはならない人間に自分を数えられるんだ」


 エーレはいつも不思議なことを言う。損なわれてはならないもの。損なわれるべきではないもの。損なわれてほしくないもの。何かを守りたければ、代わりに砕けるものが必要だ。


「その為に私がいるのでしょう?」


 私のような人間でも、子どもは守るもので、若者は支えるもので、老人は手伝うもので、大人は目指すものだと知っている。

 だからこそ、要不要ははっきりしているではないか。


「だって聖女の代わりなんて山ほどいるじゃないですか。アデウスにはこれだけの女性がいるんですから。砕けるならば、代わりのいる聖女こそが相応しい。そうでなくてはならない。その為に、神が聖女を創るのです。その為に、当代聖女は私なのです。その為に、神は私を」


 はくりと口元が動いたのが分かるのに、自分が何を音にしようとしているのか分からない。


「……マリヴェル」


 固い声が降ってくる。ぼんやり視線を上げれば、怒りとも哀切ともつかぬ瞳が私を見下ろしている。


「お前いま、自分が何を言っているか理解しているか?」

「…………あれ?」


 ぷつりと思考が途切れていた。ぼやける視線は見慣れぬ黒と、見慣れた紫がかった青色を眺めている。見慣れた色を見つめるのは無意識だった。自分が何を口に出したのか、何を音として紡ごうとしたのか、何も覚えていない。ぽっかり空いた空白だけがそこにある。


「……………………これ、まずいですかね」

「まずいだろうな」


 降ってきたため息と共に、淡く色のついた香粉が舞う。柔らかな感触と香りが顔に散る。降り積もる色は、淡く薄く、はっきりと認識できないから意味を持つ。

 そんな中、はっきりとした異常を持つ私は、滑稽なほどに役立たずだ。




「あれから、明らかにお前の状態がおかしい。それを鑑みても、神殿との協力体制を取るべきだと俺は進言する。何より、自分達を守るために聖女が矢面に立つ。それは、神官にとっても神兵にとってもとてつもない侮辱だ。まして、神官長にとっては到底看過できない酷い軽侮になるぞ」


 知っている。分かっている。あの人達は誇りを持って今の職に就いたのだ。あの人達が信じる理念を穢さぬ為、そうであろうと努力してあの場所にいる。


「神官と神兵の服が黒いのは、どんな小さな汚れも聖女へ届かせぬ盾である証明だと、知らぬお前ではないはずだ」


 分かってる。分かってる。分かってる。

 ……分かって、いるのだ。

 この行為は、彼らの誇りも決意も全て無視して、私の願いで溺れさせるようなものだ。彼らへの思いを言い訳に、彼らの尊厳を尊重せず自身の願いだけで覆い隠す。

 これもある意味溺愛というのだろうか。いや、そんなはずはない。だってこれは、自分が溺れる想いではない。相手を溺れさせる悪質な呪いであり、愛だの願いだのの成れの果てだ。

 そうと分かっていて、是と答えられない私は本当に呪わしい。




「神殿には伝えないでください」


 これが悪手になるかどうかは分からない。どうせ前例のない事態だ。結果が出るまで、妙手か悪手かなど誰にも断定できない。それでも私が彼らを王子のように巻き込めないのは、彼らに対する侮辱だとは分かっている。

 王子は現状では繋がりようがないと見落としやすい。だが、神官達はどうしたって、近すぎる。だからこそ味方になり得るのに、だからこそ話さなければならないのに。分かっているのに。


「…………お父さんには、言わないで」


 お父さんは私を、許さなくていいから。


 どうして綺麗に生きられないのだろう。どうして優しく生きられないのだろう。どうして、私の生を、命を、尊厳を、あれほどに丁寧に尊重してくれた人達に、同じ想いと行動を返せないのだろう。どうしてこんなにも呪わしく、悍ましいほどに欲深く、他者の祈りを大切に生きられないのだ。

 お父さんがあれだけ穏やかに教えてくれたのに、どうして私は、我欲ばかりを抱きしめてしまうのだろう。


「……私が当代聖女で、この時代のアデウス国民は残念でしたね」

「馬鹿馬鹿しい」


 吐き捨てたエーレはゆるりと口を閉ざし、こういうときに限って痛みを与えてくれない人は、私の唇に指を這わせる。指示通り薄く開けた唇へ、最後にひかれた紅の色は、思っていたよりずっと淡かった。









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