44聖
「は、腹、腹が、いた、はは、はははははははははははははははははははははははははは!」
衣装の海に備えられた長椅子で、瀕死の王子がまだ溺れている。明日はきっと筋肉痛であろう。
ここは王子の寝室に隣接された、王子個人の衣装部屋だ。農村で好まれる衣装から王族が好む衣装、各種制服までまでよりどりみどりだ。鬘も装飾品も、本当に何でも揃えられている。それは男女問わず、何にでもなれて、どこにでもいけるほどに。
私にとっては見慣れた部屋だが、エーレに取っては初めて入る秘密の部屋だ。足を踏み入れる際、派手に頬を引き攣らせていた。ちなみに蒐集の一角は私の協力で成り立っておりますとは言わなかったのに脳天かち割られた。目にもとまらぬ早業であった。
「王子、それ以上腹筋割るつもりですか?」
持ち上げた紺のドレスをエーレに合わせながら、再び呼吸困難に陥りかけている王子へ視線を向ける。
声をかけても王子はまだ一人でのたうち回っているので、とりあえずおいておこう。そうと決めると、目の前に意識を集中した。何せ私の前では、微妙な顔をしたエーレが私に赤のドレスを当てているのだ。
「お前、王子の腹筋を見たことがあるのか」
「そりゃ、この衣装部屋しょっちゅう借りてたら見ますよ。温泉も入ったし」
「……は?」
「いや、温泉が湧いてですね」
エーレは赤のドレスを抱え、額に手を当てた。
「……一応聞くが、そこに問題があるとは思わなかったんだな?」
「男女が互いに裸体を曝してはいけないのは、そこに互いの同意と尊重がなければ、個の意思を無視した暴力による惨事が起こりやすいからでしょう? つまり互いにそれがあれば別にいいのでは? 尊厳は守りましたし」
「……………………お前、この事態が解決したら神官長からの雷鳴を覚悟しろよ」
「どうしてですか!? あ、それとエーレ、鬘の色変えません? 黒は迫力がありすぎる可能性が」
黒の鬘をかぶったエーレに合うドレスを見つくろっていたが、なかなか迫力のある美女か美少女が出来上がる予感しかしない。
今夜開かれるというサロスンの夜会に客として潜り込めるよう王子が手配してくれたが、そこは代々有力者であり現王妃の実家。招待される客も当然のように名家ばかり。
つまりはエーレの顔見知りばかりなのである。正体を知られないようにするためには顔を隠すのが一番だが、残念ながら今回開催される夜会は仮面着用が義務づけられていない。
そうなると、がらりと印象を変えるしかないのだ。印象と、当然こうであろうと人々が固定している認識を変える手っ取り早い方法はいくつかある。
見た目を変えるのは当然だ。その上で選ぶとするなら、立場を変える、年齢を変える、性別を変える。この三つが定番だろう。
しかし、サロスンの夜会に出席できる立場に偽装するためにも立場は変えられず、年齢を変える技術は持たない。顔を隠せるなら服装と姿勢で誤魔化しようもあるのだが、夜会となるとそうもいかないだろう。
つまり、残る手段は性別である。
エーレもそれについては文句はないようで、喜びはしないが反対もしない無の心で私のドレスを選んでいる。
そもそも、エーレが女性の格好をするのはこれが初めてではない。昔は度々、当代聖女の囮役として女装していたものだ。
ちなみに彼が選んでいるのが何故私のドレスなのかは、互いに髪色を変えるので普段とは違う自分に合うドレスを選ぶ場合、近しい他者のほうがいいと判断したからである。
「もうちょっと軽めの色にしません?」
髪の色は無難といえば無難なのだが、如何せん顔が整いすぎているために黒が白い肌と美しい顔を引き立て、まるで生きたお人形だ。ついでに、私もエーレもそれぞれの事情で胸元を隠さねばならず、どうしても重くなりがちだ。せめて色だけでも明るく軽やかにしておきたいところである。
「俺は足が遅い」
「そうですね」
「忍び込むならせめて闇に溶ける色がいいだろう」
「それもそうですね。じゃあ私も黒にします」
確かにそうだ。私とエーレは姉妹の設定で乗り込むので、分かりやすく同色にしていく予定である。
髪色の選択理由は分かった。しかし、それが分かっているのに何故私のドレスに赤を選ぼうとしているのだ。エーレも気付いたのだろう。自分が持っているドレスを見て、微妙な視線を私に向けた。さっきからずっと、虚無か微妙な顔しかしていないな、この人。
「当代聖女はすぐに行方を眩ませるため、可能な範囲内で派手な色を着用させろという暗黙の了解が神官にはあるんだ」
「初耳ですね」
道理で聖女服以外は派手な色合いが用意されると思った。
「お前は意に介さず抜け出したが」
「恐縮です」
そもそも人目についていては抜け出せないので、服の色は追っ手がかかりやすくなるだけで抜け出すには何の支障もなかったのである。
「それはともかく、ドレスの色まで暗いと、逆の意味で夜会で浮いちゃいますね。ただでさえ私達二人とも胸元覆わなきゃいけなくて、全体的に重くなりますし」
「それはそうだな……どの理由を優先すべきだろうな」
青と緑のドレスを、交互にエーレと合わせる。その前ではエーレも、紫と黄色のドレスを私に合わせていた。エーレは薄い骨格を、私は胸元に咲く花を隠す必要がある。必然的に胸元が重くなるので、せめてドレスの色くらいは明るめがいいのではないだろうか。それだと闇に溶けないが、顔付近が隠れてさえいればなんとかなるだろう。
そう思うも、重かろうが暗かろうが、全てを蹴散らす圧倒的な美の前に人は無力だ。エーレを美人に仕立てれば、後のことはどうとでもなる。そしてエーレは何もしてなくても美しい。この勝負、最初から勝敗は決まっているのだ。つまり、ドレスは何色でもいいのである。
「ところでそなたら」
ようやく落ち着いたらしい王子から、久しぶりにも思える笑い声以外の言葉が聞こえた。視線を向ければ、お腹に手を添えたまま長椅子で溶けている。疲れたのだろう。王子はこの後、真っ当な手段で身なりを整えてもらうのでそろそろ行かなければならないはずだが、ぐてっと溶けている様子を見るにまだ動く気はないようだ。
「余と聖女が温泉に入ったのは、この様子を見るにさもありなんといったところだが、エーレが頭を抱える理由もまた理解する。しかしそなたら、それはよいのか?」
それっと、手首の先だけ動かして指さされた私達は、互いの格好を見下ろした。前を向いても下を向いても、下着だ。当たり前である。着替え中だ。
エーレは無表情で微妙な色を浮かべた。器用な人だ。
「…………これには深い理由がございます」
「王子がいたら大体いつもエーレが死にそうになりますから私が手っ取り早く説明しますが、当代聖女はそれはもう先代聖女派からも王城からも徹底した嫌がらせを受けてきましたので、式典当日に衣装が奪われたり修復不可能にされたり、身なりを整えるはずだった面子が到着不可能になったりと、ありとあらゆる面倒事が起こりました。それに対応していく内に、聖女本人である私はもちろん、聖女に近しい立場にいる神官及び神兵の多くは、着つけから髪結い化粧に至るまである程度できるようになりました。ついでに神官達自体もぼろぼろで着替える必要性が出てくる事態に陥る場合も多々あり、男女混合ごった煮着替え大会開催三回目当たりから仕切りもなくなり、というか、仕切りを用意する時間も手間も惜しまれ、大会開催中はとにかく時間に間に合わせられればそれでいいという特殊規則が適用された結果、大会ほぼ皆勤賞であり殿堂入りの我々は、着替え間の羞恥などという感情は消え失せております」
ちなみに私には最初から実装されていなかった。
しかし、それらが強固に溶接された文化で育ってきた面々が、鬼気迫る顔で煤けた服を脱ぎ捨て、雄叫びを上げながら礼服へと着替える様子は圧巻の一言に尽きた。
そこに男女はなく、もちろん年齢もなく、如何なる差別も区別も存在しなかった。大会開催中、参加者達の胸にあるものは、等しく神官及び神兵としての職務に燃える神聖なる平等だけだ。
『神殿の尊厳が守られて時間に間に合えばもうどうでもいいのですわ!』
そう叫んだ、深窓の令嬢と名高かった神官の雄々しさは今でも覚えている。太い三つ編みもできなかったサヴァスまで、女性神官の髪を繊細に結えるようになっている辺りで、私達がどれだけ鍛えられたかお分かり頂けるだろう。
神官長が、自身の着替えもそこそこに私の髪を真剣に結っていく姿を見るのは実はかなり好きだったのだが、拳骨が来そうだったので口に出したことはない。神官長はいつだってだらしない格好はしない人だったので、大変物珍しかったのだ。そして、職場ではきちんとした人も家ではだらけると聞いたばかりだった私は、神官長のその姿を少し、もう少し見ていたかった。
しかし時間は待ってくれないもので、怒濤の如く身なりを整え、死に物狂いで廊下に飛び出したアデウス神殿一行は、汗一つかいたことなどありませんよという色を浮かべた顔と共に、静かで穏やかでありながら威光を背負う重々しい足取りで、人々の前に姿を現わしたのである。
神妙な顔で告げきった私と、生ける屍と化したエーレを前にした王子は、深く大きな息を吸った。
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
王子の腹筋が完全なる死を遂げたわけだが、私が紺瑠璃色のドレスを当て、私に桃色のドレスを当てているエーレの目も死んだので、認知が失われ死人状態の私を含めてもこの部屋には死人しかいないらしい。
さっさと死に化粧済ませて戦地に向かいたいので、みんな速度を上げて蘇生してほしい。