43聖
「さて、いよいよ笑えなくなってきたわけだが」
「王子王子、最初から笑えませんよ」
この通路はただ石を積み上げて作られているように見えるが、なかなかに特殊な術がかけられているため足音は響かない。まるで分厚い絨毯の上を歩いている気分になるが、感触はしっかり石だ。
転ぶと大惨事なので、慣れない運動をした上、慣れない高低差を体験した衝撃覚めやらぬまま無理矢理覚醒させた意識で突如現れた人物へ警戒心を向け、それが王子だったことにより全ての気力を使い果たし生ける屍と化したエーレは気をつけてほしい。あと、純粋に頑張ってほしい。
歩くだけでふらつくエーレを支えながら、足音のしない通路を進む。普段なら王子がいようがいまいが絶対にこんな状態を許さないエーレだが、今日は限界だったのだろう。朦朧としている意識がはっきりするまで、責任もって支えるつもりだ。
「王子が待ち合わせ場所寝室にした所為で、エーレがほぼ死にました」
「待ち合わせ場所を自身の部屋へと指定するは、平民の間で一般的だと聞いたのだがなぁ」
やってみたかったのは分かるが、王子がそれをやると大変な労力がエーレに発生するので加減してほしい。
「ここに平民いませんけどね。ちなみにそれ、『待ち合わせはおれんちな』です」
王子は王子で、エーレは国内有数どころか片手に入る財力と権力の持ち主であるリシュターク家の末っ子で、私は聖女で出身はスラムだ。三人もいるのに『待ち合わせはおれんちな』をしたことのない人間ばかりである。
「そんな感じだった気がする。余、うっかり」
「王子王子。可愛くないです」
「なんとー」
ここまで来れば後は、多少の罠と迷路と高低差と幻覚を抜ければ一直線だ。私と王子は横から飛び出してきた槍をしゃがみながら避けた。私に引っ張られ沈み込むように避けたエーレも復活した。攻撃されれば反射的に覚醒するだなんて神官の鑑である。
しかし、神兵ならともかく神官はそこまで過酷な職ではなかったはずだが、当代聖女の代になり神官達はいつの間にか歴戦の猛者になっていた。僅かな物音、それも足音による軋みに酷く敏感で、抜き足差し足で屋根裏を歩いていたのに全員が弾かれたようにこっちを向くのだ。そんな反射をいつ身につけたというのだ。一体全体彼らに何があったのだろう。進化が急すぎてびっくりする。
あっという間に辿り着いた場所は行き止まりだ。ここまでの通路同様、石を積み上げて作られた壁が進路を塞ぐ。
三人で壁を眺めるも、当然道が開く気配はない。しばし無言が流れる。
「そら開けよ」
痺れを切らすには早すぎる上に苛立ちも何もない声が、私に向けられた。さて、困った。
私は少し考え、すぐに諦めて挙手をした。
「王子、一つ宜しいですか?」
「そう言う場合一つではないことが多いのだが、まあよいとしよう。延べよ」
胸を張って応用に頷く様は、どこからどう見ても偉そうである。そして偉いのだ。この態度は当然と言えよう。
「じゃあ遠慮なくいくつか」
「そなたほんに偉そうよなぁ」
「王子ほどじゃないとは思いますが、まあ自覚はあります」
何せ私の人生、下がないか上がないかで過ごした時間が大半を占めるのだ。なんとも極端である。
「まずは一つ。これは純粋な興味なんですが、王子、ここの合い言葉覚えていますか? ここの合い言葉変更する時、私と一緒にしたんですよ。だから、私の記憶が根こそぎないならそこの記憶どうなってるのかなと」
「お、そなたいい質問だぞ」
王子は流れるように指を鳴らした。最後に二人で見た観劇で、役者がやっていた所作だ。指が鳴るよう一緒に練習した結果、二人とも鳴らせるようになったのはいいものの使う場所は意外となかった。何せ、皆冷めた目で返してくるのだ。
まるで、そんなことしてる暇があるならとっとと仕事しろと言われているかのようだった。かのようだったも何も、実際言われたので気のせいでは全くなかった。
そんな切ない過去を噛みしめる私の前で、王子は腕を組み堂々と胸を張った。
「覚えておらん!」
「えぇー……王子、私が来なかったらここからどうやって帰るつもりだったんですか?」
ここは、合い言葉がなければある意味一方通行なのだ。何せ、国旗を支える棒から飛びおりなければならない。来るのでさえ雨の日や風が強い日はやめておきたいのに、帰るのは相当装備が整っていないと難しいだろう。
ちなみに王子の部屋からは三回ノックだけでいい。しかし、部屋に戻るためには合い言葉が必要だ。だから偶に、部屋から放り出された挙げ句、中に戻れなかった暗殺者の死体が転がっていたりする。
以前暗殺者が爪痕を残して事切れていた場所で腕を組んだ王子は、堂々と言い放った。
「実は困っていた」
「でしょうねぇ」
王子の寝室に繋がる秘密通路、暗殺者も通れない代わりに王子も通れないことになってしまった。こんな悲しい話があるだろうか。
「だが、これで一つ分かった。余に限らず、そなたを覚えておらぬにもかかわらず大多数が疑問を抱かないと言うならば何らかの方法で辻褄合わせが行われていたはずだ。術の範疇か、かけられた側の無意識下かは分からぬがな」
矛盾に鈍感になるのは、術の影響か、下手に術へ反抗しないよう自己防衛が働いているのか。
石版に彫られた名前のように、意識すれば反応が可能な痕跡は残っているのに騒ぎにならない。これは異常だ。神殿は動いているとエーレが教えてくれた。だから、恐ろしいほどの規模であろうと術は完全ではない。全く疑問を抱かない人と、忘却の可能性に思い至る人。その違いはどこにあるのだろう。
「大多数が矛盾に気付かぬのであれば、それらは強力な力の有り様であろう。だが、体質ばかりはどうにもできぬらしい。どうにも余の周りにはそれなりに矛盾が残っておるらしい」
「王子、鈍感系神力の持ち主ですもんね」
「如何にも。余の体質がなければ、余はここの鍵を覚えていたのやもしれん」
確かに、体質ばかりはどうにもできないのだろう。何せ、私から聖女の力を閉ざしたにもかかわらず、血に滲んだ力はそのまま残っているし、相変わらず使用可能だ。物的証拠もあちこちに残っている。だから、物理的な証拠隠滅はできないのだろう。問題は、物的証拠がこれだけ残っているのに全て無意識の海に流してしまえる忘却の強さだ。
「……継続してかけられている術の効果にしては揺らぎが少なすぎます。人々の身の内から発生した可能性があります」
「あ、エーレ復活しました?」
「やかましい」
「えぇー……」
殺生な。さらりとぶった切られた心配は、つまりは無用なのだろう。無事ならそれでいい。なので私もさっさと話を戻した。
「つまりはどういうことだ?」
神力の扱いにあまり詳しくない王子の問いに、私も頭も中でさっと整理をつける。
「えーと、他の人には矛盾が取り繕われている、正確には気付くまでは矛盾への意識が取り繕われているのに王子には矛盾として残っているなら、この呪い、個人差がありますよね。しかしその数が少なすぎる。この場合の個人差は、性格などが理由ではないはずです。性格が理由なら、呪いの現出状態にもっとばらつきがあるはずです。それなら、体質面での個体差が原因と考えられます。王子の体質は非常に珍しいので、他と違うのも、絶対数が少ないのも頷けます。そして、術が未だ続いている以上、術はかけられ続けているはずなんです。しかしどんな力の持ち主であろうと、この規模の術を延々とかけ続けるのは難しいと思われます」
神力が奪われていく症状が確認されている現状を鑑み、神力の回収が行われていると仮定しても、正直奪われている程度の量でこんな規模の術を維持できるはずがない。一回だって無理だろう。国中にかけるのであれば、国中の人間から奪ってちょうどだ。
それもなく術が維持され続けている。しかも、大体の人間には統一された術が作動しているのだ。大人数に呪いをかける場合、これはあり得ない。王子の例を見れば分かるが、体質を含めた個体差があるからだ。
それらを考慮し、統一の効果を出すことが可能な呪いの種類は数少ない。
「呪いを維持する方法として一般的なのは、ほぼ同じ手間で回数を重ね、切れかけたらその都度かけ直す。あるいはかけた呪いをそのまま維持するかです。しかしこんな規模であれば、その都度かけ直すのは難しい。ならば呪いの維持が妥当だと思うんですが、今のところ呪いの維持は、身の内に呪いの種を潜ませ、宿主の神力で維持してもらう方法しかないんです」
そうでなければ、呪いを仕込んだ時点で呪者の神力と仕込まれた宿主の神力が喧嘩して宿主が死ぬからだ。だから気付かれないよう呪いを仕込み、後は宿主の神力を気付かれぬ程度頂きながら呪いを維持する。宿主の神力を喰って維持される呪いは、非常に見つけづらくて厄介だ。
望む結果に設定した呪いは、それが作動する分だけ宿主から神力を喰らえばいい。だから外から覆う類いの呪いより統一感が出やすい。
しかし、この類いの呪いは扱いづらく、作りにくく、成功しにくいのが問題だ。
呪いを取り締まる側からすれば、成功しやすかったら困るのだが。
取り締まる側から言わせてもらうと、人は呪わないほうがいい。はっきり言って労力に見合わないし、莫大な知識と運と手間暇と、ついでに才能という名の運も必要なのである。
それはともかくとして、何故この類いの呪いが難しいかというと、今までも度々問題になってきた神力の融和が原因だ。呪いを作った術者の神力と、呪われた側の神力がふれあってしまえば呪いの発動と同時に宿主は死んでしまう。
殺したいのならそれでもいいけれど、呪いを体内に取り入れさせる手間を考えると毒殺したほうが手っ取り早い手段だ。
宿主の中でその神力により発動して初めて機能する呪いは、神具の領域に近い。
神具制作者と神具は完全に切り離されている。他者でも使用できるのはそういう理由であり、他者でも使用できるための神具なのだ。
だからこそ、この類いの呪いは非常に難しい。扱いも、作り出すのもだ。作り出すには呪いと神具に関する才、この場合は体質に近い物が必要となるからである。
さらに、制作も取得も非常に難しい相手に根付かせる類いの呪いを、これだけの規模にどうやって広めたかという疑問は立ちはだかるのだ。はっきり言えば、前代未聞である。数十年及び数百年に一度現れるか否かの才能の持ち主が生涯に一度作れるかどうかの稀少な毒が、国中の人間に盛られたと同義なのだ。
この類いの呪いである可能性を疑っての、莫大な手間と労力がかかる検査は行われていないはずである。何故なら、この類いの呪いの検査は、宿主に大きな負担をかけるからだ。
だが、今回の相手に常識は通用しないので、思いついたありとあらゆる手段を試みるべきだ。検査だけで対象を死なせてしまう危険性を孕む高度な技術が要求されるが、行うのは神殿だ。ならば行うべきだ。むしろ神殿が無理なら他のどこでも検査は不可能になる。ここが最も高度な専門家なのだ。
「エーレ、後でこの仮説を神官長に」
「了解しました」
当然呪いの類いかどうかは、神殿が聖印を発動してまで動いているのであれば確認済みだろう。それでも、再度、いいや、三度、四度と行うことで見えてくるものもあるかもしれない。これは神殿にしか出来ないことだ。
黙って聞いていた王子は、肩を竦めた。
「まあ、聞けば聞くほどやってくれたなという気持ちが湧き上がるものだ。しかし、体質まで変化させられる力であればそれは最早神の万能だ。到底人が所持していい力ではあるまいよ。ゆえに、余の体質が変質させられておらぬのであれば、その点については少し安堵した。すっきりだ!」
「それはよかったです。それで二つ目なんですが」
「そなたが余の気分に全く興味のない様子がありありと分かり、寧ろそちらのほうが爽快だわ」
王子だって私の気分に全く興味はなかった。だからこそ私達は成り立っていたのだ。互いの顔色を窺う間柄であれば、王子と聖女など面倒な付属物を引っ提げた関係などなり立つはずがない。
だが、その関係が成り立ったまま崩された場合、齟齬が起こるのだ。
「で、二つ目なんですが、その合い言葉には現在の王子が私に許可を出していない言葉が入っています。口に出した途端斬りかかって来る可能性はありますか? ついでに三つ目。必然的にエーレも寝室への合い言葉と、許可が出されていない言葉を知ることになります。――如何しますか?」
指を二本から三本へと変えた形で、王子の言葉を待つ。
「面白がって決めたのは当時の王子ですので、恨むのでしたら当時のご自身を恨んで頂けると話は早いのですが、それではお気持ちが収まらぬようでしたら私と折半致しましょう。ちなみにエーレは無関係です」
「マリヴェル」
静かな恫喝を完全に無視する。事実、この件に関してエーレは無関係なのだ。自らの逆鱗に触れる単語を私に許した王子と、それを受け取った私。関係あるのはこの二人だけ。ならば何者かの手によってであろうと、それにより弊害が起こった場合責任も被害も私達二人だけが負うべきだ。
「ふむ」
王子は自身への問いかけともただの吐息とも取れる軽い音を発した。
「概ね予想はついた。構わん、許す」
「エーレも?」
「ああ、エーレならば加減と距離は見誤らぬだろうさ」
王子のエーレへの信頼が厚く高い。ちなみに、訳も分からぬ力で神殿内に侵入した男達に襲われかけた女を、一対一で護衛させるほどには神殿からも信頼が厚く高い。
私への信頼? 忘却以前から皆無ですね。
「分かりました。では、いきましょうか」
別にそんな改まる言葉ではない。ただ一つ、王子の逆鱗が混ざっているだけで。
そもそも自身の寝室への隠し通路の鍵を、逆鱗に設定しないでほしいと思いはする。だが、その時も今も、発案も許可も王子なので仕様がない。
一つ大きく息を吸うついでに腕を上げる。拳の形にした掌をくるりとひっくり返し、人差し指の第二関節で行き止まりを三回叩く。
「王族さんちのルウィくん! 今日もいっしょにあっそびましょ!」
久しぶりに発したはずの言葉は、料理長のスープのようにすっかり舌に馴染んでいた。
「何だそれ!」
「は、はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
秘密の扉を開けたら、エーレがあまりの絶望で胸を押さえてよろめき、王子が鍛え上げた腹筋を駆使した全力の笑い死にを起こし、左右から大音量が飛んできた私の耳も死んだ。
三者三様、相打ちである。