40聖
それにしても、先代聖女の墓標から紛失物が出るとは。無くなったのは歴代の聖女が好んで身につけていた首飾りだろう。楕円形の神玉が付いた、なんの変哲もない首飾りだ。
だがこの首飾りは、初代聖女が身につけていた物と言われている。初代聖女が亡き後、二代聖女が初代聖女の遺志を継ぎたいと遺物を身につけ始めたのは始まりだ。そうしてアデウスの聖女は代々同じ首飾りを受け継いできた。
そのしきたりが失われたのは、十三代聖女、つまりは私の代になってからだ。
別に私が何かをしたわけではない。先代聖女、つまりは十二代聖女がどうしてもこの首飾りを手放したくないと遺書まで遺し、墓まで持っていってしまったのだ。
秘密を墓まで持っていくのならともかく、特に可もなく不可もないしきたりを墓まで持っていかれてしまったのだから後が大変だった。ある時は可もなく不可もなかったが、無くなれば無くなった理由を探して不可ばかりとなるのだ。
おかげで、偉大なる先代聖女には予知能力があり、十三代聖女は聖女として相応しくないと分かっていたから大切な首飾りを持って眠りにつかれたのだと言い張る先代聖女派が続出した。
かもしれない馬車運転はとても大事だが、人を責める証拠としてかもしれないを提示するのは些かお粗末である。だが、そのお粗末が証拠だと心の底から信じている人間にとって、こうであってほしいそうであってほしいと籠められた自身の願望こそが真実だ。
それですべてが『正常に』罷り通るのであれば、そこは法と秩序を谷底に放り捨てた匪賊の国である。
神官長から聞いた話では、その首飾り自体に何か特殊な力があるわけではないらしい。使われている神玉は特別いいも悪いもなく、それなり程度だったそうだ。
初代聖女が身につけていたことからかなりの年代物であり、歴代聖女がつけ続けたことで、そういう意味での価値はついている。だが、それだけだ。持っていても何かに使えたりはしない。盗み取ったところで同じ趣味と倫理を持つ相手同士でしか自慢しあえない、本当にそれだけの骨董品である。
周りの装飾は何度か修繕が入っているほどだ。何せ、骨董品を実用品として使っていたのだ。そろそろ新たな修繕が必要だったと聞いている。
そもそも先代聖女は何故その首飾りに固執したのだろう。もうぼろぼろになった首飾りに使命を負わせず、共に眠らせてあげようとしたのか。他に理由があったのなら、それは何?
「そういえば、神力が失われている件はどうなりましたか? 数の増減は?」
「……緩やかにではあるが、増えている」
深く息を吸い、吐くと同時に言葉にする。
「ところで先代聖女の得意技、他者の神力を借りることだったりした気がするんですよね」
エーレは静かに瞳を伏せた。閉じたわけではない瞳の光が、睫の隙間から漏れ出していた。神様はエーレの造形を気合い入れて作ったのだろうかと思うが、神様もそこまで暇ではないだろうから、偶然の産物で気合い入った造形で生まれてきたエーレの豪運を讃えるべきかもしれない。
「……これらは全て憶測に過ぎないが、力を借り受けるだけでなく、搾取する術も可能だったのではとの意見が出た」
「成程」
聖印にどういう条件付けが為されているかは分からないが、その合間を縫って伝えてくれた最大限の情報は、不確定な絶望だった。
先代聖女、エイネ・ロイアー。
本当に、彼女なのだろうか。それはどれだけの絶望なのだろう。神官にとって、神兵にとって、神殿にとって。この国にとって、どれだけの。
私にとって絶望とはなり得ない。だって彼女は信望の対象ではなく、同じ聖女だからだ。そんな私でも、何かの間違いであれと願っているのだから、これがもし事実であれば人々が受ける衝撃はどれほどのものだろう。
「改めて先代聖女の資料を確認しますので用意を」
「ここにある」
流石、用意がいい。エーレの懐から、その薄い腹のどこに入っていたのだと思われるほど分厚い紙束が出てきて目を見張る。鉄塔をへし折ったサヴァスに殴られても臓腑を守れそうな分厚さだ。
辞書より分厚いのではなかろうか。よくこんな物を腹に仕込めたなと思ったが、両手で受け取る過程で分かった。エーレの両手は震えていた。明日はきっと筋肉痛だろう。
渾身の意地と根性で無理を通したエーレから受け取った束を、一番上からざっと目を通していく。
「……初代聖女からあるんですが?」
「当たり前だ。先代聖女に繋がるまでのすべてだ」
「文字が、細かいんですが」
「どれだけ簡略化しても全十二巻。その枚数に収めた代償だ」
「大惨事ですね。虫眼鏡ください」
冗談で言えば、本当に渡された。一応読めないわけでもないので、虫眼鏡は後で目が疲れた時用に取っておこう。
目と思考だけを動かし、蟻のような文字を流し読む。
とてつもなく残念な話であるが、敵が先代聖女と仮定すれば、数々の現実味のない現象はあっという間に実現不可能な領域に到達してしまう。あり得ない規模の術。それらに使用されるであろう尋常ではない神力。それらを可能とする術を、先代聖女は持っていたのだから。
残る問題は、数多の嘆きがあったからこそ行われた入念すぎるほど確認の末、決定づけられた死亡の事実。
そう、生きているはずがないのだ。
死体が操られた? いや、死体はそこにあったと言う。そもそも、死体は老女のものだ。聖女に認定された少女の年齢で現れるわけがない。ならば男達へ依頼したという少女は全くの別人なのか。だとすれば、異常な神力はどこから、どうやって。
それに、もしも先代聖女がこの事態を巻き起こしたというのなら、その理由は何なのだ。
「くれぐれも気をつけてください。敵の神力が無尽蔵である可能性があります」
「分かっている。……俺が持っている情報全てを、神官長にお伝えできないのは痛恨の極みだが」
「エーレ」
咎めを名前に乗せる。文字から離した視線を向けた先で、エーレは静かに頭を下げた。
あの空間での出来事は、決して口に出してはならない。決して、何があろうと、この世に持ち込んではならぬものだ。できればあの場での記憶こそを忘却してほしいが、自力では難しいだろう。それが歯がゆい。
重要となる情報を神官長に渡せないエーレの悔しさも理解できる。だが、あれだけは何があろうと駄目なのだ。その理由は、覚えていないけれど。本能に染みついた反射が否を叫んでいる。
……ああ、けれど。
「白い空間でのことでしたら、構いませんよ」
「何?」
「あそこは、違いますから」
私は自分で言っておきながら口籠もった。うまく言葉が出ず、思考も妙な鈍さと早さを繰り返す。
「何故そう思うかは、分かりません。だから、恐らくはこの部分が私にとっての忘却なのでしょう。私はあの場所について何かを知っています。けれどそれが何かは、分からないんです」
何もかもがもどかしい。私は確かに何かを知っているのに、掴もうとすれば散ってしまう。散っても消えたわけではなく、そこにある。もどかしさだけが募っていく。ならば、言葉を共有しなければ。私があやふやな存在として抱えているより、誰かが共有してくれているほうがずっといい。
私の持ち得る全てに、どの程度の価値があるかは分からない。何も思い出せない。私一人で眠らせるより、特級神官の実力を持つエーレに抱いてもらったほうが断然安心なのは自明の理である。
ぐしゃりと髪を握り潰し、眉間に皺を寄せる。頭痛がするわけではない。もどかしくて堪らないのだ。怒りすら覚えるほどに。
「……ああ、苛立たしい。ただでさえ忘却の自覚があって思い出せないのはもどかしいのに、そこに他者からの干渉があるとなると無性に腹立たしいですね」
もどかしさは、私が無性に焦っているから尚更だ。
あの場所は、それほどに、駄目なのだ。
絶対に、この世に持ち込んではならぬ場所。何故それを知っていたのだ。何故私はそれを知っているのだ。何故あの場所へ人間を放り込めたんだ。何故私はあの場所の恐怖を知っている。何故。何故。何故。
「……足りない」
何故この忘却は存在するのだ。
「……誰の忘却より、私の忘却を最優先にします。これは、欠けていてはまずい情報です。相手が先代聖女であれ、違う何かであれ、あの場所を出してくるのであれば、一刻も早く取り戻さないと。おそらく、取り返しのつかないことになる」
「もう、なっているだろう」
「当代聖女認知喪失なんてものじゃありません。もっと恐ろしい、損なわれてはならないものが失われてしまう」
本音としては、何よりも早く神官長に思い出してほしいけれど。何よりも早く、帰りたいけれど。駄目だ。最優先はこっちだ。そうでなければ、何かを失う気がするのだ。
「でも、思い出せないんです……私はいつから、これを覚えていないのか」
皆が私を忘れた日?
それとも、もっとずっと。
記憶の中に、宙があった。宙が私を見下ろしている。深いその宙を、私は覚えて。
「マリヴェル!」
弾かれたような声に、はっと顔を上げる。驚いて視線を向ければ、首元に刃を突きつけられたかのような顔をしたエーレが私を見ていた。
「お前、いま、何をした?」
「何、を」
考えていただろう。無意味に回した視線で、エーレの視線を捉える。強張った視線の先は、私の胸元へ繋がっていた。その視線を辿り、己の視線を落とす。
「……は?」
胸に咲いたままとなっている花が、私の身体へ明確に根を張っていた。
思わず指を這わせる。痛みはない。だが、私の肌に凹凸がある。波打つように伸びるそれは、確かな強度を持って私の身体に潜り込んでいた。