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38聖






 何もない。天も地も存在せず、風も水も生もない。ただただ白だけが存在する果てなき世界。

 手を伸ばせば、すぐ前に壁があった。何も見えない。世界は白に包まれている。けれど手は何かに阻まれた。見えない透明な壁がある。壁は曲線を描いているので、円になっているのかもしれない。


 果てない白の空間に対し、壁が囲む範囲は極端に狭い。人が立ちきる高さもなく、二人が並ぶ幅もない。円を描いているからなんとか位置を確保できているだけで、背を添わせそれぞれが身体を丸めなければ二人が収まることはできなかった。

 私が立ち、エーレが座る。そうなることで成り立った居場所で、伸ばした手に視線を移す。いつの間にか、私も白を纏っていた。エーレから借りていた服は足元に滑り落ちている。

 私が纏うは白い服。アデウスにおいて花嫁と聖女だけが着用を許された白い礼服。聖女にとっては普段着であるその白は、本来神官が神力を織り込み決められた手順を越えて作られる。

 しかし私はいま、誰の手も関与しない白を纏っていた。


 花嫁衣装より慎ましやかに、されど修道服より華やかに。

 彩られた白い服は、まるで式典に臨む聖女のようであり。死に装束のようだった。




 私の指が、丸みを帯びた見えない壁を撫でる。それを見上げるエーレを見下ろし、口を開く。


「身につけたもの全てを燃やしなさい。装飾品に至るまで全て、確実に。炭は聖水で溶き、聖山へ納めるように。何があろうと、他に持ち込んではいけない。さすれば禍となり、国を沈めよう」


 私の言葉を受け、エーレはゆっくりと立ち上がった。見えない壁は狭く、二人が立てば窮屈に感じるほどだ。向かい合うエーレの顔に戸惑いはない。代わりに、さっき私にあれだけ言葉を割いた、憎悪にも似た炎を瞳に滾らせている。


「お前は、誰だ」


 私の口が勝手に吊り上がっていく。私の身体が私の意思を通さない。私の意思を私が紡げない。私はいま、ここにあるだけの形だった。


「あの地へ墜ちた人の子が、よくぞ狂わず生を繋いだ」

「御託はいい。今すぐその身体から出ていけ」

「何故? これは我の物よ」


 エーレの瞳から炎が溢れ出る。抑えきれなかった炎は凄まじい熱気を生み出すも、私の身体には焦げ一つつかない。


「難儀なものよな。我を焼きたくとも、これは焼きたくないのではな……何だ、既に焼けておるではないか」


 私の指が私の顔を撫でていく。顔の引き攣りが消え、エーレの目が僅かに細まる。その瞳に映った私の顔から、火傷の痕が消え失せていた。


「こんなものか。汝の炎とこれを焼いた炎、どちらが勝るか見物よな」

「その身体をマリヴェルに返せ」


 私の瞳が細まる。


「その胸にある刻印は、人が考え出した力の一つか。成程。面白いことを思いつく。気付いておるか、人の子よ。それは呪に等しいぞ?」


 私が指差したのは、恐らくエーレが入れている聖印だろう。私の指がエーレの胸をなぞり、その中心でぴたりと止める。聖印は解除された後も入れ墨のように残るから、こんな目立つ場所に入れるのは珍しい。それだけ、神殿も本気でこの件に取りかかっているのだろう。

 エーレは黙ったまま私を睨みつけている。燃えたぎる炎は私の肉体を通り越し、私の中の何者かを焦す。その熱さに意識が焼かれる。おかげで、どこか霞がかった思考もかろうじて機能していた。


 何かがある。何かがあった。されど、私の中に形として掴めない。私の中に何者かが存在するのに、何の恐怖も感じない。怒りも焦燥も、嫌悪すらも。ここはどこなのか。いま、何が起こっているのか。私の中に何かがいるのか、突如入り込んだ異物なのか。分からないのに、それらの感情は一つも浮かばないのだ。


「お前は、何だ?」

「何であってほしい、人の子よ。お前達が恐れ戦く存在か、恐れ敬う存在か。どちらも違いはありはしないというに、哀れなものよ」


 私はあの日、神を見た。

 神はあの日、私を選んだ。

 神。神とはどんな形だっただろう。

 どこか霞がかった感情に疑問が浮かぶ。ぼんやりと漂う感情を探そうとした意識が、何かを掴む。これだ。これを思い出さなければならないのだ。これは、今の私が知っておかなければならないものだ。

 ほんの僅かな息継ぎで抜けそうになる意識で、私が持っていたはずの何かに掴みかかる。しかしそれはするりと逃げだし、霧散した。

 私の手が私の胸を掴み、薄く笑う。


「ほう、生意気なものよ。見ろ、人の子。こやつ、思い出そうとしているらしい」

「……マリヴェルに、忘却があると?」

「当然だ。だが、そうはいくまいさ。何せ、忘却を与えたのは我であるゆえ」

「お前が? 何故……お前は、何だ」

「なあ、人の子よ。このような矮小な存在がこの我に抗おうというのだから、腹を抱えて笑うべきではないか?」

「マリヴェルを侮るな。そいつは、やるといったらどんな実現不可能なことでもやってのける」


 哀れみと呼ぶにはあまりに酷薄な笑みが、エーレの瞳の中に映っている。私の顔が浮かべるその笑みは、虫を嬲る幼児より無邪気な色を讃えていた。


「面白いものを見た。ゆえに、一つ答えをくれてやろう。人の子よ、本来十三番目の聖女はあり得なかった。これは、あれにとって予想だにしなかった異物だ」

「それは、どういう……いや、あれとは誰だ」


 エーレは最も必要なものへと質問を変えた。賢明な判断であっても問いである以上応えがなければ意味をなさない。


「十三番目の聖女が生まれた時点で全ては定まった」


 疑問は空を切り、私が紡ぎたい言葉だけが世界へ散った。


「足掻くな、人の子。足掻いたところで、最早結末は変わらぬよ」








 私の喉から紡がれたとは思えない笑い声を上げた後、がくんと身体が傾く。私に私が返された。それは分かったのに、全く力が入らない。まるで借り物の身体だ。身体の主導権が戻されたはずなのに、ちっとも繋がっていない。まるで人形に放り込まれた気分だ。

 狭い円の中で放り出された身体は、あちこちに当たって跳ねる。肩が当たった反動ではね動いた頭がぶつかる寸前、手が差し込まれ流し取られた。そのままぶつかる場所がエーレの胸に変わっただけで、勢いは変わらず突っ込む。


「……痛い」

「俺も背中と尻が痛い」


 そうぼやくので、視線だけを巡らせる。確かに、私を抱えたエーレの身体は傾き、見えない壁に中途半端な状態で背を預けていた。これは勢いを殺せず倒れ込んだと見た。さぞや痛かろう。

 しかし、しばらく痛みに呻くと思われたエーレは狭い空間内で手を動かし、私の顔を両手で掴んだ。頬が潰されるかと思いきや、両手の親指で目の下を引っ張られている。


「貧血確認、ですか?」

「……さっき、花が咲いていたんだ」

「花? 目に?」

「目の中に、お前の胸元に咲いている花と似たものが咲いていた」

「胸から移動して? 目に咲くと、視界の邪魔になりそうで、困りますね」


 胸元を確認しようとしたが、腕が動かない。腕だけではなく、足もお腹も背中も首も、すべてに力が入らないのだ。


「身体が、動かない」

「じゃあ動くな。今のは何だったんだ」

「知りませんよ……」


 そんなの私が知りたい。


「エーレ、ちょっと私の胸確認してもらっていいですか?」


 エーレの上にべちゃりと張りついたまま動けない私の身体を、エーレは差し込んだ片腕で少し持ち上げる。そしてもう片方の手で引っ張った胸元に視線を落とす。


「変化はない」

「えぇー……」


 では、目に咲いたという花はどこから来たのだ。


「まだ咲いていますか?」

「いや……今は何もない」


 そしてどこへ行ったのだ。



 ひとまず視界が塞がる心配はなくなった。瞳の話なので、鏡でもなければ自分で確認はできないが、さっき咲いていたという間も視界の邪魔にはなっていなかった。だが、視界の邪魔になっていなかったのに花が咲いていたとはどういうことなのだ。


「痛みは?」

「何も……さっきも今も、視界は塞がっていなかったので物理的に咲いたわけではなさそうです」

「身体に、物理的に花が咲いて堪るか」


 私の胸に咲いた立派な花を再度ご覧頂きたい。

 視線を落とすと同時に、エーレの視線もそこへと落ちる。僅かな無言が重なり合い、再び同じ動作で視線を戻す。


「記憶は?」

「途切れていないと思います。身体と口が勝手に動いていたけれど、意識はありましたから。……恐らく、ですが。もし何か消えているのなら、私に判断がつけられない領域の話です。それと、今は中に何もいないように思います。あれは最初から私の中にいたのではなく、あの間だけ入っていただけかと。不法侵入に不法滞在で逮捕すべきでは? 神官頑張ってください。当代聖女が応援しています」

「仕事が増えた」

「やーいやーい」

「お前の」

「え!?」


 確かに、よく考えれば悪霊退散も聖女のお仕事の一つだ。あれが悪霊かどうかは知らないが。しかも私の身体が何者かによって勝手に使われたのだし、私の胸に咲いた花も目に咲いたという花も、結局私の私による私の為の対処になる。うわ、どこを取っても私の仕事だ。


「エーレは、無事ですか」

「ああ、もう問題ない。手間をかけた」

「いいえ」


 あの男達がどうなったのかは分からない。あの場に取り残されたのか。それとも弾き出されたのか。分からない。頭がぼんやりする。少し、疲れた。


「あまり、思い出せないんだ。あれは何だったんだ」

「思い出してはなりません。そのまま忘れなさい」

「……マリヴェル?」


 身体が動かない。思考が動かない。吐息でさえも、随分、疲れた。


「生ある人間が訪れてはならぬ場所。死した人間が辿り着いてはならぬ場所。人の身が踏み込んではならぬ場所。見るも聞くも許されぬ。記憶を持つも烏滸がましい。忘れなさい。覚えていては、生に障る」

「マリヴェル!」


 不意に大声が聞こえ、びっくりする。


「何ですかぁ。私まだ何もやらかしていませんよ」

「やらかした」

「えぇー……あ、エーレを敷き布団にしてることですか? この狭さだと、敷き布団になるか掛け布団になるかしか選択肢なくないですか?」

「それはどうでも……ああもう、本当にどうでもいい。王城の腹黒共の相手がマシに思える」


 それは相当だなぁと思う。同時に、同感だとも。

 嘆息し、ぶるりと震える。


「寒い……」

「これの戻り方は分かるか?」


 足元に落ちていた上着を足で取るという、高位の貴族らしい上品な仕草をしてみせたエーレは、その上着を私に掛けてくれた。そのあと空いた足を円にかけ、力を籠める。軟弱なエーレの力ではびくともしない。そもそも、透明な円の向こうに広がる世界は真白い虚無だ。


「さあ……でも、そう長くは続かないはずです」


 だって、私もう眠いから。





 寒い。まるで雪降る夜に寝床を見つけられなかった冬のようだ。真白い景色が宗錯覚させるのか。けれど視界の中に柔い緑が重なる。あの頃は持ち得なかった人の体温に凭れたまま、私は目を閉じた。この温もりがあるのなら、きっと凍死は免れるだろう。


「エーレ、どうしましょうね」

「何だ」

「どうやら私も、何かを忘れているようです」


 人は忘却する生き物だ。膨大な情報を保持し続けては生きられない。生きるために忘れ、忘れるために生きる。

 しかし、私は既に異質な忘却を知っていた。時の流れが押しやったわけでも、数多の情報に押しつぶされたわけでもない忘却を。そしてその忘却は、恐らく私の中にもある。


「……何を忘れているんだ」

「何かを。けれど確実に」


 だって私の中に虚無があるのだ。気付かぬ内はただそこにあった虚無は、その存在に気付いた途端猛烈なもどかしさと焦燥を生み出した。

 この虚無が故意であるなら、私は探さなければならない。意図的な忘却は、そこにあれば敵にとって不都合だからだ。だから、私は探さなければならない。何が欠けても、何が砕けても、何が溶け堕ちても。

 それを喪失と呼びたくないのなら。



 寒いと震える身体に、熱の籠もった温かな吐息が降る。生きた人間の温度は、いつだって温かい。


「なら見つけるぞ」


 あっさりと何でもない業務のように渡される返答がおかしくて、つい笑ってしまう。


「……恐らく、俺の中にも忘却はあるのだろう」

「何か気になる齟齬がありますか?」

「所々、引っかかる。自分の行動が理解できない。ただでさえ忙しいのに、何故俺は特級神官になろうとしたんだ」

「成程……エーレは常に忙しくしているのに更に自ら責任重大な仕事を背負いたがる奇特な人なんだなぁと思っていました」

「ただでさえ忙しい理由の八割はお前の所為なんだがな」

「話を戻しましょうか」


 戻したところで話題は大して変わらないが、主体となる目的部分が違うので華麗に逸れていってくれることだろう。


「そもそも、当代聖女にさえ忘却があるのに、俺に無いはずが無いだろう」


 エーレは一瞬半眼になったが、今はこちらのほうが重要と思ったのだろう。私の主題逸らしに付き合ってくれた。


「俺とお前に忘却があるとして、俺達は当代聖女を覚えている。ならば俺達の忘却は、誰にとっての不都合か。忘却部分は互いに違うのか、もしくは共通点があるのか……ここが解ければ、敵の形が見えてくるかも知れない」


 私達の忘却は、国中を巻き込んだ忘却とは違う。かけた人間が違うのか、理由が違うのか。どちらであっても形が見えればきっかけになる。


「だったら見つけて、処理するまでだ」


 私を抱える腕はどこか頼りないのにどこまでも優しく、温かい。人は温かければとりあえずそれだけでいいと思うのだ。

 薄硝子が砕け散ったような音が響き渡る。その音は、種が砕けた音とよく似ていた。

 一瞬の浮遊感の後、世界が現れた。動の気配、生の音。慌ただしく重なる神官と神兵達の声を聞き、私とエーレは折り重なったまま安堵の息を吐いた。








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