36聖
思わず腹を抱えて笑い出したくなった私を、薄暗い光を灯した瞳がじっと見ていた。
「エーレ、怖いですよ」
「お前が己の死を怖がらない以上の恐怖があるものか」
そうは言われても、事実なので苦笑するしかない。
「だって私の価値の在処は最初から決まっているじゃないですか」
さて、そろそろ時間だ。狭間の間にいた人々が、サヴァスの足に追いついてきたようだ。静まりかえった空間に人の気配が溢れかえる。まるであの頃のようで、懐かしい。
毎日、こんな気配を聞きながら目を覚ました。扉を開けた瞬間から騒がしい。あの日々が、もうずっと夢のようだと思っていたあの日々が本当に夢幻となった今日が来るだなんて思わなかった。
「……どうして明日があるだなんて思っちゃったんでしょうね」
明日神官長に言おう。お父さんって言おう。明日が、明日になったら、明日が来たら。
明日なんて稀少なものを当たり前に得られるのは、限られた人間だけだと知っていたはずなのに。楽しすぎて、幸せすぎて。温かくて、忘れていたのだ。
私は彼らと違うのだと。同じ権限を持ち得ないのだと、いつの間にか忘れていた。
「馬鹿ですよね。私、いつの間にかずっとがあるんだと思っていたみたいです。今日が続く保証はなく、明日は運のいい人間にだけ訪れる。スラムの人間は当たり前に明日を迎えられる権限を持ち得ないと分かっていたのにどうして……いつから、忘れていたんでしょう」
よっこいしょと立ち上がり、裾を直す。
「戻りましょうか。とりあえず部屋を移動していた理由は、私が恐怖に駆られて逃げ出したとでもしておいてください。襲撃犯と同じ部屋にいたくなかったといえば、皆納得してくれるでしょう」
もう一度手足の確認をしていると、目の前に靴が差し出された。代わりにエーレが靴を失っている。今更でもあるし断ろうとしたが、どうにもエーレの怒りが収まりきっていないので大人しく借りることにした。
基本的に、人は黙っているほうが怒っているのだ。下手に触らないほうがいいなと思いつつ靴を履く。今度こんな事態になったら、靴は脱がないほうがいいと学んだ。靴を履いていれば、逃げ足が速くなる。
それなりに縦には大きな靴が脱げない歩き方をその場で調整していると、エーレが問うた。
「荷から、何を探すんだ」
「指輪です。ご存じでしょうか。透明な石のついた」
「……ああ、あれか」
「ココがくれたんです。あれがあれば他者の力を借りられますから武器になります。まだ試作段階だったので、ひとまずココがいれてくれた力で明かりとして使っていましたが」
水晶のように無色透明な菱形の石がついた指輪。他者が使った術をそのまま保持できる優れものだ。神力をほぼ持たない私の身を案じ、作ってくれた。今は小さな箱に入っているはずだ。あの日、動作確認のために預けていた指輪を返してもらったばかりだった。だから身につけず、箱に入れたまま眠りについたのだ。
簡単にさっと説明すれば、エーレは妙な顔をした。そんな顔をされる内容だっただろうか。
「……指輪の説明を、初めて聞いたぞ」
当たり前だ。ココが私の為に作って贈ってくれた指輪を、私がつけていた。とても嬉しく有り難い出来事ではあるが、言うならばそれだけだ。別に大金を叩き手に入れたわけでも、珍しい品を買い付けたわけでもない。
神殿や神官を通す必要もない、私達個人で終わる。聖女と神官としての行動ではなく、ただ友達としての繋がりが贈ってくれた指輪だ。
だから、私とココだけで事足りる。ゆえに誰かに説明する必要はなかった。それに誰にも聞かれていない。
「そうですか……え? 何でそんな顔するんですか?」
それなのに、すぅっと底冷えする瞳が私を見た。
「見合い話を軒並み怪談にした当代聖女が唐突に日々同じ指輪を嵌めていた場合、王城勤務の神官へ押し寄せる問い合わせの数を求めよ」
「三件?」
「一日二百件だ」
「なんかすみませんでした」
どうやら余計な仕事を増やしてしまったらしい。
指輪を嵌めただけなのに。
「俺達も事態を把握していない内容を、あちこちから探りを入れ続けられる上に、神官長も心穏やかではなかった」
続けられた内容に飛びあがって驚く。
「どうして神官長にまで話が!?」
「自分の立場を考えろ。相手によっては勢力の移動が行われる。神官長も無闇に反対するおつもりはないようだが、状況によっては認められない可能性がある以上、聖女の色恋沙汰は神官にとって大事だ馬鹿野郎。何も聞かされていなかった神官長がどれだけ頭を悩ませていたと思っている。寝耳に水の俺達に殺到する問い合わせに地獄を見た」
「神官長が認められないような人を好きになんてなりませんよ。そんなの、真っ先に敵対対象でしょう」
「どうだか」
鼻で笑いながら吐き捨てられた。どうやら、指輪騒動で被った被害がかなり大きいらしい。確かに一日二百件問い合わせという名の探りが入れば、いらつく程度では済まないだろう。通常業務がまったく進まなかったはずだ。
「それに、そういうの全く想像もつかないんですが」
「お前に限らず誰も想像がつかないから余計に騒動が大きくなったんだ。お前がどういう行動を取るか前例がないからな」
「成程。だったら尚更言ってくれればよかったのに。そんなこと神官長より優先される事態とは思えませんし」
そう言えば、その手の話は見合いを含め一律断っていた為、正しい対処方法を知らない。これを機に一応聞いておこう。
「もし天変地異が起こってその手の事態に陥った場合、どの段階で報告すればいいのでしょうか。交際する前に神官長にお伝えするべきですか? それとも交際してから? もしくは婚約するくらいまでほっといていいものですか? まあ、相手にもよるでしょうが」
アデウスでの聖女は別に恋愛禁止でもなければ、他国では多い純潔でなければならないといった決まり事もない。
他国にいる多くの聖女は、男と身体を重ねたら聖女の力を失うそうだ。あれ、どういう仕組みでそうなっているのだろうと不思議に思う。男ができたくらいで力を失うのなら、その男は神より力を持っていることになる。神より授かった力がその程度で崩れるはずがないし、更に言うならば男の手によって聖女の力が失われるのであればその男は神に敵対する者、もしくは神とは相容れぬ者ということだ。それなら大騒ぎするのも頷けるが、そうではないのならたかだか人間の男一人に大仰な反応すぎる。
その制度決めたの絶対おじさんだと思うなぁと一番隊隊長は言っていたが、私も同感である。
そもそもアデウスの聖女は結婚して子どもを設けた人もいる上で死ぬまで聖女を続けているのだから何の問題もない。あるとすれば、身分やら何やらによるしがらみだけだ。
私の質問に、エーレも少し考えた。
「確かに相手による。……そうか、その辺りの話は誰もしていなかったのか」
「多分、私には関係のないことと思われていたのではと」
「それも大いにある」
もしくは、言える立場にある人間がいなかったのかのどちらかである。
何せアデウス聖女は男女関係において自由な立場だ。誰と結婚しようが、本来誰の許可も必要としない。その上で制限を設けるならば、それは聖女としてではなく家族間の決め事かそれに近しいものとなる。
私は神官長の言葉であれば拒絶するつもりは毛頭ないけれど、神官長は私の権利を丁寧に尊重してくれる人だった。だからこそ、この手のことは大人として守ってはくれたけれど何の制限も求めなかった。
あの日なりそびれた家族であれば、何か言ってくれたのだろうか。
妙な強さで傷を抉りそうで、ぱっと思考を戻す。
「一応、理想の形だけ聞かせてもらって構いませんか?」
「神殿関係者であり、尚且つ身元が確かなら交際を始めた後でも問題はない。それこそ婚姻の意思を伝えに来る程度で構わない。どうせその辺りだと、確実に交際している段階で周囲も気付くしな。だが、それ以外は交際を開始する前に報告があったほうがやりやすい。庶民であってもだ。一度相手の身辺を洗っておきたい。お前の場合、どこでどういう人脈を作っているか俺達も把握しきれていないから厄介なんだ」
暗に、抜け出して逃亡して闇夜に紛れてきたことを責められている。じっとりと半眼になった瞳が私を睨む。責められて然るべきではあるので、甘んじて受けよう。しかし甘んじてはいても神妙には受けていないのがばれたらしく、半眼が深くなった。咳払いで誤魔化す。
「概ね想定通りですね。まあ聖女は世襲制ではないので、子どもができても大して問題になりませんしね」
「……………………………………心当たりは?」
首元に刃を突きつけられた人間のような声を出さないでほしい。そんな声を出させるような内容では……送り主不明の指輪をつけただけで二百件の問い合わせとなれば、腹が大きくなったら収拾がつかない可能性に思い至った。そう考えると、彼の反応は大仰でなく正常である。
両手を上げ、服従の意思を示す。特に意味はなかったけれど、なんというか死なないでほしいの意図を籠めた全面服従である。
「全くありません。心当たりができた場合、神官長に報告すればいいですか?」
そう聞けば、先程まで死にそうな声を出していた人間とは思えない顔をされた。心の底からこいつ馬鹿だなと思っている顔だ。
ちなみに、これに軽蔑と嫌悪を混ぜ込んだ視線を向けた相手は軒並み新たな扉を開いたと聞くので、エーレは表情の使い所をしっかり見極めたほうがいいとは思う。私も神官が「踏んでください」と土下座されている場面を一日四度も見たいわけではないのだ。三度までならまあ慣れた。
人々の新たな扉を開けまくったとまことしやかに囁かれる……声を大にして書き記されている冷たい視線を私へ向けたエーレは、同じほど冷たい声を私に落とす。
「お前は神官長の心臓を止める気か?」
「何故!?」
聖女の私生活に大きな変化がある場合、神官長へ話を通すのが礼儀ではないのだろうか。
「……じゃあサヴァスですか?」
「物事を大きくし尚且つ取り返しをつかなくさせる天才的な発想だな」
「えぇー……あ、ヴァレトリ? 一番隊隊長ですし、妥当ですね」
「相手の男は殺され、世界に静寂が齎される画期的な発想だな」
「なるほど王子ですか」
「想像もつかない大事になった上に自身を父親と言い出しかねない危険性を孕む神がかり的な発想だな」
神殿の上位に位置する神官と神兵と、ついでに国の上位に位置する王子を選んでいるのに、何故大惨事になる結果しか訪れないのか。
「ココはああそうしか言わないでしょうから、神殿への報告はどちらにせよ私自らすることになりますし……え? 結局誰に?」
そんな予定は皆無だが、ここまで報告先がないと不安になってきた。流石にここは神妙に答えを授かろうとエーレを見ると、何故か愕然とした顔をしていた。
「え?」
驚きのあまり思わず見守ってしまう。その間に、エーレの顔色は青くなり、白くなり、この世に絶望した色となった。ほんの僅かな間にエーレがどんどん世を儚んでいく。何故?
「あの……どうしました?」
「………………話したくない」
「え、えぇー……」
どうしたものかと少し悩むが、放置するには絶望が深すぎる。これが見知らぬ他人ならば介入する権限もないことだしと放置を推奨するが、相手は神官だ。神官である以上、聖女の管轄である。まして相手は特級になるはずだった神官だ。このままにするわけにはいかないだろう。
「うーん……尋常じゃない事態なので一応。すみません。エーレ、話しなさい」
ぐっと詰まった息の音に申し訳なさは募るが、唯一の味方であり懐刀である彼に不調を生む存在であるなら把握しておきたい。私が持ち得る戦力は正確に把握する。基礎中の基礎だ。
それはエーレも分かっているのだろう。のろのろと開いた口から、鋭く短い息を吐いた。覚悟を決めた後は早い。
「なぜそう思ったのかは心の底から謎だが、報告は俺が一番に受けるべきだとの絶対的な確信があった。だがよく考えればそんな七面倒な事態は頼まれたって御免な上に、絶対に関わり合いになりたくない確固たる意思がある。最初に報告する相手として俺を選ぶ場合は最終手段にしてくれ」
「はあ、了解しました」
そんな面倒な事態に巻き込まれるのは絶対に嫌だとの強い意志と熱意を感じる瞳と声だ。それなのに真っ先に報告を受けるべきだと思ったとは、他の面子があまりに酷すぎる所為だろう。巻き込まれたくないのに、巻き込まれなかった場合最終的にもっと酷い事態の後始末をしなければならない立場である彼が心底可哀想だ。色々考えることが多すぎて自身でも混乱を来たしているではないか。
そう告げれば、エーレは何故か命綱をギリギリで掴んだ登山者のような安堵を浮かばせた。
「そうか……報告を受けない場合のほうが酷いからそう思ったのか…………待て、どちらにせよ俺に救いはないのか?」
「私のこれから先あるかどうかも定かではない色恋沙汰のためにどうもすみません。まあ、そもそも私の指輪一つでそんな騒ぎになるほうが不思議なんですよね。ココだって驚いて」
笑いながら言葉を紡ぐ途中、何かが通り過ぎた気がした。