34聖
頭を白く染め上げていられる時間は、そう持てない。私より早く思考を戻したエーレが、指示を確かめるために視線を流してきた。人差し指と中指を揃え、僅かに動かす。
落とせと籠めた指示を忠実に読み取ったエーレにより、男達の周囲を囲む炎は息を吹き込まれた竈のように吹き上がる。あっという間に燃え尽きた酸素を求め呻く暇すらなく、二人の男は地に落ちた。
倒れ込んだ男達を縛り上げる必要はないだろう。どうせすぐに神兵と神官が集まってくる。それまでに、せっかくの機会を生かさなければ。思考なら、後でいくらでも回せる。どうせすぐには解決しない疑問だ。ならば優先すべき事柄を先に済ませよう。
そう、冷静に判断しているつもりだが、自信はなかった。思考を危機から正常に戻す過程で他の感情が溢れる余裕ができてしまったからだ。
ぺたぺた歩き出した私の後を、私よりはっきりした足音が追ってくる。靴を履いている者と裸足の差だ。
住み慣れた廊下を足早に進む。一般人は早々立ち入りが許可されない神殿の最奥は、美しくどこか硝子細工めいて見える。透明感ある光がよく通る作りも、陶器のような材質も、美しさの代わりに強度を置き去りにしているかのようだ。
けれど、とんでもない。長い間神力が籠められ続けた神殿は並大抵の神力では傷一つつてられず、尚且つ当代神官長は歴代随一と呼ばれる水型の結界だ。現在この神殿は、どんな軍事要塞よりも強固な頑強さを誇る場所だ。
まるで水の中を歩いているかのような光降る通路を、足早に進む。あの頃と変わっていない。変わっているとすれば人気の薄さと、花の少なさくらいだ。毎日絵画より多くの花が飾られていた廊下はしんっと静まりかえり、生の気配が薄い。
「マリヴェル」
「私の私物は北館地下倉庫ですか」
「マリヴェル」
「まさか聖堂の間ではありませんよね。そこまで危険視されていると忍び込むのは少しむずか」
「マリヴェル」
ほとんど小走りで追いついたエーレは、私の言葉を遮りながら腕を掴んだ。思ったより強い力に引かれ、身体がよろめく。
「怪我をした状態でうろつくな」
「私の意思ではありませんが折角ここへ来たのなら好都合です。必要な物を取ってきます」
声は控えめに、言葉は手短に。これだけ人の気配が薄ければ音が通り過ぎてしまう。わざわざ人を呼び寄せ、騒動を起こす趣味はない。聖女の私室から移動する理由はどうとでも作れる。恐ろしくなって逃げ出した、またはあの部屋に飛ばされた時と同じように気がついたら全く違う場所にいたとでも言えばいい。
それなのにエーレは私の肘を引いたまま、手近な扉を開けた。そのまま中に放り込まれ、蹈鞴を踏む。
「駄目だ。必要なものがあれば俺が取ってくる。お前は動くな」
「私の私物です」
私を放り込んだ力自体は大したものではない。怪我人であることも考慮されているのだろう。だが、譲る気は欠片もないらしい。扉の前を陣取ったエーレは一歩も動きそうになかった。
放り込まれた部屋は少人数での会議に使われる部屋だ。聖女の私室に近い部屋である。この部屋を使えるのは聖女に近しい立場にいる人間だけだ。今は会議の予定もなく、椅子も机も丁寧に磨かれた状態で静まりかえっている。まるで、今のエーレのようだ。
いつもの怒声も拳も出さず、整った美しい顔が静かに私を見ている。
「……何ですか」
思っていたより苛立った声が出てしまう。その事実に、さらに苛立つ。
「マリヴェル、自分がどんな顔をしているか分かっているのか」
「まあ、焼けたのなら見れたものではないでしょう。お見苦しいとは思いますが」
「そんなものはどうでもいい」
静かで透明感のある炎が、紫がかった青色をした瞳の奥で揺れている。そこにあるのは私と同じ感情だ。同じ理由ではないだろう。だが、熱量は同じだ。
「頭を冷やせ。今にも人を殺しそうな顔をしている」
「……人のことが言えるのですか。今にも神殿を焼きそうな顔をしているあなたに言われたくはありません」
「俺は自覚がある。ゆえに自制に気力を割ける。確かに敵のやり方は卑劣極まりない。外道としての底辺も越える。だが」
「それこそどうだっていい!」
抑えきれず、声が跳ね上がる。構わない。どうせここは外に音が漏れない作りになっている。
「顔を焼かれようが男に襲われようが、そんなものはどうだっていい! むしろ手緩さに敵の方針を考え直していますよ!」
「……手緩い?」
どちらにせよ、一度飛び出した声量はもう戻せなかった。
「ええ、ええ、怒っていますよ! 当たり前ではないですか! ここをどこだと思っているんですか! 神殿の最奥部ですよ! 神官長が直接管理する最たる場所です! そこに、よりにもよってこの場所を当代聖女を害す現場に選んだ!」
許せるものか。許すものか。
「神官長を侮辱するにも程があるでしょう!」
私達は狭間の間にいた。男達の言が正しければ、彼らは城の外にいた。そして敵はどこからでも好きに人を飛ばせるのだ。ならば人の手が入らない場所を選ぶのが定番だろう。人目がなく、人通りがなく、音が響かず、誰にも見つからない場所。
それなのにわざわざ選ばれた場所は、聖女の私室。
敵にとってどう都合がよかったのかは知らない。私が夢のような幸福に浸った日々を過ごした場所で悪夢を見せたかったのか。ただ単に己の力を誇示したかったのか。
だが、どんな理由があろうとここでの騒動は、神官長に直結する。
ただでさえ、現状王城から非難を受ければ神殿に不利だ。たとえ相手が未曾有の神力を持った相手であっても、王城が標的となっていれば王城自身太刀打ち出来ない相手であろうと、後手に回っている神殿は非難を免れない。
王城が標的となり後手を踏めば、基本的に神殿からは攻撃を行わない。だが、逆であれば。先代聖女に叩きのめされた王城は威信を守るため手負いの獣となっている。相手が弱れば弱るだけ、手を差し出すのではなくとどめを刺しに来るだろう。
当代聖女認知喪失。
忘れたのは王城も同じだ。エーレを除いたこの国の誰もが同様だ。それを罪とするならば全てが同罪で、防衛できなかったというのなら当代聖女自身の過失となる。だが、責められるのは、王城が責めたいのは神殿だ。崩したいのは聖女の威信ではなく神殿の勢力なのだ。あけすけにいえば、聖女はどれだけ盆暗でも構わない。神殿がそれを覆ってしまえるからだ。聖女はお飾りでいい。聖女の役割とはそんなものだ。
だから聖女選定の儀に個人の優劣をつけるようなものは存在しないのだと、私は思っている。
そして王城もそう思っているからこそ、彼らが神殿の威信低下を願っている以上、非難は一身に神殿とそれを束ねる神官長へ向かうだろう。
先代聖女が食い破った王城の威信は揺らぎ、だからこそ神殿の隙を狙っている。現在の神殿は王城を攻撃する意図がないにしても、今回の事件と聖女選定の儀に注力しなければならない時期だ。いま余計な茶々を入れられては、迷惑では済まない事態となりかねない。
当代聖女としての認知を失わずにいられたら、私が矢面に立てばいいことだった。聖女が前面でへらへらしているのに、それを無視して神殿まで攻めることは難しい。あからさまに聖女を蔑ろにすれば神殿が動く理由を与え、また民からの不信感を抱きかねないからだ。
だから、王城に呼び出されるか神殿に招き入れるかして、私がぼけぼけ笑っていればそれでよかった。それだけで、王城からの侵攻は防げる。
しかし、今はそれができない。できないから、神殿に隙を作っている。
神官長に、傷を負わせるかもしれない。
焼けた頬が引き攣る様さえ煩わしい。怒り以外のすべてが煩わしい。
「お前の怒りは理解する。咎めるつもりもない。だが、マリヴェル。お前、自分がしている顔を分かっているのか。それは最早憎悪だ。歯止めが利かないまま動けば、お前は必ず後悔する」
私へ向ける静かな声が、己も熱を抱え、されど噴出させず堪えた瞳が、私を諭す。責めてはいない。怒ってもいない。ただ、諭していた。その瞳が神官長に似ていて、ぐっと息が詰まる。
呼吸をし損ねたのか呻いたのか、自分でも分からなかった。静かな瞳に映る私は、確かに呪わしい目をしていた。怒りを通り越し、憎悪を抱き、私をこの場に飛ばした敵へ呪いを抱いている。この謎の解決ではなく、敵への憎悪を主目的とした感情は、宜しくない。
神官長にもらったこの生と名を、誰かを呪うための物語にするわけにはいかないのだ。そんなものに使うくらいなら、あのとき林檎の絞り汁を一口含んで死んでいった小さな子と共に死んでおくべきだった。
私の負は、神官長への負債となる。あの方の後悔になるわけにはいかない。なりたくは、ないのだ。