32聖
「少し出てくる。エーレ、お前は神童の名に懸け、その大馬鹿者を医務室から逃がすなよ」
「ああ。だが、十八にもなっても童扱いはやめろ」
一度逃げられたのが余程腹に据えかねたのだろう。何度も言い置き、ようやくカグマが医務室から出ていった。私は炎の檻に囲まれ、大人しく点滴を受けている。全く信用されていない。
おかしい。カグマにとって私は昨日今日の付き合いだから、信頼されていないのは当然だが、ここまで他人を信じない人ではなかったはずなのに。まるで怪我をした猫のような警戒っぷりだ。そんなに私が信用ならないというのか。なるはずがない。深く同意する。
エーレは少しの間扉を見ていたが、やがて炎の檻を解いた。
「正式に俺がお前の付き人となった。睡眠時以外は俺がつく」
「ココがよかった……」
「ココと俺が候補に挙がったが、ココは全力で拒否をしていた。むしろ俺は押しつけられた」
悲しい。
「もう点滴終わるまで寝てやる……」
「午後になったら起こすぞ」
針が刺さった腕は曲げられないので、仰向けに眠るしかない。掛け布団を引っ張り上げながら大欠伸をする。血が足りない。
「頭を使うなら糖分を入れておきたいので、昼食前に起こしてください」
「マリヴェル」
エーレは私を見ていない。まっすぐに窓の外を見ている。
「誰もお前を覚えていなくとも、お前が神殿と神官長の名誉を守るというのなら、絶対に負けるな」
そんなの、当たり前だ。私は私の為に決闘を受けたし、挑むのだから。褒められなくていい。礼などいらない。そんなものはいつだっていらない。ただあの人達の名誉が守られるならそれでいい。私のせいであの人達の有り様が穢されないのなら、それだけでいいのだ。
星落とし。
貴族が嗜む盤上遊戯であり、軍で重宝される訓練方法でもある。
線が引かれた盤。神力を注いだ神玉で作られた駒。駒の種類は、王、王妃、政務官、騎士、一般兵からなる。王は王妃に強く、王妃は政務官に強くと、互いの駒が盤上でぶつかれば強い駒が弱い駒を取ることができる。格下の駒が上位の駒を取りたければ、二つの戦力を合わせる必要がある。騎士が政務官を取りたくば、もう一つ別の駒を用意すればいい。しかし一般兵と一般兵を合わせても王は取れない。
取った駒は、自軍の一般兵として活用できる。敵の駒を三つ取った駒は、一つ格を上げることができる。ただし、変化できるのは騎士と一般兵のみだ。何故なら王と王妃は変わらず固定であり、政務官も王になれず固定されるからである。さらに王は、自軍では猛烈な強さを持つが、そこを出てしまうと一般兵でも取ることができた。
ちなみに多くの遊技でそうあるように、星落としでも王が落ちれば負けである。
他にも取られた駒を取り返した際のルールや、相手を取った回数によって駒の強さが変わったりといろいろあるのだが、ようは駒の強さと関係性、駒によって違う進める範囲と方向、駒の変化の形。それだけ覚えれば、後は自由だ。定石を競うもよし、奇策を繰り出すもよし。好きに打てばいい。
なんであれ、打った結果が、勝敗だ。
「私の勝ちです」
澄んだ音を立てて、アーティの王が砕け散る。ぎりっと噛みしめられた歯の音が、砕けた駒と重なった。溜息とも呆れともつかぬ吐息が、見物人の誰かから零れ落ちる。
盤面を挟んで向かい合う私とアーティを囲うように配置された椅子には、聖女候補達が座っている。ベルナディアは、途中で飽きたとふんわり笑って退出し、三人娘も同時についていったので、少なくともそれ以外の誰かであろう。
壁際に立つ神官と神兵でもないはずだ。そちらは仕事中と書いた顔面をしている。ココとサヴァスもいた。神官長の姿はない。当たり前だ。選定の儀に関係ない聖女候補同士の諍いにわざわざ出向くはずがないし、出向いてはいけない。
私から取った王妃の駒を握りしめた拳が、勝敗を決した盤上の横に叩きつけられる。残った駒が踊り、枠からずれた。盤面から逃走を図り落下した駒は、天辺を起点とし同じ場所で弧を描いた。
「王が盤上を縦横無尽に逃げ回る星落としがありますか!」
「なんで皆そう言うのですか!? 王だって戦力でしょう!?」
くわっと怒られたので、反射で叫び返してしまった。ルール違反ではないのだが、王が逃げ回るのは外聞が悪いと好まれない戦法らしい。私は使えるものは使う戦法を採用しているので、王はよく敵陣に切り込んでいくし、一般兵に殺されるし、王同士で一騎打ちにもつれ込むし、遠くの駒を動かそうとした肘が当たり場外乱闘を始める。
こほんと咳払いをし、改めて姿勢を正す。
「勝敗にご不満がございますか?」
「……いいえ。わたくしの、負けです。ありがとうございました」
握りしめていた王妃を盤の上に置き、頭を下げたアーティに合わせ、私も頭を下げる。
「ありがとうございました」
試合終了ありがとうございましたの礼は、勝敗にかかわらず必須だ。これは試合と相手への敬意なのだから。
薄く、けれど深い息を何度か繰り返したアーティは、背もたれに預けようとした背をまた元の位置に戻した。
「奇をてらった言動による物珍しさだけで場をかき乱そうとしているのではないと分かり、安堵致しました。その言動は全く理解できませんが、貴方にはきちんと考える頭があると試合を見れば分かります。ならば、貴方のふざけた言動も選択の結果なのでしょう。憶測から失礼な嫌疑をかけ、申し訳ありませんでした」
「私に関しての謝罪は決闘の範疇に含まれていません」
「神殿及び神官長への謝罪は、後ほど改めてさせていただきます。わたくしの浅慮から本当に失礼な侮辱を致しました。深くお詫び申し上げます」
静かな声で告げた後、盤に額がつきそうなほど頭が下げられる。
「私への謝罪は必要ありませんが、それでもくださるというのであれば受け取りましょう。ですから、顔を上げてください」
「……わたくしの浅慮をお許しくださり、感謝致します」
ゆっくりと上げられたそこに、怒りや恥辱は見られない。この様子ならば言葉に嘘はないのだろう。神官長達への謝罪が真摯に執り行われるのであれば、何でもいい。
私への謝罪は心底必要ないのだが。
だって私は、彼女が自らの言動を顧みた上で下した結論により、真っ当な謝罪を神官長達へ向けてほしいだけだ。恥をかいてほしいわけでも、ましてや傷ついてほしいわけでもない。
自分を断罪者だと思う人間は、碌な末路を辿らないだろう。また、裁く権利を持たないはずの誰かにその役を望む人間も。そういう人間は、罪を犯した人間より遙かに醜悪で、悍ましい。
「これは許す許さないなどという問題ではありません。私達の間にあるのは、決闘の取り決めと結果だけです。それ以上でも以下でもないものに、以外などありません」
相手に反省や謝罪を求めるのではなく罰だけを望む人間は、どんな化け物より醜悪で悍ましい。
王でもなければ裁判官でもなく、そこに至るまでの警邏や騎士ですらない。裁く権利を持ち得ない人間は、断罪者として必要な罰など判断できようもない。
裁く権利を持ち得ない人間が、必要以上の罰を与えた場合、それは罪ではないのだろうか。それは、罪の意識を持たない悪質な加害者ではないのだろうか。お前への罰だ、お前の罪だと、よってたかって際限なく振り下ろされる拳に制限をかけられる理性を誰しもが持てるのならば、裁判などという制度は必要ないだろう。
人はそこまで清らかには創られていない。罪を犯さぬ生き物としては生まれてこられないのだ。間違わず、清く正しく万能に生きる人間ばかりであれば、そもそも罪や罰という概念は生まれない。だってそれは神の領域だ。
私達は人間なのだ。そこに罪が生まれ、罰が必要とされる。だからこそ法があり、職務としての断罪者がいるのだ。
だが、これは理想の話だ。理想とは美しく、無理難題で、綺麗事で、夢幻に近い正当性がなければならない。だって理想が正しくなければ、人は何に向けて自らを律せればいいのだ。何を夢見て、願えばいいのだ。
理想とは難しく、毎度毎度実行できる代物ではない。なればこそできそうなときはしておくべきだ。
色々、思うところはある。けれど自らの未熟さを律し、怒りは宥めなければならない。だって今回の件で許す許さないの差配を下す権利を持つのは私ではなく神官長なのだ。むしろ私は、彼らが侮辱されるに至る原因を作った、裁かれる側である。
強く賢く気高く、美しく優しい人に憧れる。神官長のような、そんな人に。
けれど私はどうしたって醜く汚く、どうしようもない人間なので、自分を律さないとすぐにあの人達に汚泥をかぶせる行動しか取れないのだ。
私はあの人達のように美しいものを与える存在には決してなれない。それでも傍に居続けるために、少しでも、少しでも、真っ当な人間に近づきたい。
アーティもきっと正しいとされる行動ではなかったのだろうが、私とて未熟だ。ここは裁かれる者同士、決闘の結果を遵守するに留めたい。
「ですから、私とあなたのこの確執はここまでです。新たな確執ができれば、それはそのときの話なのですから」
「……ご配慮、感謝しますわ」
最後に互いに頭を下げ合い、私とアーティの間ではこれで終わる。アーティは背もたれにどっと体重を預けた。私もへろりんと力を抜き、椅子に沈み込んだ。頭使って疲れた。
アーティは戦闘が終わった盤面を睨みつけるように見つめる。
「……奇抜ではありましたが、あなたの星落としの腕前、一朝一夕で培われたものではございませんわね。どちらで習われましたの」
星落としは、道具一式を揃えるのにそれなりのお金が必要で、さらに対戦中駒が立ち位置を変える度仕込まれた神力を消費する。つまりは維持にもそれなりに手間と金銭が必要となるのだ。スラム育ちを公言している私が、そうそう学べるものではない。
「私にも、名前をつけてくれた方がおります。一緒に遊んでくださったその方が、教えてくださったのです」
ルールや駒の進め方だけでなく、星落としという遊技そのものの存在も、すべて。空いた時間に、寝物語の前に、夕食の食材をかけて。遊んでくれたのだ。打てるようになった後は、誰とでも遊んだ。王子と屋根の上で一日中額をつきつけていた日もあるし、一人の時間は石を使って負けた試合を考えた。勉強は苦手でも、使う場所が違うのか脳みそはよく働いてくれた。
簡単な話、とまでは言わないが、私には下地があった。それだけだ。おそろしい量の定石を繰り出してくる神官長、定石と奇抜さを気紛れに操ってみせる王子、力任せに食い破ってくるサヴァス、最小限の労力で気がつけば王の首を取っているココ。
エーレとはしたことがないので、今度してみたい。サヴァス派だったら意外で面白い。
「あんた、すごいじゃないか!」
ポリアナの声を皮切りに、見学者からわっと声が上がる。
「すごい、すごいです!」
一際大きな声で手を打ち鳴らすアノンと一緒に、何人もが拍手を始めた。音が重なり合い、誰がどの音を発しているのかあっという間に分からなくなる。ただ、アノンが一所懸命誰よりも早く手を鳴らしているのは分かった。アーシンは船を漕いでいる。視線をアーティへ戻す過程で、エーレの姿を視界に収める。他の神官や神兵と同じように、仮面でも被っているのかと思うほどの無表情だ。それでも僅かに笑って見せたように見えたのは、私の気のせいだろうか。
「あんた、負けたらごねるかと思ったよ。見直した。意外とさっぱりしてるじゃないか」
一人立ち上がり傍まで歩いてきたポリアナの言葉に、アーティはつんっとそっぽを向いた。
「そこに不正がないのであれば、両者納得の上始めた決闘の結果にとやかく言うような無様な真似は致しません」
それは決闘を行う上で、基本的であり絶対的なルールだ。しかし敗者が背筋を伸ばし、まっすぐに遵守する光景は意外と少ない。負けた人間は恥をかかされたと怒る場合もあれば、勝負の無効を訴える場合もある。利は勝者にあろうと、後ほど報復がないとは限らない。決闘の報復は恥ずべき行為とされているが、これまた珍しくもない。栄誉と名誉をかけて行うはずの決闘だが、結局は人間の采配なのだ。
「へぇー。ねえ、あんた。今夜一杯いかない?」
アーティが座る椅子の背もたれに腕を置き、くいっと曲げられた手首に、アーティは呆れた目を向けた。
「一杯だなんてつまらないこと仰らないでちょうだい。わたくし、樽でいけましてよ」
「豪気にもほどがないかい? まあ、あたしも樽派だけどね」
アデウスでは十五歳からお酒解禁なので、二人の会話には何の問題もない。問題はないのに、なんだかはらはらしてきた。そして神殿の食糧管理当番はお酒を隠したほうがいいと思う。料理用まで飲み干される危険性が出てきた。
「あんたもどうだい?」
「あ、私はこの後昨日の部屋に戻るようお達しが出ていますので! でも誘ってくださってありがとうございます!」
「お達し? そんなのあたしらには出ちゃいないよ」
ポリアナとアーティ、そしてアノンの疑問が重なった。アーティを中心にし、残り二人が首を外側に傾けたので、なんだか観劇の看板のようで面白い。
「そういえば、あんた結局昨日はどこに泊まってたんだい?」
「医務室です!」
私以外の面子が顔を見合わせた。神官と神兵は頭を抱えた。人前なので、もっと冷静さを保ってほしい。
「……それ先に言っときゃ、こんな騒動必要なかったんじゃないかい?」
「あははー……そうですよねぇ……」
背もたれに深く体重を預けたアノンも苦笑している。アーシンも同じ体勢だが、こちらは寝ている。残りの聖女候補達の名前はまだ覚え切れていないが、大半がアノンと似た表情を浮かべていた。
「全く以て同感でしてよ! わたくしが短慮を起こし言いがかりをつけ、勝手に負けたかのようではないですか! 全く以てその通りでしてよ!」
アーティには是非とも落ち着いてほしい。
盤を挟むように叩きつけられたアーティの拳で、机どころか世界が揺れる。盤上に残った駒も揺れ、倒れそうになりながらもなんとか体勢を保ちきった。なんとはなしに倒れかけた駒を見ていると、左頬にちりっとした痒みを感じた。
いや、痛みだったのかもしれない。
光と熱が覆った左の顔面を反射的に跳ね上げた左手で押さえる。倒れかけた身体を支えようと無意識に動いた右腕が、盤上の駒を薙ぎ倒した。
「きゃあ!」
「火!?」
周囲から悲鳴が上がる。椅子を蹴倒す音も、慌ただしく上がる衣擦れの音も。
炎が走る。部屋の中に突如上がった炎が、私の顔を覆う。痛みとも痒みともしれぬ、ただただ熱さしか感じぬ肌を握り潰す手の向こうで、向かい合っていたアーティが目を見開いていた。
「誰か水を!」
金切り声を上げたアーティが、机の上に身を乗り出し、炎をものともせず手を伸ばした。しかしその手が届く前に、全ての景色が消え失せた。