3聖
今まで借りていたベッドから、壁に向けて手を合わせる。そこには、簡易な神棚と神玉があった。
神玉とは、アデウス国において神を祀る際に用意される宝石のようなものだ。大きさも形も色も様々だが、神の象徴として祀られる際は丸い物が使用される場合が多い。綺麗な円形であればあるほど値が張る。
名が神玉なのは、アデウス国でしか産出されず、この国で神具として扱われているからだ。だから、他国ではあまり流通していない。
目の前にあるのはそれはもう綺麗な丸。しかも子どもの頭ほどの大きさ。おそらく、一等地でもなければ家が一軒買える。本宅でもない本置きの家に置かれる品では絶対ないが、王都に荷物置き用の一軒家を建ててもらえるお坊ちゃまの別宅なら納得な神玉に手を合わせたまま目を閉じる。
そして、閉じた目蓋と合わせた掌にぐっと力を篭め、両方開く。
神様、どうもこんにちは、マリヴェルです。
今日から聖女選定の儀が始まるので、今から行ってきます。
神様もいろいろ忙しいと思いますが、気が向いたら援護お願いします。援護がなくても頑張りますが、援護があったら楽だし嬉しいので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
つい先月までは、聖女の務めとして自分より大きな神玉に向かって毎日祈っていた。一応スラムでも神殿へ向けて祈ってはいた。ゴミ山の上から。
儀式として必要な動きは一切省き、祈りだけを送る。正直、これだけで充分だと昔から思っている。神様、たぶんそこまで見ていない。
だって、声はほっといても聞こえるだろうけど、視界にはこっちから「そいやぁ!」と眼前へ滑り込まないとわざわざ覗き込んで見てくれるほど暇ではないと思うのだ。
まあ、どちらにしても神様への祈りは、基本的に来るか分からない援軍要請である。神様助けてと祈ったところで助けがくるとは限らず、またこないとも限らない。だからこそきたら嬉しい。
何にせよ、どんなことも自分が頑張らなければ意味がない。かけっこで一番になりたいと祈ったって、自分が走り出さないと一番になんてなれっこない。豊作にしてくださいと祈ったって、土を耕し種を植えなければ何も芽吹きはしない。
それでも、祈りとは願いだから。
神様、神様、神様。
私の大切な人達が、事故に遭ったりせず、何事もなく無事に帰ってこられますように。
どこも怪我をせず一日を終えられますように。
不幸や不運や厄や悪縁から守られますように。
皆の今日が、明るく穏やかな幸いで満ちていますように。
皆が今日も笑っていられるように、アデウス国が平和でありますように。
世界に生きる誰もが、夢の見方を忘れたりしませんように。
誰もが、人が人として人のまま、あなたに願えますように。
毎日毎日繰り返した願いを、今日も紡ぐ。物から人になって願いは変わった。その願いを、人から物に戻っても、祈った。
神様、神様、神様。
ねえ、聞いて神様。
叶えてくれなくてもいいから聞いて。
叶えてくれたら嬉しいけど聞いて。
ねえ、神様。
人は夢だけでは生きていけない。けれど、現実だけでも生きてはいけないのだ。
願いを向ける先があるだけで生きていける日がある。祈る先があるだけで救われる夜がある。叶えられた願いを一生の糧にできる朝がある。
たとえあなたが私の願いを叶えてはくれなくとも、誰かの祈りが通じた事実があるのなら、祈りという概念が捨て去られていないのならば、人は夢を見ていけるのだ。
歴代の聖女が、神をどう思っていたかは知らない。聖女としての私に求められる信心が、そんな形を願われているわけではないと知っている。それでも、私にとっての神様とはそういうものだ。
祈りを負担にしない存在。どれだけ願っても必ず叶う保証がない代わりに、願いに傷つきも同情もしない無限の存在。
私はそう思っている。そして神様は、そんな私を聖女に選んだ。
ならば、私の神はそういう存在なのだ。
見つめる神玉は、何の反応も返さない。神玉は神力に反応して光る場合がある。あいにく私は神力をろくに持ち合わせていないから、光らせた例しがない。
それでも、ただ石として光を滑らせる見慣れた輝きは、私の立ち位置がどうであれいつも通り綺麗だった。
アデウス国において、聖女を目指す女は恵まれている。
まず、選定の儀に出る資格が女であること以外何もない。身分、年齢、神力問わず、選定の儀に赴くことが可能である。スラム出身、七歳、神力0の私が出られたあたりで察せられる通り、アデウス国に生まれた女であれば誰だって出られる。
しかも、選定の儀に出る意思があれば、そこに至るまでの費用はすべて国が持ってくれる。つまり、連れを含む旅費及び滞在費の心配をしなくていいのだ。本気で聖女を探している面子以外には、ただで王都観光ができると人気のイベントだった。
聖女が死ねば、追悼はするがそれはそれ、即座に選定の儀が開始される。アデウス国において、聖女不在というのは大変な問題なのだ。
永い不在が続いた過去には、疫病、戦争、不況、水不足に豪雨に不作に飢饉にと、ありとあらゆる厄災がよりどりみどり状態で押し寄せたという。そんな国家閉店大セールは誰も望んでいないので、聖女捜索は国家存続において何より優先されるのである。ちなみにこの大セール、聖女が聖女の任につけていなくても起こるので要注意だ。
しかし聖女が殺されても別に起こらない。神様、大セールの開催条件を今一度見直しては如何でしょうか。
聖女選定の儀は自薦と他薦に分かれる。
第一の試練、他薦は神殿で、自薦は王都の隅で行う。自薦といっても、三親等は自薦の範囲とされる。血縁には誰しも血迷うものだかららしい。
血縁に会ったことのない私にはいまいち分からない感覚だったが、評価基準が甘くなる感覚ならなんとなく分かる。私が抱くこの感覚が、正しく万人が家族に抱いている愛と呼ばれる感情であるかは確かめようがないので分からないが。
私は前回、神官長の推薦で選定の儀に出た。だから自薦枠で出るのは初めてである。しかし選定の儀自体、自覚がなかったので初めてのようなものだ。これは緊張して然るべきだろう。私は少しだけどきどきして、今日という日を迎えた。
「その服で向かいたくば俺の屍を越えていけ、マリヴェル」
「何故に朝っぱらから唯一の味方を殺害せねばならぬのか」
「勿論黙ってやられるつもりはない。必ず道連れにしてくれる」
「何故に朝っぱらから唯一の味方と同士討ちせねばならぬのか」
国を挙げての大行事である聖女選定の儀の朝、ほんの少しだけあったらしい私の可愛げという名の緊張は、見事なまでに霧散していた。
動きやすさを重視し、エーレのズボンとシャツを拝借した私の前に、一流店にだって入れそうなドレスとワンピースの境が曖昧な服を持ったエーレが立ち塞がる。
エーレ自身は、王城に勤める神官の礼装だ。聖女の服は白、神官と神兵の服は黒である。
彼はこれから出勤なので神官の礼装なのは当然だ。しかし、いつだってしれっとしたすまし顔で神殿や王城を歩く神官の格好をしていながら、今の彼はすまし顔どころか脅迫顔である。
「外をうろつくだけでもおかしな格好で、よりにもよって聖女選定の儀に出ようとするな!」
「あなたの服ですよ!? それに出るとこ隠しとけばわいせつ物陳列罪でとっ捕まることはないと思いますし、何より一番動きやすいのはこれです」
「大きさが合わないだろう」
「いや、言うほど合わなくは」
多少裾を折り曲げたが、それだけだ。若干肩が落ちようと、袖を捲ってしまえばそれで済むし、腰回りはベルトを締めれば特に問題はない。
両手を広げて見せれば、エーレはすっと真顔になった。表情を消し去れば、王城にいるときと全く変わらない。相変わらず雪の精のように儚いと言われた綺麗な顔である。しかし、その目には光がない。
「俺は深く傷ついた」
「はいはいはい! 大怪我大病悪霊、失恋不運落とし物、ありとあらゆる艱難辛苦にお困りの際は、当代聖女がお役立ち! ちょっとばかり寄付金をはずんでくださいましたら次回はなんと三割引きでお引き受」
「神官長直伝のこめかみ掘削拳を披露する日がついにやってきた」
「知らぬ間にとんでもないものを会得していらっしゃる! ちょ、待ってください! それ脳みそえぐり取れたかってくらい痛っ、ちょっ、まっ、あ――!」
神官長が繰り出す秘技、拳骨という名の脳天粉砕拳とぐりぐりという名のこめかみ掘削拳は、どんな生意気なくそがきでも服従してしまう恐怖の仕置きである。それがまさか、目の前の男に伝授されていたとは。
私の悲鳴虚しく、神官長秘技こめかみ掘削拳は見事な精度で私のこめかみをえぐり取った。
「う、ぁ、あ……し、神官長と同じくらい痛い……」
じんじんではなく、ぎりぎりめしめし痛む頭を抱えたまま呻く。
「ちなみに、皆伝者は他にもいる」
「大惨事じゃないですか!」
おもに私だけが!
しゃがみこみ、えぐり取られた脳みそを思って涙している私に、更なる恐怖がしれっと降ってきた。まさかとは思うが、男女混合型起床係にも伝授されてはいまいな……いないよね!?
「へこんだ……絶対へこんだ……こめかみと私の心がめしょめしょにへこみました……」
「そんなことより早く着替えろ。俺は自薦枠の選定には顔を出せない立場だ」
時間がないことは確かだ。私はこめかみを撫でてへこみがないか確認しながら、恨みがましい目でエーレを見上げた。
「意地でも着替えないと心に決めました」
「ほぅ……?」
「秘技連発しすぎではないですか!? ちょっと落ち着いてください! これには山より低く海より浅い事情があるのです!」
「頭を差し出せ」
「神官の自制心は水溜まりより浅い」
「参、弐、い」
「すみませんごめんなさい戯れ言です寝言です今際の際の戯言です」
今代聖女唯一の懐刀、めちゃくちゃ聖女を刺してくる。研ぎに出した覚えもないのに勝手に尖って刺してくる。
ちなみに、神官長は力と技巧で痛みを生み出したが、エーレは細く尖った指と骨で抉ってくる。結論、どちらも死ぬほど痛い。
「この事態を引き起こした犯人が命を狙ってくる可能性を排除できない以上、動きやすい格好でいたいのです」
立ち上がりながら告げれば、エーレは苦虫を噛み潰した顔で拳を収めてくれた。平和とは対話の上になり立つもの。しかし、その結論に至るまでに築かれた犠牲は多く、痛みも残る。こめかみを擦りながら、平和を噛みしめる。
「……今のところ、その可能性が低いとはいえ、無視できないな」
どうやら、エーレにとっては絞り出すように言うほどの苦痛を強いる決断だったらしい。それはそれで悪いことをしたなとヤスリで削った爪の量くらいは思わないでもないが、動きやすいと楽なのでよしとしよう。
正直、私も命を狙われる可能性は低いと思っている。エーレが言う通り今のところは、だが。
相手に私殺害の予定があるならとっくに殺されていた。そもそも私はスラムにいたのだ。スラムで死体が出るなど日常茶飯事だ。死因が捜査されることすら稀である。病死であれ事故死であれ殺人であれ、誰の所有物でもない物が壊れて原因を突き止めようとする人間はいない。人はそれほど暇ではないのだ。これが自然ならば災害を懸念して調査が入るかもしれないが、所詮は人工物。壊れたところで誰が気にするというのだろう。
それなのに、暗殺の類いは一度も来なかった。若い女が現れた事実に群がる暴漢は常に現れたが、それだけだ。それらですら、殺しを目的として現れた物はいなかった。ちなみに暴漢は、聖女として鍛え上げた逃走力により事なきを得た。武闘派は皆無だったはずの神官が、いつのまにか神兵を追い抜く速度で追いかけてきた中を逃げ延びていた私に隙はない。
……神官達、進化しすぎじゃないだろうか。一体彼らに何があったというのだろう。毎日逃げる度に彼らの速度が上がって怖かったものだ。
懐かしい日々をしみじみ思い返していると、深く息を吐いたエーレは美しい薄緑色の髪をぐしゃりと握り潰した。神殿でも王城でも、彼の身なりが乱れたところなど見たことはなかったが、家では取り繕わないらしい。
「何度も言うが、俺は自薦の会場にはいない。人数によっては手伝いに入る場合もあるが、基本的には他薦枠だ。だから軽率な行動は控え、必ず人目がある場所にいろ。何度も言うが」
細かく掠れるような呼吸音は、先程吐かれた息が吸い込まれていく音だった。
「木に登るな夜中に抜け出すな平らになって建物の間に挟まるな細長くなって排気口を滑り降りるな丸くなって箱の中に収まるな本来人が入ることが想定されていない場所に忍び込むな床を這うな天井を這うな壁に張りつくな二階から飛びおりるな三階から滑り降りるな穴を掘るな水に潜るな池で泳ぐな溝を這うなカビが生えた物は食べるな傷んだ物は食べるな落ちた物は食べるな廊下は走るな屋根は走るな窓枠を飛び越えるな講義中に居眠りするな会議中に逃亡するな胸元を開けるなスカートを上げるな靴を脱ぐな下を向いた親指を向けられて中指立てて返すなかけられた呪いを投石で解決するな」
「あ、お疲れ様でした。お先に失礼しまーす」
この人、神官長より口うるさいかもしれない。
エーレの横をするりと通り抜け、玄関を目指す。本を崩しながら追いかけてくる音を聞きながら、早足で辿り着いた扉に手をかける。
そして、くるりと振り向く。ぐわっと口を開けてお小言を飛び出させようとしたエーレは、僅かに目を見開き、動きを止めた。
ふっと小さな息を吐き、吸う。
「エーレ、お願い。私を忘れるなら、もう二度と会えない場所へ私を送ってからにしてください。そうすれば、忘れられたことなんて知りようもないから」
わがままと甘えと情けなさが詰まった傲慢な要求を、エーレは怒らなかった。先程まで遺憾なく発揮されていた口うるささも飛び出さない。
ただ、静かに表情が散った。
「……俺とお前は長い付き合いではあるが、信頼を築くに値する何かがあったわけでも、名がつく関係を築いたわけでもない。その俺の言をマリヴェル、お前が信じないというのなら、それでいい。だが神官としての俺は、聖女の信頼を勝ち得ない行いをしてきたとは思わない。それ以上は、神官である俺への侮辱だ」
寸分の乱れもない髪と服で、美しい礼が捧げられた。
「十三代聖女マリヴェル。私があなたの神官として相応しくないと仰せであれば、すべてが元通りとなった後、神殿を去りましょう」
今すぐ去らない辺りがなんともエーレらしい。私達は、職に関係しない個人的に名のつく関係を築いてはこなかった。けれど、長い時を同じ空間で過ごした。神殿、そして王城という広い場所であったが、そのどちらであっても所属する組織を同じくし、同じものを守ってきた。
だから、彼の為人くらい、分かっている。分かっている上で告げた最後のわがままを真っ正面から生真面目に受け止めてくれる人を、あの日、世界でただ一人私を探してくれた人を不安に思うのは、ただの私の愚かさだ。
ふっと小さく笑う。その音で、エーレは姿勢を正した。目線が合った瞬間、お互いにっと笑う。私にとっては慣れた笑みであるが、エーレの笑みは随分ぎこちない。慣れない笑顔の形をあえて選択してくれたこの人を信じるくらい、本当は造作もなかった。
「私を覚え続けるあなたを信じています。だから――神殿で会いましょう」
離れている間に私を忘れてしまうかもしれないと、不安がるのはこれで最後にする。
現状、信じられるのはエーレだけだ。そのエーレが大丈夫と言ったのだ。方法が何かは分からないが、エーレがそう言ったのなら、私は信じなくてはならない。それだけが、私を人たらしめる縁だ。エーレを信じられなくなった私はもう、人として生きる縁を失ったと同義だ。
何一つ信じられなくなった女を、人は聖女と呼べるのだろうか。
そんな生き物を、人は人として認めない。そして私も、そんな己を人として判定できない。
私はエーレを信じる。そうできる生き方を教えてもらった。そうできるように、してもらった。神官長が、皆が、そうしてくれたのだ。
私は、彼らが教えてくれた生き方を忘れてはならない。だって私は、物から人になったはずだ。神官長が名をくれたあの時から、私は人間として生きたはずなのだ。
何より、物として生きる私を見ても、神官長はきっと笑ってくれない。
開けた扉の先は、腹が立つほど晴れ渡っていた。靴さえなくしたあの日もこんな空だった。
ずいぶん久しぶりに思える外界の空気に、懐かしさは沸かない。無に近いほど均された感情は、防衛本能ですらあったのかもしれない。
気落ちなんてしていない。気落ちなんてしていない。雨など、降ってはいないのだ。そうと認めてしまえば二度と立てなくなると分かっていた私の弱さが生んだ強さ。あの日、快晴の空から降った弱さを、私は一生許さない。
「マリヴェル――我が聖女」
扉が閉まる寸前、声がした。
「神殿にて、お帰りをお待ち申し上げております」
補強のために生まれた強さでも、一緒に支えてくれる人がいるのなら、それは紛れもない強みだった。