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29聖







 熱が渦巻く世界を、音が切り裂いた。鐘が鳴る。高らかに、始めるように、終止符を打つように。それらを思い知らせるように、鐘が鳴る。

 熱が急速に勢いをなくしていく。握りしめていた胸元をゆるりと解き、もう鼻血なのか口から吐き出した血なのかよく分からない血を袖で拭う。拭った袖口はすでに血で重たくなっていたので、まったく意味がない。仕様がない。諦めよう。

 ぐしゃぐしゃになった服はいつの間にかボタンが引きちぎれ、伸びている。だが、今は丁度いい。服を引っ張れば、あっという間に胸元が見えた。指を這わせれば、柔らかい肌の途中で硬質な存在が引っかかる。神力が作り出した結晶、その石から咲いた、宝石のように美しい花。


「咲き、ました」


 へらりと笑って、花を見せる。

 ちょっと、思っていたより被害が大きかったが。

 神様、聖女は別枠で優位に選定の儀を通過できるようにとは言いませんが、どうして他の参加者より難易度が上がるんですか?

 いやでも、この咲き方以外だとどうなったのだろう。頭からみょんっと生えるのだろうか。みょんみょんと揺れる形で咲かなくてよかったと考えるべきか。それが当代聖女への配慮だというのか。配慮すべき箇所を間違えている気がする。そしてその場合、花が失われた後どうなるのだろう。禿げるの?

 それに、その咲き方だと隠しづらいから、やっぱりこれでよかったのだろう。


 誰も動かず、喋らず。音が消えた世界を、霊峰から駆け下りてきた風が掻き回す。吹き抜けた風が巻き上げる葉をなんとなく視線で追うと同時に、ぐらりと世界が傾いた。いや、傾いたのは自分のようだ。そうと気づいたので足に力を入れたのに、足はかくんと折れただけでまったく言うことを聞かない。


「あれぇー?」


 自分でも間が抜けた声だなぁと思った。そのまま頭の重さに耐えきれぬ幼子のように倒れ込む。制御を失った身体が地面に叩きつけられる前に、私の身体を掬い取った大きく温かな手が誰のものだったのか。

 探らなくても分かる自分に苦笑する間もなく、私の意識は赤と共に散った。














 かたんと微かな音がした。小さな音を拾い上げた私の意識は、ふっと咲いた。

 薄暗い部屋の中をぼんやり見上げる。見慣れた天井だ。視線を回せば、予想通りの設備が見える。何度も何十度も何百度もお世話になった部屋を見間違えるわけがない。神殿の医務室だ。

 視線の端に走る線を辿れば、腕に針がぶっささっていた。固定された針の先には光る管が通っている。管を辿れば、神力で構成された癒術が結晶となって浮いていた。癒術を持ち得ない医者が医術だけで行う名は、点滴である。

 流れる光越しに、闇に溶ける黒髪が動いていた。ちょうど扉から出ていくところだった。鞄が机の上に置きっぱなしなので、仮眠を取りに行くのだろう。私は大人しくしているので、カグマは朝までぐっすり眠ってほしい。あと、特に深い意味はないけれど点滴とってほしい。脱走とか、ほんと深い意味はないので。

 ほとんど音を立てず、ぱふんっと閉まった扉から視線を外す。特に見るものもないので、なんとなく光を見つめる。よく見れば、点滴以外にも癒術が浮いていた。大盤振る舞いである。


 淡い光を放つ結晶は、様々な色を浮かべている。零れ落ちた淡い光は、私の周りに降り注ぐ。この光景は、エーレなら花畑の妖精にでも見えるのだろうが、私では精々生け贄に捧げられた山羊だろう。

 なんとなく視線を回す。他のベッドは使われていないようだ。医務室にお世話になるほど具合の悪い人がいなくて何よりだ。

 ずっとこうだといいのに。そうしたら僕も楽できると笑ったカグマを思い出し、私も笑う。



 耳を澄ませても他の音はしない。静かな夜だ。今日は何も問題が起きていないらしい。いい夜だ。窓を見れば、雲はなく星がよく見えた。いい夜だ。疲れた人には深い眠りを、疲れていない人には明日への期待を満たせる、そんな夜だった。

 なんとなく視線を回し、枕元に何かが置かれているのに気づいた。針が刺さっていない手を伸ばす。掴んだ感触にその正体を知る。割り札だ。花が三つ咲いている。第三の試練は無事に通過したらしい。

 割り札を胸の下に置き、空いた手を上げていく。胸の上に到達すれば、肌とは違う感触に触れる。手間取らせやがって。サヴァスの言葉が蘇る。まったくその通りだ。

 聖女がこの花を咲かせた先でなければ現れないのなら、当代聖女が手に取った時点で花開くくらいの誠意を見せてほしい。



 肌と花の境目を指でなぞる。痛みはない。自分で触っているからか、くすぐったくもない。花の下、芽吹く前に散々暴れてくれた体内にも痛みはないので、癒術が行われたのだろう。体内へ聖融布は貼れないのだ。

 肌の下は少し熱を持っている気がするが、それ以外に不調は感じられない。どうやら綺麗さっぱり治してもらっている。カグマには連日手間をかけて申し訳ないと思っている。思ってはいる。以上、終了!


 時計を見れば日が変わったばかりだった。静かな夜は、穏やかで、緩やかで、滑らかで。少し、暇だ。ベッドの横をなんとなく見て、扉を見て、天井を見る。

 かちゃんと、小さな音がした。ドアノブが動いた音だ。弾かれたように視線を向ければ、それ以外には音をさせず、扉が開く。細く開いた扉の隙間から、緑がするりと滑り込んできた。

 ああ、エーレだ。ほっとした。暗殺者だったらどうしようかと思った。点滴引き千切って窓から飛び出すところだった。

 音を立てず、物にも触れぬよう近づいてくるエーレの後ろを見つつ声をかける。


「おはようございます」


 別に夜更かしをしていたわけではないので、怒られる理由はない。寝たふりをする必要はないと思ったのだ。首を持ち上げて扉を見ていたので、起きていると分かっていたのだろう。特に驚いた素振りもなく、ベッドの横に立った。


「こんな時間までおつとめですか? 王城勤めは大変ですねぇ」

「九割お前の後始末だ」

「血の掃除してくれたんですか? 置いておいてくれたら、明日自分でやりましたよ。流石に服はどうにもならないので、新しいのを頂けると助かります」


 そういえば私はいま何を着ているんだ。視線を落とせば、簡単な一枚布の寝間着だった。ズボンが欲しい。これでは、暗殺者が来たら下着丸出しで窓から逃げることになる。命が助かるならそれは別にどうでもいいのだが、足丸出しで植木に突っ込むと余計な怪我が増える。するとエーレに怒られる。逃走する。怪我が増える。エーレに怒られる。大惨事である。

 悲しい未来予想はともかくとして、エーレは何の用事だろう。



 エーレは隅に置かれている椅子を見たが、物を動かさないほうがいいと判断したのだろう。ベッドの横に立ったままだ。


「どうぞ座ってください」


 ベッドの端を掌で叩く。私のベッドではないし、前とは違いエーレのベッドでもない。だが、私が寝ているベッドなので私が許可を出してもいいだろう。


「マリヴェル」


 それなのに、エーレは動かない。座ろうとするどころか、一歩も前へ進まないのだ。座りたくないのなら無理に座らせる理由はない。無理強いはよくない。

 それなのに、エーレは無理強いをされた人間のように口元を僅かに歪ませている。立場が上の人間から無理強いをされたかのような、断れば不都合があるので断り切れないが行きたくない集まりに誘われたような、そんな顔。

 ああでも、少し違う。そこには面倒事を持ち込んだ相手に向ける嫌悪がない。

 だが、無理をしている。そんな顔だ。そんな顔で名前を呼ばれた私はどうすればいいのだろう。


「神官長は来ない」


 当たり前だ。あの人はとても常識ある人なので、理由もなく寝室となる部屋に、それも夜に訪ねたりしない。しかも若い女であり一聖女候補である人間の寝室になど、理由があってもできるだけ回避するだろう。当たり前だ。大人として当然の行いだ。だからここに来るはずもない。

 だっていま何時だと思っているのだ。私がやらかしたことで書類を作らなければならなくても、そんなのは神官長の仕事じゃない。誰か神官が話を聞きに来て、書類を作って、神官長はそれに目を通す立場だ。だからここに来る理由なんてどこにもない。


「当たり前ですよ」


 そう、当たり前だ。当たり前だから、ちゃんと笑って言えたし、声だって震えていないし、どこも痛くない。当たり前、当たり前。腕を目元に乗せ、笑う。


「マリヴェル」

「当たり前なんですよ、エーレ」

「……マリヴェル」

「何もかもが当たり前なのに」


 私が怪我をしても、熱を出しても、死にかけても。眠るまで、目覚めるまで。ここにいてくれた人の中に私はいないのだから、何もかもが当たり前だ。

 それなのに、どうしてこんなに泣かなければいけないのだ。









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